日本語史研究用テキストデータ集

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浦里時次郎明烏後の正夢うらざとときじろう あけがらすのちのまさゆめ

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二編下

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浦里時次郎明烏後の正夢 二編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
風流{ふうりう}けいこ三味線{さみせん} [春夏秋冬よこ本四冊]
右は年久しく御披露申上候けいこ所の物語。豊後
長唄はいふにおよばず新内義太夫の穴をうがち
けいこ所のおかしみを眼前に見るがことし。
本町奄三馬作 渓斎英泉画
当秋は無相違売出申候間
兼而御評判奉願上候 販元 青林堂

(1ウ)
明烏{あけからす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之六
江戸 [滝亭鯉丈 楚満人]合作
第十一回
憂{うき}ことの思{おもひ}に沈{しづむ}婦多|川{がは}に彼|浦里{うらざと}はうれしくも。兄{あに}の清次{せいじ}を
便{たより}ぞと。頼{たのむ}かひなき人心{ひとこゝろ}。あこぎと仇名{あだな}の清次郎に。連添{つれそふ}妻{つま}も
似{に}たものは。夫婦{ふうふ}のたとへぜひもなき。鬼{おに}の女房{にようぼ}と二人{ふたり}して。さすが
かしこき浦里{うらざと}を。偽{すかし}欺{あざむ}き時{とき}次郎へ。見継{みつぎ}の為{ため}とこしらへて。二度{にど}の

(2オ)
勤{つとめ}は鎌倉{かまくら}の中{うち}では元{もと}の親方{おやかた}へ。しれたる時{とき}に時{とき}次郎が。かさ
なる難義{なんぎ}に及{およぶ}べし。人目{ひとめ}をしのぶ憂{うき}勤{つとめ}も。思ふ男{おとこ}のためなり
と。取拵{とりこしらへ}て相模{さがみ}なる。浦賀{うらが}の遊女{あそび}に遣{つか}はして。|数多{おほく}の金{かね}を
借{かり}けるが。時{とき}次郎が方{かた}へ一銭{いつせん}も送{おく}らぬのみか。便{たよ}りさへ絶{たへ}て
せざれば。彼{かの}方{かた}にこれをしるべき由{よし}もなく。己{おの}が栄花{ゑいぐは}のしたり
顔{がほ}に。夫婦{ふうふ}は酒{さけ}も善悪{よしあし}を。ゆふべ気{け}なりと迎酒{むかひざけ}。座{ざ}して喰{くらへ}ば
山もまた。空{むな}しく海{うみ}と川{かは}だちの。果{はて}はいかにと思ひやる。比{ころ}しも秋{あき}
の初{はじめ}つかた。雨{あめ}の日{ひ}よりを骨休{ほねやすみ}と。投網{とあみ}の破{やれ}を漉{す}きつゞくり。咽{のど}

(2ウ)
淋{さみ}しくもあくびして。酒屋{さかや}の調市{でつち}待{まち}がほなる夕暮|近{ちか}き
門口{かどぐち}へ[なつ合羽{がつは}のちゞみあがりたるをきてさんどがさをさげてはいる男あり。そのあとより四ツでかごをかつぎこむをみればうらがへやりし浦里なり。
たへぬおもひにおもやせてありまつ染のゆかたさへよごれめみゆる中はゞのおびはさすがにくろびろふど。くしさへさゝぬむすびがみきがへとみへてふろしきつゝみをやう〳〵
さげてしほ〳〵とかごよりいづるありさまをみるより清次と女ぼうはくめんのちがひし十めんがほ。かくごながらもおそろしくものをもいわでうらざとはさし
うつむきていたりける]清次{せいじ}は女房{にようぼ}に咡{さゝや}けば。紡{うみ}かけたる苧{を}を下{した}に置{おき}。土瓶{とびん}の
ふる茶{ちや}つゝ茶碗{ぢやわん}に。くんで差出{さしだ}す丸盆{まるぼん}も。角{かど}ある様{やう}に今{いま}来{きた}りし
男{おとこ}と駕籠屋{かごや}に突据{つきすへ}てよごれ前垂{まへだれ}しめ直{なほ}し。口{くち}の内{うち}には
ぶつくさと。何{なに}かつぶやき出{いで}て行{ゆく}。跡{あと}に清次{せいじ}は仕懸{しかけ}たる。網{あみ}のつゞ

(3オ)
くり片寄{かたよせ}て。みすぼらしげな浦里{うらざと}を。腹立{はらだち}まぎれに
にらみつけながら【清二】「まひ戻{もど}つてうせて。また厄介{やくかい}か。地獄{ぢごく}
から灯{ひ}を貰{もら}ひに来{き}たよふなざまで。能{よく}まじ〴〵とうせ
たなア。いかにふがいない女{おんな}だといつて。義理{ぎり}のある兄{あに}のおれ
が処{ところ}へ。戻{もど}られそふな義理{ぎり}じやアあるまいがな。」と。灰{はい}ふき
たゝき立{たて}て側{そば}へよるを。肝煎{きもいり}の無五六{むごろく}笑{ゑ}がほして清二{せいじ}
を宥{なだ}め【無五六】「イヤこれそないに高{たか}からいかぬものじや。可
愛{かあい}そふに。|ぐわいがわるけりやこそ{#病気}ト。いふても長{なが}イ事{〔こと〕}じや。

(3ウ)
これ聞{き}かんせ。爰{こゝ}から連{つ}れて逝{いん}だは何時{いつ}やら。ヲヽ三月{さんがつ}の晦
日{つこもり}じやあつた。|四ン月{しんぐはつ}の月{つき}はそないにもなふて。船方{ふなかた}の客{きやく}地{ぢ}
の客{きやく}も相応{そうをう}に。サア売{う}るといふ程{ほど}の事{〔こと〕}じやなけれど。まん
ざらでない代{しろ}ものゆへ。お茶{ちや}引{ひい}た事{〔こと〕}は。|一ト夜{ひとよ}さもなかつた
がな。ヲヽ四月{しんくわつ}の中{なか}ごろじやあつた。在方{ざいかた}の客{きやく}を逝{いな}したが
始{はじめ}で。内証{ないせう}の腹立{はらたち}。夫{それ}からぶら〴〵煩{わづら}ひ出{だ}して。四月{しんぐはつ}半月{はんつき}五
月{ごぐはつ}六月{ろぐはつ}。客{きやく}といふてはけふが日{ひ}まで。針立{はりたて}とお医者{いしや}の薬数{くすりかづ}
を。帳面{てうづら}に附{つけ}るばかり。灸{きう}も異見{ゐけん}もきかばこそ。やゝともする

(4オ)
と気味{きみ}のわるい剃刀{かみそり}ざんまいでこまりもの。仕替{くらがへ}とまでは
相談{さうだん}が出来{でき}よつた処{ところ}で。女子{おなご}の願{ねが}ひ鎌倉{かまくら}の中{うち}なら兎{と}も
角{かく}も。旅{たび}他国{たこく}の勤{つとめ}は。ゆるして呉{くれ}ろとの断{ことは}り。これには訳{わけ}の
有{あり}そふな事{〔こと〕}と。親方{おやかた}ともとつくり相談{さうだん}して。まア何{なに}がなしで
養生{やうぜう}に戻{もど}します。ハテたとへにもいふ主{しう}と|病イ{やまひ}じや。がみ〴〵
云{い}はずと。相談{さうだん}して進{しん}ぜさんせいの。」と。筋道{すじみち}手軽{てがる}く人{ひと}を
見{み}て。法{ほう}を得心{とくしん}させる口上手{くちじやうづ}に。何{なに}と清次{せいじ}も詞{〔こと〕ば}なく。病気{びやうき}
とあればいやながら。預{あつか}るまいと言{い}はれもせず。咄{はなし}の内{うち}に立帰{たちかへ}る

(4ウ)
女房{にようぼう}おこわ。五合徳利{ごがうとくり}片手{かたて}に。岡持{おかもち}の蓋{ふた}の片{かた}ゆがみなるは。
抓肴{つまみざかな}の辛螺{さゞい}の壺焼{つぼやき}。中皿{ちうざら}に鰯{いわし}のぬたも。生茹{なまゆで}の葱{ねぎ}和雑{あへまぜ}
て。所〻{ところ〳〵}赤{あか}きは番椒{とうがらし}の辛{から}きめ見せる夫婦{ふうふ}が饗応{もてなし}。日光
膳{につかうぜん}に箸{はし}打{うつ}て。中皿{ちうざら}の脇{わき}へ南禅寺{なんぜんじ}の網猪口{あみちよく}添{そ}へ。無五六{むごろく}が前{まへ}へ
出{いだ}せば【無五六】「イヤこりや馳走{ぞうさ}はおかんせいで。」【おこは】「なにさなんにもございや
せぬ。昨日{きのふ}けふの風{かぜ}は。きついものさ。」といひながら。茶釜{ちやがま}の
下{した}を焚付{たきつけ}て。燗{かん}たんぽへ酒{さけ}をあけながら【おこわ】「コレおまへ其{その}火鉢{ひばち}へ
火{ひ}をおこしてくんなさい」と。炭消壺{すみけしつぼ}を渡{わた}す。浦里{うらざと}は是非{ぜひ}なく

(5オ)
火{ひ}を繕{つくろ}ひ。消炭{けしずみ}を挟{はさん}で見てもはかどらぬゆへ。鼻紙{はながみ}にて
掴{つか}もふとするを。おこは燗{かん}を附{つけ}ながらじろ〳〵見て【おこは】「ヱヽお姫{ひめ}さま
だのふ。そつちへおどき。」と脇{わき}へ引退{ひきの}け。消炭{けしずみ}を手掴{てづかみ}にして前{まへ}
だれにて手{て}を拭{ふき}ながら。辛螺{さゞい}を掛{かけ}て【おこは】「サアそろ〳〵あをぎ
な。」と脇{わき}へよる。浦里{うらざと}またうち〴〵鼻紙{はながみ}にて。あをがふとする。
【おこは】「ヱヽ爰{こゝ}に団扇{うちわ}があるはな。」と反古張{ほごばり}の破{やぶ}れたるを投{なげ}てやる。
此{この}内{うち}清次{せいじ}は何{なに}やら無五六{むごろく}と耳相談{みゝさうだん}して【清二】「コレどふだ。燗{かん}も
もふよかろうが。」【おこは】「アイほんに通{とふ}つたそふだ。」と。小指{こゆび}を入{いれ}て見て

(5ウ)
陶箸{とくり}の酒{さけ}を少{すこ}しうめ持{もつ}て来{く}る。【清二】「サア〳〵始{はじ}めなさい〳〵。」
【無五六】「イヤ〳〵まア御亭主{ごていしゆ}いたゞきましよ。」【清次】「ハテむづかしい事{〔こと〕}だ。おらア
もふ持{もち}こしで。けふはどふか酒気{さかき}でもなひて。」【無五六】「なんの〳〵。
夫{それ}なりや猶{なほ}呑{の}まにやわるひ。サア〳〵やらんせ〳〵。」とたんぽ
を取{とつ}てつがふとする。【清次】「コレどふだ。御客{おきやく}に酌{しやく}をさせるのか。」と。云{い}は
れて浦里{うらざと}。もじ〳〵しながら来{き}て酌をする。此{この}時{とき}つぼやきは
熱立{にえたつ}て吹{ふき}こぼれ。消炭{けしずみ}を吹立{ふきたて}灰{はい}だらけになる。【おこは】「アレ見{み}な
いくぢのない。」と。欠{かけ}て来{き}て取{と}らふとして手{て}をやき。火{ひ}ばし

(6オ)
にてやう〳〵辛螺{さゞい}を挟{はさ}み。日光膳{につくはうぜん}の脇{わき}へのせる。【清二】「うぬもべら
ぼうだ。掴{つか}みやア手{て}を焼{やく}は知{し}れた〔こと〕だ。」【おこわ】「うろたへたはな。勘忍{かんにん}
しなさい。」【無五六】「ヲヽそふじやろ〳〵。わしやまた|手や{てあ}いまちかと恟{びつく}り
した。マア〳〵事{〔こと〕}にならいで目出度{めでたひ}〳〵。扨{さて}と御{ご}ていしゆは
夕阝{ゆふべ}気{け}で。酒{さけ}がいけぬげな駕籠{かこ}の衆{しゆ}一寸{ちよつと}合{あい}して貰{もら}をかひ。」
【かご】「ハイ〳〵棒組{ぼうぐみ}いたゞかつしやい。」【棒組】「マア〳〵貴様{きさま}いたゞきやれ。」【無五六】「ヱヽコレ
どちのこちのはないわひの。しかしこれじや面倒{めんどう}であろ。ドレ
その茶碗{ちやわん}をやらんせ。」【清次】「ほんに夫{それ}がいひ。コレ〳〵。これにさつしやひ。」ト

(6ウ)
茶碗{ちやわん}を出{いだ}す。【かご】「ハイイヱ夫{それ}ほどは下{くだ}されませぬ。」【無五六】「ハテまア受{うけ}さん
せいの。」といへば浦里{うらざと}又こちらへ来{き}て酌{しやく}をする。【かご】「コレハ御憚{おはゞか}りで
ござります。」と揉手{もみで}しながら【棒組】「ハイ〳〵こちらへ下{くだ}さりませ。」ト
棒組{ぼうぐみ}たんぽを取{とり}て。二人{ふた}りして呑{のん}でゐる。清次{せいじ}は腮{あご}にておし
へるゆへ。浦里{うらざと}つぼやき一ツ手塩皿{てしほざら}にぬたあへを取分{とりわけ}箸{はし}そへて
持{もつ}て来{き}てやる。此{この}内{うち}無五六{むごろく}清次{せいじ}おこはも交{まじ}りて何{なに}か咡{さゝや}き
合{あい}【無五六】「サアそりやどふなと。こなんがたの思入{おもい}れもあろうが。マア何{なに}に
せい。わしも今夜{こんや}は金川{かながは}に掛合{かけあい}があるじや。よつてヲヽこれ

(7オ)
駕籠{かご}の衆{しゆ}。待遠{まちどふ}にはあろうが。戻{もど}りはわしのせて貰{もら}をぞや。」
【かご】「ハイ〳〵どふで帰{かへ}る駕籠{かご}でござります。」【無五六】「サイノウ夫{それ}じやさかひ
両為{りやうだめ}じや。両為{りやうだめ}といや浦{うら}さん爰{こゝ}へごんせ。ナソレ道〻{みち〳〵}聞{きい}たおまへ
の荒増{あらまし}。兄貴{あにき}へわしが能{よい}よふにいふた。ハテ|病イ{やまひ}じやものどふしやう
。けれどまた。わしも浦賀{うらが}の親方{おやかた}へ損{そん}はさせられぬじや。まア
跡{あと}でとつくりと相談{そうだん}さんせ。ヤ。ヤ。これはどふじや。うつむいてゐ
ちや済{すま}ぬ。返事{へんじ}さんせいの。」と。[いわれながらも浦里はおもひすごしてかなしさのなみだをぬぐふはながみをくちにくわへて]
ほろりと泣{なく}。清次{せいじ}これを見{み}るまも【清二】「何{なに}さ義理{ぎり}も法{ほう}もわからない

$(7ウ)

$(8オ)
情誠
山婦貴のいわぬいろ
にはかたふかて
実になるひとに
つくすまこと哉 青林堂〈印〉

(8ウ)
一向{いつこう}なものさ。」と睨{にら}み付{つけ}る。側{そば}から【おこわ】「ほんにおまへも子供{こども}じやア
なし。能{よい}いとも悪{わる}いとも返事{へんじ}をしなナ。ばか〳〵しい。悲{かな}しいも
つらひも。みんな心{こゝろ}がらだによ。」と。つつけりいわれてむせ
かへる。かなしさ懲{こ}らへて【浦里】「アイよふ得心{とくしん}しております。」と。
しめ〴〵泣{なく}をよそめにも。流石{さすが}の無五六{むごろく}もじ〳〵と。気{き}のどく
そふに烟管{きせる}を仕廻{しま}ひ【無五六】「サアまア四五日も内{うち}て。養生{やうじやう}して
見{み}なされ。またそないなものじやない。鎌倉{かまくら}は広{ひろ}ひわいの。
ヤ時{とき}に駕籠{かご}の衆{しゆ}能{よ}か逝{いに}ましよか。」【かご】「ハイ〳〵御早{おはや}ひがよふ

(9オ)
ござります。」と。身拵{みごしら}して駕籠{かご}を持込{もちこ}む。【無五六】「ヲツトこつちは
とふから能{よい}じや。」と。いひながら立上{たちあが}り。「コウツ翌日{あす}あさつての
内{うち}とふで。中裏{なかうら}まで来{き}にやならぬ用{よう}もあり。」【清次】「サアまア今{いま}
のつもりで浦賀{うらが}の親方{おやかた}へ。」【無五六】「サア〳〵こんでゐる〳〵。兎角{とかく}
浦{うら}には事{〔こと〕}なかれ。浦さんまア養生{やうじやう}しなされ。ホンニこりや御地
走{ごちそう}で。いこふ酔{よ}ふたわひ。」【おこわ】「ナアニあがりもなさらぬもの。」【無五六】「イヤ〳〵
かごのしゆ。こりや遅{おそ}なつたの。」と。庭{には}よりすぐに乗{の}りうつる。
【かご】「イヱ〳〵さやふでもござりませぬ。」とかつぎ上{あげ}る。清次{せいじ}も立{たつ}て

(9ウ)
おくりながら。【清次】「しかし雨{あめ}も止{や}んだそふだ。駕籠{かご}の衆{しゆ}御{ご}く
ろうだの。」【かご】「ハイ御馳走{ごちそう}に成{な}りました。」と息杖{いきづえ}とん〳〵。元{もと}来{き}し
道{みち}へ別{わか}れ行{ゆく}。
第十二回
[さても夫婦は顔見合しばしことばもなかりしが女房おこはは浦里がそばへより]【おこは】「ヱヽ何だなおめへもふがひなひ。
しつけぬ業{わざ}じやアあるめへし。旅{たび}だといつて廓{くるは}だといつて。
勤{つとめ}にふたつはなひ道理{どうり}だ。ぐじ〴〵せずと酒{さけ}ても゛呑{のみ}な。」と。猪*「酒{さけ}ても゛」の濁点位置ママ
口{ちよく}にて手酌{てじやく}にひつかけつゝ。「サアひと口{くち}。」ト[浦里へさしければうらさとはかほしかめ]【浦】「わた

(10オ)
しはもふ。」と[かぶりをふればかたわらに清次はまたもはらたちがほ]【清次】「お気{き}にいらざア捨{すて}ておけ。
しよふがあるは。」といゝながら。烟管{きせる}を振上{ふりあげ}立{たち}かゝる。おこわは
これを押止{おしこめ}て【おこは】「ヱヽおめへもなんだな。小言{こゞと}をいつたとつて。
これがどふなるものか。病気{びやうき}なら仕方{しかた}がないわな。煩{わづら}ひたくつ
て誰{だれ}も煩ふものはねへはな。」と。あぢに執成{とりなす}心{こゝろ}も鬼{おに}。呵{しかつ}てゆか
ぬ代{しろ}ものに。手{て}を尽{つく}したる折{をり}しもあれ。内袖{うちそで}のある半合
羽{はんがつば}。刀{かたな}脇差{わきざし}さも横平{わうへい}に【淵右衛門】「てい主{しゆ}宿{やど}にか。内義{ないぎ}どふ
じや。扨{さて}わるい日和{ひより}の。」と。傘{からかさ}提{ゝげ}て入るを見れば。殺生好{せつせうずき}の荒

(10ウ)
川{あらかは}淵{ふち}右衛門。おこわは見るより能{よ}き幸{さいは}ひと【おこは】「ヲヤ旦那様{だんなさま}。この
間{あいだ}はどふなされました。」【淵】「どふのこふのは鱚{きす}が大ぶん当{あたる}でない
か。天王洲{てんのうず}はもふよかろふでないか。」【清次】「イヱもふ時分{じぶん}でござり
ます。しかし此{この}降{ふり}では。まだ二三日いたすと。汐時{しほとき}もよふござり
ます。」【おこは】「おめへさんまア。お上{あが}りなされませ。」【ふち】「イヤサ外{ほか}にまだ
同役{とうやく}ども所用{しよよう}も承{うけたまは}りおるが。何{なに}にもせろ扨{さて}つよひ降{ふり}じや。」
といふは見るもの喰{くは}ふのお国風{くにふう}。浦里{うらざと}をちらりと見ての
出来心{できごゝろ}。如才{じよさい}なければ清次{せいじ}は苦笑{にがわら}ひして【清二】「モシ日は高{たか}し此{この}

(11オ)
雨{あめ}で。何処{どこ}へ御出{おいで}なされるものか。」【ふち】「何{なに}さま久{ひさ}しぶりじや。一つ
たべうか。併{しかし}さし合{あい}ではないかの。」【清二】「なにさ御遠慮{ごゑんりよ}なものじやア
ござりませぬ。」と。夫婦{ふうふ}で手をとらぬばかりの口車{くちくるま}。此方{こなた}は
渡{わた}りに舟宿{ふなやど}の奥{おく}ざしき。刀{かたな}をさげてじろ〳〵と。浦里{うらざと}をしり
目に見て。三社{さんじや}の託{たく}のかけたる床{とこ}のわきへ来{き}て。扇遣{あふぎつか}ひして
ゐる。おこはは茶{ちやを}汲{く}んで盆{ぼん}にのせ。浦里にわたすゆへ是非{ぜひ}なく
奥へ持{もち}行{ゆく}うち。女房{にようぼう}は又{また}帯{おび}引〆{ひきし}め。足駄{あしだ}の鼻緒{はなを}の延{の}び
たるに。杉箸{すぎばし}へし折{をつ}てつめをかい。お傘{かさ}をすこしと不遠慮{ぶゑんりよ}

(11ウ)
に。淵{ふち}右衛門が蛇{じや}の目の傘{からかさ}引{ひつ}さげて。出{いで}行{ゆく}跡{あと}に浦里{うらざと}は。いと
すげなくも台処{だいどころ}へ走{はし}り来{き}て。片蔭{かたかげ}へより鼻{はな}をかむ。これ
や泪{なみだ}の捨{すて}所{どころ}。清次{せいじ}は今{いま}の残物{ざんぶつ}をながし元{もと}へ出{だ}しなから【清二】「コレ
気{き}のきかない。烟草盆{たばこぼん}でも持{もつ}てゆきやナ。ヱヽいけぶせう
な女{をんな}だぞ。」と。呵{しか}りながら火{ひ}を入{い}れてあてごふゆへ。浦里も
泣{なく}目{め}を隠{かく}し。はらは立{たて}ども詮方{せんかた}なく。手拭{てぬぐひ}とつてはら
帯{おび}に〆{し}め。癪{しやく}を押{おさ}へて烟草盆{たばこぼん}を持{もち}奥{おく}へ行{ゆく}。おりからおこはと連*「おこは」の右傍に「おりから」
立{つれだつ}池田屋{いけだや}の調市{でつち}。通{かよ}ひ樽{だる}と岡持{おかもち}を提{さげ}て来{き}て。以前{いぜん}の明

(12オ)
皿{あきさら}や徳利{とくり}を捜{さが}しながら【でつち】「カン〳〵ノウキウノレンス。」を。口{くち}のうち
にてうたつてゐる。清次{せいじ}は岡持{おかもち}を明{あけ}て見て【清次】「指身{さしみ}と大平{おほひら}か。
何{なに}もないのふ。蕎麦{そば}にでもさつし。」【おこは】「ヲヽほんにわすれた。コウ池田{いけだ}や
コレサかへりに翁{おきな}へよつて。今{いま}のを早{はや}くといつてくんな。」【でつち】「なに蕎麦{そば}かへ。」
【おこは】「ヲヤ此{この}子{こ}はばからしい。翁{おきな}といつたら知{し}れだ事{〔こと〕}だ。」【でつち】「ナニサ夫{それ}でも番頭{ばんとう}
がわからざア。能{よく}聞直{きゝなほ}せと云{いゝ}つけたはナ。」【清二】「ヲヽそりやアいゝ事だ。忘{わすれ}
ずと早{はや}くといつてくりや。」【でつち】「ヲイ〳〵早くなら。キウノウレンスウ。カン
カンノウ。」トしやべりちらして出{いで}て行{ゆく}。浦里{うらさと}はうつかりと後{うしろ}に

(12ウ)
立{たつ}て見{み}てゐるを。おこはふりかへつて【おこは】「ヱヽおめへなんだな。見てゐる
ひまに猪口{ちよく}でもふいて。お盃{さかづき}を出{だ}しねへな。」【清次】「それなア今{いま}も言{い}は
ない事か。それじやア旅{たび}は勤{つとめ}得{え}ないはづだ。わたしやアおいらんで
御坐{ござ}候と。鼻{はな}の上{うへ}へ書{かい}て張{はつ}て置{おい}たら知{し}らず。時世{ときよ}〳〵にしねい
じやア。世間{せけん}がわたられるものじやアないは。」と。小言{こゞと}を聞{き}くもやつ
ぱり苦界{くがい}。どんなじゆつなひ目に逢{あ}ふとても。絵戸{ゑど}の中{うち}にさへ
暮{くら}すならば。花形村{はながたむら}の時{とき}次郎。お松{まつ}がやふすも聞{きい}たうへ。兎{と}にも
角{かく}にもなるべしと。覚悟{かくご}極{きは}めし身{み}の上{うへ}にも。浮世{うきよ}のまゝになら

(13オ)
ざりし我{わか}身{み}ひとつにおぼへたる。秋雨{あきさめ}の音{おと}しみ〴〵と。思ひ廻{まは}せば
此{この}年月{としつき}。心{こゝろ}づくしの父母{ちゝはゝ}は。いかになりゆきたまひしと。かへらぬ
むかしを案{あん}じては。憂{うき}を添寝{そひね}のかり枕{まくら}も。縁{ゑん}でこそあれ
次郎{じらう}さんに。おもはれおもふたのしみも。このくるしみをせよとて
か。出雲{いづも}とやらの神{かみ}さんも。添{そい}とげられぬ縁{えん}ならば。なぜ結{むすん}
では下{くだ}さんしたと。愚智{ぐち}な恨{うらみ}も悲{かな}しさの。数{かづ}かさなれば無
理{むり}ならず。[かく浦里{うらざと}が心のうちになげきのかづのそふぞともしらぬ清二と女ぼうはかのふちゑもんをだんなごかしにおだてつゝおもしろおかしく
とりくんでいつぱいきけんにかたむきし国{くに}さむらひにうらさとを世話にさせんともくろみしがもとよりすきなるふちゑもん内しやうよしの事なれは早速咄はとゝのひける]

(13ウ)
。「これにつけても金{かね}のほしさよ。」といへる下{しも}の句{く}は。いかなる名
歌{めいか}の上{かみ}の句{く}へ附{つけ}ても。連続{れんぞく}する事|宜{むべ}なるかな。清次{せいじ}夫婦{ふうふ}が
口{くち}ぼこにて。内福{ないふく}の荒川{あらかは}淵{ふち}右衛門。浦里{うらざと}を手{て}に入{い}れしかば。
己{おの}が姪{めい}の御所方{ごしよがた}に勤{つとめ}しを。病気{びやうき}にて引取{ひきとる}よし。願{ねが}ひを
立{たて}て千葉家{ちばけ}の家中{かちう}。おのが長家{ながや}へまねき入れ。下女{げぢよ}独{ひと}り
附{つけ}て。二階{にかい}住居{すまゐ}のうつとしさ。気病{きやみ}のうへに|一ト入{ひとしほ}重{かさな}る浦里{うらざと}が
病気{びやうき}。相莚{あいむしろ}も踏{ふま}ぬ。じや〳〵馬{うま}を飼入{かいいれ}たる心{こゝろ}に淵{ふち}右衛門が。
按摩{あんま}針立{はりたて}日〻{ひゞ}に入込{いりこ}み。鱣難{うなぎ}卵{たまご}の薬喰{くすりぐひ}も。病人{びやうにん}の気{き}に合{あは}

(14オ)
ねば。独{ひと}り気{き}をもみ世|話{わ}するばかり。なま中{なか}姪{めい}が病気{びやうき}成{なり}
と披露{ひろう}せしゆへ。知音{ちいん}ちかづきの問{と}ひ見舞{みまひ}。一飽苦見{あぐみ}果{はて}たる
算用{さんよう}違{ちが}ひ。却{かへつ}て淵{ふち}右衛門に。気病{きびやう}も発{おこ}るべき程{ほど}なるに。
比{ころ}しも七月廿六|夜{や}兼{かね}ての催{もよふ}し。暮方{くれがた}より同役{どうやく}誘{さそ}ひ合{あは}せ。
印幡{いんば}沼{ぬま}右衛門|舟橋{ふなばし}権{ごん}太夫。一僕{いちぼく}連{つ}れて玄関{げんくは}より音{おと}なひ
【舟橋】「荒川氏{あらかはうぢ}いざや。支度{したく}なされよ。」とあるに。淵{ふち}右衛門はいぜん兼
約{けんやく}はなしたれども。当時{とうじ}浦里{うらざと}にうつゝたはひもなく。思入{おもひいり}たる
折{をし}ふしなれば。何卒{なにとぞ}して今宵{こよひ}の他行{たぎやう}云{いゝ}のがれたく。平服{へいふく}にて

$(14ウ)

$(15オ)

(15ウ)
立出{たちいで}【ふち】「コレハ印幡{いんば}舟橋{ふなばし}の御両所{ごりやうしよ}。御心に掛{かけ}られ兼約{けんやく}の御誘{おさそひ}
全{まつた}く失念{しつねん}致{いた}したではなけれど。御聞{おきゝ}の通{とを}り一人{ひとり}の姪{めい}めが以{もつて}
の外{ほか}の大病{たいびやう}。夫{それ}故{ゆへ}疾{と}くにも御断{おことはり}の手紙{てがみ}。」と。いわせも果{はて}ず
【印幡】「イヤ〳〵夫{それ}は後{うしろ}ぐらひ御断{お〔こと〕は}り。左様{さやう}ならきのふにも。仰{おふせ}越{こ}さる
べきを。最早{もはや}船{ふね}ども申|付{つけ}。坂田{さかた}やの亭主{ていしゆ}も参{まい}りおつて。かた〴〵
約束{やくそく}致{いた}しあれば。ノウ舟橋。」【舟ばし】「されば〳〵今更{いまさら}の変替{へんがへ}。荒
川氏{あらかはうぢ}貴公{きこう}にも似合{にあは}ぬ。こりやどふやら。」と。恨{うら}み言葉{〔こと〕ば}に是非{ぜひ}
なくも【ふち】「イヤサ御供{おとも}致{いた}すまいではなけれど。余{あま}り乱鬢{らんびん}お待{また}せ

(16オ)
申が気{き}の毒{どく}。」と。うぢつく挨拶{あいさつ}奥{おく}へ洩{もれ}てや。勝手口{かつてぐち}より雇{やとい}
女のおむく。丸|盆{ぼん}に茶碗{ちやわん}二ツ茶|台{だい}添{そ}へ持出{もちいで}。客人{きやくじん}へくばり
ながら【おむく】「モシお浦{うら}さまのおつしやります。今日{こんにち}はわたくしも頭
痛{づつう}も致{いたし}ませず。気分{きぶん}も快{こゝろ}よふござりますれば。折角{せつかく}の御
約束{おやくそく}。どふぞ御出{おいで}遊{あそ}ばしますよふに。申せとおつしやつてゞ
ござります。」と。云{いふ}に尚更{なをさら}客{きやく}の手まへ心{こゝろ}にはそまねども。「然{しか}
らば暫{しばら}く御免{ごめん}下され。」と。奥{おく}に入て浦里{うらざと}に何{なに}やら。念{ねん}を
|押ス{おす}訳{わけ}は聞{きこ}へねど。越後{ゑちご}の帷子{かたびら}黒呂{くろゝ}の羽織{はをり}。精好{せいご}平の袴{はかま}

(16ウ)
立派{りつぱ}に出立。着替{きがへ}の風呂敷包{ふろしきつゝみ}下女{げちよ}のおむくが持出{もちいで}るを。
草履取{ぞうりとり}の男{おとこ}仕度{したく}して受取{うけとり}【淵】「さぞ御待{おまち}かねいざ〴〵。」とある
に。舟橋{ふなばし}印幡{ゐんば}にが笑{わら}ひして何{なに}か思{おも}ひつきの晒落{しやれ}。そこ〳〵に
三人|打連{うちつ}れ出行{いでゆき}ける。跡{あと}には浦里{うらさと}と下女{げぢよ}のおむく。鬼{おに}の留
守{るす}の洗濯{せんたく}。いつものまねど淋{さび}しさの。酒事{さけ〔こと〕}足{た}らぬ肴{さかな}も何{なに}
一ツ気あつかひなき。さしむかひおむくも元{もと}よりなる口{くち}にて。日
比{ひごろ}のうさを語合{かたりあひ}。謗{そし}り咄{ばな}しに淵{ふち}右衛門。定{さだめ}て嚏{くさめ}のうるさ
からんと。思ひやるさへおかしかりき。次第{しだい}に更{ふけ}る夜{よ}も四時{よつどき}過{すぎ}る

(17オ)
まで合{あい}も押{おさ}へも只{たゞ}二人リ。【おむく】「モシ〳〵お浦{うら}さまわたくしはもふ。
どふいたして〳〵。此上にたべますと。胸{むね}がいつぱいに成{なり}まして。」ト。
泣上戸{なきじやうご}と見へて。しやくり上ケて辞宜{じぎ}するを【浦里】「ハテよいわいの。
今宵{こよひ}は誰{だれ}も呵{しか}り人{て}はなし。御皈{おかへり}はどふで早{はや}ふても明{あけ}
まへ。わるふしたら朝{あさ}四{よつ}にもなるであろう。もふ外{ほか}に用{よう}もなし。
どふでねるのじやないかいの。」と。盛{もり}つぶす思案{しあん}の浦里{うらさと}が。胸{むね}
には今宵{こよい}ぞ爰{こゝ}をぬけ出{いで}て。兎{と}も角{かく}もならん覚悟{かくご}にて。
淵{ふち}右衛門をも進{すゝ}めて。廿六|夜{や}へ出{だ}しぬきしなれば。夜中{よなか}

(17ウ)
過{すぐ}るまでの酒盛{さかもり}。おむくは何{なに}の心も付{つか}ず。得{え}手に帆{ほ}懸{かけ}て
呑{のみ}すぐせし程{ほど}に。もはや御座{おざ}にもたまられず。ほろを乱{みだ}
して地金{ぢがね}を顕{あら}はし。そのまゝそこに高嚊{たかいびき}。しすましたり
と浦里{うらさと}は。抜出{ぬけいで}ん用意{ようい}の身拵{みごしらへ}して。猶{なを}も心{こゝろ}のおくれじと。
茶碗{ちやわん}についでむいき呑{のみ}。胸{むね}を定{さだ}めて奥庭{おくには}の。雨戸{あまど}を
はづしぬけ出{いで}て見れば。ひしぎし竹垣{たけがき}を手さぐりに。勝{かつ}
手見|置{おき}しひらき戸{ど}明{あけ}て。よふ〳〵にして淵{ふち}右衛門が長屋{ながや}は
退{のが}れ出{いで}たりしが。西{にし}も東{ひがし}もいつしかに。千葉{ちば}の屋敷{やしき}の方角{ほうがく}は。

(18オ)
露{つゆ}しらぬ身{み}の跡{あと}や先{さき}。廿六|夜{や}の真{しん}の闇{やみ}。右{みぎ}へやゆかん
左{ひだ}りへやと。思案{しあん}に落{おち}ず彳{たゝずみ}て人{ひと}や咎{とが}めんいかにせんと。身{み}も
ふるわれてうろ〳〵と。心{こゝろ}まどひの折{をり}からに。柏子木{ひやうしぎ}の音{おと}かす
かに聞{きこ}へ丑満{うしみつ}過{すぐ}る星明{ほしあか}り。月代{つきしろ}なりとおぼしくて。仄明{ほのあか}り
の見{み}へければ。心うれしく伺{うかゞ}ふに。馬{うま}の|四下場{すそば}の立柱{たてばしら}横木{よこぎ}の
打{うち}しを力{ちから}にして。よふ〳〵にこそ攀{よぢ}のほる。比{ころ}は朧{おほろ}の月代{つきしろ}も前
後{ぜんご}左右{さゆう}の見へわたる。かたへはしかも板塀{いたべい}にて。衣服{きもの}の裾{すそ}を
扣杭{ひかへぐい}。爰{こゝ}さへ越{こ}さばまさしくも。外{そと}は往来{わうらい}嬉{うれ}しやと。念彼{ねび}

(18ウ)
観音{くわんをん}の力{ちから}を仰{あふ}ぎ。胸{むね}にさま〴〵立願{りうぐはん}して。地獄{ぢごく}の上{うへ}の一足
飛{いつそくとび}。下{した}におり立{たち}身{み}づくろひ。ほつとゝいきをつく〴〵と。あたりを
見ればこはいかに。塀{へい}の外面{そとも}は往来{わうらい}ならで。爰{こゝ}ぞ千葉家{ちばけ}の
奥御殿{おくごてん}。思ひがけなや長局{なかつぼね}。その中庭{なかには}の左手{ゆんで}なる。雨戸{あまど}の
許{もと}へぞ落{おち}たりける。此{この}物音{ものおと}に立騒{たちさは}ぎ呼立{よびたつ}声{こへ}も永{なが}らう下{か}。悲{かな}
しや今{いま}に搦{とらへ}られ。いかなる憂目{うきめ}に逢{あは}んかと。あきれて涙{なみだ}もいてば
こそ。はや繰{くり}明{あけ}る雨戸{あまど}の中{うち}。鉄{かな}あんどふの光{ひかり}さへ。いと物{もの}すごき植
込{うへごみ}を。目当{めあて}に差出{さしだ}す灯{ともしび}は。お下{しも}の女中{ぢよちう}二三人。跡{あと}に一人{いちにん}長刀{なぎなた}の

(19オ)
さやをはづせし立{たて}おやま。これぞ今宵{こよひ}の|不寝{ねず}の番{ばん}男{おとこ}
まさりは武家育{ぶけそだち}。甲斐{かひ}〴〵しくもいさぎよし。また浦里{うらざと}は今
更{いまさら}に。気{き}も魂{たまし}ゐも身{み}にそはず。我{われ}から危{あやう}き折{をり}しもあれ。廿
六|夜{や}の御夜詰{およづめ}の。やう〳〵引{ひけ}て御殿{ごてん}より。らう下{か}通{どを}りを下{さが}り
くる。褄{つま}にもかほる伽羅{きやら}の香{か}は。梅{うめ}が谷{や}と呼{よぶ}お中老{ちうらう}。常〻{つね〴〵}情{なさけ}
も深{ふか}みどり。松{まつ}がえといふ|不寝番{ねずばん}の女中{ぢよちう}は。らう下{か}にゑしやくして
【松がへ】「只今{たゞいま}お引{ひけ}でござりますか。チイツト御免{ごめん}遊{あそ}ばせ。」と。いゝつゝ
下立{おりたつ}中庭{なかには}の。中{なか}にかり場{ば}の雉子{きじ}ならで。身{み}をちゞめたるうら

(19ウ)
里{ざと}が。今{いま}出{いて}来{きた}る梅{むめ}が谷{や}を。姉{あね}ともしらず妹{いもと}とも。しらねど神{かみ}の
道{みち}びきか。思{おも}わず見かはす顔{かほ}とかほ【浦里】「ヤアおまへは。」チヨン。
まはる舞台{ぶたい}の道具建{どふぐだて}。作者{さくしや}の筆{ふで}もぎしつきて。
すこし手間取{てまどり}候|故{ゆへ}浦里{うらざと}が事{〔こと〕}。梅ケ谷{うめがや}が情{なさけ}も深{ふかき}
部屋{へや}の段{だん}は。第{だい}三|編目{べんめ}に|入御覧ニ候{ごらんにいれそろ}。
[三編満尾三冊閏正月売出し申候][渓斎英泉画〈印〉][合作 楚満人〈花押〉 鯉丈〈印〉]
明烏{あけからす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之六畢


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:2)
翻字担当者:金美眞、成田みずき、矢澤由紀、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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