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浦里時次郎明烏後の正夢うらざとときじろう あけがらすのちのまさゆめ

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二編中

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浦里時次郎明烏後の正夢 二編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}巻之五
江戸 南仙笑楚満人 滝亭鯉丈 合作
第九回
有{ある}は無{なく}なきは数{かず}そふ世{よ}の中{なか}にあはれいづれの日まで歎{なげ}かん。
と古哥{こか}にも詠{よみ}て[小野小町が哥なり]さとりし〔ごと〕く実{げ}に正直{しやうぢき}は
一旦{いつたん}の依怙{えこ}にひすといへどもつひには神明{しんめい}のあはれみの
ありとは知{し}れど春日屋{かすがや}のお照{てる}といふは名{な}のみにて曇{くもり}

(1ウ)
かちなる憂{うき}思{おも}ひ数{かず}かさなりていつぞやより日増{ひまし}に重{かさな}る
病{やまひ}の床{とこ}。手{て}づから祖母{ばゝ}の介抱{かいほう}も北向{きたむき}よける薬{くすり}なべ
あふぐ扇{あふぎ}の風{かぜ}さへも身{み}にしみ〴〵とひつかける心{こゝろ}一ぱい
半{はん}ぶんの煎{せんじ}やうさへ常{つね}ならぬ心遣{こゝろづか}ひぞやるせなき。思{おも}ひは
同{おな}じ由兵衛{よしべゑ}も常{つね}〴〵ものかずいはぬ程{ほど}胸{むね}にたゝまる案{あん}じ
ごと。夢{ゆめ}ばかりなる短夜{みじかよ}も思ひすぐしの永{なが}〴〵と寝{ね}られ
ぬまゝに起出{おきいで}て覗{のぞ}くお照{てる}が部屋{へや}の口{くち}老母{らうぼ}は薬師{やくし}の
真言{しんごん}を心に念{ねん}じとぼ〳〵と煎{せん}じ上たる薬鍋{くすりなべ}斗{はか}り

(2オ)
つきせぬおもひなり。[部屋のからかみおしあけて由兵衛は老母にむかひ]【由】「今宵{こよひ}は
いかう冷{ひえ}ますがさぞおさむふござりませう。あなたも
少{すこ}しお休{やすみ}なさりませぬか。お照{てる}はすこしも寝入{ねいり}まし
たか。わたくしもとろ〳〵寝{ね}やうといたすとおてるが
咳立{せきたて}る咳{せき}が躯身{からだ}にひゞいて私{わたくし}迄{まで}がむねがいたう
ござります。」[祖母妙貞はこれをきゝ]【妙】「ヲヽ成程{なるほど}その筈{はづ}のこと。|幼年
時{をさないとき}から時{とき}次郎と兄弟{きやうだい}の様{やう}に育{そだて}あげ殊{〔こと〕}にちかしい縁者{えんじや}
の娘{むすめ}心づかひはわしも同前{どうぜん}。もしものことがあつたなら。」

(2ウ)
[トうるむめもとにしんじつのちすぢもおよばぬかんびやうはおてるが身には仕合の不仕合といふべきか]「正右衛門どの夫婦{ふうふ}の手前{てまへ}
年寄{としよつ}たばゝも有{あり}なから麁略{そりやく}なりやうぢもした
様{やう}におもはりやうといふはまだ義理{ぎり}づく花の盛{さかり}を
可愛{かあい}さうに。」[トいひつゝおてるが寝がほをのぞき]「さかさまな事|見{み}やうかとおりや
案{あん}じすごしがせらるゝはいの。アヽよしない長寿{ながいき}して
みじめなことを見ますぞ。」と涙{なみだ}先{さき}だつ老{おい}の癖{くせ}。由兵衛{よしへゑ}も目{め}
をしばたゝき【由】「なる程|御尤{ごもつとも}でござりますれどあなたも御存{ごぞんじ}の通{とほり}
江戸中{ゑどぢう}に名{な}たゝる医師{いしや}の手{て}を尽{つく}し神{かみ}に祈{いの}り仏{ほとけ}を念{ねん}じ

(3オ)
さま〴〵介抱{かいほう}して見ても。次第{しだい}によわる顔{かほ}の痩{やせ}。神
仏{かみほとけ}のお力{ちから}にも。たすからぬ命{いのち}は是非{ぜひ}がなひ。あの病{やまひ}の
本{もと}はといへば時次郎{ときじらう}め。浦里{うらざと}とやらいふ傾城{けいせい}に喰{くひ}つき
おつて。夜{よ}る昼{ひる}となきくるは通{がよ}ひを。かげになり日向{ひなた}
になり。わしども夫婦{ふうふ}へ心遣{こゝろづか}ひ。ついに|一チ度{いちど}りん
気{き}した様子{やうす}もなく。あげくのはては。その女郎{ぢよろう}を
連{つれ}て欠落{かけおち}。あまりふらちがつのる故{ゆへ}。忰{せがれ}の可愛{かあい}さ身
上{しんせう}のかあいさ。こらしめにもなろふかと。久離帳{きうりてふ}には

(3ウ)
つけましたが。それからぶら〴〵気{き}のかた煩{わづらい}。可愛{かあい}
そふに。もしもの事{〔こと〕}が有{あ}つた時{とき}は。アノ野良{やらう}めが
ころしたも同{どう}ぜん。これほど貞心{ていしん}な女房{にようぼう}を
すてごろしにして。どふして先行{さきゆき}がよふござりま
せう。思{おも}へば〳〵ばにくひやつ。アヽ今頃{いまごろ}はどこをうろ
ついてうせおるやら。ろくな事{〔こと〕}は仕出{しだ}しおるまい。
ふ孝{こう}なやつでござります。」【妙貞】「アヽ是{これ}〳〵声{こへ}が
たかいわいノ。アノむごたらしい時次郎{ときじらう}を。かたとき忘{わすれ}

(4オ)
ぬ心根{こゝろね}が。おりやモウいぢらしうて〳〵ならぬわい
ノウ。今{いま}すや〳〵と寝{ね}入ツたやうすせめて寝{ね}た
うちばかりもわすれさせたい。それにひきかへ
お崎{さき}どのは。なんぼなさぬ中{なか}の時{とき}次郎じやとて。
勘当{かんどう}したも幸顔{さいわいがほ}。又お照{てる}が病気{びやうき}じやとて。つやに
一トばんかんびよふもせず。あますさへすぎさつた時{とき}
次郎がふらちの事{〔こと〕}。色{いろ}をかへ品{しな}をかへ。たけりたてゝ
せんぎだて。びやう気{き}にさわることばかり。わしが

(4ウ)
いふと角{かど}がたつ。そなたをりを見てチト異見{いけん}する
がよかろうぞや。」と。親子{おやこ}がま〔こと〕水{みづ}いらず。むねを
いためるひそ〳〵ばなし。屏風{びようぶ}の内にコツ〳〵と。せく
にせかれぬ時{とき}次郎が。あだし心{こゝろ}を苦{く}にやんで。痩{やせ}
おとろへし嫁お照{てる}。びよふぶをそつと押{おし}あけて
【照】「おばゞさま。ヲヤおとゝさんも。まだお休{やすみ}なさり
ませぬか。」【妙貞】「ヲイ目{め}が覚{さめ}ましたか。今日{けふ}の薬{くすり}は
加減{かげん}も違{ちが}ひ。此{この}またくすりは夜中{よなか}に壱ツ服{ぷく}

(5オ)
のませいと。医師殿{いしやどの}がいわれたゆへ。今宵{こよひ}はおひゞ
をやすませて。わしが伽してやります。てうど薬{くすり}
も煎{せん}じ上ツたところ。目が覚{さめ}たらさいはいじや。サヽ
一ツぱい呑だがよいぞや。」【てる】「ハイおありがたうご
ざります。わたくしも今宵{こよひ}は快{こゝろよ}ふて。いつに
ないとろ〳〵とふせりました。おまへ方{かた}もモウ御寝{ぎよし}
なつて下{くだ}さりませ。久〻{ひさ〴〵}の此|病気{びやうき}おあいそも
つきず。さま〴〵の御苦労{ごくろう}|掛ケ{かけ}。わたしがいたす

(5ウ)
はづの事を。逆{さか}さまな御|介抱{かいほう}。冥加{めうが}ない勿体{もつたい}ない。
わたしやそれがかなしうござります。」【由】「はて扨{さて}
わけもない事いやるないノ。それより早{はや}う息才{そくさい}に
なつて。此{この}おんおくりと思ふて。おばアさんの介
抱{かいほう}して貰{もら}わにやならぬ。」【妙貞】「ヲヽそうとも〳〵。
其{その}様{やう}な心遣{こゝろづか}ひがやつぱり病のさわりになります。
そふいふうちばなそなたゆへ。奉公人{ほうこうにん}の夜伽{よとぎ}では。
かへつてそなたも心{こゝろ}がおかりよふ。又{また}思ふよふにも

(6オ)
行届{ゆきとゞく}まい。年寄{としよ}ツては夜{よる}も寝{ね}られず。殊{〔こと〕}にだきかゝへする
病{びやう}人ではなし。てうどわたしによい役{やく}ゆへ。是{これ}から夜伽{よとぎ}は
わしが引受{ひきうけ}じや。随分{ずいぶん}わしを遣{つか}ひたをそふとして。遠慮{ゑんりよ}
気{き}がねのないのが親{しん}身。ハテ病気{びやうき}は半|分{ぶん}気からおこる。
随分{ずいぶん}気{き}なぐさみの養生{やうじやう}させいと。お医者方{ゐしやがた}がどれも
おすゝめなされてじや。やがて芝居{しばゐ}もはじまるのに。早{はや}ふ逹
者{たつしや}に成{な}つて。そなたの|好キ{すき}の。菊之丞{きくのじやう}見{み}にゆきやひの。」【由】「ほん
にさやふでござります。命{いのち}がものだねとは世上{せじやう}のたとへ。しかし

$(6ウ)

(7オ)
はや芝{しば}ゐも。だん〳〵昔{むかし}とは狂言{きやうげん}のやうすもかわりまして。
私{わたくし}どもの子供{こども}の時分{じぶん}。秀霍{しうかく}がしのぶうり。大日坊{たいにちぼう}とお染{そめ}
の二役{ふたやく}。夫{それ}を今{いま}は何{なに}とやら。ほうかい坊{ぼう}とやら申て。近年{きんねん}
上方{かみがた}の歌{うた}右衛門がいたしましたが。仲蔵{なかざう}のをおぼへており
まするゆへ。何{なに}か仕{し}くみがかわつたやふでござりました。」
【妙貞】「それわしらも若{わかい}時{とき}で。ヲヽこなさんの六ツ七ツの頃{ころ}か。
小{こ}びき丁{てう}での。夫{それ}よりまへにまだ〳〵。まへの幸四郎{かうしろう}がこ
ま蔵{ぞう}時分{じふん}。女形{おんながた}は金作{きんさく}富十郎{とみじうろう}。三代目{さんだいめ}の菊之丞{きくのじやう}も

(7ウ)
上手{じやうず}であつたのふ。」【由】「ハイ仙女{せんぢよ}が事{〔こと〕}でござりませう。」【妙貞】「ヲヽ仙女{せんぢよ}〳〵。
あれがのソレ三日{みつか}がわりの狂言{きやうげん}で。八百屋{やをや}のおちよ。」【由】「ハイ〳〵その
後{のち}もまた親{おや}の半四郎{はんしらう}とふたり。二日{ふつか}がわりのお染{そめ}久松{ひさまつ}
これがまた大当{おほあた}りでござりました。」【妙貞】「それ〳〵それもやつ
ぱり好{すき}や丁{てう}であつた。しかし三十|年{ねん}もまへの咄{はな}し。耳{みゝ}
やかましふてノウお照{てる}。」【てる】「イヱ〳〵仙女{せんぢよ}はかすウかにおぼへており
ます。」【妙貞】「そふかいの。仙女{せんぢよ}と名{な}をかへたのは。」【てる】「アイたしか歌
右衛門{うたゑもん}が下{くだ}りの。かほ見せやらでござりました。」【妙貞】「ほんに

(8オ)
そふじや〳〵。若{わか}イとて物{もの}おぼへのよい事じやの。」と。云{いふ}内{うち}も
つかれ病{やま}ひのすや〳〵鼾{いびき}。【由】「ハイまたとろ〳〵寝{ね}いるそう
でござります。」【妙貞】「ヲヽ今夜{こんや}はよいあんはいじやの。どふぞ|明ケ{あけ}
まで此まゝで。」と。夜着{よぎ}引{ひき}つくろひ相立{あいたて}なき孫嫁{まごよめ}の
介抱{かいほう}。由{よし}兵衛も少{すこ}しは落付{おちつ}く思ひにて【由】「イヤ大分{たいぶ}よふ
すがよふござります。モウ更{ふけ}ましたにおまへ様も。御休{おやす}み
なされませ。」【妙貞】「イヤ〳〵今夜{こんや}はわしが夜伽{よとぎ}のやくそく。こな
たこそ逝{ゐ}て寝{ね}やんせ。」【由】「ハイ〳〵イヱまだ私{わたくし}は。」【妙貞】「ハテわしが

(8ウ)
起{おき}てゐりや何{なに}も案事{あんじ}はない。」【由】「ハイさやふでござりますが
あまり御{ご}くらうに。」【妙貞】「なんのいの。くらうに思ふは他人{たにん}むき。
一日{いちにち}もはやう本{ほん}ぷくのかほ見よふと思へば。大義{たいぎ}な事{〔こと〕}は
ござらぬわいの。」【由】「ハイイヤ此{この}分{ぶん}なれば。もふ案{あん}じもござり
ますまい。さやうなら御{ご}めん下{くだ}さりませ。」【妙貞】「サア〳〵商人{あきうど}は
翌日{あす}が大事{だいじ}じや。いて寝{ね}やんせ〳〵。」と。間{あい}のから紙{かみ}ひき
立{たつ}るも。物音{ものおと}しづかに由{よし}兵衛は寝間{ねま}へ。妙貞{めうてい}は又{また}もお照{てる}
が寝顔{ねがほ}に気{き}を|付ケ{つけ}【妙貞】「アヽやつれた事{〔こと〕}わいの。南無{なむ}薬師{やくし}

(9オ)
さまかんのんさま。」祈祷{きとう}にもなる御念仏{おねんぶつ}。しよさの残りを
ぶつ〴〵と。鼻{はな}かみながら声{こへ}ひそかに。夜{よ}は森{しん}〳〵と丑
満{うしみつ}ちかく。火{ひ}の廻{まは}りの声{こへ}のみ高{たか}かりき。これには引かへ時{とき}
次郎。花又村{はなまたむら}に二年{ふたとせ}を。お松が幼{おさな}き介抱{かいはう}にて。病目{やみめ}も
少しは快{こゝろ}よく。浦里{うらざと}が便{たよ}りの音沙汰{おとさた}を。聞出{きゝだ}したさの
物参{ものまい}り。ひとりとぼ〴〵立|帰{かへ}る。内には馴染{なじみ}の蝶五郎{てうごらう}
成田{なりた}戻{もど}りに立寄{たちより}て。お松を相手{あいて}の述懐{しゆつくはい}咄し。それと
聞{きゝ}とり門口{かどぐち}より【時次郎】「ヲヽ珍{めづ}らしひ江戸|咄{ばな}し。蝶{てふ}五郎|何{なん}ぞ

(9ウ)
気遣{きづか}ひな〔こと〕で。」【蝶】「イヱ〳〵私{わたくし}は此{この}間{あいだ}おてるさまの御願{ごぐはん}がけ
に成田{なりた}へ参{まい}つた戻{もど}りがけ。わざ〴〵まいつてよりました
は。どふぞしておまへさまを。お逢{あは}せ申て上けたさに。」【時】「ヲヽ
そんなら浦里{うらざと}が行衛{ゆくえ}の便{たよ}りがあつて。」【蝶】「アヽもし〳〵
おまへ様は。只{たゞ}浦里{うらざと}さんの事{〔こと〕}ばかり。」【時】「そふではないがかは
いそふに。明{あけ}ても暮{くれ}てもお松が案{あん}じ。」「夫{それ}はそふでもご
ざりませうが。かわいそふくらべならおてるさま。おまへ様
はなんとも思はぬお心で。先逹{せんだつ}てのお便{たより}にも。お文{ふみ}の御返

(10オ)
事{おへんじ}も上{あげ}られず。」【時】「サアその時{とき}はひつしりと。かいもく見へぬ
目{め}の|病イ{やまひ}。」【長】「ほんにおまへさま此{この}間{あいだ}のおあんばいは。どふで
ござります。」【時】「サアそなた衆{しゆ}が日頃{ひごろ}信心{しん〴〵}してくれる。不動{ふどう}
さまのおかげやら。大{おほ}かた|元ト{もと}のものに成{な}りはなつたが。これ
に付{つい}ても浦里{うらざと}は。どこにどふしてゐる事{〔こと〕}ぞ。」【蝶】「アヽまた久{ひさ}
しいしやれだ。これに付{つけ}てもおてるさまの御病気{ごびやうき}。」【時】「ヤ
おてるは煩{わづら}ふてゐるか。」【蝶】「煩{わづら}ふてゐるかじやアござりませぬ。
おまへ様{さま}もあんまりだと。いつた斗{ばか}りでもすまなひ。モシけふは

$(10ウ)
翠松堂
いろかへぬ
松も化粧や
蔦もみち

(11オ)
まだ日{ひ}も高{たか}し。なんとおまへさんわたしと一所{いつしよ}に。江戸
へ出{で}る気{き}はなしかへ。」【時】「何{なに}をめつそうな今{いま}やなど。どのつら
さげて勘当{かんどう}のわしが。江戸三がいへゆかれるものか。」【蝶】「サア
そりやアわたしだ。蝶五郎{てふごらう}が連{つ}れ申に。どいつになんといは
せるものか。せめて浅草{あさくさ}までお出なさひ。わたしがお袋{ふくろ}
の里{さと}で。遠慮{ゑんりよ}もなんにもない内だ。」【時】「そふしてまア
わしがそこへ行{ゆ}けば。どふするのじや。」【蝶】「どふのこふのとお前{まへ}
さんも。蝶{てう}五郎がわるい狂言{きやうげん}は書{かき}やせぬは。といつた所{ところ}が

(11ウ)
お松{まつ}さん。おめへ|壱人り{ひとり}で留守{るす}もなるまいの。」【お松】「アイわたしや
どふでもよいが。時次郎{ときじらう}さんに捨{すて}らるゝと思や。」【時】「アヽこれ
何{なん}のおぬしひとり捨{すて}てどこへゆかふ。コレ蝶{てふ}五郎|定{さだ}めて
こなたの。深{ふか}イ思案{しあん}のある事でもあらうが。此{この}年月{としつき}の
お松が介抱{かいほう}。今更{いまさら}見捨{みすて}てどふしてまア。」【蝶】「そりやア御尤
だ。よふござります此子もいつしよに。わたしが伯母{をば}の
所{ところ}だ。遠慮{ゑんりよ}はない。お連{つれ}なされませ。」【時】「それじやと云{いふ}て
二人が留守{るす}に。どふいふ〔こと〕でひよつとまた浦ざとが。

(12オ)
便{たよ}りのあるまいものでもなし。」【蝶】「アレまだ人の思{おも}ふよふ
にもない。浦{うら}さんの事{〔こと〕}ばつかり苦労{くろう}になさいまして。
かわいそふにお照{てる}さんの。」と。いわふとして「イヤおまへ
さんも。世間{せけん}の義理{ぎり}をちつとはまた。女{ぢよ}郎|衆{しゆ}の義
|理{り}ばかりが義理{ぎり}じやア。ござりますめへがね。」【時】「これは
また思{おも}ひだしたよふに。そりやア蝶{てふ}五郎|何{なに}いやる。」【蝶】「何{なに}とは
おまへなんぼ親逹{おやたち}だといつて。嫁御{よめご}だといつて身内{みうち}
にも。義理{ぎり}はござりますはな。」【時】「サア其{その}義理があれば

(12ウ)
こそ江戸{ゑど}にも居{ゐ}られず。田舎住居{いなかずまゐ}の時{とき}次郎。こなたは
まだおれが。栄{ゑ}よふじやと思ふてくれるかいの。」【蝶】「はてどふ
いへばこふいふと。なんのまたおまへさんが。|好キ{すき}このんで
爰{こゝ}にくらしもなさるまい。夫{それ}を苦{く}にするおてる
さんは。おまへの女房{にようぼ}でござりまするぞへ。【時】「それも
初手{しよて}から知{し}れた事じや。」【蝶】「知{し}れた事ならなぜまた
素{す}もりに置{おき}ざりにして。とりかへしのならないあの病{やまひ}。」
【時】「ヤアそんならおてるは煩{わづら}ふてゐるか。」【蝶】「居{ゐ}るかもすさまじい。

(13オ)
これ今{いま}までは隠{かく}しておりやしたがネ。もふこふなつちやア
しやでも非{ひ}でも。おまへさんのお供{とも}をして。あのお子に
おかほをお見{み}せなさらにやア。おいとしなげに莟{つぼみ}の
花{はな}を仇{あだ}あらし。そのちらしてはだれでござります。
まわり廻{まは}つて浦里{うらざと}さんまで。恨{うらむ}まい人{ひと}に恨{うら}みさせる。
そりやアみんなおまへさんのお心{こゝろ}から。」【時】「それじやといふて
勘当{かんどう}の今更{いまさら}どふして内{うち}へ。」【蝶】「イヱ〳〵おまへさんの云艸{いひくさ}だ。
ハテ廓{くるは}へはおまへしのんで。やりて若{わか}イものにせかれても

(13ウ)
茶屋{ちやや}を頼{たの}んで。お出{いで}なさつたじやアござりやせぬか。
まして親御{おやご}の内{うち}だものを。まんざら内証{ないしやう}の。見るめかぐ
鼻{はな}のやふじやアない。夫{それ}だけれども御近所{ごきんじよ}のてまへ。昼
日中{ひるひなか}おつれも申されない。日{ひ}の暮{くれ}るまでは。今{いま}いつた
伯母{おば}の所{ところ}でわたしが思案{しあん}。どふするかまア。わたしらが
よふな知恵{ちゑ}なしの云{いふ}事{〔こと〕}も。きいてみるがよふござり
やす。」と。やつつかへしつ蝶{てふ}五郎が。火水{ひみづ}に成{な}つて異見{いけん}
のうち。村境{むらざかい}より大勢{おほぜい}の人{ひと}ごえにて。「気{き}ちがいよ〳〵。」と

(14オ)
はやし立るはこはいかに。不便{ふびん}やおてるは病みつかれたる
やつれ姿{すがた}。笹{さゝ}をかつがぬ斗りにて。うろ〳〵尋{たつぬ}る目の
張{は}りも。どこやらすごき乱髪{みだれがみ}。蝶{てふ}五郎はたまらず
馳{はし}り出。大勢{おほぜい}を追{おひ}のけ。おてるが手を取{とり}。内へともなふ
ありさまに。お松がびつくり時次郎{ときじらう}は。猶更{なおさら}前後{ぜんご}十
方を弁{わきま}へず。蝶{てふ}五|郎{らう}お松に顔{かほ}にておしへ。囲炉裏{ゐろり}
なる鑵{くわん}子の湯{ゆ}をとりよせて。茶碗{ちやわん}に一トくち呑{のま}
すれば。おてるはよふ〳〵こゝろ付て。あたり見廻し正

(14ウ)
|気{き}にや。「蝶{てふ}五郎どの時次郎さん。逢{あひ}たかつた〳〵〳〵。」と。
縋{すが}りつく。目には涙{なみだ}のたま〳〵に。久しふりなる夫の顔{かほ}
見る余所{よそ}目さへ道理{どうり}ぞと。暫{しば}し詞{〔こと〕ば}もなかりしが。
時次郎はもくねんと。あきれながらも㒵{かほ}を上ケ【時】「面目{めんぼく}
なやおてる。不所存{ふしよぞん}ゆへにそなたにまで。苦労{くらう}をかけて
此日ごろ。病気{びやうき}だと聞{きひ}たがどふして供{とも}をも連{つれ}ず
たゝ一人リ。蝶{てふ}五郎が今の咄{はな}しとは。」【蝶】「さればさ。私{わたくし}もがてん
がまいりませぬ。どふして爰{こゝ}へおてるさま。」【おてる】「どふしてとは

(15オ)
まア思ひやつても見なさんせ。煩{わづら}ふてゐるその上{うへ}に。
女子{おなご}の身{み}にて只{たゞ}ひとり。逢{あひ}たいの一念{いちねん}が中{ちう}をとんだ
かはしつたか。道{みち}もおぼへず所{ところ}はしらず。こんな形{なり}
して余処目{よそめ}には。さぞ気{き}ちがひとも狂気{きやうき}とも。
見{み}る人{ひと}毎{〔ごと〕}におだてたり。笑{わら}はるゝのもいとはゞこそ。
里{さと}の子供{こども}の気{き}ちがひよ〳〵とてはやしつれ。夫{それ}を
力{ちから}の道{みち}はりも。内{うち}を出{で}たのは何時{なんどき}やら。覚{おぼ}へずしら
ず蝶{てふ}五郎どの。こなさんの声{こへ}の耳{みゝ}に入{い}りて。思{おも}はず

(15ウ)
知{し}らず此{この}内{うち}へ。立{たち}より見れば時{とき}次郎さん。よふまめで
居{ゐ}て下{くだ}さんした。息才{そくさい}でゐて下{くだ}さんした。日{ひ}ごろの
恨{うらみ}も何{なに}もかも。顔{かほ}見てさつぱりわたしやたゞ。逢{あい}た
かつた。」とばかりにて。時{とき}次郎にひしと抱付{いだきつ}き。うれし
涙{なみだ}のしめ〴〵と。語{かた}るも聞{きく}もあとやさき。夢幻{ゆめまぼろ}しの
浮世{うきよ}のさま。ワアツとなく音{ね}は花又{はなまた}ならぬ。春日屋{かすがや}の
奥{おく}の|一ト間{ひとま}にて。病{やま}ひにつかれしうは言{〔こと〕}にや。【おてる】「モシ時{とき}
次郎さんまたしやんせ。」と。声{こへ}におどろく祖母{そぼ}妙貞{みやうてい}

(16オ)
しよさくりながら摺{すり}よつて【妙貞】「コレ〳〵おてる何{なに}いやる。
おそわれてか。」と胸{むね}なでさすり。見れば呼吸{こきう}も世
話{せわ}しくて。色{いろ}青{あを}ざめしその風情{ふぜい}。妙貞{めうてい}は思はず声{こへ}
上て。「コレのふおてるがきつうづゝないそふな。皆{みな}起{おき}てや。」
と呼{よば}はるにぞ。由{よし}兵衛はじめ家内{かない}の男女{なんによ}。薬{くすり}よ気
附{きつけ}と立{たち}さわぐ。折節{をりふし}鳶{とび}の蝶{てふ}五郎。成田山{なりたさん}より戻{もど}りみち。
酒々井{しゆすゐ}泊{どま}りの夢見{ゆめみ}の悪{わる}さ。心にかゝればいきせきと。暮{くれ}て
六里{ろくり}をいそぎ足{あし}。夜{よ}は更{ふけ}たれど春日{かすが}屋の。門{かど}ほと〳〵と

(16ウ)
音{おと}なへば。中{うち}には先刻{せんこく}待{まち}かねし。医者{いしや}の来{き}しぞと心得{こゝろえ}
て。そりやお医者{いしや}さまそれ早{はや}くと。うろたへ明{あけ}る門{かど}の戸を。
とつかは|這入{はいる}蝶{てふ}五郎【蝶】「ヘイ蝶{てふ}五郎でござります。御代参{ごだいさん}の
帰{かへ}り只今{たゞいま}。」と。いへどこたへも奥{おく}の間{ま}に。しめなく声{こへ}も哀{あはれ}そふ。
心{こゝろ}ならねば勝{かつ}手へまはり。草鞋{わらぢ}ぬぐ間{ま}もあら悲{かな}しや。おてる
が末期{まつご}と見へければ。心きいたる蝶{てふ}五郎[おてるがそばへはせよつて耳のほとりへくちをよせ]
【蝶】「ハイ蝶{てふ}五郎が時{とき}次郎さまをお供{とも}して参{まい}りました。」と
呼{よば}はる声{こへ}の通{つう}じてや。につこり笑顔{ゑがほ}のその儘{まゝ}に。落入{おちいる}

(17オ)
娘{むすめ}。【妙】「孫{まご}やひのふ。」【由】「嫁女{よめぢよ}やひの。」【妙由】「おてるや〳〵。」と呼立{よびたつ}る
声{こへ}にかけ来{く}る。手代{てだい}の全六{ぜんろく}。奥{おく}の間{ま}よりは下女{げぢよ}おひゞあは
たゞしく走{はし}り来{き}て【おひゞ】「此{この}書{かい}たものをおかみさんが。旦那{だんな}さんへ
上{あげ}てくれろとおつしやります。」と。差出{さしだ}す一通{いつつう}蝶{てふ}五郎
手{て}にとつて見て【蝶】「書{かき}おきの事{〔こと〕}。ヤアなんだ。かてゝくわへて
此{この}中{なか}へ。」と。驚{おどろ}きはせいる一間{ひとま}には。此{この}家{や}の女房{にようぼう}血{あけ}に染{そみ}
剃刀{かみそり}咽{のんど}に突立{つきたて}て。これも末期{まつご}のだんまつま。由兵衛{よしべゝ}始{はじめ}
祖母{そぼ}妙貞{みやうてい}。あきれて涙{なみだ}もくり言{〔こと〕}も。途方{とほう}に暮{くれ}しが由{よし}

(17ウ)
兵衛はかの一通{いつつう}を押{おし}ひらき。涙{なみだ}はらふてよむ文言{もんごん}。
せつなさの餘{あま}り兼{かね}てしため置{おき}まさかの時{とき}はかくと
覚悟{かくご}きわめ参らせ候。我{わが}身{み}おろかの心{こゝろ}より時{とき}次郎
かんどふの後{のち}風{ふ}と全六{ぜんろく}にすゝめられ此{この}家{や}の跡{あと}めは我{わが}
身{み}甥{おい}の義七{ぎしち}を取立{とりたて}申さんとの悪{あ}しきたくみに
乗{のり}候|事{〔こと〕}かへす〳〵も口{くち}おしく面目{めんぼく}なく今更{いまさら}申わけも
なき〔こと〕に候。よつて義{ぎ}七へも物語{ものがた}り致し候へば私{わたくし}を
さん〴〵にしかり道{みち}をたて誠{ま〔こと〕}を守{まも}る本心{ほんしん}甥{おい}ながらも

(18オ)
恥{はづ}かしく其{その}時{とき}かくとも存{ぞんじ}候へどもまけおしみつよき
女{おな}ごのならひにて日{ひ}を送{おく}り候|内{うち}義{ぎ}七|事{〔こと〕}はわたくし
にあいそつかして行衛{ゆくゑ}もしらず。今{いま}さらせんぴを
くやみ私{わたくし}の心{こゝろ}はあらため候へども御{お}まへさまは勿論{もちろん}母{はゝ}
さまの思召{おぼしめし}御一家衆{ごいつけしゆ}の手前{てまへ}心{こゝろ}恥{はづ}かしく何卒{なにとぞ}一{ひと}ツの
功{こう}をたて心{こゝろ}のわび〔こと〕いたし度{たく}時{とき}次郎のわび|祖
母{ばば}さまはじめ御{お}まへ様へ度〻{たび〳〵}申候へどもま〔こと〕のわびと
おぼしめさず候ゆへ御聞入{おきゝいれ}なくおてる〔こと〕は|明ケ{あけ}くれ不

(18ウ)
所存{ふしよぞん}の夫{おつと}とあいそもつかさずこいこかれ候かたまりが
病{やまひ}となりて心元{こゝろもと}なく見へ候まゝ何卒{なにとぞ}張{はり}をもたせ
度{たく}時{とき}次郎をあしさまにわざとつれなくあら
りやうじ度〻{たび〳〵}過{すぎ}候て次第{しだい}に重{かさな}る病{やまひ}の体{てい}いぢらし
さ不便{ふびん}さ心{こゝろ}にはかわいさへだてなく存{そんじ}参らせ候へども
せんかたもなきいまはのていしぜんの事{〔こと〕}もおはし候はゝ
おてるより先{さき}へとかくごにてかく成{なり}参らせ候|事{〔こと〕}母{はゝ}様|初{はじめ}
御まへ様には御{お}ゆるしも下{くだ}さるべく候|得{ゑ}共{ども}ただ〴〵

(19オ)
正{しやう}右衛門さま御夫婦{ごふうふ}への申訳{まうしわけ}|生キ{いき}ながらへては立{たち}|不
申{まうさず}候まゝわが身{み}始{はじめ}にへだてなき心{こゝろ}は死出{しで}の山{やま}三途{さんづ}
の川{かは}を手{て}を引{ひき}一{ひと}ツ蓮{はちす}にともなひ申|度{たく}憚{はゞかり}ながら
その餘{よ}はよしなに御{おん}くみわけ家内{かない}のものにも御
由{ごゆ}だんなされまじくと申のこし参らせ候かしこ。
旦那さま さき。
とよみおわり【由】「これにつけても不便{ふびん}さのいやますおてるがあの
臨終{りんじう}コレ蝶{てふ}五郎どん貴{き}さま家内{かない}に気{き}を附{つけ}て。見世{みせ}の者{もの}

(19ウ)
にも口止{くちどめ}して。まづ何事{なに〔ごと〕}も穏便{おんびん}に。」と。いゝつゝ亦{また}もおてるが部屋{へや}
老母{らうぼ}はおてるを抱上{だきあげ}て【妙貞】「これイなふおてる。ヱヽもふかなわぬ
事{〔こと〕}か。」と眼{め}にうかむ涙{なみだ}の露{つゆ}もはら〳〵と。こける白木{しらき}の
守台{まもりだい}。世{よ}に難有{ありがたき}祈祷{きとう}の札{ふだ}。数{かづ}ある中{なか}に御出入{おでいり}の千葉{ちば}の
奥{おく}より下{くだ}されしと。大事{だいじ}に包{つゝむ}紙{かみ}いく重{ゑ}九重{こゝのへ}の守{まもり}にそへ
られし。水天宮{すいてんぐう}の御|札{ふだ}を老母{らうぼ}は見{み}つけて【妙】「ヲヽ由{よし}兵衛|殿{どの}その
御守{おまも}りは。お中老{ちうらう}梅{うめ}が谷{や}さまから。信切{しんせつ}にお照{てる}が病気{びやうき}を伝
聞{つたへきゝ}。遣{つか}はされた尊{とうとい}御札{おふだ}。最{もふ}とゞきはしまひが水初穂{みづはつほ}で。かな

(20オ)
わぬまでも末期{まつご}の水{みづ}。」と。聞{きい}てかけ出{だ}す蝶{てふ}五郎。消{きへ}行{ゆく}
魂{たま}を呼{よび}井戸{ゐど}に。汲{くみ}出{だ}す水{みづ}も|一ト{ひと}釣瓶{つるべ}。移{うつ}す茶碗{ちやわん}も井{ゐ}の
口{くち}に。おつとあぶなひ|一ト{ひと}すくひと。心{こゝろ}でいわふ気転者{きてんもの}。成田
山{なりたさん}大聖不動明王{だいせうふどうみやうわう}と。口{くち}にとなへておてるが部屋{へや}【蝶】「ハイ
水{みづ}を汲{くん}で参{さん}じました。」【妙】「ヲヽ蝶{てふ}五郎どん貴{き}さま直{すぐ}ニ
呑{のま}せて。」と。いへば心得{こゝろえ}蝶{てふ}五郎。守{まもり}をうつす茶碗{ちやわん}の水{みづ}
おてるが口{くち}へつぎこめば。ハツト|一ト咳{ひとせき}むせかへる。とたんに縁
者{ゑんじや}の案内{あんない}にて。夜中{やちう}もいとわぬ可意{かい}の得本{とくほん}。名医{めいゐ}

(20ウ)
なれどもものがるに。見廻{みまふ}病家{びやうか}はいり豆{まめ}に。花{はな}の笑顔{ゑがほ}
やおてるが蘇生{そせい}。かの得本{とくほん}の妙手{みやうしゆ}のりやうじ。かなしみ
あればよろこびも。めぐる因果{いんぐは}は篠塚{しのづか}ばゝが。悪事{あくじ}露
顕{ろけん}のおもむきより。全六{せんろく}義七{ぎしち}が身{み}のおわりは。心{こゝろ}も広{ひろ}き
蝶{てふ}五郎が。胸{むね}におさめて今{いま}しばし。第{だい}十五|回目{くはいめ}に説訳{ときわけ}て。
三編目{さんべんめ}中{ちう}の巻{まき}にくわしくしるして|入御覧候{ごらんにいれそろ}。
明烏後正夢巻之五畢


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底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:2)
翻字担当者:金美眞、成田みずき、矢澤由紀、銭谷真人
更新履歴:
2017年7月26日公開

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