問2

「敬語の指針」で示された敬語の「5種類」がよく話題になりますが,なぜこれまでの「3種類」を改めたのですか。

まずは一般論から

ひとまず敬語のことを離れて,次の問題を考えてみてください。

AからEまで5つの違うものがあるとします。ただし,そのうちBとCは似ているとします。また,DとEも似ているとします。このとき,これらの全体をどう示すのがよいでしょうか。

次のような方法が考えられるでしょう。
①AからEまで5通りのものがある,として示す。
②似ているものをまとめて,3通りのものがある,として示す。
③第1段階として粗く分ければ3通りのものがあり,さらに第2段階まで分ければ全体で5通りのものがある,として示す。

どれがいいでしょうか。それぞれ,長所と短所があります。

①は,「5通りの違うものがある」という事実をそのまま伝えるもので,事実に対して誠実な示し方だといえるでしょう。ただ,「5」という数が「多い」という印象を与えてしまうかもしれません。

②の場合は,実はそもそも「似ているものをまとめてよいのか」が問われなければなりません。似ているからといってまとめてよい場合と,似ていてもやはり区別しなければならない場合とがあるはずで,ケース・バイ・ケースで判断するしかありません。ここでは,仮に,まとめてよい場合だとして話を進めると,まとめたら「3通り」になる点は,結果として数が減るので,「わかりやすい」という印象を与えるでしょう。しかし,「3通り」と述べてそれで終わりにしてしまうのでは,「本当は5通りのものがある」という事実が隠れてしまうことにも注意しなければなりません。

③は(これも,似ているものをまとめてよい場合だとしての話ですが),①②の両面を伝えることになり,情報内容としては最も豊かです。しかし,豊かな分,込み入ってもいます。2つの階層を立てて,粗い分け方と細かい分け方を示すというのは,例えば小学校の教育などでは,かなり負担になるのではないでしょうか。

事実として,5種類の違うものがある

ここまでは一般論として考えましたが,敬語の話に戻りましょう。もうお気づきでしょうが,「敬語の指針」第2章(本書pp.101-124)に示されている5種類の敬語は,初めに述べたAからEまでの5つのものと同じような状況です。つまり,「尊敬語」「謙譲語Ⅰ」「謙譲語Ⅱ(丁重語)」「丁寧語」「美化語」はそれぞれ違うものである,ただし「謙譲語Ⅰ」と「謙譲語Ⅱ」は似ている,「丁寧語」と「美化語」も似ている,という状況です。これを,上の①②③のどれで示すのがよいかという問題です。

まず気をつけておきたいのは,事実として,5つの違うものがある,ということです(それぞれがどう違うかは,「敬語の指針」第2章を見ていただければわかっていただけると思います)。3つのものを無理に5つに分け直したわけではなく,きちんと観察すると,そもそも5つの違うものがあるのです。

そうである以上,それをそのまま示すのが(上でいえば①の方法が)最も基本的な,あるいは本来的な示し方だということになるでしょう。「敬語の指針」が5種類の敬語を示したのは,突き詰めていえばそれだけのことで,事実に誠実な示し方をした,ということです。

「5種類」には抵抗を感じるという声が一部にあるのは,「5」という数がやや多いということもあるでしょうが,それ以上に,これまでの3分類が余りにも普及してしまっていたからでしょう。「3」が「5」になれば,難しい不必要なことが持ち込まれたような気になって抵抗を感じるのは,無理もないことだと思います。

しかし,実は,これまでの「3種類」というのは,「本当は5種類だけれども,5では多すぎるので,わかりやすさへの配慮から,似たものをまとめて3種類として示した」という性質のものではありません。そもそも5種類あることにまだ気づいていなかった数十年も前に,たまたま「敬語は3種類」という学説が,主として学校教育の場で定着してしまい,それが一般にも普及した,というだけの経緯なのです。

その後,研究が進むにつれて,専門の研究者の間では,「3つに分けた場合の『同じタイプ』とされてしまうものの中に,実は無視できない違いがある。3分類の枠組みで敬語をとらえるのでは不十分だ。」という見方が強くなってきました。つまり,よく観察すれば事実としてもっと種類があるのに―そして,現在の研究水準ではそれに気づいているのに―一般には,まだそれを見落としていた数十年前の研究水準を受け継いだままの「3種類」が普及していた,ということなのです。

現在の見方で事実をありのままに見るならば,まず,敬語には「5種類」あると示すのがよいと,「敬語の指針」では考えました(実は,今「もっと種類がある」と述べた点の細部のとらえ方については,研究者によって少しずつ違いがあるのですが,「指針」で示した5つは,研究の世界での最大公約数的なものだといってよいと思います)。

「3種類」の問題点,「5種類」の利点

「研究の世界の難しいことを持ち込む必要はない。3種類で十分だ。」との声もあるそうですが,まず何よりも,事実として5種類あるわけですから,これを3種類に区別するだけの粗い整理(上述の②)では,どうしても説明しきれない面が残るし,敬語を適切に使いきれないことにもなります。その具体例は,次の問3に対する答えの中で見ることにしましょう。

これに対して,5種類の区別は,「5種類あると認識したことによって,敬語の仕組みがよくわかり,『わかって使える』ようになった。」という結果につながる〈必要な区別〉だと考えられます。それに,この「5種類」は,これまでなじんでいた「3種類」に比べれば多少の負担感はあるにしても,成人の方には,大筋のところは,ほぼ無理なく理解可能な内容だと思います。つまり,「5種類」の知識は,「多少努力は要しても,知ることで有利になる(敬語の仕組みがよくわかる)知識」なのです。

こうした知識を封印して一握りの研究者たちだけが占有したままの状態に置くか,それとも,最近数十年間の学界の研究成果をわかりやすい形で社会に還元するか。「3種類」か「5種類」かの選択は,実は,こうした問題でもあったといえます。

「5種類」と「3種類」の関係

その一方で,理解の負担を軽くするために「似たものをまとめて3種類として示す」ことも,場合によっては必要だと思います(前述のように「似ているからといってまとめてよいか」という問題はあるのですが,あくまでも「概略的な理解」を目的に置く場合の話です)。

特に学校教育,中でも小学校の教育では,こうした配慮が不可欠でしょう。「指針」で5種類の敬語を示すことが,教育に無用の混乱を与えたり,児童に過大な負担を与えたりしないようにとの思いから,第1章第2の5「敬語についての教育」の項(本書pp.100−101)では,「学校教育における敬語指導の具体的な取扱いについては,従来の経緯を踏まえ,かつ,児童生徒の発達段階等に十分配慮した,別途の教育上の適切な措置にゆだねたい」と付言しました。

教育への配慮という意味でも,これまでの知識との関係づけという意味でも,「指針」では,新たに示した5種類を,これまでの3種類と対応づけて示してあります。ただし,これは,「まず3つに分けて,さらに5つに細分する」という2段階方式(先に見た㈫)の発想ではありません。「まず3つ」あるわけではなく,事実としては「まず5つ」で,それを「概略的に3つ」にまとめ直すことも一応できる,というほうが当たっていること,また,2つの階層を立てて話を難しくするのが趣旨ではないことから,「5種類」と「3種類」をそれぞれ別の世界として示し,その対応を示すだけにとどめたものです。

「敬語の指針」は,敬語への理解を深め,適切に敬語を使うための手掛かりということが最大の趣旨です。より高いレベルでそれができるようになるには,早く「5種類」の世界になじむほうがよいと思いますが,場合によっては,まずは「3種類」の世界での理解を徹底することから始めるとか,「3種類」の世界と対応づけながら「5種類」の世界に徐々に入っていくという行き方もあってよいと思います。その意味で,「5種類」か「3種類」かの問題は―関心を呼んで当然ではありますが―,「指針」の大きな趣旨からすれば,実はこの点だけに議論を集中させるべきほどの問題ではない,ともいえます。

(菊地康人)