第10回国際シンポジウム パネルディスカッション

ディスカッション風景
ディスカッション風景

 (クライナー先生,以下,ク)日本語の話しことばでスピカーは男性か女性かすぐ分かると言われているんですけれども,例えば,その差が縮めていくと言っても,授業ではそういう男性と女性のことばをどう扱っているのか,また,学生,女子学生どう受け止めているのか。あるいは,スタッフを募集する場合は女性,男性のティーチャーをお招きするかどうかをちょっとそれについて一言教えていただければありがたいと思います。
 (米田,以下,米)彭先生どうですか。
 (彭先生,以下,ホ)今のご質問ですけれども,実際教える時には,ちゃんと男性語,女性語をはっきり分けて教えなければならないんですけれども,でも現実に使われている教科書をみてみると,そういう配慮が案外足りないのが事実ですよ。もちろん,大学では教師を募集するときに男性か女性かに対して,うちの所ではあまりこだわっていません。簡単ですけれども以上です。
 (米)四倉先生,池田先生,いかがですか。
 (四倉先生,以下,四)みなさんご存じのように,日本語がいろんな異なる女性語と男性語がありまして,うちのメリーランド大で使っている教科書,野田とJapanese Languageですのでその中でジェントルスタイルとカジュアルとフェミニンとマスキューリンといろんな区別がありますので,それをダイレクトスタイルで教えながら,例えば,「わよ」などのいろんな言い方を教えますけれども,初級のレベルではそれは非常に(学習者にとって)わかり難いより覚えにくいでしょうかね。ですからちょっと導入して,「このような区別がありますよ。」(と教えます。)そしてわざと「女性のグループ,これ使わなければいけませんよ。」と,こういう風にはしませんけれども,ただその違いを導入してみます。
 そして教師のことですけれども,アメリカに住んでおりまして,法律のことは結構強くて,そういう女性を,または男性の教師を招きすることはたぶん法律的にはいけないと思いますので,あいにくそういう区別はできないと思いますが,でもレベル別で私たちのスタッフの中で男性もおりまして,女性もおりますので,できれば学生のプログラムが4年ありますけれども,その間に女性の先生の授業を受けた方が良いって言いますし,男性の先生の授業も受けたら両方の経験ができるようになるということですが。でも学生の見方からすると,時々学生がある先生がどうも気に入って,そしてずっと同じ先生と続ければいいとよく言うんですけれども。その日本語の経験のためにはもうちょっとバランスよくした方がいいのではないかというのが私たちの見方ですが。
 (池田先生,以下,池)オーストラリアの場合ですけど他の大学のことはちょっとよく分かりませんが,私がオーストラリア国立大学場合は,導入の段階では丁寧体ですね,「デス・マス体」が多いので男性と女性の違いがあまり出てきませんので,初級の段階ではあまりその違いに関しては特に強調して教えておりません。ただの普通体が出た時に男性語,女性語のことが違うことで,ことばの語彙のレベルでもそうですが,文末の表現がかなり違いますので,これは男性女性が違うんだと文化的な背景から説明しながら教えています。
 教科書に例えば,女性同士の会話とか女性と男性の会話がある場合に,それは変えて女性のところを男性に直し,男性の所を女性に直し,両方の言い方がスムーズにできるようにし,その教科書通りの対話,会話だけをならうことじゃなくその反対の場合はどうなるかということも導入しながらやります。
 女子学生がそれについてどう思っているかの問題ですが,女子学生の中で「それは変ではないか」ということを言う学生もいます。それは先ほど申し上げたように日本語というのはこういう言語だというのを文化的な背景がこういうことになったのでこういうことを説明して,もしそれがいやだったら日本に行って文部科学大臣に会って改革するように進言して,そして全体を変えれば,男性語,女性語なしの日本語にできるけどそれでなければ今のところは日本の社会で受けいれられるためには,やはり今のそういう女性語,男性語を学んで,それをきちんと使った上で自分の主張ができるようにすればいいっていうことで指導してます。先生の採用の場合は,男性と女性のことは特にうちの大学の場合は意識しておりません。
 (米)サンチアル先生如何でしょう。
 (レア・サンティアル先生)私のところも同じようにあまり詳しく教えてはいませんけれども,教科書に出たところだけオーストラリアでやることと似ているが,女性のことばを男性の場合どうなるかっていうところがありますけれども,オーストラリアの人たちと違って(インドネシア人たちは)あまりおかしいと思っていません。ただ,イントネーションとか実際にそれを使って話す機会がないし,自信がないみたいで使っていません。ただ,教室の中で紹介の形として取り上げて(扱って)います。なんか女性の助動詞「わ」とかイントネーションは特別なので,そういうところまでだけ教えています。
 (米)クライナー先生,いまのようなお答えが返ってきましたがよろしいでしょうか。
 (ク)ありがとうございます。やはり直接に教えなくても,例えばうちのボン大学の日本語の講師の方々から聞くと,特にドイツの,女子学生は今も先生がおっしゃったとおりのオーストラリアように,それ嫌でね,学びたくないけど我々が言っているのは同じことですよね。今の日本の社会はそういう現状だから,日本の社会全体が変わった上で我々は別の教え方するんだろうけど,今の状態ではこういうことですから。逆にメリーランド大学はドイツと同じですよね。今の女性の失業率は非常に高いからね,優先的は女性のスタッフを入れるべきなんですけれども,たまにそれ(は)エクスキュース(excuse)に近くて,日本語に男性のことばがあるから,男の人も入れなきゃいかん(となる)。逆差別に近いんですけれども,やっぱりそれはいろんな問題を含めたポイントなんですからそれぞれの社会ごとに対応が違ってくると思いますが。ありがとうございます。
 (池)先ほどのご質問の補足ですけど,説明する時に男性語と女性語の違いっていうことで英語にもあるんですね。オーストラリアの場合,特にアメリカとかイギリスと比べても男性,女性の違いがあるようで,例えば,みなさんご存じだと思いますが,典型的なその挨拶ことば,男性の場合「good day mate」。それは女性は使わない。何かほめる時に女性の場合「that’s fabulous」とよく言いますけど,男性が「fabulous」ということばを使うと,「あの人ちょっと…」ということになります。英語にも日本語と違うレベルですけれども,男性だけが使う表現と女性だけが使う表現ことばがあって,オーストラリアの場合,男性と女性の使う表現が違う表現が随分あるので,それを言うと学生も納得して,「それは私も使わない。」と言って納得してくれることもあります。
 (真鍋先生,以下,真)今のジェンダーの問題に関して出てきたわけで。ところが,今日本の中で日本の若い人たち(特に大学生)は女性語,男性語が割に少なくなってるんですね。女性が友達を呼ぶ,または男を呼ぶとき,女を呼ぶときにみんな君になってくるとか,それから要するに性差がだんだん無くなってきている現実があるんで,私自身が非常に言語,社会言語学的に興味があるのは,どの時点でだんだん性差が強調されてくるのか。日本の社会のどういうレベルで性差が強調されてくるのかっていうことに非常に興味を持っています。もう一つは敬語の問題もそうだと思います。どの段階で敬語を教えるかっていう敬語がちゃんと使えない人は日本語がちゃんと使えないんだってこれまでのいわゆる私のことばで言うと,ややカルチュラル ナショナリズムに近い表現もこれまで議論されてきたんですけれども,もし日本語がもっと広がっていくことを考えれば,これは実は私の中で2つの相反する考え方があるんですけれども,一方ではできるだけそういうこともあまりこだわらないことにしましょうと考えることと,しかし,あまりこだわらなくすると文化の豊かさが無くなってくるんでそれも大事にしましょうという考え方と両方あると思うんですね。例えば,現代ヘブライ語がそうだと思いますけれども。現代ヘブライ語は後になって作られた,ある意味で人造語の部分があるんで,そうすると,非常に簡単に作ってしまったところがあるんで,そのために,多くの人が使うようになったと。これは今後の大事な議論になるのではないかと思います。

  <省略>

〈真鍋先生からのコメント〉
 資料を準備をした訳ですけれども,今日シンポジウムをずっとお伺いして必ずしも準備したものでなくて私が感じたことをまとめて,お話できればと思っております。最初の菅井さんから非常に興味深い今日のテーマをご説明いただいたわけで,やや日本語の地位についてまああとでこだわりが米田さんからのご紹介されたわけですけれども,ただ,このこだわりというのは,あるいは米田さんのご説明っていうのは私自身は非常に大切だと思っているんです。と言いますのは,どうも日本で外国語のことばとかあるいは他文化,あるいは他言語主義とかか議論されるときにどちらかというと関連的に議論されている傾向が今まであったわけで,ことばにはそれぞれ優劣はなくてそれぞれ同等であるものだということはですね,あるいは文化ということはそれぞれの独自性を持っているわけでそれに優劣はないんだというそういう議論がよくなされるわけですけれどもこれはやや関連的であって,リアリティを反映してないんではないかという感じを常々持っていたもんですから,その意味ではこの地位っていうことは一回考えてみる地位っていることを考えてみることは決して他に組みすることではなくて,しかしあの現実ではリアリティがこうなるんだっていうことを見ておくことはやはり非常に大事ではないかという風に思っております。偶々シアトルのワシントン大学におりました時に,日本のことをこのごろ小学校,中学校でも教えるようになって,教えるというのは教科書の中のある一部で日本のことを取り上げながら教えることがでてきてて,その意味で学校の先生方のいわば研修会のようなものがあの試みられて,そこに講師として呼ばれて出て行った経験がありますね。日本のことについて話をするということで出て行ったわけですけれども,出て行って場所で,壇上に立ったとたんに手が上がって,「まず主催者に聞きたいんですけど,どうして今日は日本文化について取り上げたんだ。世界ではこれだけ多くの文化があるのに,なぜ日本だ。」ということが出てきたんですね。そうすると,会場の中からいやこうだと議論が始まりました。私はしばらく立ったままでその議論をずっと伺っていたわけですけれども,これはほんの一部の例で,もっと具体的に言いますと,アメリカのリンゼー先生いらっしゃいますけれども,アメリカの例えば,教科書の中で(のページ配分を)世界の各国に,例えば,地理を教える時に何ページずつ割くかということは非常に大きな議論になるわけですね。じゃ,どこの国に何ページを割くかというのはとても大きな議論で,日本では今まで他文化主義,他言語主義はいいことで,文化相対主義でこれから文化を理解しなければならない,というこういう議論が割にみんなの共通事項として出てくるんですけれども,例えば,アメリカ,先ほどオーストラリアもそういう他文化主義的思考があると話を伺ったわけですけれどもこういう現実の中では大変なことですよね。実際,例えば今の教科書のページ数をどうするかということも非常な議論をふまえてある合意に到達するわけで,その意味では今日の日本語の地位というのも,日本語の地位を考える時にどういった側面があるのかということはやはりおさえておかなければならないだろうと思うんですね。これは今日の菅井さんの話の中で,やや私からとしてほしかったなと思うのは,例えばランゲージポリティックというのはやっぱり今大きな議論になるわけで,そういうもっと生々しい現実に踏み込んでいくことはやっぱり我々にとしても非常に大事なことではないか。今,関連的に他文化主義はいいことだ,あるいは,日本語が世界に広がることはいいことだと関連的に考えることだけでは済まない状態が出てきているではないかと思うんです。そういう意味では今日のこのシンポジウムっていうのは非常にアクチュアルなシンポジウムだったと主催者に敬意を表したいと思います。さて,今日いろいろシンポジウムで日本語ということが今までですと,日本語の先生が日本語を外国語でどう教えるか,あるいは各大学に日本語のコースがどうあるのか,いう議論だったわけですけれども現実社会のほうがどんどん変わってきたわけでこの現実社会の変化についてはすでにもう今日いろんなことばでもってこれが表現されてきたわけで,例えば,マス カルチュラルということばであるとか,ポピュラー カルチュラルということばであるとか,あるいはサブ カルチュラル,これは例えば,漫画とかアニメとかいろんなことを通してポピュラー カルチュラルであるとか,サブ カルチュラルとあるとか,あるいは新しいことばでご紹介頂いたのは,これはもうソフト パワーということばもご紹介いただいたわけですけれどもこういう形で現実がどんどん変わってきている。一方ではそれにも関わらず,日本語を教えるという使命を持っている人たちが大学あるいは初等教育,中等教育で日本語を教えていくということが,一方であるわけで,我々の生活を考えてみますと学校の生活というのは実に我々の生活の一部で,我々は学校以外の場所でいろんな影響をうけているので,そうすると,学校教育が実は自分の生活の中での位置っていうのは,ある意味で小さくなってるかもしれないわけで,社会学のことばを使いますと,「ソーシャーリゼーション」っていうことばがあるわけですけれども,「社会化」ということばがこれは例えば地理,歴史を教える社会科ではなくて,「社会に化ける」っていう「社会化」ということばがあるわけですけれども,こういう「社会化」の中で今のように我々を取り巻く環境の中ではいろんなポピュラー カルチュラル,サブ カルチュラル,ソフト パワーなどの中で日本語がどんどん出てくるようになってきた。それで一方では日本語教育をどうしていくかという議論がある。今日,私が是非時間があればパネルリストの先生方にそれぞれをお答え頂きたかったのはこの融合がこれから必要であることじゃなくて,どうやっていけばいいのかが,それが教材のなかで取り入れることを超えてですね,もっともっと新しい試みが必要ではないかと思うんですよね。こういうことをこういう課題に対して答えていけばいいのか,さらに,また,今日伺いますと,中等教育,高等教育でそれぞれ別々の課題が出てくる,せっかくたくさんの人に伺いますと,オーストラリアの場合に,初等教育に随分多くの方が日本語を勉強してもそれをずっと続けていくという人は少なくなってくるだろうと思うわけですけれども,そうすると,それぞれのグレード別にどういう風に考えていけばいいのかということも問題になってくるだろうと思うんです。あのかつて日本の大使,アメリカの大使もなさったライシアは『国際化時代の教育』という本の中で,やはりそういうグレード別の日本教育と言いますか,日本語教育についてのある提言をなさっているわけでこういったことを今後,私のことばでいうと,横と縦と言いますか,マス カルチュラルとポピュラー カルチュラルと学校教育とどうつながるかの横の広がりとそれからグレード別にどう考えていけばいいのかという縦のレベルとそれをどうつないでいくかというわけで,これはある意味でポピュラー カルチャー,サブ カルチャーがどんどん増えていることで日本語に対する関心が高まってくるので,その日本語の教育がやりやすくなった部分とさっきから伺いますとやりにくくなる部分と両方あるように思うわけですけれども,こういう問題をどう答えていけばいいのかがやっぱりこれからの大きな課題になってくるだろうと思うんです。もう一つはこれは,かつてクルマス先生が言語の経済学という表現をなさってその後,井上史雄先生が随分いろいろ研究をなさっているわけで確かに日本語の文化的な価値が特別に急に高くなったわけではないのに,日本語を勉強している人たちは増えてきた,いうことがあるわけですね。これをクルマス先生も井上史雄先生も言語の経済学の言い方をしているわけでこの言語の経済学も一方で日本語の教育っていうものを進めていく一つのあの促進要因にはなるだろうと思いますが,じゃ,だんだん日本の経済陰りが出てきた場合はどうなるんだ。今度はその言語の経済学に乗っかっていくと,じゃ,日本語はだんだん衰弱していくのか。これは他の言語との関係も出てくるだろうと思うんですけれども,例えば,韓国で中国との交流が高くなるにつれて日本語の位置は低くなるってくるという多国間の関係の中で日本語っていうものを見ていかなければならないっていうことが出てくるだろうと思うんですけれどもクルマス先生が指摘なさったように,特別に日本語の文化的価値が高まったのでないにも関わらず,日本語を勉強する人が増えてきた。これは私にとっては非常に示唆することばだと思いますね。私の提案ですけれども,さきほどからまあ,質と量ということがでてたように思うんですけれども,量的に増えていくことと,質的に高いこととのこれは日本語の地位を考える今日の菅井さんの中には入ってなかったディメンション(次元)だと思うんですけれども。クルマスさんが指摘したように日本語の文化的な価値が高まらないのに日本語を勉強する人たちが増えてきた。じゃ,日本語の文化的価値を高めるということを私たち日本人があるいは日本語は既に日本人だけのものでないわけでその意味では日本語を使う人たちが日本語の文化的価値をどうやって高めることができるのだろうか。実は,我々の先輩たち(多くの日本人たち)は今までそういう文化的努力が随分あったように思うんですね。この具体的な例っていうのを今考えていくのも少し時間的に余裕が無いわけですけれども,例えば,日本語の表現が世界の文化に貢献する。例えば,今まで私のことばで言いますと,カルチュラル ナショナリズムというのはできるだけさけたいと思うわけですけれども,日本語が世界の文化のカルチュラル ヘジテージとして世界の文献に貢献できる部分,つまり質的な高さをのばしていくっていうことは益々可能性があると思うんですね。あると思うんですけれども,残念ながら今はそういう方向では必ずしも充分進んでない,極めて面白,おかしく,ポピュラー カルチュラルであり,ソフト パワーとしては力を持ってきてるんですけれども本来の意味での文化的力が本当に出てきてるんだろうかということなんです。例えば,一つの例を申し上げますと,心身二元論と難しいことばがあるんですけれども心と体というのを2つに分けて考える,心と体を2つに分けて考えるっていうのは,古くからあのうギリシャの思想から,クライナー先生に反論されるかもしれませんけれども,やっぱり西洋の思想として日本に入ってきた部分があるんですよね。ところが,例えば,宮沢賢治の書いているものをみますと心と体を分けられないことについて書いている部分があるわけで,そういった日本語の表現,日本語の表現でその思想的に日本の表現として世界の文化に貢献できる部分というのをのばしていくということはできると思うんですね。今宮沢賢治の例を出したわけですけれども,もっと古い人でいうと例えば,西行は西行法師は心と体が分かれるという体験をやっぱり書いているんですね。そういうことでいうと,そういう日本語の今までの文化的遺産を本当にもう一回見つめ直すっていうことは大事なものではないかっていうことを今思っているわけです。これは多くの方にとって私のお話は釈迦に説法になるかもしれませんけれども,あのう鎌倉仏教が例えば道元が心身脱落,脱落心身,中国から教典を勉強して日本に導入したわけですけれども,これは私の説ではなくて,有名な西谷啓治先生という有名な宗教哲学の先生がいらっしゃるわけで,その西谷先生の道元の研究でいいますと,その日本に中国のあのう教典を輸入してそれを理解するときに中国の教典を間違って理解したということ。これは今,定説になってるようですけれども,間違って理解したために新しい展開ができたということなんですよね。先ほど心身二元論に実は関わるわけですけれども,こういうような形で日本語が世界の新しい思想をつくることに貢献できるという文化的価値を考えればこれは非常に大事なことになってくるだろうと思うんです。少し,今日の議論から離れるかもしれませんけれども,こういった形で新しい側面というのを考えていくというのは,非常に興味深い新しいことになってくるのではないかと思っております。今日いくつか途中でお話が出ましたけれども国立国語研究所の方では日本語国際センサスというのを試みまして,世界で日本語というものが世界でどう認知されているかを研究されているわけですけれどもこのデータは十分に解析されてないんで,ぜひ関心のおありの方は今から色んな形でご利用頂きたいと思うわけですけれども。お手元にお配りしました資料で,そのデータを使った一つの分析を出させて頂いてるんです。これは上の表と下の表とずらっと並んでいるわけですけれども,これは日本語に対するイメージ,日本語はきれいなことばであるか,まあ,きたないことばであるか,あるいは重々しいことばであるか,軽快なことばであるか,日本語が好きかどうか,というこれは日本語のイメージなんですね。実はこの日本語のイメージを横軸にとって,縦軸の方にどのぐらい日本語を勉強しているのかをとってみてその関係をやや難しいことばでいうと回帰分析をというわけですけれども,その結果を挙げているわけです。非常に大きな違いが出てきたのは下の図は五つの図はこれは韓国の人たちで,韓国では先ほど出ましたように47%って言う人が日本語を勉強した経験がある,アメリカの場合には3.5%っていうんですけれども,そういう結果が出てるわけで。まず,絶対数が全然違うわけですけれども,興味があるのは,韓国の場合には勉強した年数が長くなるに従って,評価は高くなっているんですね。ところが,アメリカに場合には必ず,右上がりの形でつまり年数が長くなるほどポジティブ,それに対してプラスの評価になるかというと必ずしもそうではないということが見えてくる。こういう,これから色んな分析が可能になるだろうと思うんですけれども。もう一つやってみましたのは,日本語に対するイメージというのと先ほどとても興味深いことばを頂いたわけでそれ以外の「ランゲージ アザー ザン イングリシュ(language other than English)」ということばが出てきましたけれども,英語以外のことばに対する寛容性,他文化主義,他言語主義もそうだったと思うんですけれども,アメリカでこれは特別にミシガン大学を対象に調査をしてみたわけですけれども,そういう特定国いくつかの特定の国でこの大きなセンサスだけでなくて,特定な大学の中でのもっと深く切り込んだような調査もやってるわけですけれども,それでやってみますと日本語を勉強している人たちが他文化主義的な傾向が強いという傾向が出てくるわけですけれども。まあこういったような色んな分析が可能性が出てくるわけで,国立国語研究所でやったデータも色んな形で今後日本語の地位を議論するための材料として使っていけるだろうと考えております。少し,2,3分長くなりましたけれども,以上です。

〈クライナー先生のコメント〉
 全く畑違いのものとしてこのシンポジウムにお招き頂きましたことに大変ありがたく思っておりますし,米田先生をはじめ関係の先生方々に感謝いたしておりますが,オーストリア生まれ,ドイツで今仕事している者として,どう見ても環太平洋の者と言えないだろうと思いますが,一応,第3者の立場からヨーロッパというカードを今日の討論に入れさせて頂いて,またこれで以て,今日午前中から非常に興味深い偶に本当感動させられたご報告に触れられた諸問題,もういっぺん,まとめてみようと思っております。
朝は,米田先生は環太平洋あるいはアジア・パシフィック地域とはやはり違うとおっしゃったんです。他の中近東,トルコあるいは,エジプトの日本研究が非常に盛んなんですけれども,あるいはヨーロッパと違うとおっしゃったんですけれども,色んなご報告を伺って,そんなに違わないんじゃないかと思って,ただ違うのはやっぱりスケールです。教員,スタッフあるいは学生の数を聞くとヨーロッパはそれの一桁二桁も違いますよ。例えば,中国あるいはオーストラリアはもう既に小学校から何十万の生徒が日本語に触れるチャンスを持っていらっしゃるんですけれども,ヨーロッパはどんな国をみても,最近,特に1980年代日本のバブルエコノミーの時代なんですけれども,非常に飛躍的に学生の数が増えてきたんです。けれども,それにも関わらず,例えば,ドイツの場合,そうですね,1950年代はそれぞれの大学に3人か2人の学生がいたし,私が初めてボンの外務省でしばらく仕事をした時は1960年代後半にはもう既に40名,まあ多いなと思ったんです。感心した。やっぱりドイツは違うなと。1980年代になると毎年新しく入ってくる学生は250人,向こうの大学は一応試験がないからとにかく入ってくる学生は全部一応一年コースにはいれるんですから。だから,一年生のコースはおそらくみなさんと同じのような問題が出てきます。小人数のクラスじゃなくて,せいぜい80人,そうすると,3回同じコースに分けなくちゃいかんし,ところが,向こうの学年は10月に始まるし,クリスマス休みの後は帰ってくるのはもう半分以下なんですね。と言うのは,ちょうどクリスマス以前に初めて漢字出てきますからね。10月はひらがな,11月はカタカナ,12月は漢字。そうすると,「もうごめん。」と帰ってこない。しかし,それは最初から分かりませんよ。いずれ入ってくる学生をみんな一生懸命教えようとスタッフは力を入れてくれるし,だれが残るか分からない。二年生はまた下がってくるし,卒業生は学生はほんのわずかだし。ボン大学の例をひくと,新入生は毎年200人ぐらい3つのカリキュラムがあるんですけれども,日本文化研究のマスターとドクターコースと日本語の翻訳のディプロマコースと地域研究日本の経済と社会学を混ぜるディプロマコース(それぞれのディプロマコースは毎年20名),そしてマスターコースは10名ぐらい,ドクターは2人か3人,そうすると合わせて40人。入ってくる200人の1/5に減ってくるんです。だから,スケールが違うし,スケールが違うとマーケットが違うし,教科書のマーケット,市場,あるいは辞書ですね。私の時代は全く教科書がなかったです。一年生は『魏志倭人伝』を無理矢理読まされました。半分,もう90%分からなかったです。二年生は『兵隊兵隊つるめ』(という)日本の戦時中の小学校の教科書を読まされたんですね。だから,最初の日本の歌は「海ゆかば」を覚えました。そして,日本にきたらこれはとんでもない,誰も歌ってくれないからね。それは今のさっきのジェンダーの問題と同じなんですよ。時代の差があるんですからね。時代の差,ものはないからね。20年前の教科書を持ち出して,「これを一緒に読みましょう。」で,1970年代は,それを全部英語を媒介語として英語の教科書を使って,そして辞書はドイツ語の辞書はあるんですけれども,しかしそれを作って下さったのは全部日本の先生方ですよ。日本のゲルマンリストなんですよ。みんなゲーテ専門,ゲーテ時代の語彙が入ってるんですよ。それを使って今の何かを翻訳しようと思うと,とんでもないことになります。だから,現在初めて,ドイツで統一すると日本語の辞書を作っているんです。もう5年間かかってるんですけれども。おそらく,大変な赤字になるんです。ドイツ,フランス,イタリアはまだいいんですけれども,ポーランドやバルト3国でも,例えばウィルニュース大学で日本研究日本語研究を始まってるんですけれども,そういうところはもちろん自分の母国語の教科書も辞書も一切ない。(そして,)近い将来もできるはずはない。彼らは全部英語を媒介語として,あるいは日本で外国人のために作った教科書(『ジャパニスフォザデイ』は長い間ドイツで使われたんです。)を使って,そのドイツ版を作る。勝手に各大学であるいは高等学校で,今30カ所で日本語を教えているんですけども,それぞれの教科書を作っている。そうすると,レベルは全然転々ばらばらで比較ならないんですよ。ある大学で日本語が始まり,2,3年間一生懸命勉強して,別の大学にもっといいコースがあると聞き移ろうと思ったらとんでもない,「あなた,一年生の知識しか持ってない。」(となるわけです。)今まで3年間勉強したけれども,この非常にインテンシブなコースを持っている大学では,これは一年生のレベルしか持ってないんですよ。まして今その高等学校で様々な教科書を使って日本語を接してきた学生,これはオーストラリアと同じ問題なんですよね。小学校はまだ駄目なんですけれども,高等学校で日本語に接して大学に来るんですよ。あるいは,横浜にありますドイツ学校園で7,8年間第一外国語として日本語を勉強してきたドイツの学生はドイツの大学にくるんですよ。その人はほとんど日本人のネイティブスピカーと同じ日本語能力を持っている。「お前は1年生。」,そうしたらもうあくびばかりしてるしね,そして「これは違うし,先生の今書いている字は違うし…」,それを余裕を持った先生は「ありがとうございます,教えてくださって」と。(しかし)そういう余裕を持った先生はそんな多くはないからね。怒るんですよ。(だから,)せっかくそう非常にいいクオリティーを持ってきた学生は途中で脱落するんですよね。だから,スケールは小さいけれども同じような問題がでてくるんですよ。もう一つはこれも今日の話題にあがりましたけれども,なんて言いますか,応用的なキチンとした目的ある日本語を勉強する者。例えば,卒業したら就職は日本の企業,あるいは日本で活躍するドイツの企業,EUの企業に就職したいから,とにかく現代日本語をできるだけ早くマスターして,そうして後はどうでもいい。逆には文献学的な日本研究をやっているジャパノロジー,そこはこれこそ文語,漢文でなければならないんですよね。それは,最初,学生は分からない。まず,大学に入ってきてしばらくして,ここは文献学やっているが,しかし,自分は経済学に行きたい。また,それは(別に)始まりますし,レベルは違うしね。文学読んだけれども,「こんにちは」も言えない。実際の経験なんですけれども,ちょっとしばらく今はそういうことはないと思いますけれども,ドイツ学校を卒業した学生に,私は日本の大学の町で会ったんですよ。彼は来てまもなく「先生,親に無事に着いたという手紙を出したいから,一緒に郵便局に行ってくれんか。」(と言うんです。だから私は,)「なんていうこと,行ったらどうじゃ。」(と言いました。)その彼は,昨日郵便局に行ったら手紙を受けってくれなかったらしいんですよね。(郵便局に行くと,)郵便局の人がね,「昨日,その方がいらっしゃったんだけれども,何のわけかぼくは分からなかった。」と言うのです。(結局,)彼が(郵便局の人に)言ったのは,「文(フミ)出し奉り候。」だったのです。郵便局の人は馬鹿にされたと思ったでしょう。そして,郵便局から出る時,彼は,「先生,文のことがいつ頃から手紙(と言うようになったのか。)」と言った。だから,「それは僕はしらんけど,明治時代ではないんですか。」と私は答えました。彼は,「いや明治時代のことは我々は勉強していない。これは新しい。これは日本じゃない。日本文化が終わったのは明治維新で,日本は一応あれは西洋化された。」と。そういうことはしょっちゅうあるんですから。今度は政府がね,日本の現代をよりよく知りたい。それは各国政府もそうし,EUもそうなんですけれども,ドイツの場合は連邦政府は大学に何の影響力もない。オーストラリアと同じ(ように)州の管轄ですからそして,ある大学教授になった場合,終身雇用だから首にするわけにはいかん。だから,文語を教える先生は,30代だったら,もう30年待たなければならない。新しい人は入れないですよね。そうすると,ドイツの連邦政府はとんでもないことになっちゃうし,東京にドイツ連邦政府現代日本語研究所を作ったんです。しばらくは僕が担当しておりましたけれども,ここは現代日本の幸いに政府は社会中心とした研究活動を始まった。幸いと申しますのは,しばらくのあいだでは学生みんな就職のために日本語のコースを選んだんですけれども,最近10年間は日本経済はそう喜ばしくないし,むしろ,ドイツ経済も中国を目指しているし,幸いにドイツの中国の研究は宋時代で終わるんですからね。その以降は,中国はもう無いから,だから,日本研究はまだまだ,活躍できるんですよね。「日本を通して中国へ」というスローガンでしますからね。しかし,それよりも,ヨーロッパ特に中部ヨーロッパの国々が当面する社会の諸問題はまさに日本の問題であるんですよ。社会の老齢化,それに伴う介護の問題,だれがそれ払ってくれるんですか。年金の問題,あるいは,医療,例えば,生命リンドリー,移植問題,脳死,日本でそういう討論されたほぼ同じ時,ドイツでもそういう法律を作ったんですけれども,その場合は密接に日本の厚生省と連絡取りながらしようとしたんだから,そういう方面の専門家をヨーロッパが必要としたんですよ。だから,日本経済,後がこうと言わなくても,日本の社会の問題我々の問題でもあるからそういう方面でやらなくちゃいかん。しかし,もう一つは今日,アメリカで発表されましたけれども,非常にうれしかったんですけれども,日本の美術と文化に興味ある学生は最近ヨーロッパでも増えてるんです。実は,日本の文学ももちろんそうなんですけれども,美術はヨーロッパには大変大きなインパクトを与えていたんです。これは,16世紀から始まるんですけれども。最近ようやくいくつかの大学はあたらしく日本美術のコースをつくるんです。しかし専門家がいないアメリカから呼び戻さなければいけない。もうヨーロッパでそういう人を育成しなかった。しばらくの間,20年30年はその文化,経済,社会,文化は少し忘れてしまったんじゃないかな。これヨーロッパにとっては大きな問題。最後にもう一つこれは,今日アジア太平洋,あるいは,環太平洋の様々な国ではあまり問題にならなかった。あるいはなってないのではないかと感じてるんですけれども,ヨーロッパで大きな問題なのは,その日本語を研究する,日本語を教えるあるいは日本研究に携わる人たちはそれぞれの活躍している国か社会の主流のものではなく,むしろその周辺から来る人例えば,古い時代を見ますと,古い時代と言って大正時代,日本に留学こられたロシアのエリゼイエフ,セリゲエリゼイエフ先生,あるいはロシアのユダヤ系なんです。亡命してパリとハーバード大学の日本研究の基礎を教えたんですね。あるいは,一緒に日本に来たのはマルティナランミこれバルト系の人です。彼は亡命してドイツの日本研究の基礎を教えた。で,フランスを見ると,アギノヤル,シャルアギノヤルあるいは,アルサースロレンヌの人ドイツ系なんです。すなわち,フランスでは非常に難しい立場にある。ついに2,3日前に亡くなった友人,チョサクオリガス,あれも日本の現代文学と映画の専門家だったんですけれども,彼もシュツラスブルク出身なんです。あるいはフランスで日本語の文学を翻訳したシフェア,シャウルスシフェアあれもみんなアルサースロレンヌの人たちでドイツをみると私の例をみると,クラインというものはわけ分からない旧ユーゴスラビアの地域なんですよね。いま,クロアチアになっている。偶々僕はオーストラリアの国籍なんですけれども,あのヴィンで活躍したリンハルさん,うちの先生はスラビック,オーストリア,ハンガリーの帝国軍のものなんですよね。出身はすなわち帝国軍が無くなった軍隊を自由において行くところがないんですよ。日本研究に入ったんですよ。そういう人たちはみんな外国で活躍する雇い外国人か自分の国といっても周辺のマイノリティーからくるんですよ。そうすると,日本語という,これは神話かも知れませんけれども非常に難しいことば,これ以上難しくないことばがないんだと言われていることばを身につけて,日本という国を理解できる。普通は理解できないといわれている国を理解できる技を技術を身につけてその自分の社会的な立場を確保できるじゃないかなと私は思っている。現在見ると,例えば,ボン大学ではうちの学生の中はまあ大きなパーセンテージを示しているのはトルコ系の2世なんです。そういう人たちは小学生からドイツの教育を受けてると思うんですけれども,一応トルコというまだまだやっぱしマイノリティーですよ。差別を受けているんですよ。日本語にある。ご本人は日本語とトルコ語は文法が非常に似ている。だから,「優しい,簡単だ。」と言っているけれども,それは自分に納得させるためじゃないんですか。もう一つはジェンダー問題,非常に難しいですけれども。文学はどこでも女子学生が多いんですけれども,日本研究あるいは日本語の場合にはスタッフもあるいは主任教授のなかでも女性の方々が非常に多い。ドイツはもう既に半分以上が女性なんです。それは,例えば,ドイツ文学には,仏文学にももちろん女性の教授いらっしゃるけれども,それはせいぜい2~3%ですよね。日本研究の場合は50%ですから,だから,もうだいぶ前のことなんですけれども,オランダからスイスのチューリッヒ大学に招聘されてそこで初めて日本研究を開いたアオイハムプト,クニリウスアオイハムプトという先生いらっしゃった時の就任演説で孤独の日本研究者のタイトルをつけたんです。アインサム孤独の結局,彼が言ってるのは,外国,オランダ生まれの人としてスイスで活躍する,これも孤独ということ,まして教授会の中は日本研究者1人それも孤独,教授会では日本研究のものは学部長か学長になったことはヨーロッパで一人もない。それは全部,歴史,哲学,やはりこういう大きい軍団のものになります。その1人か2人かの日本研究者や日本語を教えるものが,それは今日中国のこと聞いて,うらやましいなと思って,もう既に一つの学部があって,そして,大勢の仲間がいて議論できるんでしょう。学生もまた,自分が大きな学部の者であるという感じをもって,生き生きしているんじゃないかな思いました。大学の中でその片隅でこつこつやっているんじゃなくて,その学科のなかでこつこつやっているんじゃなくて主流の中にある。それは,もちろん,例えば,中国,韓国,あるいはオーストラリア,インドネシア,アメリカはみんな環太平洋だから日本の隣の国,それはやっぱし,日本が示している意味合いは非常に大きいです。ヨーロッパにとって,日本は相変わらず遠い。初めて日本に来たとき,私は船できた。40日かかった。日本は遠いということを自分の身でもって,経験した。今飛行機のれば11時間半でフランクフルトに降りる。しかし当時は40日ですよ。非常に遠い。今でもヨーロッパの者は日本は遠い(と思っている)。しかし,それを乗り越えなければならないし,日本語をもっとヨーロッパで普及しなければならない。もし,ヨーロッパはある経済的も,政治的も,ある意味ではそのバランス,アメリカとのバランスとれるぐらいの力になりたいと思うならば日本のもっと視野に入れなければならない。それで,日本語はそれに必要になるんです。残念ながら,様々な政府レベルの討論会があるんですけれども,ようやく妙な所にそれがはいってきたんですよね。博物館協力,ことばを教えるとか,研究交流じゃなくて,博物館の展示会を互いと特別展を催すこと一見一致して,それはヨーロピアンコミュニティーがお金でもって支援すること。もう少し進めばことばの交流も必要だし,例えば,奨学金の制度もあるんですよ。ヨーロッパはヤラスムスプログラムといっているんですけれども,だれでも2つか3つの母国語を身につけなければならないけれども。その場合はアジアパッシックのネットワークのあるんですよ。トッキングすればすごくありがたい。これからも問題たくさんあると思いますけれども,今日の非常におもしろいこの席で出して頂いた問題はヨーロッパにもある。スケールは違う,ある意味では小さい,ある意味ではもっと大きいな問題があるんですけれども,似てますから協力しなければならないと思っております。あまり,まとまった話にならなかったことに失礼しました。ありがとうございました。

 (真)クライナー先生は日本研究,ヨーロッパでは日本研究,あるいは,日本語の学習,あるいは教育っていうのがまだまだその今までやってきた人もそうだし,学生もマイノリティーっていう表現をとらえて確かに今日の日本語の地位と関わる大事な指摘だと思うんです。けれども,ただ,どうしても申し上げたいと思いましたのは,クライナー先生はそういう中で,ヨーロッパ教育員会の日本の専門委員としてもご参加なり,あるいは,学進員の会員としても要するに日本研究,あるいは日本語学,あるいは日本語の教育というものをいわゆるパティキューラリズムからユニバーサリズムへ変えて行く努力を非常に大きくして頂いたわけで,これは我々のさっきの「日本語は日本人だけのものではない。」というおことばに僕は非常に感銘を受けたわけですけれども,その意味ではクライナー先生は日本の人がそういう活動してない中でヨーロッパで日本研究,日本語教育というものをパティキューラリズムからユニバーサリズムへの特殊なものではなくてこれは人類共有のある意味でのカルチューラル・ヘリテイジとしてとらえていくとことをおすすめになってわけで,これは非常に大きな活動だと思います。以上です。

 (米)余韻の残る楽しい話しに浸っている間に,一日があっという間に過ぎ去ってしまったという印象です。もっともっとお話を伺いたい,話合いをしたいという気持ちでいっぱいですが,ちょうど時間になってしまいました。続きの話しは懇親会でお願いしたいと思います。本日は長い間ご静聴いただきありがとうございました。先生方には興味深いお話しをありがとうございました。研究報告ならびにパネルディスカッションを終了させていただきます。