日本語の,言語空間としての大きさ

鈴鹿国際大学 小林路義


小林路義氏

 小林路義です。すばらしい話をたくさんお聞きしました。最後に少し毛色の変わった話をしたいと思うのですが,一番最初の私のハンドアウトの頭の方に0番目としまして毛色の多少違う私の自己紹介ということで,まずここから始めさせていただきます。私どちらかというと今日のお話の方もそれからここへお越しのみなさんもどちらかというと日本の教育などにある程度関係しておられる方が多いのではないかと思うのですが,私日本語を全く教えることができません。教えるというのはやっぱり大変なことでして,特に初級・中級・上級までというのは無理ですね。方法も何も知りませんので。ただ私は留学生の指導はたくさんしております。そんなことで違った視点から少し今日は話題を提供したいと思います。まず私自身が多少違うという意味はそういうことで,私の専門は何かとよく聞かれるのですけれども,一言でいえば,文明論的国際関係論というそういう立場でいろんなことをやっているのですが,研究者っていうのは普通狭いテーマを選んでやっていくものですけれども,私は全くそれを逆に常にマクロな巨視的な見方をしていくということで,特に文明論と。具体的にそれを言いますと,アジア太平洋時代ということの文明論的フォローというのを私のテーマにしているわけです。昭和50年代に我々というか同じ考えの人が集まってよく国際シンポジウムやら研究会やらをやっていて“アジア太平洋の時代の到来”ということを言っておりました。ちょうどその頃1970年の前後にオーストラリアの方から“オーストラリアがアジアの一員である”ということを言っているというメッセージを非常に感激して聞いた覚えがあります。その後のこともフォローしたりして「アジア太平洋の時代が来るよ」ということをみなさんに申し上げていたのですが必ずしも日本でもまた東アジアの方々も必ずしも十分その内容を理解しようとしておられなかったように思います。アジアの時代という言い方を1980年代の後半からするようになりましたけれどもそれに対して「ちょっとそれは違うよ,とやはりアジア太平洋の時代ですよ」ということで私は今日のシンポジウムの総合テーマは環太平洋地域という言葉で言っておられますが,私はそのことをアジア太平洋のという風に言っておりましたので今日もちょっと言葉がそういう風に混同するかもしれません。それはもうすでにアジア太平洋の反映というのは来ておりましたから次の段階に入っていると思います。そこで最近は私どものこういう関心を持っているものの話題というのはアジア太平洋文明は可能かあるいはどうしたら可能かという話題のフォローをするという風になっております。そんなことで私自身としては巨視的なマクロな見方をしているのですが,突然留学生の問題に,留学生の問題というのは別の言葉で言うと高等教育の国際的流れというようなことです。International Flow of High Educationと。これはずっと19世紀の後半からやっぱりいろいろ非常におもしろいテーマです。日本へ来てくださる留学生の方に対しても私はそういう特別な考えで見ております。それから日本語の問題であるとかODAの問題であるとか円の国際化だとか何でも話題に入ってくるものをフォローしようというわけでそんなにできませんので一生懸命やっていただいた方の成果を利用しまして自分の新しい観点を述べていくというそういうことをしてきました。私,大学では1年生のレベルで国際関係概論,それから3年生で異文化コミュニケーション,それから大学院で比較文明論を授業として担当しております。何でちょっと大学のことを紹介するかと言いますと,私の所は1,200人くらいの小さい規模の大学でどちらかというと名古屋からも離れていますので多少田舎の方なのですがそういうこともありまして留学生が今年の場合1,200人規模の大学で248人おります。10人休学しておりますので238人おります。これは1年生から大学院生全部合わせてのことです。それから研究生ですとか交換研究生などみんな入れてですけれども。私は日本に来て間がない学生,あるいは日本語学校から大学へずっと来てまだ間がない学生,それから大学院レベルの留学生まで,全部いろいろゼミだとか授業だとかを通して見ているわけです。そこで文明論的な視点から見て,留学生とか日本語というものの持っている意義をなんか見つけたいなぁ,と思いながら日本語教育の先生方とお話ししたり留学生といろいろ聞いてみたりいろんなことを繰り返していたのですが自分なりにもう一つこれだ!というものにぶち当たるのにちょっと時間がかかったのですが,結果を言いますとこのハンドアウトの1番で留学生の卒論指導を通して,突如学んだことということで,あるときふっと気がつきまして日本語の言語空間としての大きさということに気づいた訳です。ようするに留学生に大いに自信を持ってやっていただきたいということなのですけれども,そのことを今日ちょっとお話ししたいと思います。具多的な話から入った方がいいと思います。まず卒論指導に,卒論というのは私の大学では,学科は国際関係学科,国際文化学科,観光学科,英米語学科とあるのですが,私は国際関係学科の教員です。どの学科も全部卒論が必修になっております。もちろん留学生も書かないといけないし,卒論の場合は一応日本語でという条件が付いていますのでマスター論文は英語でもいいのですけれども,留学生の人はもちろんなんとか日本語で一応卒業論文を書かないといけないわけです。この指導の時にやっぱりいろいろ困ることもあるし,大変なこともあります。私がいくつか気がついたことというのは例えば私の大学は鈴鹿国際大学という名前が付いておりますので国際大学ということに実質的な本当の国際大学,さっきちょっと今248名と言いましたが,国の数で言うと留学生は16カ国です。ざーっと片端から挙げていけますけれども省略します。16カ国からの一応留学生がおるわけです。ちゅうかんたい?が多いことは事実ですけれどもともかくかなりものです。10を越えるとやっぱりものすごく国際的です。ゼミでも授業でも皆いろんな学生が混じっているわけですから楽しいと言えば非常に楽しいわけです。卒論の指導をするときにその国際大学だから自分のあなたがこういうテーマを持っているのならば,そのテーマの日本語でももちろん勉強もしてもらうけれども,自分の国でできあがっている成果というかそういうものも大いに参考にしたらいいから,春休みとか夏休みに帰った時に文献を探してきなさいよ,という風に申し上げて,帰ってきたらどうだったと言うと,例えばブランドということを,マーケティングの中でブランドというものの重要性ということを研究したいというようなテーマだったのですが,帰ってきて聞いたら,「いや先生あきません」とこう言うのですね,「あきませんて?」というと「要するに無いことはないけども要するに古い。私が今勉強したいというか研究したいのはとにかく最近のブランドというマーケティング上の重要な概念について研究したいのだと,だからちょっと違うのだ」というようなことで,「そしたら日本語で勉強するしかないね」と言ったら,まあそれでいろいろな検索をしたりいろんなことをして探してもらうと。それは卒論ですけれども,1年生の授業で例えば韓国の方がまだ日本語そう十分ではないのですけれども私がわーっと「自分の好きなテーマを選んで発表,レジメをまとめてきて発表しなさい。」という課題を与えるわけです。中に非常に困る子もいますのでそういう場合は「別にいいよ,慌てなくても。後期でも構わないから。」と,できる人からやっていけばいいとしているのですが,たいがいの人は喜んで実は喜んでやってくれるのです。いろいろな「私はこういうことをやりたい,こういうことをやりたい」と言って来まして,調べ方については私は指導いたします。相談にも来ますのですが,例えばその韓国の学生が「私は北朝鮮について調べたい。」と。「おー,いいですね。いいですね」というわけで「おおいにやりなさい」と言ったら,まぁ1ヶ月かその位経って持ってきますと,私は必ず参考文献を1年生の時からやかましく言っておりまして参考文献を後ろにきちっと書けということを非常に厳しく言っております。これを知っているか知らないかが大学を卒業するかしないかの違いだと,世界中どこへ行っても共通だよということを言っているのですが。「北朝鮮について調べて発表してご覧。」まぁ,1年生ではまだたどたどしい下手なところもあるのですが一生懸命やってきてくれていますから,文献を見ると全部日本語の文献なりウェブサイトもインターネットも日本語のウェブサイトから探してきているのですね。はたと気が付いたのですけれども,これは韓国の場合のもちろん事情にもよるのですが,北朝鮮のことを本当に客観的に分かろうとすることはちょっとしにくいですね。以前は押さえられていたということがあります。今度は逆に何を言ってもよくなったら,今度はまた反対の方に偏っちゃって,どうしても客観的に北朝鮮を記述するというか現状を把握することは難しいのだなということが分かりました。それからまた中国の留学生でも内モンゴルから来ている学生がおりますので,こちらの場合には内モンゴルも別にモンゴル人だけではないのですけれどもそちらから来る場合はモンゴル人の方が多いので,“モンゴルについて調べたい”とこういうことを言うのですね。それから内モンゴルの事自身のことを調べてくれたものもいました。文献全部日本での文献でやってくるのです。いろいろ気がついてみるとやっぱりなかなか客観的にしかも手短に上手に集めるということはかえって自国では難しいというようなこともある。そういうことに気づいて,そのことから私が得た発想というのは,その言語の言語空間としての大きさということなのです。言語空間が大きいものとそれほど大きくない場合がやっぱりあると思います。そこで私がその後で説明しますが,私が今留学生に言っていることこれがちょうど今日のテーマに非常にふさわしいのではないかと思いますので。私が留学生に言っているのは,知識は言語によらないよということを非常に強調しております。つまり知識をどの言語から得ようと情報をどこから得ようと,あるいはまた知識の体系としての学問,特に近代的な学問はなおさらですし,そういうのは結局どの言語でその体系を勉強しようと経済学であろうと社会学であろうと心理学であろうと国際関係論であろうと専門的な言葉というのはだいたい一対一の対応で翻訳できますのでどこかで学んで一つの体系を身につければそれはあなたの自分の知の体系の中で一つのまとまりができてそれを自分の知っている別の言語で表現はいくらでもできる訳だと。だから勉強しろという事はどこでどの言語から得ようと構わない,日本語でももちろん大いに勉強してくださいと。それはそのまんま日本語だけの範囲内で通用する問題ではないと,あなたが身につけたものはそのまんま自分の持っている自国語でもいいし英語でもいいし交換できますよということを強調しているわけです。なかなかUnder Graduateのレベルでそういうことを分かるわけではありませんが,修士課程ぐらいになりますと結構そのことが分かりまして,例えば3年生の後半に私は論文,卒論を4年生で書かせますのであらかじめ論文とはどういうものかということを教えます,もちろん日本語で教えます。ゼミで日本人の学生もいるし留学生もいますので。私3・4回連続できちっと資料を使って詳しい説明をするのですがそうしないと日本人の学生はだらしないものもいましてちゃんとしたものを書いてこないですから,あらかじめきちっと教えておく必要がある。ただし留学生にとってもためになるので最後に言うのですけれど,この論文の書き方とかこの論文の重要なポイントというのは実は言語によらないのだよと。今お話ししたことはそのまんま英語でやったっていいのだし,中国語でやったって構わないので,実際みなさんが将来論文を書くときにもし特に留学生の人は上昇思考の高い人が多いし勉強熱心の人が多いので将来の進路を考えてあげると今しっかりここで大学教育の成果を本人が身につけておいてもらう必要があるのですね。そのことを言うと,自分が今度韓国に帰って韓国で論文を書く場合でも今お話ししたことはそのまんま役に立つのだよ,ということを申し上げています。だからこういうことで,ようするに一言でまとめると知識は言語によらないということなのです。そうするとその時に問題になるのはその言語を使ったことによって今度はさらに深いものが得られるかどうかという問題になるのですが,ちょっとその前に私が昨年試みた新しいビジネスモデルということをちょっとお話したいと思います。どういうことかというと,今ニーズ諸国なんかアジアのほうでニーズ諸国なんかの場合には大学がたとえば台湾でも韓国でも一時期に比べてものすごく増えました。だから大学卒業生というのは多いのです。非常に多いのです。そういう人たちがわざわざまた日本に留学したいと言ってもわざわざ1年生に入ってくるっていうのは非常に面子にも関わるし,できたら大学に来たいわけですね留学に,ここに言葉のハンディーとそれから専攻がストレートにつながっていない場合はやっぱり難しい問題があるのです。そこで私が考えたのは彼らを研究生として一旦受け入れるということです。自分の国で大学を卒業する,研究生として受け入れる,そして研究生として受け入れたものを9月までの間に大学院の試験を受けてもらって合格できるように持っていってあげるというのをやりまして昨年台湾とマレーシアからそれぞれ1人ずつ私の研究生として受け入れまして,昨年の9月にうちの大学の方へ合格させました。4月からM1になるわけですが,その時に面白いことがひとつありまして,マレーシアから来てくれたのは私が名古屋空港へ迎えに行ったときに初めて彼女が日本へ来た最初でした。その時から「あー,先生!」と言って,私が一生懸命目を見張っていたのですけれどもちょっと方向違いを見ていたものですから,向こうから声をかけてくれてビックリしました。ビックリというのはマレーシアで面談した時にはそんなに上手に話していませんでしたものですから。その子はどういうプロセスを辿って日本語を勉強したかということですが,マレーシアからアムエ大学,中国のアムエ大学へ留学したのです。そして外国語学部日本語学科を専攻して終了した。そこには日本人もいた,学生もいたし,先生もいたということなのです。それでマレーシアに帰りましてサンヨー・パイオニアに勤めていたというので「あー,そうか」と思って,マレーシアで最初に会った時ちょっと上手に話さなかったのですけれども実はちゃんとできるので,初めて日本に来たのにもうずっとペラペラでやっております。そういう人が最近非常に増えてきているということなのですね。それと彼女のテーマは海外華人について研究したいということで,Overseas Chineseの研究をしたいということで,自分自身のおじいちゃんがそうですから。もう一人インドネシアの留学生が一人おりまして,彼女は今度はインドネシアの立場から華人について華人問題を調べたいと言っているので立場は違うのですけれども,今は2人指導しなければいけないのがいるのですけれども。このときにも気づいたのですが実は日本で研究するのは非常に得なのです,海外華人の研究というのは。日本人がやっているのではなくて,日本語のやれる人が日本でやたらと本を書いているのです。たくさん書かれています。もちろん英語でも書いています,英語でももちろんあります。ですから英語とか日本語,それからもちろん中国語でも当然あちこちで書かれているのがありますので3つの言語を駆使して大いにやってくださいというふうに指導しているわけです。長々申し上げてただその前に日本語の持っているもので一つ面白いのはやはりもちろん言語空間としての大きさというのは英語がもちろん巨大な大きなものであることに何の依存もないのですけれども,言語というのは一つだけではないので何か常に必要なものというのはやっぱりあると思います。そこでやはり漢字が日本語には入っているということです。したがって漢字文化圏から来る人にとってはやっぱり非常になじみがある。さっき言った海外華人の研究なんかの場合,どうしても地名とか人名とかいう時にアルファベット表記で発音してしまう,発音だけ書いてしまう,ところが気分がでない,漢字でも書いていてほしいという気がどうしても私もしますけれども本人たちもするということで,そうすると日本語の場合は一応漢字表記もありますから非常に気分的に落ち着いて深みのある研究ができるということを思いました。これは単なる一例です。別に○○でどうだということではないです。もっとハイテクノロジーの問題だとかいろいろなことがたくさんあると思います。ただ一つだけ留学生にもう一つ私言っていることがありまして,日本の人口というかようするに日本語のわかる人がさっき言ったように12月にもこの間研究生の後輩というか貢献者として今年も取ってこようと思ってうまくお会いすることができましたので話してきたのですが,その時も向こうでマレーシアで育ってマレーシアで独学で勉強してしまっているのですけれども日本語を,初めから私に日本語で話し掛けてきてくれるというかなりビックリする状態になりました。ということでようするにそういう人たちが非常に増えております。そこで留学生の場合もたとえば日本の留学生も今95,500人ということでだんだん留学生同士でかなり過当競争が就職したり大学に進学したりするときにですね。だからしっかり勉強していないとだめだよということをもう一つ言っています。それから国に帰って日系企業とかそういう日本語を生かす仕事に就くにしても結構過当競争にだんだんなってきていますよと。だからよほどしっかりしていないと本人の当初の目的にはなかなかならないから人のことはどうでもいいから自分のためなのだからしっかりここで勉強しなさいということを申し上げています。さてそういうことで言語空間としての大きさという問題なのですがこれを少し分析しますとハンドアウトの2番に書いてあるように5つの項目を考えてみました。何をもってその大きさを図ることができるだろうと,こういう要素がそれぞれあるかどうかと,どの程度あるかということではないかと思います。日本語の場合にはこれにおいてそれ相応にいろんな要素を持っているということは,だから留学生の人は自分のためにしっかり自分の知の体系を作るために日本語を通して手段として勉強していただいて十分結構ですよということを強調しているわけです。特にこの中で今回私が強調したいのは1番のアクセスの迅速性ということで,以前でしたらなかなか難しい問題があったのですがここ1990年代に入ってからそれからまた特にこのインターネットの時代に入ってから非常にものすごいアクセスの迅速性というのがでてきたと思います。教員であろうと教員の研究者であろうと学生であろうとまったく同じスタートラインでやれるのです。あとはアクセスの方法を上手にどれだけ利用できるかどうかだけです。誰でもできるようになってしまったわけです。国会図書館も今年の1月7日から個人でコピーの郵送を頼めるようになってしまったのですからもうちょっと考えられないです。しばらく前まではこういう問題で非常に苦労して教員というのはそういう点で優位さを持っていたので言われてきたのですけれども,まったく学生もわれわれも同じレベルで実はスタートラインに立てるということです。こういうことがあって,私としては一応今回の場合はアクセスの迅速性が格段に進歩したということを強調したいと思います。それからあとは一応私時間が来るといけないと思ったのでずっと挙げてありますのでだいたい見ていただければ資料と合わせてだいたい何を言いたいかおわかりいただけると思いますのでこのようにしたいと思います。ただハンドアウトの2ページの一番最後のところでちょっと申し上げたいことがあります。さっきの日本語への関心を持つきっかけとして大衆文化というかPop Cultureというかそういうことに慣れ親しんでいるということが日本語を勉強するという時のきっかけになると話したのですが,私があんまりそれに詳しくはないのですけれどもただ大事さは前から注目しております。そうしたら日本ではなくアメリカからおもしろい考えがでてきてこれを,大衆文化をいつまでもSub Cultureと思っていてはいけないよと,Soft Powerなのだと。Sort Powerを持っている国というか文化というかそういうものはそれなりにやはり今後重要なのだというような意見がでてきたということで非常に私はこれをおもしろい考えだなと思いました。問題は,私はそれだけで留まりたくないので申し上げたいことがあるわけです。私はアジア太平洋の繁栄というか繁栄というと普通経済的繁栄という事ばかり考えるのですけれども中産階級というものがあちらこちらにそれなりにでてきていると。ニーズ諸国などは完全に中産階級化しています。今中国でもそういう人たちがそういう層がだんだん増えてきている。東南アジアでも国によりますけれども明確に中産階級が育っている。そうすると当然次はやっぱりそういう楽しみとか娯楽とかそういうものが非常に重要になってくると思います。この場合に私としては申し上げたいのは日本のPop Cultureがそれなりにこれまでにも影響を与えてきたし今後ともSoft Powerとして大きいだろうということはその通りなのですが,もう一歩先に進みたいわけです。そうであれば中国や韓国の場合もまた違った発想でそういう大衆文化を生み出せるわけですし,現にあるわけですからただ知的所有権を隔離するということだけ必要なのです。これがちょっと中途半端というか非常にいろいろ問題があるのでやる人が本気でやれないという問題があります。ですからもしそういうものを確立していくのならば少なくとも数人でも韓国の場合は私はできると思います。そうするとそれを輸出することができるということでお互いにそれがアジア太平洋の繁栄の一つの姿だろうと思っています。総合的にさまざまな影響を及ぼしあうと。ということで日本語というものもそういう中での一つの重要な位置付けを持っている。日本語を通して知識をつけたり活躍したりしていただく。その場合国籍もどうでもいいです,活躍する場所もどこでもいいです,アジア太平洋地域であればいくらでもやれますということでいつも留学生と,とにかく私留学生大好きですのでいろいろな国の学生といろいろ楽しく話しております。以上です。