まえがき
この「『病院の言葉』を分かりやすくする提案」の報告書は,<提案する>という積極的な姿勢で発表します。
だれに向かって提案するのか? 医療の専門家の皆さんに向かってです。この報告書では,医師,薬剤師,看護師など様々な分野や立場の医療関係の専門家を「医療者」と呼びます。その医療者の皆さんに向けての提案です。
何を提案するのか? 医療の専門家でない患者やその家族を相手に,病気や治療や薬の説明をするとき,用いる言葉を分かりやすくする工夫を提案します。
提案をしようと考えたきっかけは,「病院の言葉」が分かりにくいという声が大きく聞こえてきたことにあります。この報告書でも紹介している国立国語研究所の全国調査で聞こえてきた声です。一般国民の八割を超す人たちが「医師が患者に説明するときの言葉には,分かりやすく言い換えたり,説明を加えたりしてほしい言葉がある」と答えました。
「インフォームドコンセント」(納得診療,説明と同意)という考え方と言葉,そしてその実践は,医療の世界で既に相当に定着していると言われます。しかし,その一方で,説明を受ける側の多くは,今もなお,説明に用いられる言葉の分かりにくさを何とかしてほしいと願っているのです。言葉への工夫が求められています。
この報告書では「病院の言葉」のようにカギ括弧を用いています。文字通りの病院だけでなく,広く医療の様々な現場で使われる言葉を指すためです。病院だけでなく診療所や薬局を含めて,その診察室・病室・検査室・待合室などの医療の現場で使われる言葉,あるいは治療や薬の説明書や掲示物,医療・健康に関する出版物や報道記事などで使われる言葉など,広い範囲で使われる言葉をこの報告書では「病院の言葉」と呼びます。
この「病院の言葉」は,大きく二種類に分かれます。一つは,医療者同士が,医療の専門家として互いに交わす専門的な言葉です。医学,薬学,看護学などの理論的・実践的な専門用語や術語が,厳密な定義や用法に基づく専門家同士の「病院の言葉」です。これらは,高度に専門化された医療の分野で重宝かつ不可欠な言葉として,存分に使いこなされるべきです。非専門家のためだからといって,専門分野の必要性を越えてまで「分かりやすく」すべきものではありません。
もう一つの「病院の言葉」は,医療者が患者やその家族を相手にして使う言葉です。言い換えれば,専門家が非専門家に向けて使う言葉です。この報告書で「分かりやすく」する工夫を提案するのは,この第二の意味の「病院の言葉」についてです。
専門家としての医療者が「病院の言葉」を分かりやすくする工夫をするためには,非専門家である患者や家族がどんな分かりにくさを感じていて,どんな誤解や間違いをしがちであるのかが重要な情報となるはずです。私たちは,従来この種の情報が必ずしも十分ではなかったと考え,医療者と非医療者それぞれに意識調査を実施し,調査結果のデータをこの報告書に示しました。適切な工夫をするためのよりどころとして,まず活用していただきたい情報です。
また,「病院の言葉」の分かりにくさには類型があって,それに対応する言葉への工夫にもいくつかの種類があるはずです。膨大な数の「病院の言葉」を網羅的に扱うことはもとより不可能です。私たちは,限られた数の言葉を精選して,それぞれの分かりにくさを分類し,それぞれに対応した工夫の在り方も分類して提案することにしました。提案で具体的に取り上げた個々の単語についての工夫を,専門家の方々が自らの知見や経験を生かして,他の多くの単語にも類推して活用していただくことを期待します。
この報告書は,以上のような思いと期待を込めて発表します。
医療という極めて専門性の高い分野の専門家に向けて<提案する>内容をまとめるまでには,多くの分野から大勢の方々の御協力や御支援をいただきました。国立国語研究所「病院の言葉」委員会の委員,医療関係の法人や学会,出版・報道・調査の会社や機関,さらには各種の意識調査やインタビューの回答者の皆さん,「中間報告」について意見公募に応じてくださった皆さんなどから,それぞれの専門の知見や情報を生かしながら寄せていただいた御意見とお力添えに,心から御礼を申し上げます。
医療者の伝えたい情報,患者や家族の知りたい情報を分かりやすく伝える「病院の言葉」の実現を期待し,この報告書が,いつも多くの方々の身近にあって,大いに活用されることを強く願っています。
平成21年3月
国立国語研究所「病院の言葉」委員会委員長
独立行政法人国立国語研究所長
杉戸清樹