Ⅰ.「病院の言葉」を分かりやすくする提案を行う目的
1.患者の理解と判断を支える医療へ
近年,日本社会でも個人の価値観が尊重されるようになり,一人一人が生活に必要な情報を自ら集め,きちんと理解し,しっかり判断することが必要になっています。この点,医療はごく身近な問題でありながら自分で判断して決めることが難しいものの代表です。この分野でも,患者中心の医療が望ましいとの観点から,病院などで診療をする際には,患者に対してその病状や治療法などについて,医療者1から十分な説明をし,患者がそれを理解し納得した上で自らにふさわしい医療を選択するのを支えることが求められるようになりました2。
2.「病院の言葉」の分かりにくさ
ところが,病院や診療所に足を運んだ患者は,医療者の話す言葉や,診断書や示されたカルテなどに書かれた事柄が理解できないことに,しばしば悩まされます。そこには,病気になったりけがをしたりする前には見聞きすることのなかった,なじみのない分かりにくい言葉がたくさん出てくるからです。高度に専門化の進んだ医療の現場では,専門家でない一般の人々が,そこで使われる言葉を正しく理解して的確な判断を下すことは容易でありません。
国立国語研究所が平成16年に実施した調査3では,八割を超える国民が,医師が患者に対して行う説明の言葉の中に,分かりやすく言い換えたり,説明を加えたりしてほしい言葉があると回答しています。また,平成20年に実施した調査では4,「寛解(かんかい)」や「QOL」といった言葉を見聞きしたことがある国民は二割に満たず,「膠原病(こうげんびょう)」や「敗血症」などの言葉の意味を正しく理解している国民は四割に達していません。
患者が自らの責任で医療を選択するには,こうした言葉が表す内容を理解することが強く望まれます。そして,その理解を促すのはほかならぬ医療者の責任です。医療者は患者がよく理解できるように,分かりにくい言葉を分かりやすくする工夫を行う義務があると言えるでしょう。
3.分かりにくさの原因
患者にとって病院の言葉が分かりにくいことには,いくつかの原因がありそうです。言葉そのものになじみがないこと,言葉の表す意味や内容が専門的で難解なこと,病気やけがで受診する患者は不安定な心理状態にあることなど,原因にもいくつかの種類が考えられます。分かりにくさを軽減し,問題を解決していくためには,こうした分かりにくさの原因の解明が重要です。原因が明らかになれば,それぞれの原因に対してどのような対策が有効かを検討することができるはずです。
4.国立国語研究所の役割
国立国語研究所は,国民の言語生活の実態をとらえる調査研究を行い,そこに問題が見つかれば,原因を突き止め,改善するための提案を行っています。言葉の分かりにくさが原因で,情報の伝達に支障が生じているとすれば,それは国民の言語生活にとって見過ごせない問題です。平成14年から18年までは,役所などが一般の人々に対して分かりにくい外来語を不用意に使っている現状に対して,改善するための具体的な工夫を提案しました。(『分かりやすく伝える 外来語 言い換え手引き』平成18年,ぎょうせい刊)
病院の言葉の分かりにくさについても,それをなくしていくための方法を議論し,世の中に提案を行う場として,「病院の言葉」委員会を設けました。医療の専門家と言葉の専門家とが協力して,病院の言葉を少しでも分かりやすくするためです。
5.医療者による工夫から
医療者が使う言葉を患者が理解できない現状では,患者が十分に納得した上で,自ら受ける医療について意思決定することは容易でありません。患者が的確な判断をするためには,何よりもまず専門家である医療者が,専門家ではない患者に対して,分かりやすく伝える工夫をすることが必要です。医療者が分かりやすく伝えようと努力することにより,患者の理解しようとする意欲も高まるはずです。医療の安心や安全は,医療者と患者との間で情報が共有され,互いの信頼が形成されることによって,初めて達成されるものと考えます。
6.問題は三つの類型に
「病院の言葉」委員会では,まず,患者がどのような言葉を分かりにくいと感じ,どのような誤解をしているのか,病院や診療所で使われる言葉の問題がどこにあるのかを把握しました。それと同時に,膨大な医療用語の中から,「病院の言葉」を分かりやすくする提案で取り上げるのにふさわしい言葉を選ぶ作業を進めました。それらに基づいて,医療者が患者に説明する際に,誤解を与えず分かりやすく伝えるには,どのような言葉や表現を選べばよいのか,どのような伝え方をすればよいのか,具体的な工夫について検討を重ねました。その結果,問題を大きく三つの類型に分けて対応するのがよいという結論に達しました。
7.分かりやすく説明するための指針として
この提案では,病院の言葉の分かりにくさと,それをなくしていくための工夫を,類型ごとに代表的な言葉を取り上げて,具体的に解説しました。取り上げた言葉の数は必ずしも多いとは言えませんが,どれも三つの類型を代表する重要な言葉ばかりです。提案で取り上げられなかった言葉については,これらを参考にして一つ一つどの類型に当てはまるかを見極め,適切に対応していただくことを希望します。
この提案が,医療者による分かりやすい説明の指針となり,ひいては患者やその家族の的確な理解を助ける手引きとなれば幸いです。
1 医師,歯科医師,薬剤師,保健師,助産師,看護師,診療放射線技師,臨床検査技師,理学療法士,作業療法士,視能訓練士,臨床工学技士,歯科衛生士,歯科技工士,言語聴覚士,管理栄養士,社会福祉士,介護福祉士,精神保健福祉士,義肢装具士,救命救急士など医療に従事する職業のほか,医療事務や医療教育に携わっている人やボランティアなど,医療にかかわる人々全体を指す用語として,本提案では「医療者」という言葉を使います。
2 医療法改正により,患者への医療に関する情報提供が推進されるようになりました。例えば,医療法第一条の冒頭には「この法律は,医療を受ける者による医療に関する適切な選択を支援するため」のものであるとうたわれ,第一条の三には「医師,歯科医師,薬剤師,看護師その他の医療の担い手は,医療を提供するに当たり,適切な説明を行い,医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない」とあります。
3 国立国語研究所「外来語に関する意識調査Ⅱ」
4 国立国語研究所「非医療者に対する理解度等の調査」。「Ⅳ.検討の経過」の「3.5 非医療者に対する理解度等の調査」を参照してください。