日本語史研究用テキストデータ集

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春色梅児与美しゅんしょくうめごよみ

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巻十二

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春色梅児与美 巻十二

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
春色{しゆんしよく}梅児誉美{うめごよみ}巻の十二
江戸 狂訓亭主人著
第二十三齣の上
恋{こひ}ゆゑに心{こゝろ}のたけをつくし琴{〔ごと〕}乱{みだ}れそめにし此糸{このいと}が結{むすぼ}れ
とけぬ部屋{へや}の口{くち}【禿】「おいらんヱお湯{ゆ}が出来{でき}ました。」【此いと】「アイ直{すぐ}に
|這入{はい}るヨ。糸花{いとはな}さん気{き}をつけてくれなましヨ。」【糸】「アイお案{あん}じ
なさりイすな。お杉{すぎ}どんが今{いま}泥溝店{どぶだな}へ行{いき}イしたからまだめツた
には帰{かへ}りイせん。早{はや}く湯{ゆ}からおあがりなんして頭痛{づつう}がするとでも

(1ウ)
いひなましてすこしお休{やす}みなんし。夕{ゆふ}べはあいにく客人{きやくじん}が落合{おちあひ}
なんしてさぞじれツたふ有{あり}イしたろうネ。」ト[いふはこのほどこのいとがふかくちぎりし半べゑの
今は二かいをとめられしのみならずしてときをりは仲の町であふさへもうす〳〵しれて気をつけられ思ふにまかせぬ〔こと〕のみゆゑきのふよりして半兵衛をひそかにへやにかくして
有也]【このいと】「アイサま〔こと〕にさつしておくんなんしヱ。」と目{め}を見合{みあは}せて戸棚{とたな}の
方{かた}心{こゝろ}残{のこ}して湯{ゆ}どのへと出行{いでゆく}跡{あと}に糸花{いとはな}は部屋{へや}の戸棚{とたな}をそツと
明{あけ}。【いとはな】「半さんさぞ気{き}づまりでおツしやうネ。」【半】「おれが気{き}づまり
より万事{ばんじ}おめへの心{こゝろ}づけへコウ手{て}を合{あは}して拝{おがん}でゐるヨ。」トこそ〳〵
ばなしの後{うしろ}の方{かた}いつの間{ま}にやら遣手{やりて}のお杉{すぎ}【杉】「糸花{いとはな}さん。」【糸】「ヱヽイ。」

(2オ)
【杉】「ヲヤ仰山{ぎやうさん}な返{へん}事のしようだ。ちよくり私{わたし}が部屋{へや}へお出{いで}。」【糸】「アイ
なんぞ用{よう}さますか。うツかりしてゐた処{ところ}を呼{よび}なましたからびつ
くりしイした。」【杉】「すねに疵{きず}もつて笹原{さゝはら}を走{はし}るとやらサ。何{なん}でも
いゝからちよつとお出{いで}。」【いと】「アイサア参{まゐ}りイせう。」ト立{たち}ながら明{あけ}かけ
た戸棚{とだな}をぴツしやり立{たて}つけて見{み}ても心{こゝろ}おく遣手{やりて}を先{さき}へ糸花{いとはな}
がつゞいて出{いづ}るらう下{か}より引違{ひきちが}へて此糸{このいと}の座敷{ざしき}へ踏込{ふみこむ}若者{わかいもの}
下{した}ばたらきやら寝{ね}ず番{ばん}やら大勢{おほぜい}一度{いちど}に欠入{かけいつ}て戸棚{とだな}に忍{しの}ぶ
半兵衛{はんべゑ}を引{ひき}ずり出{だ}して口〻{くち〴〵}に【大ぜい】「此糸{このいと}さんのお座敷{ざしき}には

(2ウ)
盗人{どろほう}がすまつて居{ゐ}やす。不残{みな}さんのお座敷{さしき}で御用心{ごようしん}なさい
ましヨ。」【若者】「サア〳〵みせしめの為{ため}に此{この}盗人{どろぼう}を下{した}へ引{ひき}ずり出{だ}し
て内所{ないしよ}の前{めへ}で筋骨{すぢほね}を抜{ぬく}ほどの目{め}に合{あは}せてやれ。あん
まり人{ひと}をめくらにした。」ト[ぶつやらふむやらあらけなくひどうのてうちやく半兵衛は身のあやまりに手ざしもならず〔こと〕に
大ぜい手あしをおさへ身うごきならぬ此ばのなんぎ。やう〳〵かた手を合すまね]【半】「コウ〳〵喜介{きすけ}どんどふぞ拝{おがむ}から
おんびんにしておいらはともあれ此糸{このいと}がかはいそうだコレこの
〔こと〕が内所{ないしよ}へ知{し}れては。」【喜介】「イヤあきれもしねへたわ言{〔こと〕}をいふぜ。
盗人{とろほう}を座敷{ざしき}へ置{おく}おいらんも同類{どうるゐ}だア。何{なに}かわいそうがいる

(3オ)
ものか。高金{たかがね}出{だ}した奉公人{ほうこうにん}をいけふさ〴〵しい色男{いろをとこ}め。よはい
のが当{あた}りめへとぶる〳〵するも胸{むね}がわりい。ぶつて〳〵ぶちのめし
て恥{はぢ}づらかゝせて此{この}廓{くるわ}へ足{あし}ぶみのならねへやうにサア〳〵此奴{こいつ}を
引{ひき}かついではやくはしごをおろした〳〵。」トさしづに合点{がてん}と
二階{にかい}より引{ひき}ずりおろして内所{ないしよ}へも見{み}える所{ところ}で亦{また}声{こゑ}〴〵悪
口{あくこう}なして半兵衛{はんべゑ}をいと情{なさけ}なきちやうちやくに湯{ゆ}どのゝ内{うち}
には此糸{このいと}がそれときくより気{き}も狂乱{きやうらん}ハツトばかりにさし
こむつかへ胸{むね}を押{おさ}へて湯{ゆ}どのより出{いで}んとするを抱芸者{うちげいしや}秀

(3ウ)
次{ひでじ}といへるが引{ひき}とゞめ耳{みゝ}に口{くち}よせ小声{こごゑ}にて【秀】「アレお待{まち}ない
ましおいらんさぞくやしいとも思{おも}ひなんしやうが家内中{うちぢう}向{むかふ}
づらになツておいらんに恥{はぢ}をかゝせる此{この}しだら内所{ないしよ}でたしか
言{いひ}つけた様子{やうす}で見{み}ればなま中{なか}に今{いま}おいらんがあのせきへ
出{で}なはいましては半{はん}さんのます〳〵お為{ため}になりイすまい
マア辛防{しんばう}して此{この}場{ば}をすまして跡{あと}で恨{うらみ}をおはらしなんし。」
といはれて此糸{このいと}心付{こゝろづき}【この糸】「アイ秀次{ひでじ}さん信切{しんせつ}におありがたふ
おツすも。」[口{くち}のうちくやしなみだをはら〳〵〳〵]上{あが}り口{くち}には半兵衛{はんべゑ}をおもふまゝに

(4オ)
打{うち}なやまし表{おもて}の方{かた}へ突出{つきだ}して一度{いちど}にどツと笑{わら}ひ声{ごゑ}胸{むね}に
こたゆる此糸{このいと}が無念{むねん}と思{おも}へど詮方{せんかた}なく芸者{げいしや}秀次{ひでじ}にいさめ
られ素知{そし}らぬ躰{てい}にもてなせど面目{めんぼく}なさと口惜{くちをし}さ兼{かね}て
手当{てあて}をせしならんが誰{たが}告口{つげくち}より顕{あらは}れしぞ今{いま}は二階{にかい}を止{とめ}
られても元{もと}は内所{ないしよ}や若者{わかいもの}みなそれ〳〵に目{め}をかけて心遣{こゝろづか}ひ
もせし人{ひと}をいかに不実{ふじつ}な家業{かぎやう}でもあまりといへば非道{ひだう}の
仕方{しかた}。よし半{はん}さんが忍{しの}んで居{ゐ}たはわるいにもせよ此糸{このいと}が自
惚{うぬぼれ}らしい〔こと〕ながら五丁{ごちやう}の内{うち}でかぞへられ仲{なか}の町{ちやう}でも評

(4ウ)
判{ひやうばん}を取{とつ}たればこそ相応{さうおう}に家業{うち}の為{ため}にもなりしもの。少{すこ}
しは免容{おほめ}に見{み}るはづを目下{めした}にならぶ子供{こども}にも㒵向{かほむけ}ならぬ
この始末{しまつ}。どうして恥{はぢ}をすゝがんと胸{むね}をいためて湯{ゆ}どのより
出{いづ}るらう下{か}の中{なか}の間{ま}にしやにかまへたる彼{かの}鬼兵衛{きへゑ}その片脇{かたわき}
に判人{はんにん}蔭八{かげはち}何{なに}か談{だん}じて居{ゐ}たりしが此糸{このいと}を見{み}て【鬼】「アイ此
糸{このいと}ちよつと来{き}な。」【この糸】「アイ湯{ゆ}ざめのしないうち仕舞{しまひ}をして
参{まゐ}りイせう。」【かげ八】「イヱマアちよツとお出{いで}なせへ。」【この糸】「ヲヤなんざいま
すヱ。」【鬼】「モシ蔭八{かげはつ}さんマア見{み}なさる通{とほ}りの始末{しまつ}だがこれで唐

(5オ)
琴屋{からことや}のお職{しよく}といはれやせうか。後見{こうけん}なまへのわたしだとて
斯{かう}ふみつけにされちやア外{ほか}の子供{こども}のしめしが出来{でき}やせん。
マア兎{と}も角{かく}も連{つれ}て行{いつ}てくんなせへ。私{わたし}が代に抱{かゝ}へた女だと
おもいれ仕置{しおき}の仕法{しほう}もあるが親方{おやかた}にはまうけさせた〔こと〕も
有そうだからそれに免{めん}じてマア何{なに}かなしに済代{すみけへ}をさせや
す。しかし此糸{このいと}はその方{ほう}が勝手{かつて}だろうけれど他{わき}のうちへ
行{いつ}ていままでの真似{まね}は出来{でき}めへ。サア此糸{このいと}蔭八{かげはつ}さんの処{とこ}へ
行{いか}ツせへ。」○此糸{このいと}は心をすゑ【此糸】「ヲヤそうざますか。そんならなに

$(5ウ)

$(6オ)

(6ウ)
かの支度{したく}をしイして。」ト立{たゝ}んとするを鬼兵衛{きへゑ}は引止{ひきとめ}【鬼】「イヤ
二階{にかい}へはモウなりません。コウ子どもやお杉{すぎ}どんにそういつて
此糸{このいと}の寝巻{ねまき}とうちかけを一枚{いちまい}よこしなせへとそういつ
て来{き}や。ヱモシ蔭八{かげはつ}さん座敷{ざしき}や部{へ}やのものは此糸{このいと}が物{もの}だ
といひやせうがあんまり馬鹿{ばか}にしたしまつだから何{なに}も
かもよくしらべたうへで渡{わた}すわけになつたら渡しやしやう。
まづ今日{けふ}はこのまゝおまへにあづけます。」トさもにく〳〵しく
言{いひ}はなして奥{おく}に入{い}りたる跡{あと}見送{みおく}り彼{かの}蔭八{かげはち}が此糸{このいと}と顔{かほ}

(7オ)
見合{みあは}せて小|声{ごゑ}になり【かげ】「ヘヱ親方{おやかた}振{ぶり}やアがつて大|造{そう}な
つらアしやアがる。モシおいらん丁度{ちやうど}願{ねが}つたり叶{かなつ}たりだ。御不自
由{ごふじゆう}でも直{すぐ}にマアお出なせへまし。」と気{き}もかろく斯{かゝ}る事{〔こと〕}には
なれたる判人{はんにん}殊{〔こと〕}に指{ゆび}折かぞへられし日{ひ}の出の此糸{このいと}済{すみ}かへは
能{よき}幸{さいは}ひと駕籠{かご}を入させまづ我{わが}家{いへ}へ引|取{とり}ける。亦{また}唐琴{から〔こと〕}
屋の二|階{かい}には遣手{やりて}の部{へ}屋に此糸の新造{しんざう}糸|花{はな}を引|寄{よせ}て
何{なに}やら小|言{〔ごと〕}をならべ立{たて}叱{しか}るふりにて其{その}間{あひだ}にひそ〳〵をしゆる
お杉{すぎ}が声{こゑ}【杉】「サア今{いま}の理{わけ}ゆゑ済{すみ}けへにさせるは私{わちき}が情{なさけ}で

(7ウ)
ざいます。鬼兵衛{きへゑ}どんの腹{はら}じやア此糸{いと}さんをおかみさんに
直{なほ}して手めへの後見{こうけん}を位{ゐ}をつけて旦那{だんな}といはれてへ了簡{れうけん}
それが出来{でき}ずとも働{はたらき}のあるおいらんだから半さんは突出{つきだ}
しても座敷{ざしき}のをば[このいとがことなり]今までの通{とほ}りで置{おく}つもり。そう
して見ると此|糸{いと}さんが二枚{にまい}も下へ押{おし}さげられるか無理{むり}
な都合{つがふ}で新造{しんざう}出しでもしなさらざアなるめへじやアない
かへ。それもあんまり馬鹿{ばか}〳〵しいと実{じつ}においらんの為{ため}を
思{おも}つて何{なに}もかもぶちこわしてしまつたわけでありますヨ。」

(8オ)
【糸花】「アイお有{あり}がたふおツす。そうならおいらんの大|事{じ}のものや
首{つむり}のものは。」【杉】「私{わたし}が立合{たちあつ}てしらべるつもりで座敷{ざしき}へ行{いく}から
はやく手まはしをして着替{きがへ}や何{なに}かは此|糸{いと}さんと中{なか}のいゝ
おいらん達{たち}に内証{ないせう}で預{あづ}けないまし。」【糸花】「さしものはどふ
しいせうネヱ。」【杉】「花{はな}のに[禿の名也]よく言{いひ}つけて尾張{をはり}屋へ持{もた}して
やつて金にして浜{はま}の宿{しゆく}へ[蔭{かげ}八が方の〔こと〕なり]しれないやうに届{とゞ}けて上
なさいまし。サア手ばしかくしなさいまし。」ト面{おもて}は鬼{おに}と見
せかけて内にふくみし情{なさけ}のはからひ遣手{やりて}にまれなる真切{しんせつ}

(8ウ)
もの。心{こゝろ}よからぬおいらん達{たち}へはかへつてかくすこのはからひ人
目をいとふ遣{や}り手|部{べ}やわざとお杉{すぎ}は声{こゑ}たかく【杉】「イヱ〳〵
おまへがたにめくらにされちやア私{わたし}が役{やく}がすみません。サア〳〵
一処{いつしよ}に座敷{ざしき}へ来{き}なせへ。おいらんはじめおめへまでこれまでの
しだらをいち〳〵わけにやア内所{ないしよ}のまへはいふにおよばず二階
中{にかいぢう}へ口がきかれやせん。モウ〳〵ぐぢ〳〵したいひわけをし
なさいますな。」トあたりへきかせる小言{こ〔ごと〕}のかず〳〵内〻{ない〳〵}にては
此|糸{いと}やこの新造{しんざう}の為{ため}にのみなるやうにこそはからひけり。

(9オ)
第二十三齣の下
淵{ふち}は瀬{せ}とかはるならひに川竹{かはたけ}の流{なが}れを留{とめ}し山の宿{しゆく}仮宅{かりたく}
長屋{ながや}の裏住居{うらずまゐ}日向{ひむき}もわろき蔭八{かげはち}が判人{はんにん}なれど石に印{はん}
堅{かた}いが疵{きず}と活業{よわたり}に只{たゞ}正|直{ぢき}の首{かうべ}さへやまのかみとか世に
となふ妻女結{かゝあたばね}の僉約{けんやく}もたらぬ世帯{せたい}のその中に折節{をりふし}
風邪{ふうじや}の煩{わづら}ひに女房お民{たみ}が手一ツでまはらぬ暮{くら}し常{つね}なれ
どこのせつわけてふてまはりこまりし中{なか}へ此糸{このいと}をあづけ
られたる其日よりさすが廓{くるわ}で全盛{ぜんせい}のにはかに今日{けふ}は|零

(9ウ)
落{おちぶれ}て三度の食{しよく}の栄耀{ゑよう}には魚{うを}吉の台{だい}も飽{あき}たりし口に
するめの|醤油焼{つけやき}はまづい物屋{ものや}の立肴{たてざかな}お職{しよく}といはれし此
糸も浴衣{ゆかた}の上{うへ}に寝巻{ねまき}着{き}て|北夷出錦{ゑぞでにしき}の巻帯{まきおび}は隣家{あたり}
の人も振{ふり}かへり目に辰巳屋の貸蒲団{かしふとん}それを敷{しき}寝{ね}の柏
|餅{もち}猿{さる}屋で買{かひ}し口取も最{も}中の月と賞翫{しやうくわん}すべし。夜昼{よるひる}
わかたぬ不自由{ふじゆう}は此|雜文{かきぶり}にて知察{しり}たまへ[女房おたみこの糸にむかひ]【民】「ヲヤ
私{わちき}はわすれ切{きつ}て居{をり}ましたが今|表{おもて}ヘ出ましたら兼{かね}さんが
お津賀{つが}さんの言伝{〔こと〕づて}を頼{たの}まれたと申て此{この}蓋物{ふたもの}とお金を

(10オ)
よこしましてこれではぶしつけだからおいらんが何{なん}ぞ給{たべ}たいと
おつしやるものを買{とつ}て上ておくんなさいましと申てコレ御覧{ごらん}
なさいこんなおいしいものが参{まゐ}りました。」ト蓋物{ふたもの}をひらいて出
せば此糸は【此糸】「ヲヤ御信切{ごしんせつ}に嬉{うれ}しいネヱ。そしてマア延津賀{のぶつが}さん処{とこ}
は遠{とほ}いじやアありませんか。近いと行{いつ}て逢{あひ}たふおツすねへ。」[かげ八はびやうにん
ながらもわらひだしそのあどけなきをかんしんして]【かげ八】「コリヤアいゝ言{〔こと〕}をお言{いひ}なさる。なる程{ほど}おいらん
の足じやアむづかしい。爰{こゝ}からお津賀さんの処{とこ}まじやア仲の丁を
半分道中するほど有やせうハヽヽヽヽ。」【此糸】「ヲヤそうざいますか。ばか

(10ウ)
らしい。私{わちき}やアまた大|造{そう}遠{とほ}いとおもひイした。」[おたみはかげ八にむかひて]【民】「モシヱ
此お金はおいらんへ上て置{おき}ませうネ。」【此糸】「アレサおかしい。私が持て
をりイしたとてしかたがおツせん。おまはんそれでいる物{もの}を買{とん}な
ましヨ。」【民】「それじやアわるうございます。」【かげ八】「コレサ〳〵お民つまら
ねへ〔こと〕をいふなへ。延津賀さんの信切{しんせつ}は芸者{けいしや}に稀{まれ}な〔こと〕だけれど
壱歩{いちぶ}の金をおいらんに持しておいたとてはじまらねへ。今に
だれぞ来{き}て泣{なき}〔ごと〕をいふかくるしいはなしをして見や。それこそ
自分{てん〴〵}の〔こと〕は忘{わす}れて持て行{いき}なましなんぞと言{いつ}てほふり出

(11オ)
して仕{し}まひなさらア。それだからお津賀{つが}さんが何{なん}ぞ買{かつ}て上{あげ}
ろと兼{かね}さんにそう言{いつ}てよこしたのはおらが宅{うち}の不都合{ふつがふ}を
知{し}つてゐるからだアな。」【民】「そうさねへ。」ト[はなしに此糸|気{き}もとめずふた物のなかを見て]【此糸】「ヲヤ
私{わちき}の好{すき}なものをくれさしツたヨ。」ト[わらふはよく〳〵きにいりしものかすべておいらんといふものはいろげはあれど
おも〳〵しくしてくひものはあまりさはがずたいがいのうまきものもげぢ〳〵ほどはおどろかぬもの也]【民】「ほんにねへモシちよつと
お見{み}白魚{しらうを}と玉子{たまご}をいりつけて海苔{のり}をまぜて山葵{わさび}が下{おろ}すば
かりに皮{かは}がむいて有{あり}ますヨ。」【かげ八】「そんなにびつくりしねへがいゝ。一{ひと}ツ
で五貫目{ごくわんめ}ある琉球芋{さつまいも}のはなしを聞{きい}たやうに。」【民】「ヲヤ何{なに}もびつ

(11ウ)
くりしは仕{し}ないはネ。外聞{ぐわいふん}のわりい。」【かけ八】「ヱヽイやかましい。それより
ははやく煮花{にばな}をこしらへておいらんにこれでお茶漬{ちやづけ}でもあ
げる支度{したく}をしねへな。」【民】「ハイ〳〵直{ぢき}に小言{こ〔ごと〕}になるからいやだ。」【かげ八】
「いやだもおしがつゑゝ。」【此糸】「アレサモウいゝにしないましヨ。しかしはやく
夫婦{ふうふ}喧嘩{けんくわ}がして見{み}たいねへ。そうなりイしたらさぞ嬉{うれ}しい
〔こと〕でありイせうネ。」【かげ八】「イヱモシおいらん達{たち}や娘{むすめ}子{こ}どもの了簡{れうけん}
じやアはやく思{おも}ふ男{をとこ}と一所{いつしよ}になつてとき〳〵はすねたり喧
嘩{けんくわ}をしたらさぞたのしみだろうなんぞと思{おも}ふのが世間{せけん}の

(12オ)
あたりめへでごぜへますがサアそうなつて子{こ}どもでも出来{でき}て
ごろうじろ。立派{りつは}にくらす御新造{こしんぞ}さんでも色気{いろけ}も恋情{こひけ}も
さめてしまつて。ヱあれがかと見違{みちが}へられるやうになります
ぜ。いはんや貧乏{びんぼう}世帯{じよたい}をもつてごろうじまし。昨日{きのふ}まで町
内{ちやうない}の若衆{わかいしゆ}が血道{ちみち}を上{あげ}てさわいだ娘{むすめ}でも直{ぢき}に大腹{おほツはら}を抱{かけへ}て
味噌{みそ}こしを袖{そて}に右{みぎ}の袂{たもと}へ焼芋{やきいも}の八文{はちもん}も買{かつ}て歩行{あるく}やうに
なるとまだ嶋田{しまだ}でゐられたものをなんぞと後悔{こうくわい}して泣{なく}の
がいツくらも有{あり}ますぜ。しかし今{いま}の娘{むすめ}は親{おや}のしつけがわりい

(12ウ)
からはやく亭主{ていしゆ}をもつて子{こ}どもでも出産{できる}のを恥{はつ}かしいと
は思{おも}はねへで手{て}がらのやうに思{おも}つてゐます。イヤそれから見{み}
ると女郎衆{ぢようろしゆ}はマア十人{じうにん}が九人{くにん}めつたに小児{こども}は産{うま}ねへから通
人{とほりもの}は兎角{とかく}おいらん達{たち}を引{ひき}ずり込{こみ}たがりますぜ。」トはなしの
中{うち}に弁天山{べんてんやま}の七{なゝ}ツの鐘{かね}ボウン[引]〳〵【民】「ヲヤ〳〵モウ七{なゝ}つかねへ。」
【かげ八】「ナニヲヤ〳〵なものか。いつてもお昼{ひる}と夜食{やしよく}と一ツにならア。おい
らんがなんぼ朝{あさ}おそくツてもおひもじかろう。」【此糸】「イヽヱなんだか
おまんまなんざアたべたく有{あり}イせん。実{じつ}は先刻{さつき}ツから胸{むね}がいたふ

(13オ)
おツす。」【かげ八】「また半{はん}さんの〔こと〕でふさぐわけで有{あり}ませうがモシ
今{いま}にどうかなりますはナ。とはいふものゝ半{はん}さんもぜひ今日{けふ}
あたりは来{き}なさりそうなものだテ。」【此糸】「イヽヱわちきが斯{かう}な
つた〔こと〕ゝは知{し}らずまだ廓{あつち}にゐると思{おも}つてたゞ面目{めんぼく}ねへくや
しいこれといふも私{わちき}のおかげだなんぞと今{いま}じやアにくんで
居{ゐ}なんすだろうと思{おも}ひイす。」ト[さすがりはつなおいらんも恋{こひ}ゆゑぐちのくちをしなみだ]【かげ八】「たとへ
なんでもかでも友達{ともだち}をたのんでも廓{あつち}のわけを聞{きゝ}なさる
はづでごぜへます。」【此糸】「それに便{たよ}りの有{あり}イせんはもしや此{この}

(13ウ)
間{あひだ}の時{とき}に打所{うちどこ}でもわるくツて途中{とちう}か宅{うち}で万一{まんいち}の〔こと〕が
ありはしまひかと案{あん}じられてなりイせん。」【かげ八】「ナニ〳〵それ
ほどの有{あり}ますめへ。」ト[はなしのうちに女ぼうが膳{ぜん}だてをして此いとにしよくじをさせる]【かげ八】「そして半{はん}
さんは何処{どこ}に当時{たうじ}お出{いで}なさいますネ。やつぱり絵岸{ゑきし}とやら
かネ。」【此糸】「イヽヱそうじやア有{あり}ません。矢義{やぎ}の城{しろ}さん所{とこ}にかくま
はれて居{ゐ}さツしやるといふ〔こと〕で有{あり}イす。」【かけ八】「ハテネその城{しろ}さんの
お宅{うち}はへ。」【此糸】「たしかに巣鴨{すがも}とやらでおツす。」【かげ八】「そいつはたづねる
にも急{きう}な〔こと〕にはめへりますめへ。こまつたものだ。」とはなす折{をり}

(14オ)
しも入口{いりくち}の障子{しやうじ}の外{そと}に女{をんな}の声{こゑ}「ハイチツト御免{こめん}なさい
まし。」【民】「ハイどなたヱ。」「アノウ廓{てう}へよくお出{いで}の蔭八{かげはつ}さんの処{とこ}は
おまへさんでございますか。」【かげ八】「ハテナ娘{むすめ}の声{こゑ}だが何{なん}だ知らん。」[この糸は
丁{てう}ときゝて二かいへかくれる]【民】「こちらでございます。お|這入{はいり}なさいまし。」「ハイ。」ト
障子{しやうし}を明{あけ}ながらも遠慮{ゑんりよ}をなして|這入{はい}らねば【民】「サア〳〵
こちらへお上{あが}りなさいまし。何{なん}の御用{こよう}でございますか。」【かげ八】「御遠
慮{こゑんりよ}なくこちらへお上{あが}りなせへ。ハテとうか見{み}申たやうなお子{こ}
だが。」といぶかれば【娘】「ハイ久{ひさ}しくお逢{あひ}申ません。わちきは

(14ウ)
唐琴屋{から〔こと〕や}の。」【かげ八】「ハイどなただツけネ。」【娘】「ハイアノウ久{ひさ}しく本家{うち}
に居{をり}ましなんだから。」【かげ八】「ヱハヽアやつとおもひ出{だ}した。お蝶{てう}さん
でございますか。」【娘】「ハイ。」【かげ八】「ヤレ〳〵〳〵そうでございましたか。御
|免{めん}なせへ。此間{こないだ}はチツト病気{あんばい}が。」ト[いひながらすこしおきかえりて]「少{すこ}し見{み}申
さねへうちに大{たい}そううつくしくおなりなすつた。コレサお茶{ちや}を
上{あげ}ねへか。時{とき}にマアどうしてわたくしどもへたつねてお出{いで}なさい
ました。今{いま}じやア何処{どこ}にお居{いで}なさいますヱ。」【蝶】「ハイ小梅{こうめ}の方{ほう}
に居{ゐ}ますヨ。」【かげ八】「ハアそして私{わたし}に御用{ごよう}といふわけもあるめへが

(15オ)
それともなんぞ廓{あつち}へ使{つかひ}にでも参{まゐ}るわけかネ。」【蝶】「イヽヱそふ
じやアありませんが。」トしばらく言{いひ}そゝくれしが思{おも}ひ切{きつ}て
【蝶】「アノウおまへさんにチツトたのむ〔こと〕があつて参{まゐ}りました
がアノウ私{わちき}を何所{どこ}ぞへやつておくんなさいな。」【かげ八】「ヱイそ
りやアマアとんだはなしだ。何{なん}ぼおめへさんが其{その}中{なか}でお育{そだち}
なさつても藪{やぶ}から棒{ぼう}にそんな〔こと〕をおもひつかツしやるとは
よく〳〵なわけでありませうがマアどうなさつたのでござい
ますヱ。」【蝶】「ハイすこしお金{かね}が入{いり}ますからサ。」【かげ八】「サアその金{かね}の

(15ウ)
わけまた当時{たうじ}のお身{み}のうへをくわしくお聞{きゝ}申たうへは
兎{と}も角{かく}もだが何{なん}にしてもわりいおぼしめしだ。てへげへの
〔こと〕ならそうせずと外{ほか}に。」【蝶】「イヱアノウ今{いま}じやア私{わちき}の身{み}は自
由{じゆう}になつて何{なん}にもかゝり合{あひ}はないから。」【かげ八】「そして金{かね}の入用{いりよう}な
わけはへ。」【蝶】「それはネ廓{てう}に前年{まへかた}居{ゐ}たお兄{あに}イさんが今度{こんど}
実正{ほんとう}のお宅{うち}へ帰参{きさん}とやらが叶{かな}ふについていろ〳〵お金{かね}の
入{いる}といふ〔こと〕ゆゑそれを私{わちき}がこしらへて。」ト[いふこゑきいてこのいとが二かいよりしてをりきたる]
必竟{ひつきやう}此{この}すゑいかならん。次{つぎ}の一齣{いつせき}の終{をはり}をきくべし。

(16オ)
第二十四齣
さてもお蝶{てふ}は丹次郎{たんじらう}が本家{ほんけ}へ出入{でいり}身{み}を立{たつ}る其{その}手土産{てみやげ}に
先達{さきだつ}て松兵衛{まつべゑ}が横取{よこどり}せし金子{きんす}を今{いま}少{すこ}しなりとも調
達{てうだつ}したしといふ内心{ないしん}をきいてその金{かね}のために身{み}を売{うつ}て男{をとこ}
に操{みさほ}をあらはさんとせり。かくして見{み}れば歳{とし}ゆかねどその
心{こゝろ}ざし貞勇{ていゆう}にていはゆる侠気{きやうき}の娘{むすめ}といふべし。わづかの
間{あひだ}に身{み}を再度{ふたゝび}代{うら}んとするは尤{もつとも}かんしんすべき〔こと〕か。時{とき}においらん
此糸{このいと}は二階{にかい}より下来{おりきた}り【此糸】「ヲヤお蝶{てう}さん誠{ま〔こと〕}にめづらしう

$(16ウ)

姿{すがた}の花{はな}
心{こゝろ}の見立{みたて}
さくら
此糸

姿{すがた}の花{はな}
心の見立{みたて}
ききやう
於由

(17オ)

姿{すがた}の花{はな}
心{こゝろ}の見立{みたて}
あやめ
米八

姿{すがた}の花{はな}
心{こゝろ}の見立{みたて}
ゆきの

蝶吉

(17ウ)
ありイすねへ。」【蝶】「ヲヤ〳〵おいらんかへ。どうしてマアこゝへ。ヲヤいつ
そ苦労{くらう}をさしつたそうでおやせなはいましたは。」【此糸】「そうざいますか。此間中{こないだうち}からいろ〳〵と苦労{くらう}をいたしいすがおまへはマア
どうしてこゝへお出{いで}のわけでありイすへ。」トいはれてお蝶{てう}は繰返{くりかへ}し
だん〳〵のわけをはなし【蝶】「おいらんヱなぜマア私{わちき}はこのやうに
苦労症{くらうしやう}でありますだろうねへ。そしておいらんの御苦労{ごくらう}
なさいますのはやつぱり半{はん}さんのわけで有{あり}ますかへ。」【此】「アヽそふ
ざます。それに今{いま}までと違{ちが}つてモウ〳〵くやしいめにあひイ

(18オ)
したからいまだに胸{むね}がさけるやうでなりイせん。」トこれも身{み}の
うへをくはしくはなして互{たがひ}に愚痴{ぐち}をかたり合{あふ}。折{をり}から表{おもて}へ雪
踏{せつた}の音{おと}「ハイチト御免{ごめん}なさいまし。蔭八{かげはち}さんのお宅{たく}はこちらで
ございますかネ。」「ハイこちらでございます。」「へイさやうならば御免{ごめん}
なさいまし。」ト入来{いりく}る人{ひと}は桜川{さくらがは}。此糸{このいと}は目{め}ばやく見{み}とめ【此】「ヲヤ
善孝{ぜんかう}さん。」【善】「ヨウ[引]おいらんヤレ〳〵〳〵こりやア有{あり}がてへ。おめへ
さんがいらツしやりやア何{なに}もかも直{ぢき}にわかるわけだ。イヤまづ御免{ごめん}
なさいまし。」ト上{あが}る。【かげ八】「サア〳〵こちらへお出{いで}なさいまし。」【善】「ヘイ〳〵

(18ウ)
イヱモウおかまひなさいますな。時{とき}においらんマアとんだわけでご
ぜへましたネ。私{わたくし}やアさツぱりぞんじましなんだが此間{こないだ}千葉之
助{ちばのすけ}さまの御分知{おわかれ}の千葉{ちば}半之丞{はんのじやう}さまといふおやしきへはじめ
て召{めさ}れましたが是{これ}までついぞ参{まゐ}る様{やう}な御{ご}ゑんもないがどう
して召{めし}てくださるかと存{ぞんじ}て上{あが}ツて見{み}ますと旦那{だんな}さまといふは
絵岸{ゑぎし}の半{はん}さんだからきもをつぶしましてだん〳〵御様子{ごやうす}
を伺{うかゞ}ふと是{これ}までは御部屋住{おへやずみ}なり御病身{ごひやうしん}ゆゑ若隠居{わかいんきよ}なされ
てござつた所{ところ}急{きう}に親御{おやご}さまも御兄{おあにイ}さまもおなくなり遊{あそ}ばして

(19オ)
半{はん}さんが御家督{ごかとく}とおなりなされたと申〔こと〕それも御次{おつぎ}で
承{うけたまは}りましてそれから御内{ごない}意おいらんの〔こと〕をわたくしにとり
はからへとお頼{たの}みゆゑ唐琴屋{から〔こと〕や}の方{ほう}へ其{その}後{ゝち}参{まゐ}つて掛合{かけあひ}の
中{うち}咋日{さくじつ}まゐつて見{み}ると亦{また}びつくりいたしてやう〳〵今日{こんにち}こち
らへまゐりました。」【此】「ヲヤそうでありますか。マア〳〵半{はん}さんの〔こと〕は
便{たよ}りのないももつともわかりイしたが唐琴屋{から〔こと〕や}はどうしイ
した。」【善】「まだこちらではさつぱり御存{ごぞんじ}でないわけかネ。」【かげ八】「こちらから
まゐると申て置{おき}ましたからまだ何{なん}とも。」【善】「イヱ〳〵おいらんの

(19ウ)
〔こと〕ぐらゐな〔こと〕ではございません。大変{たいへん}サ。」【此】「ヲヤなんざいますヱ。」
【善】「イヱモシ誠{ま〔こと〕}にきものつぶれたおはなしサ。今{いま}の旦那{だんな}は後見{こうけん}だ
そうだがありやアモシ古鳥{ふるとり}佐文太{さぶんだ}といふ盗人{どろぼう}の頭{かしら}だそうでご
ぜへます。」【蝶】「ヱヽイそんなら本店{ほんだな}からつけた鬼兵衛{きへゑ}どんは盗人{どろぼう}で
ありますとへ。」【かげ八】「そりやアマア大変{たいへん}な〔こと〕でございます。」【善】「それが
どうして知{し}れたといふと千葉{ちば}の藤{とう}さんの御家{おうち}に居{ゐ}た男{をとこ}が
松兵衛{まつべゑ}の五四郎{ごしらう}とかいふわる者{もの}でそれが重忠{しげたゞ}さまへ召捕{めしとら}れ
てそれからだん〳〵あらはれて来{き}たそうでごぜへます。それゆゑ

(20オ)
唐琴屋{から〔こと〕や}はどうもむづかしい様子{やうす}どうか立{たち}そうも
ないといふ噂{うわさ}でございます。しかし今{いま}また他{ほか}ではなしを
きけば榛沢{はんざは}六郎{ろくらう}さまがそのまへからのおしらべで唐琴
屋{から〔こと〕や}の家{いへ}の娘{むすめ}を内〻{ない〳〵}でおたづねなされたそうだが古鳥{ふるとり}
左文太{さぶんだ}当時{とうじ}は鬼兵衛{きへゑ}後見{こうけん}ゆゑ家{いへ}にはかまひなく家財{かざい}
はその家付{いへつき}の娘{むすめ}と本店{ほんだな}へくださるだろうといふはなしを
きゝましたがそうして見{み}ればおいらんのお身{み}のうへも
どうか手軽{てがろ}く方{かた}が付{つき}ませう。いづれおいらんは半{はん}さんの

(20ウ)
方{ほう}へお出{いで}なさるわけでごぜへませうネ。」【此】「そうなりイすと
嬉{うれ}しいねへ。」【善】「それさへお聞{きゝ}申せば直{ぢき}に方{かた}をつけますが
モシわたくしやア此{この}本{ほん}の作者{さくしや}に憎{にく}まれてでも居{を}ります
かしらん野暮{やぼ}な所{ところ}といふと引出{ひきだ}してつかはれます。しかし
マア〳〵善悪{ぜんあく}の差別{わかち}がわかつておめでたい。いづれ近日{きんじつ}何{なに}も
かもおさまる様{やう}になりませう。」トいふ〔こと〕いふてそこ〳〵に帰{かへ}る
善孝{ぜんかう}其{その}跡{あと}に此糸{このいと}お蝶{てう}がはからずも悦{よろこ}びいさむ春の色{いろ}
めでたく開{ひら}く梅{うめ}ごよみ吉日{きちにち}占{ゑらみ}てそれ〳〵におさまる家{いへ}の

(21オ)
大略{おほよそ}をこゝにしるせば彼{かの}お由{よし}は藤兵衛{とうべゑ}が妻{つま}となり又{また}此
糸{このいと}は半之丞{はんのでう}が方{かた}へ行{ゆき}お蝶{てう}が素生{すじやう}はこれより後{のち}六郎{ろくらう}成
清{なりきよ}の正{たゞ}しにて近常{ちかつね}が種{たね}なるよし相{あひ}わかり丹次郎{たんじらう}が
〔こと〕を内〻{ない〳〵}世話{せわ}になりし恩{おん}といひ操{みさほ}めでたき娘{むすめ}なれば
麁略{そりやく}にならずと我{わが}子{こ}丹次郎{たんじらう}が別段{べつたん}に名跡{みやうせき}をたつる
心願{しんぐわん}かなひ繁昌{はんじやう}の基{もとひ}をひらく時{とき}に臨{のぞ}んでお蝶{てう}は本妻{ほんさい}
となり米八{よねはち}もひとかたならぬ貞実{ていじつ}なれば親{おや}の六郎{ろくらう}へ
はれてお部屋{へや}さまとうやまはれいづれもその中{なか}睦{むつま}しく

(21ウ)
新造{しんざう}糸花{いとはな}遣手{やりて}の杉{すぎ}判人等{はんにんとう}善{よき}人{ひと}はいづれもすゑ〴〵
めでたくさかへまた悪人{あくにん}はそれ〳〵に罪{つみ}をかうむり四人{よにん}の女
子{によし}はお由{よし}を第一{だいゝち}とし此糸{このいと}を二{に}ばんとなし三番目{さんばんめ}を米八{よねはち}
とし四人目{よにんめ}をお蝶{てう}とさだめ歳{とし}のじゆんにて内〻{ない〳〵}は姉妹{きやうだい}
のやくそくをなし子宝{こだから}おほくまうけつゝ幾代{いくよ}かかほる春{はる}の
梅{うめ}実{み}いりをこゝに寿{〔こと〕ほぎ}てめでたく筆{ふで}をおさめはべりぬ。
春色梅児誉美巻の十二大尾


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142254)
翻字担当者:梁誠允、洪晟準、成田みずき、藤本灯
更新履歴:
2017年4月5日公開

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