日本語史研究用テキストデータ集

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春色梅児与美しゅんしょくうめごよみ

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巻十

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春色梅児与美 巻十

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(口1オ)
今{いま}も昔{むかし}も世{よ}の中{なか}の人{ひと}の心{こゝろ}のやさしきは千〻{ちゞ}の金{こがね}にます
なるべし。殊{〔こと〕}に女子{をなご}はよしあしに付{つき}てやさしう有{あり}た
けれ。家{いへ}富{とみ}栄{さか}えて何事{なに〔ごと〕}も愁{うれ}ひなき日{ひ}はたれとても
心{こゝろ}ばへさへうつくしく恨{うらみ}し顔{かほ}もはしたなき言葉{〔こと〕ば}もな
くて過{すご}せども家{いへ}衰{おとろ}へて昨日{きのふ}より今日{けふ}は貧{まづ}しく
なりし時{とき}誠{ま〔こと〕}の心{こゝろ}は見{み}え侍{はべ}れ。別{わけ}て男女{なんによ}のなからひは
翠帳紅閨{すいちやうこうけい}の中{うち}に新枕{にひまくら}せしその初{はじめ}は偕老同穴{かいらうどうけつ}のかたらひを

(口1ウ)
なし後世{ごせ}かけて契{ちぎり}おくしたしみのあはれにもなつかしく
嬉{うれ}しくも聞{きゝ}きかれし約束{やくそく}も男{をとこ}の身{み}の上{うへ}おとろへては
秋{あき}の紅葉{もみぢ}と色{いろ}かはり野辺{のべ}のちくさとかれ〳〵になりなん
〔こと〕はあぢきなくいと〳〵まさなきわざになん。むかし
もろこしに孟光{まうくわう}といふ女{をんな}あり。富人{よきひと}の娘{むすめ}なりけれどその
夫{をつと}陵伯春{りやうはくしゆん}といへる人{ひと}しだい〳〵におちぶれて覇陵{はりやう}といふ
所{ところ}に世{よ}をのがれさもたのみなき時節{とき}となれども孟光{まうくわう}
はうしともせず夫{をつと}とともに彼処{かしこ}へ行{ゆき}田{た}をかへし草{くさ}を

(口2オ)
刈{かり}または手{て}づからはたを織{おり}人{ひと}にやとはれ賎{いや}しきわざ
をなしつゝも礼義{れいぎ}を厚{あつ}く男{をとこ}につかへて他{よそ}の富貴{ふうき}
を見{み}かへらず誠{ま〔こと〕}を尽{つく}してつかへしとぞ。嗟{あゝ}近世{いまのよ}の娘{むすめ}たち
この半{なかば}をも守{まも}り得{え}ず義理{ぎり}と道{みち}とにそむきても美衣{よききぬ}を着{き}
てひけらかし出世{しゆつせ}と思{おも}ふ人{ひと}でなしも姿{すがた}の花{はな}の色ざ
かりによしや一度{ひとたび}栄{さか}ゆるとも凡{およそ}生{いき}としいけるもの浮世{うきよ}の
秋{あき}にあはざらめや。身{み}にはつゞれをまとふとも心{こゝろ}清{きよ}
きはめでたくも尊{た}ふとき人{ひと}といふなるべし。典侍{ないしのすけ}直{なほゐ}

(口2ウ)
子{こ}の歌{うた}に
あまの刈藻{かるも}にすむ虫{むし}のわれからと
ねをこそなかめ世{よ}をばうらみじ
おもしろからぬ筆{ふで}くせながら金竜山人{きんりうさんじん}が老婆心{らうばしん}
巻{まき}をひらくの児女達{こどもしゆ}によくよみ給へと申になん。
狂訓亭
為永春水誌〈花押〉

$(口3オ)
よるの梅
見てもどり
しと女房に
いひわけくらき
袖のうつり

書房文永堂上梓
春色梅児与
美第四輯全
本弐巻
天保四癸巳陽春発行之記
柳川重信画図
柳川重山画図

$(口3ウ)
隅田川{すみだがは}
勝景{しょうけい}
真写{しんのかたち}
関口{せきぐち}より
横{よこ}にみる図{づ}

$(口4オ)
匂ひをは
風にそふ
とも
梅の花
色さへ
あやな
あだに
ちら
すな

$(口4ウ)
竹蝶吉{たけてふきち}
文亭主人
雨露に
うたるればこそ
もみぢ葉の
錦をかざる
秋は
有けり
晋子
新月や
いつそむかしの
をとこ山
梅{うめ}の於由{およし}

$(口5オ)
唐琴屋{から〔こと〕や}内{うち}
全盛{ぜんせい}此糸{このいと}
物思ふ枕に
ちりのつもりてや
恋てふ山の名には
たつらむ

$(口5ウ)
○春若みまだ鶯も片言に
ほゝう〳〵とほむる梅か香 二代目十返舎一九
○酒の名の白梅に来て鶯の
てうし高くも初音つげけり 仮名迺末成
○吾妹子が袖かとぞ思ふ閨の戸の
あくるおそしと匂ふ梅が香 松亭金水
○文好む名にめでゝこそ梅ごよみ
ひらかせたまへ四方のちご達 三亭春馬

(1オ)
春色{しゆんしよく}梅児誉美{うめこよみ}巻の十
江戸 狂訓亭主人著
第十九齣
|十七回次{さても}お由{よし}と蝶吉{てふきち}は彼{かの}藤兵衛{とうべゑ}が音信{おとづれ}を待{まつ}に甲|斐{ひ}
なきその人{ひと}の噂{うわさ}も何{なに}やら気{き}にかゝる風聴{やうす}に心{こゝろ}を定{さだめ}つゝ【由】「モシ
五四郎{ごしらう}さんとやら今{いま}のお言葉{〔こと〕ば}の前後{あとさき}をお聞{きゝ}まうせば藤
兵衛{とうべゑ}さんに何{なん}ぞ済{すま}ぬ〔こと〕が出来{でき}たのでございますか」と聞{きか}れ
て【五四郎】「イヱモシどうもとんだ〔こと〕さネ。アノ

(1ウ)
藤{とう}さんは千葉{ちば}の材|木座{もくざ}で第{だい}一{いち}ばんの福有人{ぶげんしや}殊{〔こと〕}に侠客{きしやう}な
お方ゆゑ世間{せけん}も広{ひろ}く誰{たれ}一人{ひとり}指{ゆび}さすものもねへ。ところが
今度{こんど}は少{すこ}しむづかしい理屈{わけ}といつても外{ほか}ではない。余{あんま}り
諸方{ほう〴〵}附合{つきあひ}が広{ひろい}によつてむだ金{がね}が際限{さいげん}もなく入{いつ}たゆゑ
大分{だいぶ}内証{ないせう}がまはつたそうさ。まづそれは兎{と}も角{かく}も今日{けふ}わた
しがお尋{たづ}ねまうすは外{ほか}じやアない。寮防町{りやうばうまち}のお阿{くま}といふばア
さんの抱{かゝへ}お蝶{てふ}といふ子{こ}の給金{きうきん}を。」ト聞{きい}てお蝶{てふ}は胸{むな}さはぎ姉{あね}
のお由{よし}と顔{かほ}見合{みあは}せはや涙{なみだ}ぐむ娘気{むすめぎ}の先{さき}くゞりせし案{あん}じ㒵{がほ}。

(2オ)
五四郎{ごしらう}は心{こゝろ}に笑{ゑみ}【五四】「さてその給金{きうきん}を藤兵衛{とうべゑ}さんが残{のこ}らず
勘定{かんぢやう}してばアさんに渡{わた}しなすつたところがその金{かね}を藤{とう}
さんが帰{かへ}るとその晩{ばん}盗人{どろぼう}が|這入{はいつ}てぬすんで行{いつ}た。トいつても
藤{とう}さんは構{かま}いもないとおぼしめそうがその盗人{どろぼう}の|這入{はいつ}た
跡{あと}に藤{とう}さんの鼻紙袋{はながみぶくろ}中{なか}には証古{しようこ}の名前{なまへ}の書物{かきもの}そ
こで老女{ばゞア}も気{き}が付{つい}て渡{わた}した金{かね}を藤{とう}さんがまたその
晩{ばん}に盗{ぬす}みに来{き}たと推量{すいりやう}ゆゑ紙入{かみいれ}を証古{しようこ}に表向{おもて}にする
といふところへ丁度{ちやうど}行合{ゆきあは}して聞{きけ}ばまんざら藤{とう}さんとも知り

(2ウ)
合{あつ}たわたしの〔こと〕聞捨{きゝすて}にもならねへときのふから藤{とう}さんを
お尋{たづ}ねまうしたわけだけれどモウ内〻{ない〳〵}にはならねへと聞{きい}
て見{み}りやア仕{し}かたがねへがどふぞお阿{くま}に金{かね}をマア半金{はんきん}でも
渡{わた}して取留{とりとめ}て内済{ないさい}にしたいものだ。」トいふ折{をり}からに表{おもて}の
方{かた}岡八{をかはち}は声{こゑ}を掛{かけ}【岡八】「五四郎{ごしらう}さんそんならお気{き}の毒{どく}だが
お代官{だいくわん}さまへお阿{くま}さんをやりやすゼ。」【五四】「ヲイ〳〵岡八{をかはち}手{て}めへ
どふか今日{けふ}一日{いちんち}延{のば}すやうにはなしちやアくれられめへか。アヽ
これこんな〔こと〕ゝは藤{とう}さんは知{し}んなさるめへ。こまつたものだ。」【由】「モシ

(3オ)
どうぞ内〻{ない〳〵}にする仕{し}やうはございますまいかネ。」トさすがに
利発{りはつ}なお由{よし}でも身{み}にかゝりたる藤兵衛{とうべゑ}が噂{うわさ}に心{こゝろ}もくらみ
てやお蝶{てう}はもとより年{とし}ゆかず途方{とはう}にくれたる女{をんな}同士{どし}。【由】「ノウ
お蝶{てう}よもや藤{とう}さんが其様{そん}な〔こと〕はありもしまひねへ。」【蝶】「アイ
どうしてそんなこわい〔こと〕が他{ひと}の物{もの}をとるなんぞといふ〔こと〕は。」
【五四】「サアモシねへは知{し}れてゐるが紙入{かみいれ}といふ証古{しようこ}があつてお阿{くま}
ばアさんの心{こゝろ}の底{そこ}にも藤{とう}さんがわすれて置{おい}て行{いつ}たろ
うと少{すこ}しは思{おも}ひもしようけれどうぬが麁相{そさう}でとられた

(3ウ)
金{かね}取{とり}つくしまがねへゆゑに邪{じや}も非{ひ}もかまはず藤{とう}さんを相
手取{あひてどる}気{き}になつたのは持{もち}まへの強欲{がうよく}ものどうも仕{し}かたがご
ざいません。」ト聞{きい}てお由{よし}は五四郎{ごしらう}に相談{さうだん}し貯{たくわへ}の金{かね}少〻{せう〳〵}
と衣類{いるゐ}その外{ほか}取{とり}あつめ十五六|両{りやう}ほどの品〻{しな〴〵}を風呂{ふろ}しき
そへて浅{あさ}はかにも渡{わた}せば五四郎{ごしらう}請取{うけとつ}て【五四】「ヤレ〳〵はや
わたしは藤{とう}さんをおたづねまうすばかりに来{き}たがどふも仕{し}
かたがねへ。乗掛{のりかゝ}つた舟{ふね}だ。これをそんなら七ツ{なゝつ}やへやらかして
マアざつと半金{はんきん}だ。これでおくまをなだめやせう。とはいふ

(4オ)
ものゝ藤{とう}さんは一向{いつかう}知{し}らねへわけで外{ほか}から盗人{どろぼう}が出{で}た日{ひ}
にはたちまちかへる此{この}代物{しろもの}よくマア数{かず}を書附{かきつけ}にでもな
さいませんか。」【由】「イヱナニ大界{たいがい}おぼえておりますヨ。それより
は早{はや}く済{すむ}やうにその内{うち}藤{とう}さんがお出{いで}ならおまへのお咄{はな}しを
いたそうがおまへのお宅{うち}はどちらでございますか。」【五四】「ヱハイわ
たくしはアノお阿{くま}ばアさんの直{ぢき}に裏長屋{うらながや}におります。いづ
れまた明朝{みやうあさ}までに此方{こなた}へ参{まゐ}ります。」ト風呂敷{ふろしき}背負{せお}ひ
出{で}かける門口{かどぐち}お蝶{てう}が方{かた}をたづねつゝ爰{こゝ}へ来{き}かゝる丹治郎{たんしらう}五

$(4ウ)

$(5オ)

(5ウ)
四郎{ごしらう}と突当{つきあた}り【丹】「イヤ久{ひさ}しいな松兵衛{まつべゑ}能{いゝ}所{ところ}で逢{あつ}た。
マア下{した}に居{ゐ}や。」【五四】「ハイ今{いま}少{すこ}し急用{きうよう}が。」ト迯出{にげいだ}すを引戻{ひきもど}
し「此{この}盗人{どろぼう}めヱ。ふてへ奴{やつ}だ。うぬがお蔭{かげ}で丹治郎{たんじらう}が日
影{ひかげ}をよける今{いま}の難義{なんぎ}畠山{はたけやま}さまへ引ずつて行{いつ}ておはらひ
に出{で}た宝{たから}の行衛{ゆくゑ}知{し}れてはあれど金子{きんす}の行道{ゆきみち}主人{しゆじん}の
判{はん}を偽{にせ}た重罪{ぢうざい}。サア一所{いつしよ}にうせおれ。」と立懸{たちかゝ}ればふり
ふりはらひ【五四】「古主{こしゆう}といつても五日{ごんち}か三{さん}日|下{した}から出りやア*「ふりふりはらひ」の「ふり」は衍字か
付{つけ}あがり覚{おぼ}えもしねへ宝の金{かね}のと畠山はさておいて鎌

(6オ)
倉{かまくら}御所{こしよ}から呼{よび}に来{き}ても行{いき}たくなけりやア行{いか}ねへ。」ト
欠出{かけだ}す五四郎{ごしらう}組付{くみつく}丹次{たんじ}あらそふところに岡八{をかはち}が丹
次郎{たんじらう}を引倒{ひきたふ}し【岡】「この昼{ひる}鳶{とんび}めヱ何{なに}をするのだ。顔{つら}に
似合{にあは}ぬ荒{あら}かせぎサア五四郎{ごしらう}さん急{いそ}ぎなせへ。」ト丹次郎{たんじらう}
が顔{かほ}をこぶしにて二ツ三ツうちなやまして欠出{かけだ}す二人{ふたり}
それと見{み}るよりお蝶{てう}は走出{はせいで}【蝶】「お兄{あに}イさん丹{たん}さんお怪
我{けが}はなさいませんか。どうなすつたのでございます。」ト泣声{なきごゑ}
すればお由{よし}も門{かど}へ出{いづ}る向{むか}ふの縄手道{なはてみち}今{いま}欠出{かけだ}した五四

(6ウ)
郎{ごしらう}と彼{かの}岡八{をかはち}が衿{ゑり}がみをつかんで投出{なげだ}す千葉{ちば}の藤兵衛{とうべゑ}。
○そも〳〵五四郎{ごしらう}といへるは元{もと}丹次郎{たんじらう}が養子{やうし}に行{ゆき}たる
養家{やうか}の番頭{ばんとう}松兵衛{まつべゑ}といふ悪漢{わるもの}にて丹次郎{たんじらう}が以
前{いぜん}の養家{やうか}唐琴屋{から〔こと〕や}の鬼兵衛{きへゑ}となれ合{あひ}丹次郎{たんじらう}を
だまして主{しゆう}の養子{やうし}となし忽{たちま}ちその家{いへ}を押{おし}つぶし
借金{しやくきん}其{その}外{ほか}を丹次郎{たんじらう}になすり付{つけ}畠山家{はたけやまけ}の払物{はらひもの}を
梶原家{かぢはらけ}へ売{うり}その金{かね}を取迯{とりにげ}し酒色{しゆしよく}とかけ事{〔ごと〕}に
遣{つか}ひなくして隠{かく}れまはり近頃{ちかごろ}千葉{ちば}の藤兵衛{とうべゑ}が方{かた}

(7オ)
に番頭{ばんとう}となりて有{あり}しが藤兵衛{とうべゑ}此{この}ほど上州{じやうしう}信州{しんしう}の
山方{やまがた}へ急{きう}に商売用{しやうばいよう}にて行{ゆか}ねばならぬ用事{ようじ}の出来{でき}
て山方{やまがた}のものと同道{どう〴〵}し旅立{たびだつ}時{とき}しも此{この}五四郎{ごしらう}に
お蝶{てう}が〔こと〕をくはしくはなし金子{きんす}を預{あづ}け寮防町{りやうばうまち}
のお阿{くま}が方{かた}を掛合{かけあは}せまたお蝶{てう}が〔こと〕お由{よし}が〔こと〕を残{のこ}
らずのみこませてはからはせんとなせしにさすが
藤兵衛{とうべゑ}も母親{はゝおや}の手前{てまへ}をかねて内〻{ない〳〵}の〔こと〕なれ
ばさらに他{ひと}は知{し}らざれば五四郎{ごしらう}持病{ぢびやう}の悪念{あくねん}

(7ウ)
きざし主人{しゆじん}藤兵衛{とうべゑ}がこのたびの旅立{たびだち}なか〳〵
三十日にはかへりがたしと推量{すいりやう}し|古支配人{いちばんとう}の眼{め}
をかすめ十|両{りやう}ばかり見{み}せの金{かね}を盗{ぬす}みおくまへは
亦〻{また〳〵}一二|両{りやう}を渡{わた}し置{おき}お蝶{てう}が方{かた}へしりの行{ゆか}ぬやう
にしておきて今日{けふ}偽{いつわり}りてお由{よし}が方{かた}へ来{きた}り同類{どうるい}の
岡八{をかはち}と二人{ふたり}にてうまくお由{よし}をだまし金子{きんす}衣類{いるゐ}
をかたり取{とり}しが天誅{てんちう}の時{とき}や来{きた}りけん藤兵衛{とうべゑ}は
山方{やまがた}の相談{さうだん}〔ごと〕途中{とちう}にて調{とゝの}ひにはかに立帰{たちかへ}りて

(8オ)
五四郎か取迯{とりにげ}の様子{やうす}を聞お阿{くま}が方{かた}の埒{らち}あかさ
るまで聞{きゝ}たゞしそれより爰{こゝ}へ来{きた}りしゆゑ五四
郎をとらへしなり。よろしく察{さつ}してよませたまへ。
梅のお由と蝶吉{てうきち}は思案{しあん}に落{おち}ぬ藤兵衛がこの場{ば}の様
子{やうす}あやしみてたゞすむところへ藤兵衛{とうへゑ}は二人の奴{やつ}を
引ずりながら【藤】「サアうしやアがれ盗人{どろぼう}めらと五四
郎か手を捻{ねぢ}かえす。」。透間{すきま}に迯出{にげだ}す岡{をか}八の向{むか}ふへ来{き}
かゝる立派{りつは}の侍{さむらひ}行{ゆき}ちがひさま岡八を手もなくいましめ

(8ウ)
此方へむかひ【侍】「藤兵衛|其奴{そやつ}を迯{にが}しまするな。」と
声{こゑ}かけられておどろく藤兵衛【藤】「ヤヽ貴君{あなた}は本田{ほんた}の
次郎さまこれは〳〵と彳{たゝす}むところへこわ〴〵|出迎{むか}ふ
蝶吉{てうきち}が案内{あんない}につれて藤兵衛が彼{かの}侍に会釈{ゑしやく}すれば
本田の次郎も打{うち}うなづき霞{かすみ}にあらで春{はる}の野{の}に
引や縄{なは}手を笹垣{さゝかき}の内へ追立{おつたて}入二人思ひがけなきいまし
めの二人も屠所{としよ}のひづし稲{いね}それさへ枯{かれ}て芹{せり}なづなその*「ひづし」(ママ)
七|草{くさ}のかひもなく後悔{こうくわい}してぞひかれゐる。」。

(9オ)
第二十齣
再説{かくて}本田{ほんだ}の近常{ちかつね}は於由{およし}が寓居{すまゐ}の座{ざ}しきへ通{とほ}れば藤兵衛{とうべゑ}
お由{よし}蝶吉{てふきち}はおの〳〵首{かうべ}を畳{たゝみ}に付{つけ}て不思義{ふしぎ}の来駕{らいが}と問{と}ひ
まうせば次郎{じらう}は悪漢等{わるものら}を庭{には}の樹立{こだち}につながせてさて藤兵衛{とうべゑ}
にまうしけるは【本】「我身{わがみ}只今{たゞいま}此{この}岡八{をかはち}を召捕{めしとり}たるは主君{しゆくん}
重忠{しげたゞ}の御下知{おんげぢ}にて兼〻{かね〴〵}詮穿{せんさく}ある白徒{しれもの}なればなり。又{また}其{その}
方{はう}が捕{とら}へたるは丹次郎{たんじらう}といへるものに難義{なんぎ}を懸{かけ}たる不忠{ふちう}の手
代{てだい}松兵衛{まつべゑ}といへるものに似{に}たり。何{なに}ゆゑに召{めし}とらへたるや定{さだ}めて

(9ウ)
よからぬ子細{しさい}ありて見退{みのが}しがたき分{わけ}ならん。其{その}義{ぎ}は何{なに}か知{し}ら
ねども既{すで}に旧悪{きうあく}あるものならば岡八{をかはち}もろ共{とも}文注所{もんぢうしよ}に召{めし}つれ
させん。其{その}方{はう}の手{て}に捕{とら}へし彼奴{かやつ}が悪事{あくじ}は何事{なに〔ごと〕}ぞ。」と問{とは}れて
藤兵衛{とうべゑ}此{この}程{ほど}の一十{はじめをはり}をまうしければお由{よし}蝶吉{てふきち}はいふも更也{さらなり}
今{いま}入{い}り来{きた}りし丹次郎{たんじらう}も蔭彳{かたへぎゝ}して五四郎{ごしらう}が其{その}悪計{あくけい}に
おそれけり。斯{かゝ}る処{ところ}へ近常{ちかつね}が供人{ともびと}凡{およそ}三四人{さんよにん}垣{かき}の外{そと}より差
覗{さしのぞ}き扣{ひかゆ}る風情{ふぜい}に本田{ほんだ}の次郎{じらう}これを門{かど}より呼{よび}いれて五
四郎{ごしらう}岡八{をかはち}を引渡{ひきわた}し牢屋{ひとや}へつれよと言{いひ}ふくめ来{きた}りし家

(10オ)
来{けらい}は先{さき}に帰{かへ}し其{その}身{み}は跡{あと}にとゞまりて【近】「トキニ藤兵衛{とうべゑ}かねて
頼{たの}みし義{ぎ}はひそかにたゞしくれられたるかたゞしはいまだ其{その}実
否{じつふ}をさぐりがたいやうすかな。イヤその〔こと〕はともかくも此{この}家{や}を見{み}
れば女主{をんなあるじ}の住居{すまゐ}の様子{やうす}長座{ながゐ}いたさばさだめて迷惑{めいわく}また
内〻{ない〳〵}の〔こと〕を|他人{ひと}中{なか}でたづね申もいかゞしい。」【藤】「イヱ〳〵これは
私{わたくし}が退{のが}れ難{がた}い内縁{ないゑん}の者{もの}の宅{たく}少{すこ}しも御遠慮{ごゑんりよ}はいりませぬ。
しかししばらく皆〻{みな〳〵}には遠慮{ゑんりよ}いたさせ申ませう。」といふを聞{きく}
より蝶吉{てふきち}於由{およし}は勝手{かつて}の方{かた}へ立{たつ}て行{ゆく}。跡{あと}に藤兵衛{とうべゑ}膝{ひざ}すり寄{よせ}

(10ウ)
【藤】「彼{かの}お頼{たの}みの一件{いつけん}はくわしく詮穿{せんさく}いたしましたが唐琴屋{から〔こと〕や}
の養子{やうし}にて又〻{また〳〵}他家{たけ}へ養子{やうし}に参{まゐ}りその家{いへ}破滅{はめつ}の折{をり}からに
難義{なんぎ}を請{うけ}し丹次郎{たんじらう}どのこそ素生{すじやう}は例{れい}の血{ち}すぢに相違{さうゐ}ご
ざりません。」【近】「スリヤ榛沢{はんざは}六郎{ろくらう}が隠{かく}し子{ご}にて藁{わら}のうへより
その母{はゝ}諸共{もろとも}他{た}へ遣{つか}はせし小児{せうに}なる丹次郎{たんじらう}にてありけるか。六
郎{ろくらう}成清{なりきよ}が頼{たの}みしにはあらざれど同役{どうやく}のよしみ子{こ}を思{おも}ふ親{おや}
の心{こゝろ}を思{おも}ひやつて年来{ねんらい}たづねし我{わが}誠心{せいしん}行{ゆき}とゞいて満足{まんぞく}いた
す。時節{じせつ}を待{まつ}て親{おや}六郎{ろくらう}へ対面{たいめん}いたさせつかはすでござらう。し

(11オ)
かし彼{かの}丹次郎{たんじらう}が浪〻{らう〳〵}の宅{たく}へ宝{たから}の一義{いちぎ}で参{まゐ}りし時{とき}十五六|才{さい}
の容義{みめ}よき娘{むすめ}が深{ふか}き中{なか}にてあるやうす参{まゐ}り合{あは}して見{み}
とめしが猶{なほ}その外{ほか}に彼是{かれこれ}と心{こゝろ}まよはすうかれ者{もの}と聞{き}いては
どうやら物堅{ものがた}い六郎{ろくらう}どのへ親子{おやこ}の対面{たいめん}此{この}近常{ちかつね}が請合{うけやつ}て今{いま}
は妻{つま}さへ持{もち}し身{み}ととりなし難{がた}い浮気{うはき}ではかへつて年{とし}倍{ばい}の成
清{なりきよ}へ恥{はぢ}をあたゆる同前{どうぜん}じやが親子{おやこ}なのりをいたさせてたとへ家
督{かとく}とならずとも榛沢氏{はんざはうぢ}の嫁{よめ}じやともいはれる様{やう}な女子{をなご}どもで
ござるかな。」【藤】「其{その}義{ぎ}もいろ〳〵手{て}を尽{つく}し品{しな}を代{かえ}て詮穿{せんさく}いたし

(11ウ)
ためしましたがいづれも実義{しつぎ}と見{み}とゞけましてそれとはなし
に丹次郎{たんじらう}どのへ見継心{みつぎごゝろ}にいたした義{ぎ}も大{おほ}かたとゞきましたる
様子{やうす}猶{なほ}又{また}しかと相正{あひたゞ}して。」【近】「万事{ばんじ}如才{ぢよさい}のなき貴殿{きでん}このうへ
ともに何事{なに〔ごと〕}も。」【藤】「ヘイイヱ毎度{まいど}御屋敷{おやしき}さまの御恩{ごおん}と申|別{べつ}して
御{ご}ひいきくださいまする榛沢{はんざは}さまなり尊君{あなた}なり此{この}様{やう}な御用{ごよう}
ぐらゐは百分一{ひゃくぶいち}にもたらぬお礼{れい}。それにつきましても先達{さきだつ}て
御新造{ごしんぞ}さまのわたくしへ内〻{ない〳〵}仰聞{おほせきけ}られました〔こと〕貴君{あなた}さま
にも御召仕{おめしつか}ひの女中{ぢよちう}に御手{おて}をつけられましたことのござり

(14オ)
まして其{その}時{とき}妊身{にんしん}いたせし様子{やうす}しかとわからぬ〔こと〕ゆゑに捨{すて}お
きしが後〻{のち〳〵}きけばその女中{ちよちう}お種{たね}を安産{あんさん}いたされてそれを
つれ子{こ}でいづれへか縁{ゑん}づかれしまで御聞{おんきゝ}なされその御行衛{おゆくゑ}
もわたくしへたづねくれよといふおたのみゆゑこれもいろ〳〵
心{こゝろ}をつけましておりますが只今{たゞいま}もつて手{て}がゝりが。」トいはれて
近常{ちかつね}面{おもて}を赤{あか}め【近】「これは〳〵ぞんじもよらぬ妻{つま}が頼{たの}み。此{この}
後{のち}とても左様{さやう}な義{ぎ}は決{けつ}して詮穿{せんさく}いたすにおよばず何{なに}十五|年{ねん}
も昔{むかし}の〔こと〕心{こゝろ}にかけもいたさぬ義と口にはいへど心にはたれも

$(14ウ)

$(15オ)
苫舟も
月見
せて
から
動く
なり
風呂の手て
引裂く窓や
梅の花
紙子の
音を呵る
うくひす

(15ウ)
かはらぬ愛情{あいしやう}の今{いま}さら思ひ出{いで}られて何所{いづく}にあるか無事{ぶじ}な
かと案{あん}じは顔{かほ}に顕{あら}はれしがさすがは武家{ぶけ}の意地{いぢ}つよく。」【近】「イヤ
ナニ藤兵衛{とうべゑ}六郎{ろくらう}が見かへらぬ実子{じつし}の〔こと〕を心{こゝろ}をもちひ詮穿{せんさく}い
たすは同役{どうやく}の好身{よしみ}ばかりでなくいまだ榛沢氏{はんざはうぢ}に家督{かとく}の子息{しそく}
なきゆゑに第一|主君{しゆくん}へ不忠{ふちう}なり彼{かの}人{ひと}の先租{せんぞ}へも不孝なり
と思ふによつていたすわけ。この近常{ちかつね}は愚妻{ぐさい}の腹{はら}より出生{しゆつしやう}
の小児{こども}も二人{ふたり}まである〔こと〕なればかならずともに妻{さい}が頼{たの}みほね
をりくれるにおよばぬ義{ぎ}くれ〴〵捨{すて}ておかれヨ。」ト是{これ}より家

(16オ)
内{かない}を呼{よび}いだしていねいにいとまをつげ誉田{ほんだ}の次郎{じらう}は立帰{たちかへ}る。亦{また}
丹次郎{たんじらう}はこれよりさき藤兵衛{とうべゑ}といひ近常{ちかつね}を見{み}て何{なに}とやらん
うしろめたくお蝶{てふ}にわかれてかへりしなり。さて藤兵衛{とうべゑ}はその
跡{あと}にてお由{よし}お蝶{てふ}に向{むか}ひ【藤】「ヤレ〳〵両人{ふたり}ながらきもをつぶした
ろうのう。」【由】「ほんにマアだまされるとは知{し}らずおまへさんのお顔{かほ}
を見{み}るまではどんなに苦労{くらう}をいたしましたろう。」【蝶】「モウ〳〵
誠{ま〔こと〕}にかなしくつて私{わたくし}の〔こと〕からおまへさんがどうかされると
いふ〔こと〕ゆゑ悲{かな}しくつてなりましなんだ。」【藤】「そうだろふとも。

(16ウ)
最{もう}少{すこ}しおれが来{き}やうがおそいとあいつらにいゝやうにされる
ところであつた。そのかはりばちが当{あた}つて近常{ちかつね}さまにつかま
つて連{つれ}て行{いか}れたからモウあいつらはそれ〳〵のお刑法{しおき}になる
からわりい〔こと〕はしねへもんだ。イヤあんまりごた〳〵してはなす
のを忘{わす}れたが今{いま}こゝへ来{く}るまへにお阿{くま}が所{ところ}へ寄{よつ}て金{かね}は此間{こないた}渡{わた}
したがお蝶{てふ}ぼうの証文{しようもん}が見{み}えねへといふから仮請取{かりうけとり}を取{とつ}て
隣{となり}の人{ひと}が請人{うけにん}で今日{けふ}までに証文{しようもん}を尋{たづ}ねて帰{けへ}すやくそく
だからそれを取{とり}に寄{よつ}たらお阿{くま}ばアさんがの毒魚{ふぐ}にあたツて

(17オ)
死{しん}だといふ所{ところ}へ行合{ゆきあは}したがイヤお阿{くま}が毒魚{てつぽう}で死{し}ぬと云{いふ}
はとんだ落{おと}し咄{ばな}しだ。あんなによくばりやアがつたが死{し}んで
見{み}りやアいくぢはねへゼ。仕合{しあは}せなものは店請{たなうけ}ばかりだ。吊{ともらい}を
しまふと直{すぐ}に雑作{ざふさく}もなにも売{うる}といふ相談{さうだん}で長屋{ながや}の道
具屋{だうぐや}が来{き}て直{ね}をつけてゐて長屋中{ながやぢう}が寄{より}あつまつて高
笑{たかわら}ひをして泣{なく}ものは一人{ひとり}もなし道具屋{だうぐや}に葬式{ともらい}ぐるみ
引{ひき}とらねへかといふ相談{さうだん}をしてわらつて居{ゐ}るやつサ。なる
ほど人間{にんげん}といふものは欲{よく}をかはくがものはねへぜ。それだから

(17ウ)
妻子{さいし}珍宝{ちんぼう}及{きう}王位{わうゐ}臨命{りんみやう}終時{しうじ}不随者{ふずゐしや}と仏{ほとけ}さまがホイ〳〵
こんな野暮{やぼ}をいつて老込{おいこみ}たがる〔こと〕もねへ。それよりか
コウお蝶{てう}ぼうモウおめへのからだは何所{どこ}からもしりの来{く}る
気{き}づけへはねへぜ。」【蝶】「ま〔こと〕にありがたふございます。しかし
マアお阿{くま}さんもかわいそうな〔こと〕をいたしましたねへ。」【藤】「
なるほどおめへの気{き}めへじやアいゝきびだとはおもふめへが
ナニ〳〵善悪{ぜんあく}ともにむくいのくる時節{じせつ}だはナ。」【由】「こわい
ものでございますねへ。」【藤】「イヤおらア今日{けふ}は大切{だいじ}な日{ひ}だ。斯{かう}

(18オ)
しちやアゐられねへ。うしやへ駕籠{かご}をそう言{いつ}てイヤ〳〵
駕籠{かご}より舟{ふね}にしようか。」【蝶】「ヲヤなぜヱ。今夜{こんや}は此方{こつち}へ
お泊{とま}りなさいましな。」【由】「何{なに}を思{おも}ひ出{だ}して急{きう}にお帰{かへ}りな
さるのだねへ。」【藤】「実{しつ}は此方{こつち}へ遊{あそ}びに来{き}たのだけれど今{いま}
思{おも}ひ出{だ}すと今日{けふ}は巳{み}の日{ひ}だ。是非{ぜひ}洲崎{すさき}へ参詣{まゐら}ねへけ
ればならねへ。」【蝶】「弁天{べんてん}さまへかへ。」【藤】「そうヨ。」【蝶】「姉{ねへ}さんと
私{わちき}と同道{いつしよ}につれてお出{いで}なさいな。」【藤】「イヤおそくなつたから
今日{けふ}はよしねへ。余程{よつぽど}いそかなければならねへ。」といふ折{をり}から

(18ウ)
|七ツ{なゝつ}の鐘{かね}ボウン[引]。【由】「ほんにモウ七{なゝ}ツだネ。」【藤】「なんだか
今日{けふ}は日{ひ}がみぢかい。」ト急{いそ}ぎあわてて帰{かへ}りゆく。これは偖{さて}
おき米八{よねはち}はいつぞやよりして仇吉{あだきち}と恋{こひ}の意恨{いこん}のもつ
れにて丹次郎{たんじらう}とも毎度{いくたび}か口舌{くぜつ}をせしが此{この}頃{ころ}は浮名{うきな}の
立{たち}しのみならず仇吉{あだきち}がために八幡{はちまん}の社内{しやない}でてうちやく
され人前{ひとまへ}にて恥{はぢ}をうけ其{その}しかへしの覚悟{かくご}をきはめ
今宵{こよひ}洲崎{すさき}の弁天{べんてん}へ夜参{よまゐ}りをする仇吉{あだきち}が跡{あと}をしたふ
て磯{いそ}づたひ巳{み}の日{ひ}なれども夜{よる}なれば人目{ひとめ}あらぬを幸{さいは}ひ

(19オ)
と欠出{かけいだ}し行{ゆく}うしろから米八{よねはち}まちやト声{こゑ}かけて帯{おび}引{ひき}
とらへる者{もの}あればこれはとおどろく米八{よねはち}がふりかへつて顔{かほ}
見合{みあは}せ【米】「ヲヤおまはんは藤兵衛{とうべゑ}さんどふしてこゝへ。」【藤】「ヲヽ
さだめてびつくりしたろうが今{いま}途中{とちう}で聞{きい}た喧嘩{けんくわ}の
やうすくやしかろうがコレ米八{よねはち}マア気{き}をしづめてよく聞{きか}ツ
し。何{なん}ぼ傾城{けいせい}水滸伝{すゐこでん}や女八賢伝{をんなはつけんでん}が流行{はやつ}ても女{をんな}の喧嘩{けんくわ}は色気{いろけ}がねへゼ。ハテこれまではともかくも聞捨{きゝすて}見捨{みすて}の
ならねへゆかり。マアこん夜{や}はおれがいふ〔こと〕をきいてくれろ。と

(19ウ)
いつたところが日頃{ひごろ}口説{くどき}のわけじやアねへ。これ今{いま}まで
心{こゝろ}を尽{つく}した丹次郎{たんじらう}を大事{だいじ}におもつて連添{つれそふ}気{き}ならば
芸者{げいしや}の意地{いぢ}や立引{たてひき}はこの藤兵衛{とうべゑ}に任{まか}しておけ。今{いま}
桜川{さくらがは}とも相談{さうだん}した。立派{りつは}に手{て}めへの顔{かほ}の立{た}つ仕方{しかた}は
おれがして見{み}せる。」トおもひがけなき藤兵衛{とうべゑ}の言葉{〔こと〕ば}に
米八{よねはち}ふしんがほ【米】「そんならいつもわたくしへ。」【藤】「かれこれ
いつたは気{き}をひくため。いよ〳〵丹印{たんじるし}を大事{だいじ}にする心{こゝろ}
と知{し}れては藤兵衛{とうべゑ}が肌{はだ}をぬいで世話{せわ}をする。マアその

(20オ)
つもりでこゝから宅{うち}へ帰{かへ}つて時節{じせつ}を待{まつ}がよい。」と無
理{むり}に引{ひき}つれ立帰{たちかへ}りその後{のち}藤兵衛{とうべゑ}がはからひにて大
勢{おほぜい}の芸者{げいしや}をあつめ其{その}うへ仇吉{あだきち}丹次郎{たんじらう}が手{て}ぎれ
米八{よねはち}が顔{かほ}の立{たて}かた等{とう}残{のこ}る処{とこ}なくはからひける。
この喧嘩{けんくわ}の前後{あとさき}は〔こと〕ながくしてなか〳〵限{かぎ}り
ある丁数{ちやうすう}には説尽{ときつく}しがたし。よつて三編{さんへん}の
口絵{くちゑ}にその風情{ふぜい}を見{み}せしのみ。近{ちか}きにいとまあ
らば此{この}草紙{さうし}の追加{つゐが}としてくわしく貴覧{きらん}に

(21ウ)
そなふべし。則{すなは}ち外題{げだい}は
[梅ごよみの餘興{よきやう}]春色{しゆんしよく}辰巳園{たみのその}[狂訓亭作 国直画]全部六冊
|発市{はつし}の時{とき}を俟{まち}て御高覧{ごかうらん}のほど奉希■。
春色梅児誉美巻の拾了


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142254)
翻字担当者:金美眞、梁誠允、成田みずき、藤本灯
更新履歴:
2017年4月5日公開

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