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春色梅児与美しゅんしょくうめごよみ

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巻九

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春色梅児与美 巻九

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
春色{しゆんしよく}梅児誉美{うめこよみ}巻の九
江戸 狂訓亭主人著
第十七齣
消{きえ}て除{のく}寒{さむ}さもありて梅{うめ}の花{はな}開{ひら}くや笑{ゑみ}の眉{まゆ}のあと
春{はる}の霞{かすみ}の青〻{あを〳〵}と莟{つぼみ}の花{はな}に猶{なほ}まさるお由{よし}の側{そは}へ寄添{よりそひ}
て背中{せなか}をさすりながら【藤】「ヤレ〳〵マア知{し}らねへ事{〔こと〕}とは
いひながら沢山{とんだ}苦労{くらう}をさせたツけノ。モウ〳〵斯{かう}して奇会{めくりあふ}
からは憚{はゝか}りながら大丈夫{だいぢやうぶ}だと思{おも}ひなせへ。」【由】「そふやさしく

(1ウ)
被仰{おつしやる}と真{しん}に嬉{うれ}しく思{おも}ひますけれどどふもおまへさん
方{がた}に限{かぎ}らず男子達{とのがた}といふものは浮薄{うつりぎ}なものだからいとゝ
おもひがますやうな〔こと〕がこの末{すゑ}ともに有{あら}ふかと案{あん}じら
れますは。」【藤】「ナゼ〳〵なぜうたぐるのだ。」【由】「なぜと被仰{おつしやる}け
れどわたくしが心{こゝろ}がらとはいふものゝおまへさんの御信切{ごしんせつ}
を身{み}にしみ〴〵と思{おも}ひ込{こん}で一生{いつしやう}再会{めくりあわ}ないでも女{をんな}の意
地{いぢ}を達{たて}とほして未来{みらい}とやらではせひ〳〵と仇念{しうねん}深{ふか}く
心{こゝろ}を定{さだ}めて女伊達{をんなだて}だの侠夫{いさみ}だのと朝夕{あさゆふ}苦労{くらう}をして

(2オ)
居{ゐ}た中{うち}おまへさんはわたくしの〔こと〕はわすれてしまつ
て唐琴屋{から〔こと〕や}の此糸{このいと}さんと深{ふか}い和合{おなか}と妹{いもと}のお蝶{てう}が
常〻{つね〳〵}の噂{うわさ}それも男{をとこ}の名聞{みやうもん}でおいらん買{かひ}も芸者{げいしや}
の情合{いろ}も。無理{むり}とはそんじませんけれど久{ひさ}しぶりで
お目{め}にかゝつたお蝶{てう}もとうか可愛{かあい}がつておやりなさりそふ
だからサ。」ト[いふときしも平岩{ひらいわ}の女と若者{わかいもの}岡持{をかもち}を三ツほど持{もち}来りだいどころへならべことはりて帰る]【由】「ヲヤ〳〵マア
大造{たいそう}に種〻{いろ〳〵}と。お蝶{てう}ははやく帰{かへ}るといゝのに。」ト片寄{かたよせ}て力{ちから}
なさそうに亦{また}床{とこ}の上{うへ}に来{きた}る【藤】「ヲヤ小用{てうづ}かと思{おも}つたら

(2ウ)
平岩{ひらいは}の使{つかひ}か。おれがはこんで遣{やろ}うものを。そしてまだ用{よう}
が有{あつ}たツけ。」【由】「ナニ今{いま}あの子{こ}が帰{かへ}りますヨ。」【藤】「ほかの用{よう}
じやアねへがおめへの好{すき}な玉子蒸{たまごむし}をこしらへさせやうと思{おも}
つてサ。なんとどうだヱ。情{じやう}なし男{をとこ}と思{おも}ふか知{し}らねへが七
年{しちねん}跡{あと}の相宿{あひやど}に三日{みつか}一座{いちさ}のその時{とき}に惚{ほれ}た気{き}からはたべ*「跡{あと}」の「と」は部分欠損
ものゝ好{すき}きらいまで覚{おぼ}えてゐる。これても浮薄{うわき}か情{じやう}
なしかネ。」トいはれてお由{よし}は完爾{につこり}と嬉{うれ}し涙{なみだ}の笑{わら}ひ㒵{がほ}は
此糸{このいと}米八{よねはち}お蝶等{てふら}が亦{また}およばさる姿{すがた}あり。藤兵衛{とうへゑ}は抱寄{だきよせ}て

(3オ)
【藤】「コウおめへが爰{こゝ}に居{ゐ}るとも知{し}らず恋{こひ}しさ余{あま}つて此糸{このいと}が
少{すこ}しおめへに似{に}てゐるゆゑ真{しん}から斯{かう}といふ気{き}もねへが当
座{とうざ}此方{こつち}の気保養{きほやう}また芸者{げいしや}の米八{よねはち}を世話{せわ}をした
のも込入{こみいつ}た腹{はら}に理合{りあひ}のある〔こと〕だけれどマア今はいふ
めへ。ドレちつと㒵{かほ}をしみ〴〵見{み}せな。かわいそうにやせた
のふ。」【由】「お医者{いしや}さんがおつしやるにはネ全体{ぜんたい}気{き}から出{で}た
病気{びやうき}だから時折{ときをり}は髪{かみ}も結{いつ}たり湯{ゆ}へも|這入{はいる}が能{いゝ}とお
言{いひ}だから二日{ふつか}置{おき}三日|置{おき}にお蝶{てう}の肩{かた}へつかまつて湯{ゆ}

(3ウ)
までそろ〳〵行{いき}ますけれどま〔こと〕にいやみらしい程{ほど}力{ちから}が
なくツてやう〳〵歩行{あるき}ますヨ。」【藤】「どうりで長病{ちやうびやう}にして
はあかもよごれも見{み}えねへで美{うつく}し過{すぎ}ると思{おも}つた。病人{ひやうにん}
でねへと了簡{りやうけん}ならねへ処{とこ}だけれど。」ト笑{わら}ひながらいふ。お由{よし}
は藤兵衛{とうべゑ}が㒵{かほ}を見{み}て身{み}をふるわし【由】「死{し}んでもよいヨ。」
ト膝{ひざ}にしがみついて㒵{かほ}を赤{あか}らめうつむく【藤】「薄着{うすぎ}では
寒{さむ}かろう。」ト夜着{よぎ}を掛{かけ}てやり【藤】「アヽ何{なん}だかおれも寒{さむ}い。」
ト夜着{よぎ}をかぶる。折節{をりふし}お蝶{てう}は息{いき}せきと帰{かへ}り来{きた}りし

(4オ)
勝手{かつて}口しづかにはいりて窺{うかゞ}へばものしづかなる奥{おく}の様子{やうす}。
遠慮心{えんりよごゝろ}に草箒木{くさぼうき}垣根{かきね}の外{そと}をはきに出{で}る足音{あしおと}さへ
もしのびつゝ溝{みぞ}の土橋{どばし}を渡{わた}る時{とき}風{かぜ}に飛来{とびく}る白梅{しらうめ}は春{はる}
の小蝶{こてふ}かおのが名{な}の蝶{てふ}も荘子{そうじ}の夢心{ゆめごゝろ}。嗚呼{あゝ}世間{よのなか}の定{さだ}
めなき彼{かの}藤兵衛{とうべゑ}とお由{よし}が再会{さいくわい}伴{ともな}ひ来{きた}りしお蝶{てふ}さへ
露{つゆ}知{し}らざりし七年{なゝとせ}の古{ふる}きをこゝに繰返{くりかへ}すさゝめ〔ごと〕さへ
あやしとこそ娘心{むすめごゝろ}に思{おも}ふなるべし。
○作者{さくしや}為永{ためなが}春水{しゆんすゐ}伏{ふし}て申{まうす}。わが著{あらは}せし草紙{さうし}いと

(4ウ)
多{おほ}く艶言{えんげん}情談{じやうだん}ならざるはなけれどもいづれも婦
人{ふじん}の赤心{ま〔こと〕}を尽{つく}して婬乱{いんらん}多婬{たいん}の婦女{ふぢよ}をしるせし
〔こと〕なし。たま〳〵玉川{たまがは}日記{につき}のお糸{いと}が類{たぐひ}も因果{いんぐわ}の
道理{だうり}をあらはしてそのいましめの用心{ようしん}あり。一|帙{ぢつ}
五巻{ごくわん}の其{その}中{うち}に一婦{いつふ}二夫{じふ}一夜{いちや}がはりの枕{まくら}を寄{よす}る
〔こと〕を二組{ふたくみ}までつゞる類{たぐひ}ゑせ文章{ぶんしやう}の読本{よみほん}も心{こゝろ}
をつけずよむ人はかへつて予{おのれ}をそしるなるべし。*「予{おのれ}」は小書き
お蝶{てふ}ははうきを手{て}に持{もつ}て|這入{はいる}柴{しば}の戸{と}奥{おく}よりは茶碗{ちやわん}を

(5オ)
もつて欠出{かけだ}す藤兵衛{とうべゑ}お蝶{てう}は見{み}つけて走{はし}り入{いり}【蝶】「ヲヤ藤{とう}
さんお茶{ちや}でございますか。」【藤】「イヤ〳〵水{みづ}だ〳〵。」【蝶】「ヲヤな■へ。」*「■」は「ぜ」の部分欠損か
【藤】「今{いま}姉{あね}さんが少{すこ}しどうかしたやうだから。」【蝶】「ヱヽトびつ
くりもろともにお由{よし}の床{とこ}の右{みぎ}左{ひだ}り。」【蝶】「姉{ねへ}さん[引]。」【藤】「ナニ〳〵
呼{よぶ}ほどの〔こと〕はねへ。ヲイサアヨこれサ気{き}をしつかりともち
な。」トいひながらお由{よし}が口{くち}ヘ茶碗{ちやわん}の水{みづ}を口{くち}うつしお由{よし}は
細眼{ほそめ}にあたりを見廻{みまは}し【由】「ヲヤお蝶{てふ}おかへりかへ。」ト[いひながら藤兵衛を
そつとつめる]【藤】「何{なん}のこツたおいらアほんとうに目{め}をまはしたかと

(5ウ)
思{おも}つた。サア薬{くすり}を呑{のみ}な。」ト何{なに}か丸薬{ぐわんやく}をやる。お由{よし}は寛爾{につこり}【由】「アヽ
モウ〳〵嬉{うれ}しいとおもつたら気{き}がとほくなつた。直{すぐ}に死{し}ん
だら此{この}すゑ苦労{くらう}があるまいのに。」【蝶】「ナゼ姉{ねへ}さん其様{そん}な
〔こと〕をお言{いひ}だねへ。」【藤】「これからはおれが附{つい}て居{ゐ}らア。死{しに}たくツ
ても殺{ころ}しはしねへヨ。のうお蝶{てふ}ぼう。」【蝶】「アヽどうぞこれから
姉{ねへ}さんや私{わちき}の力{ちから}になつてくださいまし。ま〔こと〕にモウ心{こゝろ}ぼそ
くツてなりません。」トいふはどうやら身勝手{みがつて}らしく聞{きこ}ゆれ
どこれへつらひなき娘{むすめ}の人情{にんじやう}にて憎{にくむ}べからず。お蝶{てふ}は

(6オ)
しちりんの炭{すみ}を継{つぎ}白湯{さゆ}を汲{くん}で来{きた}りお由{よし}に呑{のま}せ【蝶】「アノウ
藤{とう}さんがお取寄{とりよせ}のものを此方{こちら}へ持{もつ}てまゐりませうか。」【由】「アヽ
モウわたしも心持{こゝろもち}はよいからお燗{かん}を付{つけ}て藤{とう}さんにおあげ
な。そしてさめたものは雪平{ゆきひら}でか小鍋{こなべ}でかお温{あつため}よ。」【蝶】「アイ」
トお蝶{てう}は勝手{かつて}へ行{ゆく}。跡{あと}に二人{ふたり}はさし向{むか}ひ【藤】「ほんとうに
モウいゝか。」【由】「アヽモウ能{よう}こざいますヨ。わたしはネ七年|前{まへ}の
〔こと〕から段〻{だん〳〵}考{かんがへ}て今日{けふ}斯{かう}してまた会{あふ}〔こと〕が出来{でき}ると
思{おも}つたらモウ〳〵〳〵死{し}んでも本望{ほんもう}だとおもひましたヨ。」

$(6ウ)
悪漢{わるもの}
お由{よし}が
仮住居{かりずまゐ}を
うかゞふ

$(7オ)

(7ウ)
【藤】「うそばつかりつくぜ。」【由】「アレサ嘘{うそ}じやアありませんものを
憎{にく}らしい。」【藤】「かわいらしいといはれるやうな仕{し}うちは出来{でき}ねへ
が随分{ずゐぶん}憎{にく}ツ|風俗{ぷり}の中{うち}にまたおつな信実{しんじつ}をもつて
ゐやす。」【由】「それだから女{をんな}の仇着{おもひ}がとりつくから用心{ようじん}をなさい
ましヨ。」【藤】「男{をとこ}を迷{まよ}はせた報{むく}いが掛{かゝ}るからおめへこそ用心{ようじん}し
ねへヨ。」【由】「いつわたくしが佗{ひと}を迷{まよは}した〔こと〕があります。」【藤】「別{わか}れ
て居{ゐ}たうちの〔こと〕は知{し}らねへがまづ藤兵衛{とうべゑ}といふ男{をとこ}を
ひどく迷{まよ}はせたしやアねへか。」【由】「此糸{このいと}さんや米八{よねはつ}さ゜んには

(8オ)
少{すこ}しは上症{のぼせ}もなさつたろうが何{なに}わたくしのやうなもの
に迷{まよ}ふの惚{ほ}れるのといふ気{き}づかひはございませんが。」ト[いふところへ
酒{さけ}とさかなをだん〴〵にはこぶ。およしも床{とこ}を出る]【藤】「おめへはやつぱり其床{そこ}に居{ゐ}なナ。」【由】「
イヽヱモウ気{き}がしつかりとなりましたから。」ト御納戸紬{おなんどつむぎ}
の棒{ぼう}じまの|小夜着{どてら}を引掛{ひつかけ}て火鉢{ひばち}の際{きわ}に座{すはり}〓{ちよく}を*〓は絵文字
引出{ひきだ}しより出{だ}して藤兵衛{とうべゑ}の前{まへ}に差置{さしおき}【由】「お蝶{てう}おまへ
もこゝへお出{いで}な。」【蝶】「アイ今{いま}お肴{さかな}を焼{やい}てからまゐりますヨ。」
【由】「そうかへ。サア藤{とう}さんおはじめなさいましな。」【藤】「ドレ〳〵

(8ウ)
久{ひさ}しぶりでお酌{しやく}をしてもらひやせう。」ト猪口{ちよく}を取{とり}
あげこれよりしばらく酒{さけ}くみかはしてその日{ひ}は爰{こゝ}に
遊{あそ}びくらし夜{よ}にいりてお蝶{てう}が給金{きうきん}を返済{かへし}て身{み}まゝ
にせん〔こと〕を相談{さうだん}なしければお蝶{てう}がよろこびいはんかたこ
そなかりける。されば藤兵衛{とうべゑ}は終夜{よもすがら}お由{よし}が操{みさほ}の節義{せつぎ}
女{をんな}の身{み}にして七年|以来{このかた}の|侠勇{いさましき}活業{なりはひ}の苦心{くしん}実{じつ}に
清潔{せいけつ}の行{おこな}ひは梅{うめ}のお由{よし}と異名{あだな}せし世間{せけん}の噂{うわさ}に
知{し}られたればいさゝかも疑{うたか}はずこれより心{こゝろ}を傾{かたむけ}てお由{よし}を

(9オ)
いたはり月毎{つき〔ごと〕}に何{なに}不足{ふそく}なくなすべしと思{おも}ひの条{たけ}をいひ
きかせしとぞ。さてこれまでの風俗{ふうぞく}とは藤兵衛{とうべゑ}お由{よし}二人{ふたり}
ともすこしく違{たか}ふ趣向{おもむき}あり。その心{こゝろ}にてよみ給ひね。斯{かく}て
藤兵衛{とうべゑ}は其{その}翌日{よくじつ}立帰{たちかへ}りて五七日|音信{おとつれ}なければお由{よし}お
蝶{てう}は夜昼{よるひる}ともに待{まち}あかしては噂{うわさ}のみ障子{せうじ}にうつる鳥
蔭{とりかげ}もそらだのめなる春{はる}の雨{あめ}花{はな}の為{ため}には乳{ちゝ}の恩{おん}千〻{ちゞ}に
心{こゝろ}をいためつゝ案{あん}じ煩{わづら}ふ門{かど}の口{くち}四十才{よそじ}ばかりの一人{ひとり}の男{をとこ}
利屈{りくつ}ありげな勿体面{もつたいづら}【男】「ハイチトおたのみ申ます千

(9ウ)
葉{ちば}の藤{とう}さんは此宅{こちら}にお出{いで}なさいますか。」ト[きいてお蝶ははしりいで]【蝶】「イヽヱ
まだこちらへはお出{いで}なさいませんがわたくしどもでもおまち
申ておりますから是非{ぜひ}こちらへお出{いで}なさいます。何{なん}ぞ御
用{ごよう}なら左様{そう}申ませう。」【男】「ハテこまつたものだ。わるくする
と|六ツケ敷{むつかしく}なるが|里長県{おほやけ}ざたになつたら藤兵衛{とうべゑ}さん
でもマア明白{あかり}の立{たつ}までは闇{くら}い所{ところ}へ行{いか}ザアなるめへ。今{いま}の
内{うち}はやく内済{ないさい}をたのみなさりやアいゝが。」ト立{たち}かゝつたる独
言{ひとり〔ごと〕}不問語{とはずがたり}の口占{くちうら}もあじなせりふにお蝶{てう}より奥{おく}で聞{きゝ}とる

(10オ)
お由{よし}が胸{むね}へギツクリ当{あた}る男{をとこ}の身{み}のうへよもやとおもへど
若{もし}ひよつと難義{なんぎ}の懸{かゝ}る大変{たいへん}を仕出{しだ}したるかと案{あん}じられ
【由】「お蝶{てう}やマアそのお方{かた}をこちらへお通{とほ}し申なナ。」【蝶】「アイ。モシ
おまへさんマアこちらへお上{あが}んなさいまし。」【男】「ハイそんなら少{すこ}
し御免{ごめん}なさいまし。アヽコレどうぞお目{め}に掛{かゝつ}て内分{ないぶん}にし
てあげてへものだが。」ト[なにかあやしきそのことはおてうは茶わんに茶をくみてさしいだし]【蝶】「ハイお茶{ちや}を
一ツ。」【男】「ハイイヱモウおかまいますナ。」ト[いひながら家内をじろ〳〵ねめまはし]【男】「誠{ま〔こと〕}に
結構{けつかう}なおすまゐだ。どうも藤{とう}さんも諸方{ほう〴〵}へ金{かね}が入{いん}なさる

(10ウ)
さるから終{つひ}無理{むり}な〔こと〕も仕{し}なさる筈{はづ}だ。」ト聞{きこ}えよがしの*「さる」は衍字
壁訴状{かべぞせう}お由{よし}は次{つぎ}へ立出{たちいで}て【由】「マアチトこちらへお出{いで}なさい
まし。」【男】「ハイ〳〵イヱおほきにお世話{せわ}さまでございます。お邪
广{じやま}ながら少{すこ}しお置{おき}なすつてくださいまし。しかし今
時分{いまじぶん}まで此宅{こちら}へお出{いで}なさらねへくらゐじやアモウお出{いで}も
有{ある}めへか。そうすると猶〻{なほ〳〵}むづかしくなるが。」トしきりに気{き}
をもむ其{その}風情{ふぜい}。傍聞{かたへきゝ}するお由{よし}は更{さら}なりお蝶{てう}も何{なに}やら胸{むな}
さわぎ案{あん}じてお由{よし}と顔{かほ}見合{みあは}せホツト吐息{といき}をつく〴〵と

(11オ)
思{おも}へば聞{きゝ}も捨{すて}られぬ彼{かの}藤兵衛が身の落度{おちど}何事{なに〔こと〕}やらん
と問{とふ}もうし問{とは}ぬもうしや牛嶋{うししま}の其{その}角文字{つのもじ}や禄〻{ろく〳〵}に
歯{は}もりの仮言{か〔ごと〕}聞{きゝ}とれぬ折{をり}から表{おもて}へ立掛{たちかゝ}り台所{だいどころ}を差
覗{さしのぞ}く古温袍{ふるわんぼう}の破落戸{わるもの}が【わる者】「アイモシ五四郎さんチヨツト。」ト
[以前{いぜん}の男をよびいだす]【男】「ヲイ岡八{をかはち}か。何{なん}だ。頼{たの}んだ理{わけ}ならモウ少{すこ}し。」【わる者】「と
ても内〻{ない〳〵}にはなりやせんゼ。」【男】「ハテこまつたものだ。」ト[立かゝる]そも
この一事{いちじ}は何事{なに〔ごと〕}ぞ。第十九齣{だいじうくせき}を看{み}て知{し}るべし。
第十八齣

(11ウ)
梅{うめ}一{いち}りん一りんづゝの暖{あたゝか}さ春{はる}の日向{ひむき}に解{とけ}やすきゆきの中
|裏{うら}なか〳〵に浮事{うき〔こと〕}つもる仮住居{かりずまゐ}。それさへ兼{かね}て米{よね}八が
三筋{みすぢ}の糸{いと}し可愛{かあい}さの女の一念{いちねん}信実{しんじつ}に思ひ込{こん}だる仕
送{しおく}りを請{うけ}て其{その}日{ひ}の活業{いとなみ}は世間{ひとまへ}つくる丹{たん}次郎|文使{ふみづかひ}
とは名ばかりの所作{しよさ}なきまゝに誹諧{はいくわい}や五文字{ごもじ}の点{てん}のいとま
には二上り亦{また}はドヾ一{いつ}の新文句{しんもんく}をこしらへて友達{ともだち}の寄会
所{よりあひじよ}茶番{ちやばん}の落{おち}の師範{しはん}とは昔{むかし}は絶{たえ}て聞{きゝ}もせす。鳴呼{ああ}此{この}
土地{とち}の風俗{ふうぞく}たる意気{いき}と情{なさけ}の源{みなもと}にて凡{およそ}浮世{うきよ}の流行{りうかう}を

(12オ)
思ひ辰巳{たつみ}の伊達衣裳{だていしやう}。模様{もやう}の好{このみ}染色{そめいろ}も実{けに}婦多{ふた}川
が魁{さきがけ}にて端折{はをり}芸者{げいしや}の多{おほ}き中|別{わけ}て当時{たうじ}の名題{たてもの}には
政吉{まさきち}。国吉{くにきち}。浅吉{あさきち}。小糸{こいと}。豊吉{とよきち}。久吉{ひさきち}。今助{いますけ}。小浜{こはま}。これにつゞく
はまた稀{まれ}にて七場所{なゝばしよ}噂{うわさ}の|一ト粒{ひとつぶ}撰{ゑり}客人{まろうど}此{この}|芸妓{しや}の名を*「芸妓{しや}」(ママ)
知らずは婦多川{ふたがは}通{つう}とは言べからす。とはいへ狂訓亭{さくしや}は知己{ちかづき}な
らず。十目{じうぼく}の視{みる}ところ十|指{し}の指{ゆび}ざす妓芸{ひと}を算{かぞ}へて他国{たこく}
の仁{ひと}に知らするのみ。これはさておき丹{たん}次郎が宅{うち}の障子{しやうじ}を
そつと開{あけ}路次{ろじ}の左右{さいう}を見かへりて出{いづ}るは歳齢{としごろ}|二十一二才{にじういちに}

(12ウ)
洗髪{あらひがみ}の嶋田{しまだ}の髷{まげ}ほつれて少{すこ}し横{よこ}にまがり湯あがりの
素顔{すがほ}いやみなく美艶{きれい}にて眼{め}の縁{ふち}桜色{さくらいろ}にほんのりと今
|猶{なほ}逆上{のぼ}せし風情{ふぜい}溜息{ためいき}をついて完爾{につこり}と笑ひ彰子{しやうじ}を〆{しめ}
ながら捨{すて}ぜりふ【女げいしや仇吉】「ヲヤその甚介はあべこべだヨ。」トいひながら
浴衣{ゆかた}をかゝへし左{ひだ}り褄{づま}まじめになつて出{で}かゝる路次{ろじ}米八と
行向{ゆきむか}ひ【両人】「ヲヤ。」【仇】「今湯へお出{いで}か。」ト口にはいへど心にギツクリ。
米八は兼{かね}てよりかぎ付たる二人が[丹{たん}次郎と仇吉{あだきち}が色情{いろ〔ごと〕}はちよつとしたる〔こと〕にてとちがらなれば論{ろん}し
給ふな]中{なか}何{なに}くはぬ㒵{かほ}にて米八は右{みぎ}に持{もち}し浴衣{ゆかた}を左{ひだ}りの脇{わき}に

(13オ)
抱{かゝ}へ銀{きん}の笄{かんざし}の首{あたま}に付{つき}しさんご樹{じゆ}の大玉{おほだま}を細{ほそ}き指{ゆび}
にてちよイと持{もち}眉毛{まゆげ}を八{はち}の字{じ}にしてたぼ下{した}を掻{かき}ながら
【米八】「丹{たん}さんはモウ起{おき}たかねへ。」【仇】「ヱヽアヽたしか起{おき}てお出{いで}だヨ。」
【米】「ヲヤ〳〵今{いま}おまへあすこから出{で}ておいでじやアないか。」
【仇】「イヽヱ外{ほと}から声{こゑ}をかけたばかりだヨ。ト何{なに}も言{いひ}わけを
する〔こと〕もねへノウ。用{よう}があれば行{いき}もするのサ。アヽ湯{ゆ}ざめ
がして寒{さむ}くなつて来{き}た。」ト小積{こじやく}にさわる仇吉{あだきち}が心{こゝろ}
の中{うち}のいがみ合{あひ}すれ違{ちが}ひ行{ゆく}色{いろ}と情{いろ}彼{かの}米八{よねはち}は丹次

(13ウ)
郎{たんじらう}が彰子{しやうじ}の外{そと}から出{だ}しぬけにぐわらりとあければ
丹次郎{たんじらう}はうつむいて書物{かきもの}をして居{ゐ}たりしが仇吉{あだきち}
が小戻{こもど}りせしと思{おも}ひ見向{みむき}もせず【丹】「ヲヤ何{なん}ぞわすれたか。」
【米】「アヽまだいひ残{のこ}した〔こと〕が有{ある}は。」トいはれてびつくり丹
次郎{たんじらう}【丹】「ヲヤ米八{よねはち}か。」【米】「そんなにびつくりせずと能{よい}じやア
ないか。私{わちき}だとつて来{こ}られぬへ宅{うち}じやアあるまいし。但{たゞ}シ
仇吉{あだきち}の外{ほか}入{いる}べからずと路次口{ろじぐち}へ札{ふだ}を出{だ}してお置{おき}ならよ
かつた。」【丹】「何{なに}をいふつまらねへ今{いま}しがた三孝{さんかう}さんが来{き}た

(14オ)
から。」[桜川三孝がことなり]【米】「フウム三孝{さんかう}さんが嶋田{しまだ}に髪{かみ}を結{むす}んでかヱ。
茶番{ちやばん}じやアあるめへし。沢山{たくさん}だ。」トいひつゝ茶碗{ちやわん}へ土瓶{どびん}の
茶{ちや}をつぎ一口{ひとくち}呑{のん}で【米】「ヲヽつめた。水{みづ}だヨ。ばか〳〵しい。火
鉢{ひばち}の火{ひ}ぐらゐはおこしてお置{おき}なねへ。夢中{むちう}になツてお出{いで}か。」
【丹】「なぜそんなに叱言{こ〔ごと〕}をいふだろう。」【米】「言{いつ}ても能{よい}のサ。ヱヽ
くやしい。」ト茶碗{ちゃわん}を取{とつ}て水瓶{みづがめ}の際{きわ}へ投出{なげだ}す。カラカラン[引]
【丹】「しづかにしねへな。外聞{ぐわいぶん}のわりい。」【米】「仇吉{あだきち}さんとはしづかに
おしな。私{わちき}ア夫婦{ふうふ}だから遠慮{ゑんりよ}せずとよいヨ。」【丹】「おめへもつま

(14ウ)
らねへ〔こと〕をいふゼ。素人{しろうと}じみて妬心{ぢんすけ}をいふが仇吉{あだきち}は今{いま}障
子{しやうじ}越{こし}に何{なん}とか言葉{〔こと〕ば}をかけたがおらアろくに返事{へんじ}もしはし
ねへのに悪推{わるずい}も程{ほど}があらア。」【米】「そうさねへ。私{わちき}がわるずいサ。
外{そと}から声{こゑ}を懸{かけ}て何{なん}のか合図{あひづ}に笄{かんざし}をほうり込{こん}で行{いつ}た
のかへ。とんだ二番目{にばんめ}の狂言{きやうげん}だ。」【丹】「わからねへ〔こと〕ばかりいふゼ。」
【米】「ナゼわからないヱ。コレ是{これ}を御覧{ごらん}。仇吉{あだきつ}さ。んが不断{ふたん}にさして*「わからない」の「な」は部分欠損
ゐる〓{むかふうめ}に仇{あだ}といふ字{じ}のさしこみの笄{かんざし}が何{なん}でこゝにあるの■■。」*〓は絵文字、「■■」は「だヱ」の欠損か
【丹】「ナニ啌{う■}をいふぜ。こゝに其様{そん}なものがあるものか。」【米】「アレマアあき

(15オ)
れるヨ。サアソレよく眼{め}をあいてごらんナ。」【丹】「どうしたのだかど
うも解{げ}せねへ。ふしぎなわけでうたぐりを請{うけ}るものだ。」ト[なにかわからぬ
いひわけをいふうちに米八はくやしなみだ丹次郎にしがみ付てやゝひさしくものもいはずにないてゐる]【丹】「コウ米八{よねはち}コレサマア勘忍{かんにん}し
ておれがいふ〔こと〕を聞{きゝ}ねへヨ。成程{なるほど}仇吉{あだきち}が是{これ}まで信切{しんせつ}らしい〔こと〕
を言{いつ}て時〻{とき〴〵}爰{こゝ}へ寄{よつ}ておつな〔こと〕を言{いふ}時{とき}もあるけれど何{なに}おれ
が外{ほか}へ心{こゝろ}のうつる様{やう}な〔こと〕があるものか。第一{だいゝち}おれがはかない身{み}で
朝晩{あさばん}の〔こと〕も手{て}めへの厄介{やつかい}仲{なか}の郷{ごう}から引越{ひつこす}の何{なん}だの角{か}だ
のと物入{ものいり}のつゞく中で着物{きもの}の一枚{いちめへ}づゝも拵{こしらへ}てくれる手めへに

$(15ウ)
故友
本町庵三馬
はつといふ
名にまれ人は
あくまでに
あとをつけたる
雪の中裏
あだ吉
「ヲヤわつちは
丹さんのばんを
してはゐないヨ
おまへどうで
こせつきに
いくのじやア
ねへか
こゝで
きかずと
いゝはな」

$(16オ)
よね八
「たいそう
はやい湯だ
のう
丹さんは
モウおき
たかへ
うちに
ゐるか
ねへ」

(16ウ)
対{たい}して浮薄{うわき}な〔こと〕をして済{すむ}ものか。そりやアほんにヨ。大丈夫{だいぢやうぶ}だ
から案{あん}じなさんな。」【米】「なま中{なか}に私{わちき}がおまへをこうしておいて
おまへの手助{てだすけ}といふも夫婦{ふうふ}となつて見{み}りやア恩{おん}でも世話{せわ}でも
ねへわけだけれどお蝶{てう}さんといふものは有{ある}し亦{また}その外{ほか}に斯{かう}云{いふ}
仕義{しぎ}じやア私{わちき}が余{あんま}りかわいそうなわけだねへ。といつて私が斯{かう}して
おくから男妾{をとこめかけ}でも囲{かこつ}て置{おく}様{やう}にと一言{ひと〔こと〕}の〔こと〕でも気にかけやア
なさるめへかと太義{てへ〳〵}気兼{きがね}をして居{ゐ}るのにどふすればそんな気{き}だ
ろうネヱ。」【丹】「なぜそんなに愚智{ぐち}をならべるのだ。女房{かゝあ}じみて嬉{うれ}しいが

(17オ)
モウいゝかげんにしねへな。」トぐつと引寄{ひきよせ}にかゝると振{ふり}はらひ【米】「翌{あした}
の晩{ばん}隅田川{うわて}へ行{いつ}て仇吉{あだきつ}さ゜んを其様{そう}おしな。」【丹】「なんであした
の晩{ばん}に。おもひもつかねへ〔こと〕をいふぜ。」【米】「おもひも付{つか}ざアこれ
をお看{み}。」ト取出{とりいだ}したる口上{こうじやう}がき。
いよ〳〵明日は例のやくそくにて
御出のよし幸ひ米印は千藤の
催しにて今助大吉桜川一同にて

(17ウ)
芝居の見物と申候左様に候へは
夕方にかの所へ参り待合申候間
急度〳〵間違なくしかしお客が
わかれとなり不申候はゝたのしみにいた
し候
甲斐もなく候くれ〳〵も程よく
其座をはづし被下候様頼上被参候
かならす〳〵米印の気のつかぬ様に
【米】「名当{なあて}はやぶれてないけれど夕辺{ゆふべ}一座{いちざ}のお座{ざ}しきで

(18オ)
仇吉{あだきつ}さ゜んの懐{ふところ}から落{おと}した手紙{てがみ}の此{この}書手{かきて}はおまへさん
の手{て}で書{かい}たおたのしみのかたいやくそくこれでもおもひ
もつかないのかへ。サアよく御覧{ごらん}。ソレお見{み}な。」ト突{つき}つけられて
丹次郎{たんしらう}今{いま}さらなんと言{いひ}わけも思案{しあん}もつかぬその所{ところ}へ
呉服屋{ごふくや}の若者{わかいもの}障子{しやうじ}を明{あけ}て【若】「ヘイお着衣{めしもの}が出来{でき}まし
た。」と越後紬{ゑちごつむぎ}のねずみの棒嶋{ぼうしま}へ黒七子{くろなゝこ}の半衿{はんゑり}の懸{かゝつ}た
袂{たもと}のある温袍{どてら}を出{いだ}す【丹】「ヲヤおらアあつらへはしねへゼ。」【米】「仇吉{あだきつ}
さ゜んでもよこしたろうはネ。」ト[いひながら呉服{ごふく}やにむかひ]「たしかに請取{うけとつ}たヨ。

(18ウ)
羽折{はをり}の衿{ゑり}をよく返{かへ}るやうにしてはやくしておくれとそう
いつてくんなヨ。」【若】「ヘイモウお誂{あつら}へなすつてあるのでござい
ますか。」【米】「アヽモウ五六日|前{あと}にたのんであるよ。」【若】「ヘイ〳〵
かしこまりました。」ト帰{かへ}り行{ゆく}【米】「サア御{ご}ふせうでもちよつ
と着{き}てお見{み}せ。丈{たけ}や行{ゆき}が間違{まちが}やアしないか。」【丹】「ヱそふか。そ
いつはありがてへ。」ト気{き}の毒{どく}そうにちいさくなつて着物{きもの}を
引掛{ひつかけ}る。米八{よねはち}はうれしそうに見{み}て【米】「なんだへそんなにこ
わ〴〵着{き}る〔こと〕もないネ。継子{まゝツこ}が美服{よそいき}でも拵{こしら}へてもらやア

(19オ)
しめへし。」トいふ所{ところ}へ桜川{さくらがは}由次郎{よしじらう}障子越{しやうじごし}に【由】「米{よね}さん此
宅{こつち}かへ。」【米】「ヲヤ由{よし}さんお早{はや}いネ。」【由】「ナニモウはやくはねへヨ。みん
ながそろ〳〵出{で}かけるそうだ。おいらア少{すこ}し用{よう}が有{ある}から
高雄{たかを}の茶屋{ちやや}へ行{いつ}てゐるからそういつてくんなヨ。」ト行過{ゆきすぐ}る
【米】「ドレおいらも支度{したく}をしようや。丹{たん}さんおまへ今日{けふ}今{いま}の
所{ところ}へ行{ゆく}ときかないヨ。」【丹】「ナニ行{ゆく}ものか。こんなかわいゝものゝ
有{ある}のに。」ト抱付{だきつく}【米】「およしな。ふけへきな。小児{こども}をだますやう
な。」【丹】「藤{とう}こうに責落{せめおと}されちやア御免{ごめん}だぜ。」【米】「おまへじやア

(19ウ)
あるまいし。」ト心{こゝろ}残{のこ}して出{いで}て行{ゆく}。
○作者{さくしや}曰{いはく}此{この}情人{いろ〔ごと〕}の喧嘩{けんくわ}こんな〔こと〕では治{おさま}らず。
どうしたもの歟{か}。
春色梅児誉美巻の九了

(20オ)
開{ひら}くや花{はな}の寒紅梅{かんこうばい}とホヽ敬{うやまつ}て申{まうす}
とは顔見世{かほみせ}のせりふなりけん。アヽつがも
なき梅暦{うめごよみ}の評判{ひやうばん}は伊勢{いせ}ごよみの
こまかに穿{さぐ}りて綴{とぢ}ごよみの読易{よみやす}く柱
暦{はしらごよみ}にあらずして万年中{まんねんぢう}の御重宝{ごちやうほう}
百年{ひやくねん}の後{のち}当世{いまのよ}の人情{にんじやう}を知{し}るよすがと
ならん。たゞし巻中{くわんちう}の婦女{ふぢよ}艶容{えんよう}恋情{れんじやう}を

(20ウ)
旨{むね}として更{さら}に教訓{をしへ}とするにたらずと
そしれる人{ひと}もあるよしなれど道{みち}にそむきし
婬婦{いんぷ}はしるさずいづれも浮薄{うわき}を表{おもて}と
し心{こゝろ}に操{みさほ}を守事{まもる〔こと〕}銕石{てつせき}の〔ごと〕きのみ。
よくあぢはひてよむときはをしえの端{はし}
となる〔こと〕あらむと親{み}びゐき連{れん}の桜川{さくらがは}
小梅{こうめ}の兄貴{せなあ}が柴{しば}の戸{と}をたづねて

(21オ)
梅{うめ}ごよみの巻末{くわんまつ}をふさぐものなり。
辰巳{たつみ}の遊人{いうじん}
桜川善孝〈印〉
深雪{みゆき}をもしのぐ功{いさほ}や魁{さきがけ}に
手{て}がらを見{み}せん春{はる}のやり梅{うめ}
金竜山人為永

(21ウ)
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同 柳川重信画
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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142247)
翻字担当者:金美眞、梁誠允、成田みずき、藤本灯
更新履歴:
2017年4月5日公開

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