日本語史研究用テキストデータ集

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春色梅児与美しゅんしょくうめごよみ

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巻八

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春色梅児与美 巻八

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
春色{しゆんしよく}梅児誉美{うめごよみ}巻の八
江戸 狂訓亭主人著
第十五齣
住{すめ}ば繁花{みやこ}の諺{〔こと〕わざ}も今{いま}は誠{ま〔こと〕}の並家{のきならび}鄙{ひな}にはあらで雛人形{ひなにんぎやう}の
姿{すがた}に等{ひと}しき美婦人{あだもの}の隣垣{となり}歩行{あるき}は梅{うめ}が香{か}の伝{つた}ふ提{つゝみ}の
春{はる}の風{かぜ}。竹屋{たけや}も呼{よば}で向越{むかふごし}自由{じゆう}自在{じざい}の釜{かま}の湯{ゆ}が風雅{ふうが}と洒
落{しやれ}た茶会亭{ちやざしき}に。何某{なにがし}隠居{いんきよ}何{なん}の寮{りやう}と槙木{まきき}の垣根{かきね}建仁寺{けんにんじ}
柴{しば}の戸{と}漏{も}るゝ鴬{うぐひす}の声{こゑ}うるはしき初日影{はつひかげ}朝湯{あさゆ}が出来{でき}るを自

(1ウ)
慢{じまん}とはすこし開{ひら}けぬ片折戸{かたをりど}密{そつ}と立出{たちいで}ねむそふな㒵{かほ}に完
爾{につこり}愛敬{あいきやう}をこぼせし水{みづ}か薄氷{うすごほり}。駒下駄{こまげた}ならす田甫道{たんぼみち}音{おと}さへ
高{たか}き左{ひだ}り褄{づま}は小梅{こうめ}あたりの名取{なとり}の娘{むすめ}通{かよ}ひ稽古{げいこ}の朝{あさ}がへり。
所{ところ}かはれどかはらぬは根下髷{ひくまげ}嶋田{しまだ}の当世風{とうせいふう}。品{しな}やさしきはおの
づから江戸者{あづまそだち}の隅田川{すみだがは}。呑{のみ}明{あか}したる平伊輪{ひらいわ}の庭下駄{にはげた}はい
て木場{きば}の藤兵衛{とうべゑ}幸冨久寺{こうふくじ}の垣{かき}にそひ朝湯{あさゆ}の出来{でき}ぬを
口小言{くちこ〔ごと〕}【藤】「どうもこつちが無理{むり}だけれど朝{あさ}は湯{ゆ}へ|這入{はい}らねへ
うちは気{き}がすまねへ。」[つれだちし桜川由次郎〓羽をりをいくぢなくきながら]【由】「モシどふも湯{ゆ}は台*〓は桜の花の紋様

(2オ)
質{だいしち}が一番{いちばん}よふごぜへます。しかし今朝{けさ}はおめへさんすてきにお眼{め}が
はやくさめましたネ。」【藤】「呑倒{のみたを}れたけれど寝入{ねいり}りはしねへ*「寝入{ねいり}り」の「り」は衍字
ものを時{とき}に湯{ゆ}は出来{でき}たろうか。」【由】「モウ明{あ}きましたろう。そのかは
りまだ女湯{をんなゆ}が涌{わか}ねへだろうからわるくすると腫眼縁{はれまぶち}の芸
者{げいしや}が箱{はこ}まはしに浴衣{ゆかた}を持{もた}して来{き}て今朝{けさ}は化粧{みじまひ}をするのも
太義{たいぎ}だ船{ふね}で前{さき}へ帰{かへ}りたいねへなんぞといつて居{ゐ}て狭{せま}い流{なが}
しを糠{ぬか}だらけにして居{ゐ}ませうぜ。ふけへきな。」【藤】「といふのは
仮名{かりのな}実{じつ}はその芸者{げいしや}がおめへの㒵{かほ}を見{み}てヲヤ由{よし}さんおまへも

(2ウ)
ゆふべは此方{こつち}かへ。何処{どこ}にお出{いで}だかさつぱり知{し}らなかつたヨ。悔{くや}し
いねへといはれるつもりで内{うち}の湯{ゆ}を待{まち}かねるふりでおいらを
引出{ひきだ}しやアしねへか。」【由】「ナニつまらねへ素人{しろうと}じみてそふ女{をんな}にの
ろけもしますめへ。」【藤】「イヽヤなんぼ桜川{さくらがは}善孝{ぜんかう}の息子{むすこ}でも
女{をんな}ぎれへといふ請人{うけにん}はあるめへ。」トいひながらむさしやの向{むか}ふの
湯{ゆ}の前{まへ}へ来{きた}るをりから湯{ゆ}やのしやうじを明{あけ}いづるは意気{いき}な
若衆髷{わかしゆまげ}湯{ゆ}あがりすごき桜色{さくらいろ}年{とし}はたしかに十六七ぞつ
とするほど美{うつく}しき姿{すがた}もはでな替{かは}り嶋{じま}寝巻{ねまき}の細帯{ほそおび}手

(3オ)
拭{てぬぐ}ひを口{くち}にくわへていと小{ちいさ}さき黄木{つげ}の櫛{くし}にて乱{みだ}れたるびん
のほつれをかきなでながら藤兵衛{とうべゑ}と㒵{かほ}見合{みあは}せびつくり
して「ヲヤ藤{とう}さん。」【藤】「ヲヤだれだとおもつたらお蝶{てふ}ぼう。ヤレ〳〵
久{ひさ}しくあはねへうち見違{みちげ}へるやうに大{おほ}きくなつた。そしてマア
何処{どこ}に居{ゐ}るのだヱ。」ト[たちとゞまりて藤べゑがうまれついてのしんせつもの。くはしくきくを由次郎藤べゑがせなかをたゝき]
【由】「他{ひと}の〔こと〕よりわが身{み}の落度{おちど}。サヽ言分{いひわけ}はなんとだヱヘ。」ト[小ごゑに
いつてわらふ]【藤】「ゆふべこの近所{きんじよ}へでも止宿{とまつた}のか。」【蝶】「イヽヱ小梅{こうめ}の姉{ねへ}さん
がわづらつてこの横町{よこちやう}の寮{りやう}へ来{き}て居{ゐ}ますから其処{そこ}へ参{まゐ}つて

(3ウ)
居{を}りますヨ。」ト立{たち}とゞまりて咄{はな}しの中{うち}桜川{さくらかは}由次郎{よしじらう}はわざと
さきへ湯{ゆ}に|這入{はい}りはづすつもりと見{み}えて【由】「旦那{だんな}さきへまゐ
つておかんを見{み}ますぜ。」ト笑{わら}ひながら湯屋{ゆや}の障子{しやうじ}をあけれ
ば敷居{しきゐ}の溝{みぞ}あさきゆゑぐわらりとはづれて倒{たを}るゝを構{かま}はず
内{うち}から飛出{とびだ}す小童{こども}【小】「こちやかまやせぬかまアやせぬ。」【由】「気障{きざ}
に遊{あそ}ばれるやツサ。」トいひながら着物{きもの}を脱{ぬい}で出格子{でがうし}に置流{おきなが}し
を見{み}れば板{いた}の色{いろ}青{あを}くして井戸{ゐど}がはの如{〔ごと〕}く通例{あたりまへ}より少{ちいさ}き
溜桶{とめおけ}に遣{つか}ひかけの糠袋{ぬかぶくろ}をかけ紅梅{こうばい}の小枝{こゑだ}がいれてあるは

(4オ)
風呂{ふろ}の中{なか}にゐる小児{せうに}のいたづらなるべきか。万事{よろづ}田舎{ひなひ}て
亦{また}おのづから風流{ふうりう}に江戸{えと}の湯屋{ゆや}には絶{たえ}てなかるべし【由】「こいつは
ま〔こと〕に透{すい}てゐるはへ。」ト[いひながら]湯{ゆ}に|這入{はい}る折{をり}から表{おもて}はむかしやの
垣根{かきね}によりそふ藤兵衛{とうへゑ}お蝶{てふ}たゝずみ咄{はな}す横町{よこてう}からびつくり
出合{いであふ}おくま婆〻{ばゝ}[これはおてうをかゝえしかのやり手ばゝアなり]【くま】「ヲヤ〳〵能{いゝ}所{ところ}で逢{あつ}た。
今日{けふ}もまたむだ足{あし}をするところであつた。サア〳〵一同{いつしよ}に帰{かへ}つた〳〵。」
【蝶】「ヲヤ母御{おつかア}か。ひつくらした。」【くま】「ナニびつくらした。ふさ〴〵しい。コレ
能{いゝ}かげんに馬鹿{ばか}にしろ。姉御{あねご}が病気{ひやうき}で二三日{にさんち}日間{ひま}をお呉{くん}

$(4ウ)

$(5オ)

(5ウ)
なせへ。もつとも座敷{ざしき}の日|割勘定{わりかんぢやう}見番{けんばん}払{ばら}ひの昼夜{ちうや}には
降{ふり}かけてもたらねへ金{かね}。コウ弐歩{にぶ}や三|歩{ぶ}で十日の余{よ}引揚{ひきあげ}
られてつまるものか。今日{けふ}で幾日{いくら}足{あし}をはこぶと思ふ。ヤレ医者{いしや}
どのへ薬{くすり}取{とり}に行{いつ}たの保里{ほり}の内へお張御符{はりごふう}をいたゞきにやつたの
と延引{ひつばり}てへほど止留{とめ}られちやア其方{そつち}の勝手はよかろうが*「延引{ひつばり}」の濁点ママ
此方{こつち}の腹{はら}が日ぼしにならア。サア〳〵直{すぐ}に連{つれ}て帰{けへ}る。」ト[立かゝりたる
悪婆{あくば}が邪見{じやけん}。お蝶{てう}はかほをあからめてくやしながらもせんかたなく]【蝶】「大きに延引{おそく}なりましたが看病{かんびやう}
する伯母{おば}さんが両三日{にさんち}の中に来{く}るはづだからどふぞそれまで。」

(6オ)
【くま】「イヽヤならねへ途方{とほう}もねへ。」ト[きゝわけなきを藤べゑはきのどくにおもひ]「コウおばさんくは
しいわけは知{し}らねへがこの子{こ}は子{こ}どもの〔こと〕だから姉御{あねご}とやらに
掛合{かけやつ}て連{つれ}て行{いき}なすつたらよかろうじやアねへか。」【くま】「ハイおめへ
さんは。」【藤】「見{み}わすれたか知{し}らねへが唐琴屋{から〔こと〕や}の二階{にかい}じやア少{ちつ}たア
人{ひと}に知{し}られた藤兵衛{とうべゑ}紋日{もんぴ}物日{ものび}も相応{そうおう}にして置{おい}た。コウ此糸{このいと}
が座敷{ざしき}では随分{ずゐぶん}おじぎを沢山{たくさん}させたぜ。」【くま】「ほんにあなたは木
場{きば}の旦那{だんな}。」【藤】「おれを旦那{だんな}といふよりはお蝶{てふ}は貴さまの元主
人{もとしゆじん}。それをなんだか口{くち}ぎたなく子{こ}どもとおもつて軽{かろ}しめたら

(6ウ)
あんまり冥利{めうり}がよくはあるめへ。」トいはれてしよげたるおくま婆〻{ばゞ}
少{すこ}しひるみて見{み}えたりしが心{こゝろ}をすゑて藤兵衛{とうべゑ}にむかひ【くま】「モシ
おめへさんはこの子{こ}の世話{せわ}でもなさる気{き}で御信切{ごしんせつ}におつしやる
のかネ。元{もと}はともかくも今{いま}じやアたがひに得心{とくしん}づくで表向{おもてむき}は
親子{おやこ}まさかの時{とき}は抱{かゝ}への奉公人{ほうこうにん}しかも一切{いつさい}わたしらがまか
ないで手取{てど}りに渡{わた}した二十両{にじうりやう}喰雑用{くひぞうよう}から元利{ぐわんり}の金{かね}が
すつかりそろつて返{かへ}つたら証文{しようもん}をあげやしやう。しかしこれでも
小{こ}いやらしく密男{むし}があるから御勘弁{ごかんべん}ものだ。」ト歯{は}に衣{きぬ}きせざる

(7オ)
一言{いちごん}にこらへかねたるやまとだましひまけぬ気性{きしやう}の寛活{くわんくわつ}富
仁者{だいじん}そも藤兵衛{とうべゑ}が今{いま}さらに途中{とちう}で出合{であひ}たれば[しらぬといはれぬ意気地{いきぢ}となり]
【藤】「コウおれにやアさつぱりわからねへが遣手{やりて}婆々{ばアさん}や引手{ひきて}の伯
母御{おばご}にはりこまれちやア男{をとこ}が立{たゝ}ねへトいふのはやぼなはなしだが
実{じつ}はおめへが可愛{かあい}そうだ。乗掛{のりかゝ}つた舟{ふね}じやアねへがもやひの綱{つな}を
引{ひき}とめて済{すみ}すましを付{つけ}てやろう。コウ母御{おつかア}今日{けふ}はマアお蝶{てふ}を
おれに預{あづ}けなせへ。」ト[いふところへくる日良伊輪{ひらいわ}の女ゆかたをもち来り藤べゑにむかひこしをかゞめ]【女】「ヲヤまだお
湯{ゆ}にいらつしやいませぬか。」【藤】「ヲイゆかたかこりやアお世話{せわ}。イヤ調度{てうど}

(7ウ)
いゝ処{とこ}へ来{き}た。」ト[女の耳{みゝ}にくちをよせなにかさゝやけば女はそう〳〵かけ出してゆく]【蝶】「藤{とう}さんま〔こと〕にお気{き}の
毒{どく}でございます。」ト[もじ〳〵してゐる。風呂よりはさくら川が格子{かうし}をのぞき]【由】「旦那{だんな}わたくしはモウ
あがりますゼ。」【藤】「ヲイ由孝{よしかう}チツト面倒{めんどう}な〔こと〕が出来{でき}てきた。マア
おらア湯{ゆ}は後{のち}にしやうヨ。」ト[いふところへくるいぜんの女かみに包{つゝ}みしものを藤べゑにわたす。藤兵衛はかみをさぐりあらた
めおくまにわたし]【藤】「サアいづれおれが仲人{ちうにん}になつてやるから二三日{にさんち}これで
日延{ひのべ}をしな。」ト[わたせしかねはたしかに一両。おくまはこゝろににつこりして]【くま】「イヱナニ是{これ}じやアあなたへ
お気{き}の毒{どく}だ。ナニわたくしだつても理{わけ}さへわかれば何{なに}もそうやか
ましくいふ気{き}はござりませんが。」【藤】「よしサ〳〵いづれにもおれが

(8オ)
呑込{のみこん}だから両方{りやうはう}の為{ため}にわるかアしねへ。」ト[おくまをばおひはらひお蝶をつれてひらいわのはなれ
ざしきにいたりければ]【蝶】「ま〔こと〕にマアひよんな〔こと〕でお気{き}の毒{どく}な。どふぞ御堪忍{こかんにん}
なさつて。」【藤】「なにつまらねへ。あやまるわけもねへ。さだめて意味{わけ}
も有{ある}だろうが此方{おいら}が気{き}ぢやアお阿{くま}めは此糸{このいと}なぞも目{め}をかけた
おめへの処{とこ}の遣手{やりて}じやアねへか。たとへ何{なん}でも元主人{もとしゆじん}の娘{むすめ}のおめへ
をあんまりこなした仕打{しうち}だから持{もち}めへの癪{しやく}にさわつていらざる
世話{せわ}をやく気{き}になつたがマアどうした理合{わけ}で今{いま}の身{み}になつた
のだへ。」ト○問{とは}れてお蝶{てふ}は涙{なみだ}ながら此{この}草紙{さうし}の初編{しよへん}二編{にへん}に記{しる}

(8ウ)
せし〔ごと〕き身{み}の上{うへ}をくはしくはなせば元来{もとより}冨福{ふげん}の寛活{はでごゝろ}ひか
ぬ気性{きしやう}の男達{をとこだて}小梅{こうめ}のお由{よし}が仁侠{をとこぎ}の噂{うわさ}に猶{なほ}さら捨{すて}られぬ同
気{どうき}の合{あひ}しも縁{ゑん}の糸引{いとひく}と知{し}らねど藤兵衛{とうへゑ}が【藤】「そりやアマア
とんだ苦労{くらう}な身{み}のうへだ。可愛{かあい}そうに。しかし案{あん}じねへがいゝ。
是{これ}からおれが姉御{あねご}にあつてどうか婆〻{ばゞあ}が方{ほう}を引離{くひきつ}てやろふ。」
ト[いふうち酒さかなを持きたる]【藤】「コウお飯{まんま}をはやく持{もつ}て来{き}な。此方{こつち}はいゝが此{この}子{こ}に
はお飯{まんま}の方{ほう}がよかろう。トキニ由孝{よしかう}はどうした。」【女】「牛{うし}の御前{ごぜん}
さまの所{ところ}に。」【藤】「そうかなぜだろう。ハヽアわるく気{け}どつてはづす

(9オ)
つもりだな。はやく呼{よん}でくんナ。」【女】「ハイ〳〵。」ト[勝手{かつて}へゆく]【蝶】「お酌{しやく}を
いたしませう。」【藤】「ナニ〳〵かまはずにお飯{まんま}をはやく喰{たべ}てさきへ
行{いき}な。姉{あね}さんが案{あん}じて居{ゐ}るだろう。」【蝶】「イヱナニ上専寺{じやうせんじ}のお
祖師{そし}さまへ直{すぐ}に参{まゐ}つて帰{かへ}るつもりにそう言{いつ}て来{き}ました
から。」【藤】「ナニ朝湯{あさゆ}から婦多川{ふたがは}へ直{すぐ}にか。」【蝶】「イヽヱナニ土手下{どてした}の
アノお屋敷{やしき}の際{きわ}の。」【藤】「ウヽやつぱり小梅{こうめ}の瓦{かはら}を焼{やく}手前{てめへ}だの。
しかしそれでも余程{よつぽど}あるの。」【蝶】「三町{さんちやう}ばかりありませうが此所
等{こゝいら}では衆人{みんな}隣家{となり}へ行{ゆく}ぐらゐに思{おも}つて居{を}りますヨ。」[この時|膳{ぜん}も出由次郎も来る]

(9ウ)
斯{かく}て是{これ}よりやゝしばらく酒宴{さかづき〔ごと〕}ありて後{のち}【由】「旦那{だんな}今日{こんち}は少{すこ}
しの中{うち}おひまを戴{いたゞ}いてもよろしうございませうか。」【藤】「ムヽなぜ。
何所{どこ}ぞ約束{やくそく}があるのか。」【由】「イヱ鯉丈{りぢやう}と茶利屋{ちやりや}と私{わたくし}を一座{いちざ}に
するおざしきがあるからと此間中{こないだうち}から里八{さとはち}がやくそくをいたし
ました。」【藤】「ハアそふかそんならてうどいゝ。おれもお屋敷{やしき}の御用{ごよう}
があるから今日{けふ}は一日{いちんち}まじめにならふ。モウいゝから直{すぐ}に行{いき}ねへ。」
【由】「イヱマアお昼過{ひるすぎ}からでもよろしう。」【藤】「ナニ〳〵おれもモウ爰{こゝ}
を出{で}かけるからいゝよ。そのかはり一寸{ちよつと}ひとつおたのみが有{あり}やす。こゝから

(10オ)
向{むか}ふへ乗切{のつきつ}て浜{はま}の宿{しゆく}の川河{かし}へ言伝{〔こと〕づけ}をしてくんねへナ。」【由】「ヘイ
延津賀{のぶつが}さんの所{とこ}でございますか。」【藤】「そうサ〳〵夷講{ゑびすこう}には
間違{まちが}ひなく来{く}るやうに。そしての宮戸川{みやとがは}のお鉄{てつ}も来{く}るはづ
だからならふなら一所{いつしよ}にさそつて川岸{かし}から船{ふね}で来{き}てくれろ
といつてくんな。」【由】「ヘイかしこまりました。そんなら御免{ごめん}を願{ねがつ}
て欲{よく}ばりにイヤ姉{ねへ}さん御{ご}ゆるりと。」ト[藤べゑがかほを見てほり出{だ}しものをしたといふしかたをしてゆくを
よびかへし]【藤】「コウ〳〵悪推{わるずい}ばかりせずと浜{はま}の宿{しゆく}へ寄{よつ}てくんなよ。
土手{どて}から向{むか}ふへわたりは渡{わた}りましたがツイ失念{しつねん}をとお株{かぶ}を

(10ウ)
やつちやアいかねへゼ。」【由】「ナニつまらねへ〔こと〕をおつしやいまし。その
御用{ごよう}ばかりで乗切{のつきり}ますものを。イヱ向島{むかふじま}も自由{じゆう}は自由{じゆう}に
なりましたネ。渡{わた}り越{こし}の舟{ふね}が今{いま}じやア六人{ろくにん}でかはり〴〵に渡{わた}
しますぜ。」【藤】「くわしく穿{うが}つの。船人{せんどう}の数{かず}まではおれも知{し}ら
なんだ。昨今{きのふけふ}まで竹屋{たけや}を呼{よぶ}に声{こゑ}を枯{から}したもんだツけ。それだ
から故人{こじん}になつた白毛舎{はくもうしや}が歌{うた}に○[文〻舎{ぶん〳〵しや}側{がは}にて当時{とうじ}のよみ人{て}なりし万守{まもり}が事なり]
須田堤{すだづゝみ}立{たち}つゝ呼{よべ}ど此{この}雪{ゆき}に
寝{ね}たか竹屋{たけや}の音{おと}さたもなし。

(11オ)
この哥{うた}も今{いま}すこし過{すぎ}ると。こは山谷舟{さんやぶね}を土手{どて}より呼{よび}
て堀{ほり}へ乗切{のりきり}し頃{ころ}の風情{ふぜい}を詠{よめ}りと前書{まへかき}が無{ねへ}とわからなく
なりやす。イヤこれはしたり。出舟{でふね}のもやひを引{ひつ}ぱるやつサ。」【由】
「いつそ今日{けふ}はよしませうか。」【藤】「ナゼ〳〵。」【由】「すこし跡{あと}の幕{まく}が
気{き}になるやうで後髪{うしろがみ}を引{ひか}れるやうな心持{こゝろもち}に。」【藤】「馬鹿{ばか}をい
はずと早{はや}く行{いき}ねへ。」【由】「さやうならば思{おも}ひきつてヘイ御機嫌{ごきげん}
よう。」ト立出{たちいづ}る。土手{どて}へ出口{てぐち}の木戸{きど}の口{くち}[ひらいはの家内大勢にて]【男女】「ヘイ御{ご}き
げんよう。ヘイさやうなら。ヲヤ由{よし}さんばかりお帰{かへ}りのかヱ。旦那{だんな}は

(11ウ)
お跡{あと}からかへ。」【由】「そうよ。」【女】「どうりで出{だ}しぬけにお立{たち}だと思{おも}
つて。」【由】「旦那{だんな}を帰{けへ}しておれを置{おき}たかろう。」【女】「ヲヤマアあきれた。」【由】「うちばな子{こ}だろう。」【女】「藤{とう}さんヱ由{よし}さんがあん
な事{〔こと〕}を申ます。」ト[おくざしきの方{ほう}へいツつけるまね]時{とき}まさに春{はる}正月十日あまりの
ことにして。南枝{なんし}やう〳〵ほころぶる梅暦{うめごよみ}のころになん。宝
福寺{ほうふくじ}の巳{み}の時{とき}の鐘{かね}ボウン〳〵[引]。瓦{かはら}焼{やく}烟{けぶり}霞{かすみ}と倶{とも}に
うすく消{きえ}今戸{いまど}に河岸揚{かしあげ}の材木{ざいもく}の音声{きやり}風{かぜ}の間{ま}に伝{つた}へ
て遥{はるか}に定使{ぢやうづかひ}を呼{よぶ}ほらの貝{かひ}の音{ね}ブウ[引]〳〵。

(12オ)
第十六齣
さても小梅{こうめ}の里{さと}に住{すみ}し於由{およし}は久{ひさ}しく病床{わづらひ}て洲崎{すさき}の
邑{むら}の伯母{おば}なりし寡婦{やもめ}の宅{いへ}を仮住居{かりずまゐ}家主{あるじ}の伯母{おば}は古
郷{こきやう}の本家{おもや}に拠{よんどころ}なき用{よう}ありて此{この}程{ほど}家{いへ}にあらざれば留主
居{るすゐ}がてらの出養生{でやうじやう}今日{けふ}は少{すこ}しく病気{やまひけ}の怠{おこた}りしゆゑ徒
然{つれづれ}をなぐさむ為{ため}の物{もの}の本{ほん}開{ひら}く雨戸{あまど}に春{はる}の日{ひ}の閑和{うらゝか}
なるは蔭{かげ}うつす障子{しやうじ}の梅{うめ}の粋{すい}な身{み}もさすが女{をんな}のこしかた
を思{おも}ひ出{いだ}してつく〴〵と心{こゝろ}ほそ音{ね}に鳴{なる}鐘{かね}は金竜山{まつちのやま}の

(12ウ)
巳{み}の時{とき}にて耕地{こうち}を通{すぐ}る商人{あきんど}の声{こゑ}【辻売】「白酒{しろふウさけ}〳〵[引]
本{ほん}ようかん〳〵。」木精{こだま}にひゞきて遥{はるか}にきこゆる折{をり}こそ
あれお蝶{てふ}は木場{きば}の藤兵衛{とうべゑ}に打連立{うちつれだち}て竹垣{たけがき}の開戸{ひらきど}
明{あけ}て【蝶】「姉{ねへ}さん気色{きしよく}は何{なん}ともないかへ。帰{かへ}りがいつもより
おそかつたろうネ。」トいひつゝ|這入{はいる}中戸口{なかどぐち}藤兵衛{とうへゑ}にむかひ
【蝶】「マアこゝへお上{あが}りなすつてくださいまし。」トいひながら奥{おく}へ
行{ゆき}およしに藤兵衛{とうべゑ}が訳{わけ}をくわしくはなしければ【由】「フウム
そうかへ。それはマア御信切{ごしんせつ}に有{あり}がたい〔こと〕だ。はやくこちらへ

(13オ)
お通{とほ}し申な。」【蝶】「ハイ。」トお蝶{てふ}もうれしげに次{つぎ}の間{ま}へ立出{たちいで}
【蝶】「藤{とう}さんどうぞこちらへお出{いで}なすつて。」【藤】「よしかへお気持{あんばい}
の悪{わる}いに。」【由】「イヱナニ今日{こんち}はモウ大{おほ}きによろしうございます。
御遠慮{ごゑんりよ}なさいませんでどうぞこちらへ。取乱{とりみだ}してをります
からお出迎{でむか}ひ申ません。コウお蝶{てう}ぼうヤそこへはやくマア
お茶{ちや}の支度{したく}でもおしヨ。」【藤】「イヱ〳〵おかまひなさいますな。」
トあいさつしながらお由{よし}が座敷{ざしき}【藤】「御免{ごめん}なさい。」ト座{ざ}に
つけばまづこちらへと上{かみ}の座{ざ}へすゝめてたがひに㒵{かほ}見合{みあはせ}

(13ウ)
いといぶかしき風情{ふぜい}なりしがお由{よし}は胸{むね}をおししづめ常{つね}
には似気{にげ}なく涙{なみだ}ぐみ【由】「あなたはたしか七年|以前{あと}佐
倉{さくら}の宿{しゆく}の槌屋{つちや}の宅{うち}に成田{なりた}かへりの御泊{おとま}りで。」【藤】「ほんに
そうだつけ。降込{ふりこめ}られた奥二階{おくにかい}酒{さけ}の相手{あひて}と頼{たの}んだが
かへつておめへの難義{なんぎ}となつて。」【由】「ほんにその時{とき}あなた
には何{なん}にも御{ご}ぞんじない〔こと〕を外目{おかめ}妬心{やきもち}の押掛{おしかけ}喧嘩{げんくわ}
なんのはかない旅芸者{たびけいしや}とわが身{み}でさへも恥{はづ}かしく思{おも}ふ
わたくしに浮名{うきな}を立{たて}られさぞおにくしみでございま

(14オ)
せうとお侘{わび}をしたのが縁{えん}となつて。」【藤】「おつなはづみと
思つたがまんざら木竹{きたけ}の身{み}ではなし終{すゑ}おぼつかない
当座情{できごゝろ}。」【由】「江戸{えと}で逢{あ}はふとおつしやつたを楽{たの}しみに
してその後はわざと気随{きずゐ}の侠客{いさみはだ}心{こゝろ}の中{うち}でははづかし
いと知りつゝ旅{たび}から帰{かへ}るより三味線{さみせん}捨{すて}て結{ゆひ}つけぬ女
髪結{をんなかみい}となつたのは万一{まんいち}おまへさんに逢{あつ}た時{とき}浮薄{うはき}な活
業{しやうばい}いたしませぬ男{をとこ}の機嫌{きげん}は猶{なほ}の事{〔こと〕}とりそうにも仕{し}
まいとは自惚過{うぬぼれすぎ}た操{みさほ}とやらどうぞ御推量{ごすいりやう}なすつて

(14ウ)
くださいましと誠{ま〔こと〕}をあらはすお由{よし}が風情{ふぜい}思{おも}ひ余{あま}つて
遠慮{ゑんりよ}する涙{なみだ}の眼元{めもと}言葉{〔こと〕ば}かずいはぬはいふにいやまさる
情{なさけ}の色香{いろか}粋{すい}な程{ほど}察{さつ}し心{ごゝろ}に藤兵衛{とうべゑ}は【藤】「ほんに
マア夢{ゆめ}を見{み}るやうな心{こゝろ}もちだ。佐倉{さくら}で逢{あつ}たその時{とき}は
たしかおめへは十九の歳{とし}で厄年{やくどし}だから成田{なりた}さまへ参
詣{さんけい}に行{ゆく}路次{みちすがら}親子連{おやこつれ}の旅{たび}かせぎと聞{きい}てたしかに薄
情{うはき}の風{かぜ}に吹流{ふきなが}されたすれからしと思{おも}ひの外{ほか}に芸{げい}
も身{み}も立派{りつぱ}な座敷{ざしき}の取廻{とりまは}し。」トいはれておよしは

(15オ)
につこりわらひうれしそうに【由】「アレマアにくらしい。七
年跡{しちねんあと}もその調子{てうし}の嬉{うれ}しがらせを真{ま}にうけて今日{けふ}
まで尽{つく}した心{こゝろ}の操{みさほ}有{あり}がた迷惑{めいわく}とお思{おも}ひだろうが
どうぞかんにんしておくんなさいましヨ。」ト[いふものごしからとりなりも初へん
二へんにしるしたる]お由{よし}に似合{にあは}ぬその風情{ふぜい}。これ世{よ}の中{なか}の女{をんな}の情{じやう}に
てよきもあしきも強{つよ}きも弱{よわ}きもこれとさだまる〔こと〕は
なし。その逢方{あひかた}の男{をとこ}しだいで色気{いろけ}しらはも年増
気{としまぎ}のじみになるあり年増{としま}にてうらはづかしき端手{はで}

(15ウ)
姿{すがた}もみなこれ男{をとこ}を思{おも}ふよりその時〻{とき〳〵}のうつり気{ぎ}
にて更{さら}におかめの評判{ひやうはん}は野暮{やぼ}と律義{りちぎ}のうわさ
にて男女{なんによ}の情{じやう}をしらずといふべし【藤】「ナニ堪忍{かんにん}しな
とは此方{こつち}でいふ〔こと〕。成田{なりた}から帰{かへ}ると直{すぐ}に間{あひだ}もなく大和{やまと}
めぐりに友達{ともだち}が行{ゆく}と聞{きく}より好{すき}の道{みち}母親{はゝおや}ばかりであま
やかされ我儘{わがまゝ}承知{しようち}のなまけ癖{くせ}同気{どうき}求{もと}めた友達{ともだち}の
浮薄{うわき}連中{なかま}の長旅{ながたび}に阿房{あほう}尽{つく}して伊勢{いせ}浪花{なには}。京{きやう}
の女郎{ぢよらう}で長崎{ながさき}の味{あぢ}も衣裳{いしやう}も見物{けんぶつ}しようとうかれ

(16オ)
あるきの月{つき}と日{ひ}に江戸{えど}では大事{だいじ}の伯父{おぢ}の病死{びやうし}。留
主中{るすちう}出入{でいり}のお屋敷{やしき}を五軒{ごけん}までもしくじりが出来{でき}て
御用止{ごようどめ}。それも知{し}らずに道中{だうちう}を遊{あそ}びちらしたその跡{あと}
は懐{ふところ}づくでおさまらぬ金{かね}の工面{くめん}に西国{さいこく}中国{ちうごく}御出入{おでいり}の
御国家老{おくにがらう}へ十|両{りやう}二十両と無心{むしん}の借{かり}も十七八|侯{けん}。それが
残{のこ}らず江戸{えど}へ知{し}れ金{かね}を遣{つか}ひちらして遊{あそ}ぶもいゝが百里{ひやくり}
二百|里{り}|遠所{さき}に居{ゐ}て親{おや}をも家{いへ}をも見{み}かへらねへ不孝{ふかう}と
いふがあるものか。伯父{おぢ}の死{し}んだに葬式{そうしき}の供{とも}にも立{たて}ず捨{すて}

$(16ウ)
平兼盛
我宿の
梅の立枝や
見えつらん
思ひの
外に
君が
きま
せる
千葉{ちば}の
藤兵衛{とうべゑ}

$(17オ)
小梅{こうめ}の
於由{およし}

(17ウ)
置{おく}と世間{せけん}へも聞{きこ}えて不済{すまず}第一{だいゝち}伯母{おば}へ済{すま}ねへといふ
も尤{もつとも}伯母{おば}といふは家付{いへつき}の娘{むすめ}で母{はゝ}の姉{あね}義理{ぎり}ある中{なか}
の言{いひ}わけと内評定{ないひやうぢやう}があるとも知{し}らず遊{あそ}び倦{あき}てお江
戸入{えどいり}のその日に直{すぐ}に内〻{ない〳〵}勘当{かんだう}。しばらく上総{かづさ}の親
類{しんるゐ}へ預{あづ}けられて居{ゐ}た時分{じぶん}おめへの〔こと〕を折〻{をり〳〵}は思{おも}ひ
出{だ}しても仕方{しかた}はなし。それからやう〳〵二|年{ねん}程{ほど}過{すぎ}て
宅{うち}へ帰{かへつ}たところがおめへの所{ところ}が気{き}になつていろ〳〵
さがして見{み}たけれど少{すこ}しもしれずにしまつたが

(18オ)
実{じつ}にわすれる間{ま}はなかつたぜ。」【由】「どうりでしれない
はづでありましたねへ。あれから佐倉{さくら}を立{たつ}て小見川{おみがは}へ
行{いつ}て東{ひがし}の方{ほう}を廻{まは}つて江戸{えど}へ帰{かへ}ると父親{おとつさん}がいひま
すからはやく宅{うち}へ帰{かへ}りたいとおもつて気{き}がせいたの
にわたくしが風邪{かぜ}をひいて寝{ね}たり父親{おとつさん}が亦{また}煩{わづら}つたり
してやう〳〵六七十日|過{すぎ}て宅{うち}へ帰{かへ}つておまへさん
の〔こと〕をいろ〳〵と噂{うわさ}を聞{きい}てもどうしてもさつぱり
わからずにしまつてその中{うち}おとつさ゜んも亡没{なくなる}し伯母{おば}の

(18ウ)
世話{せわ}でやう〳〵とくらして居{ゐ}ても芸者{げいしや}や何{なに}かで
ゐた時{とき}は万一{まんいち}おまへさんにおめにかゝつた時{とき}情{じやう}もない
やうに思{おぼ}し召{めし}てはとおもつて女{をんな}を相手{あいて}の髪結{かみゆひ}はは
かないけれど女{をんな}の身{み}で男{をとこ}の世話{せわ}に。」卜いふところへお蝶{てう}は
茶{ちや}をこしらへきたり【蝶】「姉{ねへ}さんヱお茶{ちや}が出来{でき}まし
たがネお茶菓子{ちやぐわし}が。」【由】「ほんにあいにく何{なに}もないネ。」【蝶】「いつ
もの物{もの}でも取{とつ}て参{まゐ}りませうか。」【由】「アヽそんならどうぞ
行{いつ}て来{き}ておくれな。秋葉{あきは}さまの裏門{うらもん}をぬけずに

(19オ)
むさしやの横手{よこて}を真{まつ}すぐに行{ゆく}と近{ちか}いそうだよ。」【蝶】「アイ
此間{こないだ}もそう通{とほ}つて行{いき}ましたヨ。どちらを買{とつ}てまゐ
ろうネ。」【藤】「ナニ〳〵わたしはモウおかまひなさんな。それより
今{いま}にひらいわが何{なに}か持{もつ}て来{く}るはづだ。」【由】「ヲヤそうでご
さいますか。それはマア。」ト[いひさして]「お蝶{てう}ぼうはやく行{いつ}てお出{いで}
よ。」【蝶】「アイ今{いま}まゐる所{とこ}でありますヨ。」【由】そんならネ両
方{りやうほう}とも買{とつ}て来{き}ておくれヨ。お祖師{そし}さまへもあげるから。」
トいふをきゝさし出{いで}て行{ゆく}はづす心{こゝろ}とはづさせる心{こゝろ}の

(19ウ)
中{うち}は当{あた}り合{あふ}色{いろ}の手{て}とりと知{し}られけり○[ちよつと此所にてごひろう]
すみた川名物
新製みやこ島[折詰籠詰袋入御土産御好み次第]
道明寺
極製富貴ぼたん
向島寺しま新田
[折詰重筥御進物御好次第松花園精製]
二品とも
上品の
御口取菓子
にて
当時
向しまの
名物なり
こは作者{さくしや}が知己{ちき}ゆゑに御披露{ごひろう}申わざにはあらず。四季{しき}の
遊{あそ}びの向島{むかふじま}より御かへらせの家土産{いへづと}には桜餅{さくらもち}よりはるか
にまさりて実{じつ}に極品{ごくひん}精製{せい〳〵}の御口{おんくち}取{とり}なり。それはさておき

(20オ)
藤兵衛{とうべゑ}とお由{よし}はまたも顔{かほ}見合{みあは}せ手{て}もちぶさたのその
中{なか}にお由{よし}はいとゞ嬉{うれ}しさとまたはづかしさに胸{むね}さはぎいひ
そゝくれし身{み}の上{うへ}の貞{てい}も操{みさほ}も七年{なゝとせ}余{あま}り証据{しやうこ}なければ
今{いま}さらにくやし涙{なみだ}にくれにける。必竟{ひつきやう}二人{ふたり}がこの座{ざ}の埒{らち}は
そもいかならん。そのよしは十七|回{くわい}をよみて知るべし。
春色梅児誉美八の巻了

(20ウ)
〈広告〉婦女八賢伝{をんなはつけんでん}袋入 全十二冊 狂訓亭為永春水作 香蝶楼歌川国貞画
[楽焼{らくやき}の櫛{くし}の政子形{まさごかた}黄木{つげ}の小櫛{をぐし}の操形{みさほがた}]当世娘{たうせいむすめ}身持扇{みもちあふぎ} 為永春水作 柳川重信画
この草紙{さうし}は当年{たうねん}第一{だいゝち}の奇作{きさく}にして例{れい}の為永{ためなが}がなげ
やりの筆{ふで}にあらずみじゆくなが■も丹誠{たんせい}の佳本{かほん}なり御
もとめ御高覧{ごかうらん}の程{ほど}偏ニ奉願上〔より〕
物の本の問丸
文永堂の主人伏禀


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142247)
翻字担当者:洪晟準、梁誠允、成田みずき、銭谷真人
更新履歴:
2017年4月5日公開

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