春色梅児与美 巻一 ---------------------------------------------------------------------------------- 凡例 1.本文の行移りは原本にしたがった。 2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。 3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。 4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア 5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」 6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。  平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ  片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ  複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵 7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。 8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。 9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。 10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕 11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい} 12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日} 13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい} 14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。 15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】 16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。 17.不明字は■で示した。 18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」 19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。 20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。 本文の修正 1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。 ---------------------------------------------------------------------------------- (口1オ) 梅こよ美の序 南枝{なんし}に雪{ゆき}の積{つむ}頃{ころ}より一輪{いちりん}つゝの梅{うめ}の花{はな} かぞへて願{ねが}ふ吉方{きつはう}は三鏡宝珠{さんきやうほうじゆ}の恵{めぐみ}を祈{いの}る春{はる} のあしたの売{うり}出{だ}しに多願玉女{たぐわんぎよくぢよ}の門出{かどいで}よし。色星玉 女{しきせいぎよくぢよ}の利益{りやく}には袋{ふくろ}外題{げだい}の色摺{いろずり}よし。天星玉女{てんせいぎよくちよ}の 神徳{しんとく}に恵方{ゑはう}の買手{かひて}来{き}そはじめそも八将 (口1ウ) 神{はつしやうじん}の方位{はうゐ}にそむかず建{たつ}とは仕立{したて}の切形{きりかた}よく平{たいら}は表*「建{たつ}」「平{たいら}」に左傍線 紙{ひやうし}に凹{むら}もなく画{ゑ}ばかり除{のぞく}はひやかしにて破{やぶる}は御免{ごめん}の*「除{のぞく}」「破{やぶる}」に左傍線 表紙{ひやうし}附{つけ}立直{たちね}を定{さだん}の当日{たうじつ}に執{とる}とはえんぎに成{なる}納{おさん}。*「定{さだん}」「執{とる}」「成{なる}」「納{おさん}」に左傍線 巻{まき}を開{ひらく}の看官{ごけんぶつ}に作者{さくしや}が願{ねがふ}御評判{ごひやうばん}満{みつ}とは則{すなはち}板元{はんもと}の*「開{ひらく}」「満{みつ}」に左傍線 蔵入{くらいり}いはふ天恩{てんおん}月徳{ぐわつとく}四季{しき}の土用{どよう}はいふも更{さら}春夏秋*「天恩{てんおん}」「月徳{ぐわつとく}」「土用{どよう}」に左傍線 冬{はるなつあきふゆ}止{やむ}時{とき}なく日〻{ひゞ}の注文{ちうもん}追摺{おひすり}とはチト欲心{よくしん}の十干{えと}十二支{かつて}。 (口2オ) 土公{どこう}をおせばそんな直{ね}が出{で}るとは部数{ぶかず}の限{かぎり}なし諸君{しよくん}*「土公{どこう}」に左傍線 遊行{ゆぎやう}の間{あひ}の日{ひ}にはかならず此{この}冊子{しよ}をもて遊{あそ}びて梅{うめ}が香{か}つ たふ御風聴{ごふいてう}今年{〔こと〕し}もかはらず御取立{おとりたて}と願{ねが}ふ心{こゝろ}の十方{しつはう}ぐれ。*「十方{しつはう}ぐれ」に左傍線 八方{はつはう}金神{こんじん}の中央{ちうわう}に座{ざ}したるこの三四年{さんよねん}の災厄{さいやく}もやゝ解{とけ} そむる薄氷{うすごほり}。春水{しゆんすい}四沢{したく}にみつるといふ時{とき}をゑがほや花{はな} の兄{あに}文永堂{ぶんゑいだう}の引立{ひきたて}に柳川重信画{ねぎしのふで}の愛敬{あいきやう}で何卒{なにとぞ} (口2ウ) あたれ大当{おほあたり}。日{ひ}あたりもよき梅{うめ}の枝{えだ}を月曜星{ぐわつようせい}の 尊前{みまへ}に供{そなへ}一陽来福{いちやうらいふく}の吉書{きしよ}はじめ。 于時{ときに}天保{てんほ}壬辰年{みづのへたつどし}春正月{はるしやうぐわつ}の発行{うりだし}にとて冬至{とうじ}の 宵{よひ}に墨水{ぼくすゐ}を硯{すゞり}にうけて筆{ふで}を染{そめ}。 江戸前の市隠狂訓亭 為永春水しるす〈印〉 $(口3オ) 梅{うめ}の阿由{およし}が義妹{いもと}竹長吉{たけちやうきち} そも〳〵和朝{ひのもと}に寄{よせ}浄留理{じやうるり}の元祖{ぐわんそ}は京都{きやうと} 四|条{しやう}の河原{かはら}にて六字{ろくし}南無右衛門{なむゑもん}といへる人 |女子{をなご}太夫{だいふ}をもつて 都鄙{とひ}の貴賤{きせん}を 大寄{おほよせ}なせしが これ女子{をなご} 浄瑠璃{じやうるり} のはじめ にてこの以前{いぜん}に 男女{なんによ}にかぎらず 音曲{おんぎよく}をもて人寄{ひとよせ} せし〔こと〕たへて なしとぞ $(口3ウ) 鎌倉{かまくら}多津美{たつみ}の芸妓{げいしや} 誉祢八{よねはち} 艶言{せじ}で欺{まろめ}て 浮薄{うはき}で交{こね}て甘口{うまみ}を うれど貞烈{ていれつ} 真操{しんさう} 堅{かた}き誓{ちか}ひも和{やわ}らかき色気{いろけ}を 保{もち}し栄体談子{えいたいだんご}実{じつ}に此{この}妓{こ}は 美女{いゝこ}といふべし $(口4オ) 美人 在南国 春 与 年 同 艶 婦多川{ふたがは}千葉{ちば}の 倭町{やまとちやう}に住{すむ} 通客{つうかく}藤兵衛{とうべゑ} $(口4ウ) 唐琴屋{から〔こと〕や} の 養子{やうし} 丹 次 郎{たんじらう} 袖口{そでぐち}の繻子{しゆす}の ぬめりに 見{み}ほれけん $(口5オ) すべり こんだる 風の 梅{うめ}が 香{か} 右八橋舎 唐琴屋{から〔こと〕や}の 処女{むすめ}阿長{おてう} 珍珠无価 玉無瑕 月明勝雪 映梅花 $(口5ウ) さては此程御はなしの梅暦の 画上御書入れのたしにもと反古の中 より見出しさしあげ被参候 月中ノ仙子雪中ノ梅第一嫦娥第一ノ香 御稿本明キ次第借用申上たく願上 被参候 めでたく かしこ 清元延津賀 狂訓亭雅兄 (1オ) 春色{しゆんしよく}梅児与美{うめごよみ}巻之一 江戸 狂訓亭主人作 第一齣 野{の}に捨{すて}た笠{かさ}に用{よう}あり水仙花{すいせんくわ}。それならなくに水仙{すいせん} の。霜除{しもよけ}ほどなる侘住居{わびずまゐ}。柾木{まさき}の垣{かき}も間原{まばら}なる。外{そと}は田 畑{たはた}の薄氷{うすごほり}。心{こゝろ}解{とけ}あふ裏借家{うらしやくや}も。住{すめ}ば都{みやこ}にまさるらん。 実{じつ}と寔{ま〔こと〕}の中{なか}の郷{ごう}。家数{やかす}もわづか五六軒{ごろくけん}。中{なか}に此{この}ごろ 家移{やうつり}か。万{よろづ}たらはぬ新世帯{あらぜたい}。主{あるじ}は年齢{としごろ}十八九。人品{ひとがら} (1ウ) 賎{いや}しからねども。薄命{ふしあはせ}なる人{ひと}なりけん。貧苦{ひんく}にせまる 其{その}うへに。此{この}ほど病{やまひ}の床{とこ}にふし。不自由{ふじゆう}いわん方{かた}もなき 容体{すがた}もときの吉不祥{よしふせう}。いとゞ寒{さむ}けき朝嵐{あさあらし}。身{み}にしみ〴〵 とかこち顔{がほ}。独{ひとり}わびしき門{かど}の戸{と}に【女】「すこし御免{ごめん}なさい まし〳〵。」【あるじ】「アイどなたヱ。」【女】「そふいふお声{こゑ}は若旦那{わかだんな}さん。」と いひつゝあける障子{しやうじ}さへ。ゆがむ敷居{しきゐ}にやう〳〵と。あけて 欠込{かけこむ}其{その}姿{すがた}。上田太織{うへだふとり}の鼠{ねづみ}の棒縞{ぼうじま}。黒{くろ}の小柳{こやなぎ}に紫{むらさき}の。やま まゆじまの縮緬{ちりめん}を鯨帯{くじらおび}とし。下着{したぎ}はお納戸{なんど}の中形 (2オ) 縮{ちうがたちり}めん。おこそ頭巾{づきん}を手{て}に持{もち}てみだれし鬢{びん}の嶋田 髷{しまだわげ}。素顔自慢{すかほじまん}か寝起{ねおき}の儘{まゝ}か。つくろはねども美{うつく}しき。 花{はな}の笑顔{ゑがほ}に愁{うれゐ}の目元{めもと}。亭主{あるじ}はびツくり㒵{かほ}うちながめ 【主】「米八{よねはち}じやアねへか。どふして来{き}た。そして隠{かく}れて居{ゐ}る此 所{ここ}が知{し}れるといふもふしぎな〔こと〕。マア〳〵こちらへ夢{ゆめ}じやアねへ か。」ト[おきかへりてすはる]【よね】「わちきやア最{もふ}。知{し}れめへかと思{おも}つて胸{むね} がどき〳〵して。そしてもふ急{いそ}ひで歩行{あるひ}たもんだから アヽ苦{くる}しい。」ト[むねをたゝき]「胭{のど}がひツつくよふだ。」ト[いひながらそばへすはり]「おまはんは (2ウ) 煩{わづら}つてゐさつしやるのかへ。」ト[かほをつくづく見て]「寔{ま〔こと〕}にやせたねへ。マア 色{いろ}のわりい〔こと〕は。真青{まつさを}だヨ。何{いつ}時分{じぶん}からわるいのだへ。」【主】「ナニ 十五六日|跡{あと}からヨ。大造{たいそう}なことでもねへが。どふも気{き}が閉{ふさい}で ならねへ。それはいゝが手{て}めへまア。どふして知{し}つて来{き}たのだ。 聞{きゝ}てへ〔こと〕もたんとある。」ト[すこしなみだぐみてあはれ也]【よね】「ナニ今朝{けさ}は妙見{みやうけん}さま へ参{まゐ}りに来{き}たつもりで宅{うち}は出{で}ましたヨ。寔{ま〔こと〕}にふしぎな ことサねへ。お前様{まはん}が此様{こん}な所{ところ}に御在宅{おいで}といふ〔こと〕は。ほんに 夢{ゆめ}にも知{し}らなんだがネ。此{この}頃{ごろ}目見{めみへ}に来{き}て居{ゐ}るしたじツ $(3オ) よね八 (3ウ) 子{こ}が[これげいしやしたじの子といふりやくしことばなり]ありまはアな。その子{こ}の宅{うち}を聞{きい}た れば。本所{ほんじよう}の方{ほう}だといひましたが。それから皆〻{みんな}と種〻{いろ〳〵} なことを聞{きい}て遊{あそ}んで居{ゐ}るとき。其{その}子{こ}が宅{うち}の近所{きんじよ}の咄{はなし}を する中{なか}で。どふもはなしの様子{よふす}が。おまへはんの噂{うはさ}のよふ だから。其{その}晩{ばん}一所{いつしよ}に寝{ね}かしてよく〳〵聞{きい}たら。宅{うち}に意 気{ゐき}な美{うつく}しいお内室{かみさん}が居{ゐ}ると言{いひ}ましたから。夫{それ}じやア 違{ちが}ツたかと思{おも}つて。猶{なほ}くわしく聞{きい}たれば。おまはんの年{とし} よりおかみさんの方{ほう}が年{とし}うへのやうだといひますし。また (4オ) おかみさんは。とふして家{うち}には居{ゐ}ないといふし。聞{きけ}ばきく ほどなんだかおまはんのよふな心持{こゝろもち}で。モウ〳〵どふも気{き} が済{すま}ねへから其{その}子{こ}によく〳〵私{わちき}の聞{きい}たこと を口留{くちどめ}して。 置{おい}て。今日{けふ}の朝参{あさまい}りには。なんでも尋{たづ}ねよふと思{おも}つて。 十五日を楽{たの}しみにして。出{で}て来{き}たんでありまさアな。日 頃{ひごろ}の念力{ねんりき}とはいふものゝ。風{ふ}とした〔こと〕からおまはんの。在 家{ありか}が知{し}れるといふは。妙見{みやうけん}さまのおかげだと。嬉{うれ}しいに付{つけ}て 気{き}がゝりなは。おかみさんがあるとの噂{うはさ}。今日{けふ}はどこぞへ (4ウ) お他出{いで}のかへ。」【主】「ナニつまらねへ。どうして女房{にようぼう}どころな ものか。そして其{その}子{こ}は何所{どこ}の娘{むすめ}だらふ。」【よね】「なんだか宅{うち}は 八百屋{やをや}だといひましたヨ。そりやアマアいゝじやアありま せんか。おまはんマアそれよりか。今{いま}じやア私{わちき}の〔こと〕なんざア 思{おも}ひ出{だ}しもしてはお呉{くん}なさるまいネ。そして噂{うはさ}にきいた お内君{かみさん}の〔こと〕をかくさずとも。いゝじやアありませんかヱ。」【主】「ナニサ 隠{かく}すどこじやアねへ。此{この}容{すがた}だものを。よくつもつて見るがいゝ。 其{その}子{こ}の咄{はな}しだツても。何{なん}だか知{し}れもしねへ。マアそりやア (5オ) そふと。宅{うち}のよふすはどふだノ。」【よね】「宅{うち}のよふすは大変{たいへん}サ。鬼 兵衛{きへゑ}どんの気{き}じやア。皆{みんな}に旦那{だんな}さんといはれてへ心持{こゝろもち}で 居{ゐ}ますのサ。それだけれど。御内室{おかみさん}の在世{たつしや}な時{とき}さへあの とふりの理屈{わけ}だものを。どふしてそふいふ様{よふ}にいきます ものか。それを何{なん}の角{か}のと言{いつ}て。三日{みつか}にあげず内証{ないしやう}は もめが絶{たへ}やアしませんは。私{わちき}も全体{ぜんたい}おまはんの。養子{よふし}に 行{いか}しつたときから。住{すみ}かへに出{で}たいと思{おも}つて。気{き}をもんで 居{ゐ}ましたけれども。どふもあゝいふ意地{ゐぢ}わるだから。ゑこぢ (5ウ) になつて出{だ}すめへと。今日{けふ}まじやア我慢{がまん}して居{ゐ}たけれ ど。おまはんの宅{うち}は知{し}れるし。そしてマア。」ト[あたりを見まはしなみだをひざにこぼし ながら]「此様{こん}なはかない形身{なり}になつてゐさつしやうのを見{み}て どふしてあすこの宅{うち}に居{ゐ}られますものか。私{わち}きやア今日{けふ} 皈{けへ}ると直{すぐ}に住{すみ}けへをねがつて。婦多川{ふたがは}へでも行{いつ}て辛 防{しんぼう}しておまはんの身{み}を少{すこ}しも楽{らく}にさせ申てへネヱ。」ト [しんじつ見へし女のいぢ男はしゞうふさいでゐる]【よね】「ヱモシそして養子{よふし}に行{いか}しつた御宅{おうち}は マアどふした訳{わけ}で急{きう}に身代{しんだい}がたゝなくなつたのであり (6オ) ますヱ。」【主】「さればサ今{いま}さら考{かんがへ}て見りやアやつぱり鬼{き}兵へ が先{さき}の番頭{ばんとう}の松{まつ}兵へとなれ合{あい}て直{すぐ}に戸{と}を塞{さす}身上{しんせう}を 承知{しやうち}でおれを急養子{きうよふし}そんな〔こと〕は露{つゆ}しらず|這入{はいつ}て 見れば借金{しやくきん}の。山{やま}も縁{えん}づくとふそしてと。思{おも}つたゆへに 鬼{き}兵へにも判{はん}をおさせた百両{ひやくりやう}の金{かね}も養家{よふか}へいれ仏 事{ぶつじ}それから宅{うち}へ出入{でいり}もならず音信不通{いんしんふつう}とされた のはみんな此方{こつち}がふつゝかゆゑまたそのうへに養子先{よふしさき}の 身上{しんせう}はふんさんしてまだ後日{ごにち}にはこれがあると言{いつ}て番 (6ウ) 頭{ばんとう}松{まつ}兵へが畠山{はたけやま}さまへ出{だ}してある五百両{ごひやくりやう}の証{しやう}もんは おまへに上{あげ}ますその代{かは}り分散{ぶんさん}残{のこ}りの百両{ひやくりやう}は私{わたくし}が七 十両|跡{あと}は外{ほか}の者{もの}へつかはしますといつて其{その}身{み}は上方{かみがた}へ 登{のぼ}るといつて行衛{ゆくゑ}なし。二番{にばん}ばんとう久八{きうはち}といふ者{もの}が 信切{しんせつ}におれが名代{みやうだい}に畠山{はたけやま}さまへ行{いつ}た処{ところ}が随分{ずいぶん}金子{きんす} は下{さ}げつかはすが先達{さきだつ}て松{まつ}兵へにおふせつけられた残 月{さんげつ}の御茶入{おんちやいれ}御払{おはらひ}ものとてわたしおかれしが此{この}ほど聞{きけ}ば 梶原家{かぢはらけ}へ千五百両に納{おさま}りしとの事{〔こと〕}夏井{なつゐ}丹次郎{たんじらう}〔より〕 (7オ) さしあげ置{おい}たる五百両{ごひやくりやう}をさし引{ひき}残{のこ} り千両{せんりやう}は。早速{さつそく}に 上納{ぜうのう}いたせと。いはれてびつくり立{たち}かへり。相談{さうだん}さい中{ちう}お屋 敷{やしき}から。久八{きうはち}が宅{うち}へ役人衆{やくにんしゆ}がござられて殿{との}の御国{おくに}へ御 立{おたち}ゆゑ。心{こゝろ}づかずにおつたるが。夏井{なつゐ}の家{いへ}分散{ぶんさん}とあれば ゆるかせならぬ茶入{ちやいれ}の金子{きんす}。松{まつ}兵へならびに当主人{たうしゆじん}。丹 次郎{たんじらう}同道{どう〴〵}いたせと大{おほ}むづかし。それから久{きう}八がはからひで。 おれはしばらく世{よ}をしのぶ身{み}のうへ。松{まつ}兵へは行衛{ゆくゑ}しれす 段〻{だん〴〵}久{きう}八が難義{なんぎ}するそふだ。とはいふものゝおれもまア (7ウ) くやしい難{なん}をきたじやアねへか。」【よね】「ま〔こと〕に聞{きく}もくやしい ねへ。そしてだれがおまはんの病気{びやうき}の世|話{わ}をしますヱ。」 【主】「ナニ世話{せわ}といつて居付{ゐつい}て世話{せわ}のしてもねへが。長屋{ながや}の 衆{しゆう}やまたおもに世話{せわ}になるのは。今{いま}はなした。久{きう}八といふ 人{ひと}の。かみさんの娣{いもふと}が。女髪結{をんなかみゆひ}をして。此{この}近所{きんじよ}に居{ゐ}るから。 それが時〻{とき〴〵}来{き}て。何{なに}かのことをしてくれるのサ。」【よね】「そふかへ。 其{その}女中{ぢよちう}とはへ。」【主】「女中{ぢよちう}とはヱとは何{なん}のこツた。」【よね】「なんても ないのかヱ。どふも気{き}になるねへ。」【主】「なにそんな浮気{うはき}な沙 (8オ) 汰{さた}じやアねへわな。こふして居{ゐ}てもおゐらア実{じつ}に心細{こゝろぼそ}イヨ。」ト [なみだはら〳〵]【よね】「若旦那{わかだんな}へなぜそんなに悲{かな}しい〔こと〕をお言{いひ}なさる のだヱ。もふ斯{かう}してお在家{ありか}が知{し}れるからは。どんなことを しても私{わちき}が身{み}のおよぶたけはおまはんに不自由{ふじゆう}はさせ やアしませんから。気{き}をしつかりと持{もつ}て。早{はや}く能{よく}なつて お呉{くん}なさいヨ。こんな淋{さみ}しい所{ところ}に夜{よる}も独{ひとり}でマアさぞ。」ト㒵{かほ} をそむけて袖{そで}をあて。昔{むかし}といへど遠{とふ}からぬ。昨日{きのふ}にかはる 此{この}すがた。たとへ内証{ないしよ}は兎{と}も角{かく}も。大町{だいてう}小見世{こみせ}の若旦那{わかだんな} (8ウ) 所{ところ}がらとて何事{なにごと}も。花美{はで}に暮{くら}せし其{その}人{ひと}が。三畳敷{さんでうじき}を 玉{たま}のとこ。ならでたまさか問{と}ふ人{ひと}に。さすが恥{はぢ}らふ憂住 居{うきすまひ}。おもひやらるゝ男{をとこ}の心{こゝろ}。惚{ほれ}れた女{おんな}の心{こゝろ}には。千万無量{せんまんむりやう}*「惚{ほれ}れた」の「れ」は衍字 のもの案{あん}じよそ目{め}に知{し}れぬ歎{なげ}きなり。男{をとこ}はなみだを ふきながら【主】「何{なに}サおいらア斯{かう}して人{ひと}に。遠慮{えんりよ}をして 居{ゐ}る身{み}ぶんだから。不自由{ふじゆう}も何{なに}もしかたがねへ。どふも 自由{じゆう}にならねへ身{み}のうへだから。」【よね】「サアそれだから モウこゝを皈{けへ}りたくありませんヨ。」【主】「そんな事{〔こと〕}を言{い}は (9オ) ねへで。どふかまた㒵{かほ}を見{み}せてくんな。そしてモウおそく なるだらふいゝかへ」【よね】「ナニ今朝{けさ}はおそくなる用心{ようじん}を して来{き}ましたヨ。奥座敷{おくざしき}のに[このおくざしきといふはたしかにこの宅{うち}げいしやのゐる所のおゐらんにて そのいへのおしよくのことゝすいしたまへ]徳{とく}さんの手紙{てがみ}をたのまれたから。裏前{うらまへ} までわざ〳〵行{いつ}てやるつもりで取{とつ}て来{き}たから。今日中{けふぢう} に人をたのんでやればよいヨ。そして観音{くわんのん}さんと淡{あは}しま さんへお百度{ひゃくど}をして皈{かへ}るつもりだから。餘{よつ}ほど手間{てま}が とれることがあつてもいゝよふにしてありますヨ。ヲヤ火{ひ}が (9ウ) 一{ひと}ツもなひねへ。」ト[いひながら火うちばこをさがしやう〳〵に火をおこして]「薬{くすり}を煎{せんじ}て置{おい}て 上{あげ}よう。どの土瓶{どびん}だヱ。」【主】「その火鉢{ひばち}の脇{わき}にあるヨ。」ト[いゝながらまくらもと のくすりを出して]「生姜{しやうが}もその盆{ぼん}のうへにあるだらふ。」【よね】「アヽ有{あり} ますヨ。ヲヤ此{この}口{くち}のかけた土{ど}びんかへ。」ト[おもはずわらひしがまたかなしくもなりふじゆうなるをさつ してふさぎ]「お医者{ゐしや}さんは何所{どこ}のだへ。」【主】「ナニそれもお浜{はま}さんが 世話{せわ}をしてよこしたのだ。」【よね】「おはまさんとはヱ。」【主】「いま はなした久{きう}八のかみさんの娣{いもふと}よ。おほかた目見{めみへ}の子{こ}の言{いつ} たかみさんとはその〔こと〕だらふ。それはいゝがおいらの事{〔こと〕}を (10オ) 知{し}つて居{ゐ}てはわりいのふ」【よね】「ナニサ他{ひと}はなんだか気{き}が付{つ} きやアしませんはネ。そして飯{おまんま}はありますかへ。」【主】「ムヽおめ しはゆふべ向{むかふ}のおばさんが来{き}て焚{たい}てくれたからいゝが。 手{て}めへ腹{はら}がへつたらうが。此近所{こゝいら}にはどふも鳥渡{ちよつと}喰{くは} せるものもねへ。余{よ}ツほど遠{とふ}いからこまる。」【よね】「ナニ私{わちき}やア 午刻{おひる}までは塩禁{しほだち}だから。どふで何{なに}も喰{たべ}られませんが。 おまはんに何{なん}ぞおいしひ物{もの}でもたべさしたひネ。私{わち}きが なんぞ拵{こしらへ}て上{あげ}たひヨ。斯{かう}して居{ゐ}る中{うち}何{なん}ぞ用{よう}を思{おも}ひ $(10ウ) 丹次郎 $(11オ) よね八 (11ウ) 出{だ}して御覧{ごらん}なねへ。」ト[いひながらかみいれより何かつゝみしものをいだして]「マアこれで何{なん}ぞ 不自由{ふじゆう}なものを買{かつ}て置{おい}て。そして身{み}になる物{もの}をちツと たべてお見{み}なさいよ。今朝{けさ}はほんの朝参{あさまい}りではあるし。 おまはんにあはれるかなんだか知{し}れないから。寔{ま〔こと〕}に少金{ちつと} ばかりしかありませんヨ。また其{その}内{うち}都合{つがう}して出{で}て来{き}ます ヨ。」ト[手にわたせば男はうけとりきのどくそふに]「これじやアどふも気{き}のどくだ。そし て米八{よねはち}もふおめへけへるのか。」【よね】「ナニまた皈{かへ}りやアしません よ。おそくなつても今{いま}のわけだから宜{よい}はネ。マアおまはんの (12オ) 首{つむ}りがひどくうつとしそふだねへそつと束{たば}ねてあげ よふかへそふしたら心持{こゝろもち}が。ちつたアさつぱりなさるだらふ。」 【主】「そふヨまだ居{ゐ}ても能{よか}アそろ〳〵ととかしてくんなナ。」 【よね】「アヽどれ。」ト[うしろへまはりてうれしそふに]「私{わちき}のさし櫛{ぐし}でもよからふネヲヽ ヲヽ寔{ま〔こと〕}にモウおそろしい。」ト。心{こゝろ}よはきは女{おんな}の癖{くせ}。過越方{すぎこしかた}を 思{おも}ひ出{だ}し。鬢水{びんみづ}ならで衿元{えりもと}へひいやり落{おつ}る涙{なみだ}の雫{しづく} 男{おとこ}は振{ふり}向{む}き【主】「よね八なぜ泣{なく}。」【よね】「それだツても。」【主】「それだつてもどふした。」【よね】「おまはんマアなぜこんなにはかねへ (12ウ) 身{み}のうへにならしつたらふねへ。」ト[おとこのかたにとりよがりなくおとこはふりむきよね八が 手をとりひきよせ]【主】「かんにんして呉{くん}なヨ。」【よね】「ナゼあやまるのだヱ。」 【主】「手{て}めへにまで悲{かな}しい思{おも}ひをさせるから。」【よね】「ヱヽもふ おまはんは私{わちき}をそふ思{おも}つてお呉{くん}なさるのかへ。」【主】「かわい そふに。」ト[だきよせればよね八はあどけなく病にんのひざへよりそひ顔を見て]【よね】「真{しん}に嬉{うれ}しひヨ どふぞ。」【主】「どふぞとは。」【よね】「かうしていつ迄{まで}も居{ゐ}たひねへ。」ト[いへば男もつく〴〵と見れば思へばうつくしきすがたにうつかり]【主】「アヽじれツてへのふ。」トひつ たり寄添{よりそふ}。【よね】「アアレくすぐツたいヨ。」【主】「ホイ堪忍{かんにん}しな。」ト (13オ) 横{よこ}に倒{たふ}れる此{この}ときはるかに観世音{くわんぜおん}の巳{よつ}の鐘{かね}ボヲン〳〵 第二齣 遠{とふ}くて近{ちか}きは男女{なんによ}の中{なか}とは。清女{せいぢよ}が筆{ふで}の妙{みやう}なるかな抑{そも} 丹{たん}次郎と米八{よねはち}は。色{いろ}の楽屋{がくや}に住{すみ} ながらいつしか契{ちぎ}りし かね言{〔ごと〕}をたがへぬみさほの頼母{たのも}しく。尋{たづ}ねて深{ふか}き中{なか}の 郷{がう}。九尺{くしやく}二間{にけん}の破{やれ}畳{だゝみ}病{やまひ}の床{とこ}に敷{しき}ものも。薄{うす}き縁{えに}しとかこ ちたる。恨{うら}み泪{なみだ}の玉{たま}のこし捨{すて}て貧苦{ひんく}をいとはじと。誓{ちか}ふ 寔{ま〔こと〕}の恋{こひ}の欲{よく}。これぞ流{なが}れの里{さと}にある。人{ひと}の意地{ゐぢ}とは知{し}られ (13ウ) けり。[主{あるじ}丹次郎{たんじらう}はかほをしかめ]【丹】「米八{よねはち}その薬{くすり}を茶碗{ちやわん}へついでくんな。 胸{むね}がどき〳〵するから。」[よね八はさしぐしで男の髪をとかしながら]【よね】「ヲヤそふかへ。どふせう ね。」ト。びつくりして薬{くすり}を持来{もちきた}る【丹】「何{なに}サ何{なん}でもねへが。」ト [につこりわらふ]【よね】「わりい事{〔こと〕}をしたねへ。」ト[これもにつこりわらふ]【丹】「そりやアそふ とアノお長{てう}はどふしたのふ。」【よね】「お長{てう}さんかヱ。あの子{こ}も寔{ま〔こと〕}に 苦労{くらう}しますヨ。それに鬼兵衛{きへゑ}どんが。何{なに}かおかしらしいそふだ から。猶{なを}心{こゝろ}づかひしてゐるやうすサ。随分{ずいぶん}わちきも側{そば}で気{き}を 付{つけ}てゐますけれども。何{なに}をいふにもおまへはんのことを少{ちつと}は (14オ) かんくつて居{ゐ}る[このかんくるとはすいりやうしてゐるといふぞくごなり]ものだから実{じつ}にしにくふ ございまさアな。」【丹】「そふサあれも幼年中{ちいさいとき}からあのよふに育{そだち} 合{あつ}たからかはひそふだヨ。」ト[すこしふさぐ]【よね】「さよふサネ。おさな馴染{なじみ} は格別{かくべつ}かわいゝそふだから。御尤{ごもつとも}でございますヨ。」ト[つんとする]【丹】「何{なに} さ別{べつ}にかはいゝといふのではねへはな。マアかわいそふだといふ ことヨ。」【よね】「それだから無理{むり}だとは言{い}やアしませんはネ。」ト[すこしめじり をあげてりんきするもかわゆし]【丹】「まぬけめへ直{ぢつき}に腹{はら}アたつから。何{なん}でも聞{きか}れ やアしねへ。」【よね】「さよふサ私{わちきや}ア間抜{まぬけ}サ。お長{てう}さんといふ寔{ま〔こと〕}に (14ウ) いゝなづけのあるおまへさんに。こんなに苦労{くらう}するから。間抜{まぬけ} の行留{いきどま}りでありますのサ。」【丹】「よくいろ〳〵なことをいふヨ。そん ならどふでも勝手{かつて}にしろ。」ト[よこをむく]【よね】「ヲヤおまはんは腹{はら}をたゝ しつたのかへ。」【丹】「腹{はら}をたつてもたゝねへでも。打捨{うつちやつ}ておくがいゝ。」 【よね】「それだつてもアレサおまはんがお長{てう}さんのことをかわいゝ とお言{いひ}だから。ツイそふいつたんでありまさアな。」【丹】「ナニおいら がそふいふものか。かわいゝではねへ。かわいそふだと言{いつ}たんだ。」 【よね】「ヲヤかわいゝもかわいらしいもかわいそふだも。同{おんな}じ〔こと〕じやア (15オ) ありませんかへ。そんなら私{わちき}がわりいから。堪忍{かんにん}してお くんなさいナ。」【丹】「どふでもいゝわな。」ト[いはれてもとよりこれをみし男はとかく気がおかれ。あいそづかしも されんかとなみだぐみ]【よね】「アレサほんとふに私{わちき}がわりいから。どふぞ堪忍{かんにん} して。機嫌{きげん}を直{なを}してお呉{くん}なさいな。」ト[おろ〳〵する。丹次郎はにつこりとわらひ]【丹】「そん なら堪忍{かんにん}するが。最{もふ}おそくなるだろふから。おれがことを 案{あん}じずに。宅{うち}へかへつたら。座敷{ざしき}を大事{だいじ}に勤{つと}めなヨ。」ト[やさしき ことばにむねいつはいわづかなことがしみ〴〵とかなしくなつたり嬉しきはほれたどうしの恋中也]【よね】「モウ若旦那{わかだんな}おまはん が。そんなにやさしく言{いつ}て呉{くれ}さつしやると。また猶{なを}のこと (15ウ) 皈{かへ}るのが否{いや}になりまさアな。急度{きつと}モウどんなことがあつ ても変{かは}る心{こゝろ}を出{だ}しておくんなさいますナヨ。」【丹】「何{なに}べらぼう めへ。」【よね】「わちきやアそればつかり。案{あん}じられてならないヨ。斯{かう}して居{ゐ}さしつてもどふぞ時節{とき〴〵}は。私{わちき}のことを思{おも}ひ出{だ}して お呉{くん}なさいヨ。」ト[あどけなきこそなをゆかし] 〽わすれねばこそ思{おも}ひ出{いだ}さず候。とは名妓{めいぎ}高尾{たかを}が金言{きんげん} ながら。互{たがい}に思{おも}ひおもわるゝ。深{ふか}き中{なか}ほど愚智{ぐち}になり。 少{すこ}しはなれて在{ある}ときは。もしや我{わが}身{み}をわすらるゝ。 (16オ) ことあらんかと幾度{いくたび}か。思{おも}ひ過{すご}しも恋{こひ}の癖{くせ}。其{その}身{み}に ならねばなか〳〵に他目{よそめ}に見{み}てはいとゞしく。阿房{あほう}らし くも馬鹿{ばか}らしく。笑{わら}ふは実{じつ}に恋{こひ}しらず哀{あは}れも知{し} らぬ人{ひと}といふべし。 【丹】「おもひ出{だ}す所{どころ}か。わすれる間{ま}があるものか。」【よね】「それでも アノお長{てう}さんのことを思{おも}ひ出{だ}しちやア否{いや}だヨ。」ト[おとこの顔をみる]【丹】「ばか ばかり言{いつ}てゐずとも帰{かへ}る支度{したく}をしなゝ。」【よね】「何{なん}の支{し}たくが ありますものか。着物{きもの}を端折{はしよる}ばかりだはネ。それじやア最{もふ} (16ウ) 何{なに}も用{よう}はありませんかへ。アノネ私{わちき}がまた来{く}るまで。不自 由{ふじゆう}なものがあるならどふかして。使{つかひ}をよこしてお呉{くん}なさいヨ。 是非{ぜひ}わちきやア住{すみ}かへする心{こゝろ}だから。そふなるとまたどふ でも出来{でき}るから案{あん}じずに御在{おいで}なさいヨ。少しは胸{むね}に法{ほう} もありますヨ。」ト[いひながらそこいらをかたつける]【丹】「まためつたな業{〔こと〕}を仕出来{しでか} して。後{あと}へも前{さき}へも行{いか}ねへよふな〔こと〕をしてくれるなヨ。」 【よね】「ナニサ おあんじなさんなよ。どふも時節{ときよ}じせつて心{こゝろ}にもねへ悪 法{あくほう}も。おまはんゆゑなら身{み}を粉{こ}にしても。」【丹】「米八{よねはち}やいゝ (17オ) 咄{はな}しを聞{きか}して呉{くん}なヨ。」[よね八はたちかゝりしがまたすはり]【よね】「おまはんナゼそん な顔{かほ}をしてお呉{くん}なはるのだへ。」○[さんといふをはんといひさるといふをはるといふすべてかた〔こと〕はさつしたまへ]「わ ちきやア猶{なを}心{こゝろ}が残{のこ}つて皈{かへ}られないはねへ。」ト[なく]【丹】「なんだか 心ぼそくなつてどふも皈{けへ}しともねへようだが。どふしても 帰{かへ}らざアなるめへのウ。」ト[いはれて見ればよね八もしんそこほれた男の心おもひやるほどいたわしく]【よね】「いツ その〔こと〕にこれから直{すぐ}に。」【丹】「ナニ〳〵それじやアわりい。そふする と鬼{き}兵へがなか〳〵すべよく。くらがへをさせるこつちやアねへ。 サア〳〵機嫌{きげん}よくして皈{けへ}んなヨ。ヨ米八{よねはち}。」【よね】「そふさねへ。どんな $(17ウ) よね八 丹次郎 (18オ) ことでかおまはんに難義{なんぎ}をかけるよふな〔こと〕になつ ちやアわりいから。気{き}を鬼{おに}にして皈{けへ}りませう。」【丹】「そふよ なんでもすべよく出{で}るならよし。無理{むり}なことをして手{て}めへ の身{み}に。どんなことでもあつた時{とき}は。なを〳〵おいらがちから がねへから。どふぞおれを思{おも}つて呉{くれ}るなら。ひとい胴居{どきよう}は [ちかごろはらをすへてぜんあくともいちづにすることをどきやうといふ。いと〳〵はしたなければつかふべからず]しねへがいゝヨ。」【よね】「アイ 私{わちき}だつておまはんの為{ため}にする〔こと〕だから。どふなつてもとは いふものゝ。二人{ふたり}が身{み}にとつて末{すへ}のつまらない動居{どきやう}はしやア (18ウ) しませんから。案{あん}じずにちつとも早{はや}く能{よく}なつておくんな さいヨ。そんなら私{わち}きやア最{もふ}行{いき}ますヨ。」ト[しほ〳〵として立あがりしがしがみついてしけ じけと㒵{かほ}をながめ]【よね】「急度{きつと}でございますヨ。」【丹】「何{なに}を急度{きつと}だ。」【よね】「ほか の気{き}を出{だ}すといやだと申ことサ。」【丹】「ムヽヨ承知{しやうち}だからモウ 道{みち}よりをしねへで皈{けへ}んなヨ。」【よね】「ナニ途中寄{みちより}をする所{ところ}が ありますものか。」【丹】「そして先刻{さつき}の手紙{てがみ}を手{て}めへ裏前{うらまい}へ 頼{たの}んでやるのじやアねへか。だれにかおれが頼{たの}んでやらふ。」 【よね】「アイそふだツけネ。夫{それ}じやアそふしてお呉{くん}なさいヨ。よく (19オ) 気{き}が付{つい}て呉{くれ}さしツたね。」ト[あがつて来てふみをわたす]○[下されしといふをくれさツしやるくれさしツたのたぐひ これみな里のことばくせなり]【よね】「いつまで居{ゐ}ても限{かぎ}りはねヘから。もふ思{おも}ひきつて徃{いき}ませう。」ト[あがり口へおりてはきものをはく。丹次郎はおくりいでゝ]【丹】「アヽコウ米{よね}八。」 【よね】「アイ。」【丹】「なにかまだ用{よう}があるやうだツけ。イヤいゝ〳〵急{いそい}で 行{いき}なヨ。」【よね】「アイそんなら。」ト[なごりおしげにいでゝゆくそのうしろかげを丹次郎は見おくりながらひとり〔ごと〕]【丹】「か わいそふにあんなに苦労{くらう}させるのも。何の因果{ゐんぐわ}だらう。」ト[なみだほろり]「アヽモウ〳〵ふさぐめへ〳〵。」ト[ふとんの上にすはりしが]「ホイこれはしたり。頭 巾{づきん}をわすれて行{いつ}た。アヽこまるだらふ。まだ遠{とふ}くはいくめへ。 (19ウ) アヽおれが欠{かけ}ていかれる身{み}だといゝがじれツてへ。」ト[頭きんを手にもつてうろ〳〵してゐる]【よね】「若旦那{わかだんな}へ。」【丹】「ヲイ米八{よねはち}か。」【よね】「私{わち}きやア頭巾{づきん}を 落{おと}して。」【丹】「いまおゐらもそふ思{おも}つてまごついて居{ゐ}る所{とこ} だ。」ト[頭きんを手にわたし]「何所{どこ}までいつた。」【よね】「なんだか武家地{おやしき}のよふな 所{とこ}まで徃{いつ}たけれど何そして頭巾{づきん}はなくツてもいゝけれ ども。」【丹】「いゝけれどもどふした。」【よね】「また鳥渡{ちよつと}皈{かへ}りたく なつたものを。」[丹次郎はうれしそふににつこりわらひ]【丹】「そんならいゝからはやく 皈{けへ}んなヨ。」【よね】「こんどこそ実{ほんとふ}に帰{かへ}るヨ。」ト[おもひきつて出て行うしろかげを見おくりてこゝろのうちに] (20オ) 【丹】「アヽ憎{にく}くねへやつだ。」ト[しやうじをぴつしやりとしめためいきをつくおりからひるあきんどのこゑ] 【あきうど】〽豆腐{とう[引]ふ}ウ[引]イ 嗟{あゝ}愚智{ぐち}なるに似{に}たれども。またその人{ひと}の身{み}にとりては。 他{よそ}に知{し}られぬ恋{こひ}の道{みち}。此{この}おもむきにはかはるとも実{ま〔こと〕}は 同{おな}じ男女{なんによ}の情{ぜう}。色{いろ}は思案{しあん}の外{ほか}とはいへど。物{もの}の哀{あは}れを これよりぞ。しらば邪見{じやけん}の匹夫{ひつぷ}をして。心をやわらぐ一助{いちゞよ} とならんか。 老婆心人{らうばしん〴〵} 狂訓{きやうくん}筆記{ひつき} 春色{しゆんしよく}梅{うめ}ご与美{よみ}巻の一了 ---------------------------------------------------------------------------------- 底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142270) 翻字担当者:洪晟準、梁誠允、成田みずき、銭谷真人 更新履歴: 2017年4月5日公開