梅暦余興春色辰巳園 巻十 ---------------------------------------------------------------------------------- 凡例 1.本文の行移りは原本にしたがった。 2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。 3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。 4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア 5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」 6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。  平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ  片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ  複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵 7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。 8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。 9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。 10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕 11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい} 12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日} 13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい} 14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。 15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】 16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。 17.不明字は■で示した。 18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」 19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。 20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。 本文の修正 1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。 ---------------------------------------------------------------------------------- (口1オ) 序 それ梅{うめ}こよ美{み}と辰巳{たつみ}の園{その}。合{あは}して 通計{つうけい}八編{はちへん}は。これ八陣{はちぢん}の列位{れつゐ}に等{ひと}しく。 色{いろ}の諸分{しよわけ}の六蹈三略{りくとうさんりやく}。一編毎{いつぺんごと}に意味 深長{ゐみしんてう}。魚鱗{ぎよりん}に備{そなへ}て当{あたつ}て看{みれ}ば。鶴翼{くわくよく}に かまへてとりつゝみ。丸{まろめ}てだます円月備{えんげつそなへ}。 (口1ウ) 横{よこ}に行{ゆく}なる雁行{がんぎやう}あれば。せつに懸{かけ}たる 長蛇{でうじや}の備{そなへ}。放矢虎踏{ほうしことう}のかまへはおろか。破軍{はぐん} の剣先{けんさき}言語{くちさき}で。あやなすあれば信実{しんじつ}に。 極意{ごくゐ}をあかす情{なさけ}もあり。しかはあれども色{いろ}の 道{みち}は。彼{かの}孔明{かうめい}の八陣{はちぢん}に。取囲{とりかこま}れたるものに同{おな}じく。 引{ひく}にひかれぬ義理{ぎり}と意地{ゐぢ}。年季{ねんき}を入{いれ}て (口2オ) いつまでも。出{で}られぬ北門{ほくもん}請出{うけだ}されて。身{み}を 保{たもつ}たる生南門{せいなんもん}彭簡{たいこ}と金{かね}の掛引{かけひき} あれば。夜討{ようち}朝掛{あさがけ}の嫌{きら}ひなく。すき を伺{うかゞ}ふ忍{しの}びの術{じゆつ}。客{てき}をおびくは日文{ひぶみ}の 迎{むか}ひ。船宿{ふなやど}の出丸{でまる}。閨房{ねや}の籠城{らうじやう}。後{あと}を 付{つけ}たる二{に}の目{め}の備{そなへ}。あるを知{し}れとも。ゆん (口2ウ) 手{で}右手{めて}に。心{こゝろ}のとゞく場数{ばかづ}の功者{こうしや}。|漉返紙{わるがみ}に 書{かく}紅筆{べにふで}は。赤{あかき}心{こゝろ}の矢文{やふみ}に似{に}たれど。油断{ゆだん}は ならぬ人情反覆{にんぜうはんぶく}。孫氏{そんし}あやまつて城{しろ}を落{おと} せば。これを則{すなはち}軍威{ぐんゐ}といふ。妓女{ぎじよ}誤{あやまつ}てお客{きやく} に惚{ほれ}ればこれを則{すなはち}間夫{まぶ}といふ。間夫{まぶ}も則{すなはち}損子{そんし} なり。嗚呼{あゝ}おそるべし戦場{せんぢやう}と僣上{せんじやう}。将{しやう}奢{おこる} (口3オ) 時{とき}は卒{そつ}怠{おこた}る。客{きやく}奢{おごる}時{とき}は身{み}傾{かた}むく。慎{つゝしん}て もつて野暮{やぼ}に老込{おひこみ}。はやく子孫{しそん}の後栄{こうえい} を計{はか}る者{もの}は。心{こゝろ}の軍師{ぐんし}の采配{さいはゐ}に依{より}。是非{ぜひ} は大将{たいしやう}の気質{きしつ}にありて。可否{かひ}は通{つう}と 不通{ふつう}の理論{りろん}を待{まつ}のみ。 未の陽春 [金竜山人]為永春水誌〈花押〉 $(口3ウ) 松竹梅{しやうちくばい}の 操{みさほ}に 准{なぞら}ふ 三 美 人{さんびじん}は いづれを是{これ}と定{さだめ}なん 仇吉{あだきち} よろしく看官{こけんぶつ}の 高評{かうひやう}にまかせて その身立{みたて}を 願{ねが}ふになん 於蝶{おてう} $(口4オ) たゞし お蝶{てう}が いつもあどなき 姿{すがた}は児女{ひめ} 童幼{との} たちに はやく 知{し}らせん とて 画工{ゑし}の筆{ふて}に なるものなればいさゝか 巻末{くわんまつ}の本文{ほんもん}にたがふのみ 米八{よねはち} $(口4ウ) 仇吉{あだきち}の叔父{おぢ} 於蝶{おてう}が うみし 小児{おさなご} 再{ふたゝび}出{いだす} 仇吉{あだきち} $(口5オ) 妙法{みやうほう}の 功力{くりき} 血筋{うから} を つどふ 方便{ほうべん}の 本文寺{ほんもんじ} 災変{さいへん} 生福{せうふく} 生可美{いけがみ}の 霊場{れいじやう} 米八{よねはち}再出{さいしゆつ} 乳母{うば} (口5ウ) 金竜山下{きんりうさんか}に偶居{ぐうきよ}して金竜山人{きんりうさんじん}と号{がう}し草庵{さうあん}といへばまだ風雅{ふうが}めけど 風流{ふうりう}なる〔こと〕すこしもなし。九尺二間{くしやくにけん}の寝所{しんじよ}を借宅{しやくたく}して狂訓亭{きやうくんてい}と自 称{じせう}するは拙作{せつさく}の主意{しゆい}勧善{くわんぜん}の教訓{きやうくん}佗{た}に異{〔こと〕}なり趣向{しゆかう}文章{ぶんしやう}前後{ぜんご}して 筆{ふで}に狂{くる}ひの多{おほ}ければ教{をしへ}といふ字{じ}を狂{くるふ}とし響{ひゞき}をきやうとよまするも*「きやう」に右傍線 おのれをいましむ亭号{ていがう}なり。一{いつ}に為永{ためなが}春水{しゆんすい}とは四沢{したく}に満{みつ}る御{ご}ひいき を願{ねが}ふて替{かへ}たる戯作{げさく}の魯智{ろち}以前{いぜん}楚満人{そまひと}と呼{よば}れし時{とき}は多{おほ}く門 人{もんじん}に筆{ふで}をとらして自作{じさく}の草紙{さうし}まれなれは巧拙{こうせつ}ともに本意{ほんい}にあらず 梅{うめ}ごよみより已来{このかた}は実{じつ}に予{よ}が手{て}に綴{つゞ}りしものなり。その〔こと〕はりを*「予{よ}」は小書き 改名{かいめい}と共{とも}に四方{よも}の御ひいきさま方{がた}に告{つげ}ていよ〳〵御顧{おんかへりみ}を偏{ひとへ}に願{ねが}ふ〔こと〕になん。 東都戯作者 金竜山人狂訓亭為永春水〈花押〉 (1オ) [梅暦餘興]春色{しゆんしよく}辰巳園{たつみのその}巻の拾 江戸 狂訓亭主人著 第七条 慾深{よくふか}き人{ひと}の心{こゝろ}と降{ふる}雪{ゆき}はつもり〳〵て道{みち}をわするゝと詠{えい}ぜし 歌{うた}のそれならで知{し}れたる道{みち}に踏迷{ふみまよ}ひ義理{ぎり}の立札{たてふだ}善悪{ぜんあく}の 辻{つぢ}の傍示{ほうじ}のしるべさへ読{よま}で勝手{かつて}にわけ入るは恋{こひ}の山路{やまち}の難 所{なんじよ}なり。さればたがひに張合{はりあふ}てひかぬ気性{きしやう}の仇吉{あだきち}が今{いま}は遠 慮{ゑんりよ}もあらばこそ諺{〔こと〕わざ}にいふ無法{やけ}とやら人目もいとはぬ心{こゝろ}となり (1ウ) 意地{いぢ}づくなれば丹次郎{たんじらう}にはなれじものとおもへども儘{まゝ}になら ぬが男{をとこ}の心{こゝろ}うたがひ合{あふ}てやゝしばらくしらけてつきもなかりしが 色{いろ}のいきぢと仇吉{あだきち}が目尻{めじり}をあげ【仇】「ヲヤ丹{たん}さんおまへどうし たんだへ。何{なに}もそんなに腹{はら}を立{たゝ}なくつてもいゝじやアないか。何{なに}も 米八{よねはつ}さんがあゝしてくれねへでもよさそうなもんだといつた ぐらゐたいそうな〔こと〕でもいひはしまいしそして又{また}心{こゝろ}が変{かは}つた のじやアないかぐらゐ言{いひ}もしそうなもんだアネ。いつにねヘ物{もの}の いひやうをしなはるもんだからそう云{いつ}たつて大そうにきざでも (2オ) なんでもないじやアないかへ。そのな〔こと〕をそんなに腹{はら}を立{たつ}て 気障{きざ}がつてもよそうと思{おも}つても切{き}れやうと思{おも}つても私{わちき}やア またきざに思{おも}はれゝば猶{なほ}の〔こと〕あくまでも付まとつてやるから そう思{おも}つておいでよ。悪女{あくぢよ}の深情{ふかなさけ}とやらでこんな執念深{しうねんぶか}いお岩{いは} のやうなものにほれられたがおまへの不調法{ぶてうはう}といふもんだアネ。」 トわざとべつたりしつこくいふ。【丹】「ムヽそれじやアなんだの今{いま}いふ 通{とほ}りおれを呼{よび}によこしてそんなくだらねへ洒落本{しやれぼん}に有{あり}そふな いひぐさをいつて退屈{たいくつ}の腹{はら}なほしにしやうと思{おも}つての〔こと〕か。 (2ウ) そんならマアひまな時{とき}聞{きゝ}にこやう。」トきせる筒{つ}へ煙管{きせる}を入れ*「筒{つ}」(ママ) たばこ入と一同{いつしよ}に持{もつ}て立{たつ}。仇吉{あだきち}はあはてゝ丹次郎{たんしらう}が着物{きもの}の裾{すそ} をつかまへながら【仇】「アヽモシなんだネ丹{たん}さんそんなに云{いつ}て帰{かへ}ら ずとも腹{はら}の立{たつ}〔こと〕を思{おも}ひの儘{まゝ}に云{いつ}て聞{きか}してお帰{かへ}りな。」【丹】「ヱヽ よしねへなおかしくもねへ。おらア何{なん}にも腹{はら}を立{たち}にやア来{こ}ねへ から。サア〳〵はなしな〳〵。」ト鼻{はな}であいしらつてつかまへてゐる 裾{すそ}を払{はら}ふ。仇吉{あだきち}は猶{なほ}もはなさずだまつて泣{ない}てゐる。丹次{たんし}郎は つかまへられながら是{これ}もだまつて立{たつ}てゐる。【仇】「丹{たん}さんマア座{すはつ}て (3オ) おくれよ。どうでもいゝから今{もう}一{いつ}ぺんとつくりと聞{きい}ておくれよ。丹{たん} さん後生{ごしやう}だから。」トいひながら仰向{あをむい}て丹次郎{たんじらう}が顔{かほ}を見{み}つめ うるむ眼元{めもと}は丹次郎{たんじらう}が実正{ほんとう}に腹{はら}をたちしとこゝろえびつくり せしゆゑ顔{かほ}は上気{のぼせ}て照〻{てら〳〵}と形{なり}も容{かたち}もいとひなく最{もう}是{これ}ぎり になる〔こと〕かと思{おも}へば胸{むね}もはりさくるおもひに誠{ま〔こと〕}あらはして泣{なき}は らしたる眼{め}もとにもどこやらあだな仇吉{あだきち}が斯{かく}までわれを したふかと思{おも}へばひとしほ不便{ふびん}になり哀{あは}れ催{もよほ}す折{をり}もをり何所{いづれ} の宅{うち}か知{し}らねども杵{きね}や何某{なにがし}が名取{なとり}の妙音{めうおん}彼{か}の古{ふる}き (3ウ) 唱哥{しやうが}紅葉狩{もみぢがり} 〽[三下り]チヽチンチンみすてたま[ヲ]ふか[アヽ]つれなやと[合]たもとに すがりとゞむれば[カン]チヽチンチンさすが[アヽ]岩木{いはき}にあらざれば[合] こ[ヲ]ゝろよはくも引{ひき}とめられて[下略]【丹】「サアそんならすはるから はなしねへな。」【仇】「それだつてもはなすと。」【丹】「飛{とび}やアしねへ。」ト わらひながらそのまゝすはる。「サアなんだ。」[仇吉はだまつてうつむいてゐる]【丹】「ヱヽなん だといふのに。すはつてくれろといふからすはつたのにわからねへ 女{をんな}だぜ。」トいひなから仇吉{あだきち}の乱{みた}れたびんの処{ところ}を平{ひらつ}手でぴつ (4オ) しやりとぶつ。仇吉{あだきち}はぶたれながら丹次郎{たんじらう}が膝{ひざ}へしがみ付{つい}て泣{なく}。 丹次郎{たんじらう}は仇吉{あだきち}が何{なん}といふやらとひとつくらして見{み}た処{ところ}が何{なん}とも いはずひざにもたれて泣{ない}てゐるゆゑ丹次郎{たんじらう}も又{また}なんともいは ず懐{ふところ}から手{て}を出{だ}してびんのほつれを上{うへ}へなでゝ遣{やつ}てゐる。仇 吉{あだきち}は顔{かほ}をあげて【仇】「丹{たん}さん。」【丹】「なんだ。」トやさしくいふ。【仇】「どうぞ 堪忍{かんにん}しておくれな。ヱ。ヱ丹{たん}さんかんにんして。」ト泪{なみだ}をふく。丹次 郎{たんじらう}はそれなり転{ころ}りと寝{ね}ころび「いつぷくつけてくれ。」ときせる づゝとたばこ入{いれ}をほふり出{だ}す。【仇】「丹{たん}さん機嫌{きげん}を直{なほ}しておくれか。」 (4ウ) ト㒵{かほ}を見{み}る。【丹】「しれた〔こと〕ヨ。」トわらつてゐる。【仇】「きつとだヨ。」【丹】「 抱巻{かいまき}をかけて酒{さけ}の燗{かん}をすればいゝ。」ト[わらふ]【仇】「ヱ何{なん}だヱ。」【丹】「なアによ 酒{さけ}でも呑{のま}ふといふ〔こと〕ヨ。」【仇】「ナニそうじやアあるまい。何{なん}だかおいひだ から気{き}になるよ。何{なん}だへ。ヱ丹{たん}さん。」[丹次郎はわらひながら]【丹】「ナアニ楽屋落{がくやおち}ヨ。」 【仇】「それだから何{なん}だといふにネへおいひヨウ丹{たん}さん。」【丹】「ヱヽしつゝ こい何{なん}でもねへと云{いつ}たらいゝじやアねへか。」[このかいまきの〔こと〕は三|編{へん}にしるせし〔ごと〕く丹次郎が米八のき げんをとりし処の〔こと〕なり]【丹】「またおれがじれつたくならアな。」トわざと丹次郎{たんじらう}は つよくばかり出て気をひいて見る。【仇】「そうかへそれじやア堪 (5オ) 忍{かんにん}おしよ。ツイくどくなつちやアおまへにじれさせるねへ。私{わちき}が わるかつた〳〵。丹{たん}さんアノ燗{かん}をあつうくしてもらつて一{ひと}ツ 呑{のま}ふじやアないか。おまへいやかへ。」【丹】「ナアニマア和合{なかなほり}から先{さき}へして 酒{さけ}は跡{あと}にしやうじやアねへか。」ト仇吉{あだきち}が笑{ゑ}くぼの入{いる}頬{ほう}ツぺたの 所{とこ}をちよいときせるでつゝく。仇吉{あだきち}はにつこりわらつて【仇】「アレサ およしヨ。」【丹】「ナニよせ。そんならよそう。」【仇】「ナニサそうじやアない はねへ。ま〔こと〕に丹{たん}さんは今日{けふ}はどうしたんだろうねへ。腫物{はれもの}へ さはるとやらのやうだヨ。どうしたらよかろうねへ。」ト涙{なみだ}ぐむ。 $(5ウ) 仇吉 $(6オ) 恋風{こひかぜ}や 柳{やなぎ}の眉{まゆ}を つの目 だて 米八 (6ウ) ○[親{おや}かていしゆの気{き}をとる〔こと〕かくの〔ごと〕くしんせつならばいかばかりよろこび給ふらん。嗚呼{あゝ}いろをとこほどもつたいなきものはなし。女みやうりにつきずともあごで 蝿{はい}をおはざるやうに御用心〳〵]【丹】「よしか啌{うそ}よ。ナニそんなに腹{はら}を立{たつ}も■か。そし*「■」は「の」の欠損か てそんなにおいらが腹{はら}をたつのが気{き}になるか。」【仇】「アヽ。」【丹】「ほん*「ほんとう」の「ほ」は部分欠損 とうか。」【仇】「アイ。」【丹】「ソレ前髪{まへかみ}ざしが落{おち}らアべらぼうめヘ。」ト引{ひき}*「べらぼうめヘ」の「め」と「引」は部分欠損 よせて「泣{なき}むしめ。」【仇】「それだつても私{わちき}はもう〳〵今日{けふ}のくれへ びつくりした〔こと〕はねへものを。」【丹】「ナゼそんなにびつくりしねへ でもいゝ〔こと〕よ。むしの毒{どく}だぜ。」【仇】「傘灸{からかさぎう}でもこの|逆上{のぼせ}はさがり そうもないよ。」【丹】「まゝよ女房{にようぼ}の角{つの}も生次第{はへしでへ}だアナア仇吉{あだきち}。」 (7オ) 【仇】「うれしいねヘ。」トしがみつく。 かくありしゆゑ米八が得心{とくしん}づくで丹次郎に表向{おもてむき} をば仇吉ときれたといふを人目{ひとめ}のみつゝしみくれよ出合{あひひき} も今まで逢{あひ}しその宅{いへ}は遠慮{ゑんりよ}してくれ此{この}土地{とち}を はなれて逢{あ}ふはぜひもなしと〔こと〕をわけたる頼{たのみ}さへ なか〳〵もつて仇吉にいはれぬこの場{ば}のしぎとなり たゞ米八と喧嘩{けんくわ}して今仇吉に逢{あふ}〔ごと〕くいひなした れば何事{なに〔ごと〕}も手違{てちが}ひとなりけるなり。他見{おかめ}でいへば (7ウ) 丹次郎がゆきとゞかざるに似{に}たれども色をも香{か}を 知る人ぞ知るべき恋{こひ}の業{わざ}なりかし。 さて米八はおとなしくしばらく様子{やうす}をうかゞひしに丹次 郎はともかくも仇吉{あだきち}かたでは遠慮{ゑんりよ}なく他{ひと}知{し}れかしとせぬば かり文のたよりも待合{まちあひ}も幾{いく}たびとなく米八{よねはち}が耳{みゝ}にも目 にもかゝりしゆゑ今はこらへず仇吉{あだきち}へ恥{はぢ}をあたへん覚悟{かくご}にて わざ〳〵おくる一筆{ひとふで}は悪態書{あくたいがき}の前後{あとさき}なく腹立{はらたつ}恋{こひ}の はたし状{でう} (8オ) 犬{いぬ}にひとしきわけしらずに 今さらもの申候もえきなき 御事ニそんし候へともすこしは 義理{ぎり}といふ〔こと〕を思ひしらせ 申たく むだなる事を申 いれ〔まいらせ候〕。 かねても御めもじのふしに 申まゐらせ候とほり (8ウ) 流{なが}れの里{さと}の中〳〵に 浮{うき}たる〔こと〕をもの〳〵しく とがめ〔まいらせ候〕にはこれなく候へとも 丹次郎と私事は なみ〳〵ならぬ 苦労艱難{くらうかんなん}のうへにて いろ〳〵 いりくみたる分{わけ}をやう〳〵に 今のごとくくらし〔まいらせ候〕事ニ 候へばいかに男のかうけ にて (9オ) そもじ〔さま〕とのわけははゞかり なしと申候ともしのび〴〵の 御ちぎりこそ情{なさけ}のはし とは 申ものにて候。これまで いくたびも申又丹次郎へも 申聞{きけ}候て近所{きんじよ}の手まへばかりも 御かくし被下候やうに御頼み 申候も御きゝいれなく殊に 男の心にもなか〳〵 (9ウ) 依怙地{ゑこぢ}のやうに相成候へは我{わが}身{み} のみ つゝしみ候もあさ〳〵しき わざに候へは明日{みやうにち}山{やま}の亀{かめ}元 にて はな〴〵しくつき出{だ}され 恥{はぢ}をかき申候かくごに思ひつめ 〔まいらせ候〕。 さりなからそもじさまと さしむかひにてはたがひの 理非{りひ}もわかり申ましく 候へはいやらしき事はなく候へとも (10オ) 御ひゐきに相成候藤兵衛〔さま〕と申 客人{きやくじん}を証人{せうにん}ニいたし候へは そもじ〔さま〕ニも大事{だいじ}のお客{きやく} 幸三郎さまを御|頼{たの}み被成 急度{きつと}善悪{よしあし}をわけ申たく くれ〳〵も御{ご}ひきやうなる 御事なく大勢{おほぜい}の中にて つね〳〵の御{ご}はつめいを 拝見{はいけん}いたし申度候。 (10ウ) 余{よ}は御めもしにと。 あら〳〵 かしく。 米八より 義理しらずの 仇〔さま〕江。 見{み}るよりくわつと仇吉{あだきち}が犬{いぬ}といはれし口{くち}をしさ文{ふみ}をつかんて かけ出{いづ}る折{をり}から使{つかひ}は立帰{たちかへ}り調度{てうど}入{い}り来{く}るその人{ひと}は今{いま}少{すこ}し先刻{さき} (11オ) 仇名やの娘分{むすめぶん}お喜世{きせ}が方{かた}の使{つかひ}にて仇吉{あだきち}を呼{よび}に来{きた}りしが*「仇名」に文字囲 仇吉が留主{るす}ゆゑ近所{きんじよ}へゆきて今{いま}また返事{■んじ}を聞{きゝ}によりしなり。*「■」は「へ」の部分欠損か 米八{よねはち}が使{つかひ}をば母{はゝ}が取次{とりつぎ}しゆゑ仇吉は此{この}人{ひと}を米八が使{つかひ}と思ひ【仇】「承知{せうち} いたしましたとそう申てくんな。」【使】「ハイ〳〵。」ト立出{たちいづ}る。【仇】「ヲイ〳〵 これをもつて行{いつ}てくんな。そしてのどうもわかりかねますからいづ れお目にかゝつてくわしくわけを承{うけたまは}りませうとそう申て おくれ。」ト米八が文{ふみ}を仇|名{な}やの使{つかひ}にわたし【仇】「おいねへべらぼう だア。」ト独言{ひとり〔ごと〕}。使{つかひ}はふしぎに思へども文をたづさへ帰{かへ}り行{ゆく}。[このつかひを仇吉が (11ウ) しらざるはいかゞぞや。これは仇|名{な}やの人にあらずついでにたのみし人としるべし]これはさておき翌日{あくるひ}は彼{かの}亀{かめ}本の坐 敷{ざしき}には今日{けふ}も賑{にぎ}はふ大一座{おほいちざ}武家{ぶけ}のお客{きやく}をもてなしか女中 衆{ぢよちうしゆ}まじりの様子{やうす}にて太夫{たいふ}唱妓{はおり}はいふもさらなり。善孝{ぜんかう}由{よし}次郎 寿楽{じゆらく}三孝{さんかう}とり持{もち}とてさゞめきわたる一間{ひとま}には桜川新孝{さくらがはしんかう} が好{この}まれし座{ざ}しき芸{げい}のはり出{だ}し 一 山王祭{さんわうまつり}汗{あせ}の一曲{いつきよく}[はらをかゝゆるをかしみなり] 一 団十郎{なりたや}が蝿{はい}を追{おふ}振{ふり} 一 関三{をはりや}が蚊{か}を打{うつ}風情{ふぜい} (12オ) 一 梅我{はんしらう}が蚤{のみ}をおさゆる容形{かたち} 一 鈴{すゞ}が森{もり}千人長兵衛{せんにんちやうべい} いづれもおかしき当振{あてふり}なり。 此{この}賑{にぎは}ひにはひきかへて此所{こゝ}ははなれた小座{こざ}しきに彼{かの}仇吉{あだきち}と さしむかひ座{ざ}したる女{をんな}は年{とし}のころ二十五六才の年増{としま}にて色{いろ}白{しろ} く痩{やせ}がたちにて眉毛{まゆげ}の跡{あと}青{あを}く愛敬{あいきやう}あるその風情{ふぜい}是{これ}仇名{あだな} 屋の娘分{むすめぶん}お喜世{きせ}とて今仲町に成駒{なりこま}やひいきもつよく情{なさけ}も つよくはでゝ小意気{こいき}な信切{しんせつ}ものかんざして前髪{まへがみ}を掻{かき}ながら 【喜】「仇さんお聞{きゝ}ヨ。今日{けふ}は私{わちき}も志呂喜{しろき}の月宿{つきやど}で誠{ま〔こと〕}にいそがしい (12ウ) けれどちらりときいたおまへの噂{うわさ}米八{よねはつ}さ゜んとのいきはりづくで 浮名{うきな}も義理{ぎり}もかまはずに今日は是非{ぜひ}とも黒白{こくびやく}をわけて どきやうをさだめると覚悟{かくご}の喧嘩{けんくわ}の出合{であひ}といふは山{やま}の亀{かめ}本と 太夫衆{たいふし}のはなしをきいて欠{かけ}て来{き}たがマアおまへや米さんの発 明{はつめい}にも似{に}あはねへ。殊{〔こと〕}に今日は幸{こう}さんの約束{やくそく}があるじやアないかへ。 米八さ゜んも藤兵衛{とうべゑ}さんが何{なに}か談{だん}じるわけがあつて今にもこゝへ 来{き}なはるとの〔こと〕。まだ幸さんが来なはらざア私{わちき}と一同{いつしよ}にちよつ とお出{いで}ヨ。店衆{たなし}だからもらひひきも自由{じゆう}になるし為{ため}にも (13オ) なるからマアお出{いで}。」トいはれてさすが仇吉{あだきち}もひいきにならねば立{たち} かたき活業{すぎはひ}といひお喜世{きせ}が信切{しんせつ}名{な}にし仇名{あだな}の娘分{むすめぶん}に引立{ひきたて} られて心{こゝろ}まちに待{まち}たる相手{あひて}の米八{よねはち}が心{こゝろ}にかゝれど詮方{せんかた}なく うち連{つれ}たゝんとするところへ桜川{さくらがは}善孝{ぜんかう}【善】「お喜{き}さんちよつと。」 【喜】「ヲヤ善孝{ぜんかう}さん何{なん}だヱ。」【善】「ちよつとおまへをお近付{ちかづき}にするお客{きやく} だから。」【喜】「ヲヤそうかへ。仇{あだ}さんちつと待{まつ}ておくれ。今{いま}参{まゐ}るから。」【善】「ヲヤ 仇{あだ}さんか。お客{きやく}でなかアお出{いで}な。」【仇】「ありがたふ。今{いま}少{すこ}し急{きう}に用{よう}が。」 トいひさして心{こゝろ}のそこの落{おち}つかねばいつにかはりしあいさつゆゑ (13ウ) 善孝{ぜんかう}はお喜世{きせ}と倶{とも}に座{ざ}しきへゆく。此方{こなた}の間{ま}より米八{よねはち}が【米】「仇{あだ}さん ちよつと。」【仇】「ヲヤ米八{よねはつ}ざんか。私{わちき}やア犬{いぬ}と名{な}をつけられたからもう仇*「米八{よねはつ}ざん」の濁点ママ 吉{あだきち}とはいふまいよ。」【米】「私{わちき}やア犬{いぬ}とはいはないは。犬{いぬ}のやうだと云{いつ}たのサ。」 【仇】「犬{いぬ}でも猫{ねこ}でもかまはねへ。どうでおまへのいふとほり畜生{ちくしやう}だから 人間{にんげん}のいふ〔こと〕はわからねへから私{わちき}の思{おも}ふとほりにするからそう思{おも} つておくれ。たとへ丹{たん}さんと昼日中{ひるひなか}抱{だか}つて寝{ね}やうが喰合{くひやおふ}がかな らずかまつておくれでないよ。いらざるお世話{せわ}の猿{さる}まつだ。」【米】「ナニ 猿{さる}だへさるでも私{わちき}やア盗人{どろぼう}はしねへヨ。おめへのやうに他{ひと}の亭 (14オ) 主{ていしゆ}を盗{ぬす}む大胆{だいたん}はしねへよ。そんなに蔭{かげ}でりきんでも旦那{だんな}や 幸三{こうざ}さんに此{この}始末{しまつ}をきかれたら尻尾{しつぼ}をまいて椽{ゑん}の下{した}へでも 逃{にげ}こまざアなるめへ。」トいはれておもはす仇吉{あだきち}が米八{よねはち}めがけて むしりつく。此方{こなた}もくやしき無理酒{むりざけ}を呑{のん}で来{きた}りしその 勢{いきほ}ひたがひに恥{はぢ}もいとはゞこそ喰付{くひつく}仇吉{あだきち}ひつかく米八{よねはち}実{げ}に凡 悩{ぼんのう}の犬{いぬ}と猿{さる}心{こゝろ}の駒下駄{こまげた}椽側{ゑんがは}にあるのをとつて仇吉{あたきち}が立{たつ}を 米八{よねはち}引{ひき}すゑんと小{こ}ひざをついて仇吉{あだきち}が腰帯{こしおび}つかんで引{ひき}かへ せば引{ひか}れながらに米八{よねはち}の首{かうべ}をはつしと駒下駄{こまげた}で打{うて}ばばつきり (14ウ) 鼈甲{べつかう}の折{をれ}て飛{とび}ちるかんざしよりか仇吉{あだきち}が手{て}の駒下駄{こまげた}を見{み}る よりその手{て}をしつかと取{とつ}て【米】「こりやア仇{あだ}さん駒下駄{こまげた}で。」【仇】「アイ ぶつたのがわるいかへ。犬{いぬ}といはれた意趣返{いしゆかへ}し又{また}斯{かう}して。」トふり 上{あげ}るその手{て}を取{とつ}て突倒{つきたふ}し上{うへ}に乗{のつ}たる米八{よねはち}がさいはひ床{とこ}の 釣花生{つりはないけ}かた手{て}にかけて引{ひき}かへせば水{みづ}はざつぶり仇吉{あだきち}が顔{かほ}より胸{むね}へ たら〳〵〳〵。米八{よねはち}は飛{とび}のきて【米】「犬{いぬ}でも人{ひと}の見{み}る前{まへ}でつるみやア 子供{こども}か近所{きんじよ}のものが|用心水桶{てんすいをけ}の水{みづ}ぐらゐはあびる遠慮{ゑんりよ}もある ものだ。」ト今{いま}はたがひに色気{いろけ}もなく顔{かほ}に紅葉{もみぢ}のちるのみか。 (15オ) 座{ざ}しきをけちらし仇吉{あだきち}がまた駒下駄{こまげた}をふりあげる折{をり}から後{うしろ}の 隔紙{からかみ}を明{あけ}てかけ入{い}る善孝{ぜんかう}新孝{しんかう}左右{さゆう}へわかれて米八{よねはち}と仇吉{あだきち}を 押{おし}わけ【善新】「モシマアどうした間{ま}ちがひだへ。当時{たうじ}日{ひ}の出{で}のお二人{ふたり}が 場所{ばしよ}もお客{きやく}も遠慮{ゑんりよ}なく此{この}そうどうを起{おこ}すとはよく〳〵深{ふか}い 腹立{はらたち}が両方{りやうはう}にあるにもしろ立派{りつぱ}な二人{ふたり}の名{な}に疵{きず}がついたら お客{きやく}の疵{きず}にもなるこゝの宅{うち}でもすまねへわけマア何{なん}にしても わたしらに。」【善】「是非{ぜひ}はともあれ座{ざ}しきをかへて新孝{しんかう}其方{そつち}は 米{よね}さんをつれて。」【新】「ホンニそうだ。サア米{よね}さんいづれ両方{りやうはう}の顔{かほ}の (15ウ) 立{たつ}仕{し}かたもあろう。こゝは。」【米】「アイ有{あり}がたふ。だがどうでもう斯{かう}なる からは此{この}土地{とち}を。」【仇】「善孝{ぜんかう}さん折角{せつかく}の御信切{ごしんせつ}だが私{わちき}やアもうどうし ても。」トたがひに聞{きか}ぬ争{あらそ}ひを善孝{ぜんかう}新孝{しんかう}仇|名{な}やのお喜世{きせ}も中{なか}へ 立入{たちい}りて殊{〔こと〕}にお喜世{きせ}は仇吉{あだきち}が間{ま}ちがへて使{つか}ひにわたせし文{ふみ}をとり 出{だ}し此{この}座{ざ}にて焼捨{やきすて}いろ〳〵となだめ猶{なほ}またその夜{よ}米八{よねはち}が洲崎{すさき} に行{ゆき}し仇吉{あだきち}が後{あと}を追{お}はんと走出{はせいだ}せしを千葉{ちば}の藤兵衛{とうべゑ}が引止{ひきとゞ} め[このわけは梅{うめ}ごよみの絵{ゑ}にもしるしてあり]桜川{さくらがは}一同{いちどう}が立合{たちあひ}て双方{さうはう}引{ひけ}にならざる やうに中直{なかなほ}りをさせまた仇吉{あだきち}は藤兵衛{とうべゑ}が立派{りつぱ}にわけを立{たて}て (16オ) 一旦{いつたん}縁{ゑん}を切{き}らせける。此{この}時{とき}丹次郎{たんじらう}は勘当{かんだう}ゆるされて身分{みぶん} 全{まつた}くをさまりける。[このをさまりは梅暦の四編にあら〳〵しるしたり]此{この}次{つぎ}の段{だん}より梅{うめ}ごよみ 四編{しへん}のつゞきなり。 第八条 されば婦多川{ふたがは}に取残{とりのこ}されし仇吉{あだきち}が千〻{ちゞ}に心{こゝろ}をくだけども儘{まゝ}に ならぬが浮世{うきよ}の義理{ぎり}母{はゝ}と宅{いへ}とをすておきてふりこみ行{ゆか}んと思{おも}ひ しが米八{よねはち}お長{てう}の二人{ふたり}が側{そば}に有{ある}のみならず今{いま}は大家{たいけ}の若隠居{わかゐんきよ}武 家{ぶけ}に帰参{きさん}の丹次郎{たんじらう}容易{たやすく}逢{あは}れんやうもなし。殊{〔こと〕}には千 (16ウ) 葉{ちば}の藤兵衛{とうべゑ}がそれ相応{さうおう}に顔{かほ}をたてわけをつけたる表面{おもてむき} それを彼{かれ}是{これ}いひ出{だ}しては恥{はぢ}を知{し}らざる未練{みれん}ものとそしら れん〔こと〕はいとはねどまだ真底{しんそこ}は離{き}れやらぬ二人{ふたり}が中{なか}はすゑかけて 捨{すて}る不実{ふじつ}はせぬ男{をとこ}と兼{かね}て思{おも}へばあちらでもかくして日〻{ひゞ}の文{ふみ}の つて送{おく}る小遣{こづか}ひ衣類{いるゐ}まで過{すぎ}にし恩{おん}をかへさんと心{こゝろ}づかひの 信切{しんせつ}はうれしいやうで仇吉{あだきち}が結句{けつく}心{こゝろ}のもめるたね紙一枚{かみいちまい}をもら はずとも日{ひ}に一度{いちど}づゝ顔{かほ}を見{み}てくらしたいのが虫{むし}のせいそれが かうじて恋{こひ}やみといふにはあらねど持病{ぢびやう}のつかへ夜{よ}を深{ふか}したる (17オ) 無理酒{むりざけ}の気{き}がねがこゝに積{つも}りては癪{しやく}といふ字{じ}の勢{いきほ}ひつよく臥 倒{ふしたふ}れたる病{やまひ}の床{とこ}次第{しだい}におもる看病{かんびやう}は継{まゝ}しき母{はゝ}の情{なさけ}なく今{いま} は旦那{だんな}も足遠{おしとほ}く幸三郎{かうさぶらう}が便{たよ}りもなければ内外{ないぐわい}ともに不都 合{ふつがふ}にて折{をり}〳〵おくる丹次郎{たんじらう}が小遣{こづか}ひのみが心当{こゝろあて}殊{〔こと〕}に薬{くすり}よ 針{はり}按摩{あんま}と物入{ものいり}多{おほ}きこの節{せつ}は酒も自由{じゆう}に呑{のみ}かねるさもしき くらしとなれば腹{はら}たゝしく日ごろの娘{むすめ}が辛苦{しんく}もおもはず欲{よく} の眼{まなこ}に角{かど}立{たて}て【母】「どうだの仇吉{あだきち}けふはチツト我慢{がまん}をしてお飯{めし}で も食{くつ}て見{み}ねへか。」【仇】「どうしてさつぱり其様{そん}な気{き}はないものを。」 (17ウ) 【母】「そりやアどうで自身{てん〴〵}の好{すい}た〔こと〕をするやうな〔こと〕はねへのス。それ だから不断{ふだん}おれが云{いつ}たのだアチツト体{からだ}をくるしめてお客{きやく}や旦 那{だんな}をよく勤{つと}めろ。そうすりやア余斗{よけい}に物{もの}ももらはれるし五日{ごんち}や 十日|引込{ひつこん}でもこまるやうな〔こと〕はねへといはねへ〔こと〕か馬鹿{ばか}〳〵 しい。うぬは心{こゝろ}がらで癪{しやく}でもせんきでもおこすがいゝは。親{おや}の咽口{のどくち}迄 |干{ほしや}アがる〔こと〕もねへ。」トいはれて仇吉{あだきち}くるしさも腹{はら}たつまゝに打{うち} わすれ起直{おきなほ}りたる床{とこ}のうへ【仇】「母御{おつかア}そりやアあんまりだアね。 こんなにわづらつてゐるものを空病{けびやう}でもつかつて居{ゐ}やアしめへし (18オ) 其様{そんな}に口{くち}きたなくいはずといゝはな。」トいひながら胸{むね}を押{おさ}へて 顔{かほ}をしかめ「そして私{わちき}が何{なん}でおめへの咽口{のどくち}をほした〔こと〕があるヱ。」 【母】「ほさねへ〔こと〕があるものか。此{この}節{せつ}は何{なん}でくらしてゐるとおもつて ゐるのだ。コレあのろくでなしどのから手{て}めへの小遣{こづけ}へくらゐはよこ しもしたろうがそれがどこの足{た}しになるものか。酢{す}のこんにやく のと追{おひ}つかやアがるがおれにうめへ酒{さけ}の一盃{いつぺゑ}も呑{のめ}と云{いつ}た〔こと〕か あるか。おらア今日{けふ}て十日{とをか}ばかりといふものはみりん酒{しゆ}を一ト口{くち} なめやアしねへは。それに手{て}めへはいつも酒{さけ}を喰{くら}ふ癖{くせ}に今度{こんど}の $(18ウ) 継母{まゝはゝ}の欲情{よくぜう} 仇吉{あだきち}をなや ます はゝ $(19オ) 仇吉 (19ウ) 病気{びやうき}になつてからは甘{あま}いものばかり食{くひ}たがつて越後{ゑちご}やへ斗{ばかり} もいくら取{と}られたと思{おも}ふ。おれがいろ〳〵都合{つがふ}してゐればこそ 斯{かう}してゐられるは。是{これ}からさきどうしてくらそうとおもふのだ。」 【仇】「どうもそれだといつてしかたがねへやアな。そのうちもう死{し}ぬ だろうからあんまりいぢめねへてくんなゝ。」【母】「ナニはやく死{し}にてへと。 親不孝{おやふかう}めへ。コレその死{しに}てへといふは何{なん}だ業{がう}さらしな。此{この}土地{とち}に ゐて男{をとこ}をだましてうぬが身{み}のしんまくでもするがほんとうだ のに二人{ふたり}も三人{さんにん}も女{をんな}の喰付{くつつい}てゐる奴{やつ}にあつくなつてあげくの (20オ) 果{はて}にやア棹先{さをさき}につゝかけられて引汐{ひきしほ}に沖{おき}の方{はう}へとおし出{だ}さ れてまだ気{き}が付{つか}ずにうか〳〵とおもつて右{みぎ}も左{ひだ}りも取失{とりうし} なつてあたり処{とこ}がねへといつて親{おや}に突当{つきあた}りやアがる〔こと〕もねへ。 死{し}んでしまふも気{き}がつゑゝ。コレ手めへを骨{ほね}を折{をつ}てそだてたのは な老体{としとつ}て寝酒{ねざけ}の一盃{いつぺゑ}づゝも呑{のま}してもらはふと思{おも}ふから丹誠{たんせい} して人にも目につくやうにこざつぱりとした形{なり}もさせておいた のだア。うぬが生{うま}れたまんまで人に賞{ほめ}られるやうになつたと思ふか ふさ〴〵しい。親{おや}が食{くふ}と食{くは}ねへのさかひになりやア女郎{ぢようろ}にも (20ウ) 売{うつ}て立行{たちいき}をつけねへけりやアならねへは。」【仇】「おめへの機{き}げんの能{いゝ} やうにすりやア女郎{ぢようろ}にやアおとらア。」【母】「ナニ女郎におとる。コレ手{て}めへ の好{すき}にやアかくれ忍{しの}んでも寝{ね}たり起{おき}たりするじやアねへか。」 【仇】「それだからひよつと此{この}病気{びやうき}が不仕合{ふしあは}せによくなつたら一生奉 公{いつしやうぼうこう}でも年{ねん}一{いつ}ぱいでもおめへの手切{てきり}にどうでもしねへ。とても死{し}ぬ迄{まで} |和義和順{うやなや}にくらす〔こと〕はならねへから縁{ゑん}でも切{きつ}たらおめへもおれも 仕合{しあは}せが直{なほ}るも知{し}れねへ。いつそそうしておくれな。アイタヽヽヽヽヽ。」ト腹{はら} 立{たつ}まゝに悪態{あくたい}もじれて前後{あとさき}かまひなくいへどさすがは女気{をんなぎ}の目 (21オ) 元{めもと}に涙{なみだ}胸{むね}には癪{しやく}さしこむ奴{やつ}かあるゆゑに気随{きすい}気儘{きまゝ}も云ならんと 思{おも}へば母{はゝ}は猶{なほ}怒{いか}り【母】「なんだ此{この}女{あま}ア縁{ゑん}を切{きつ}てもらひてへと。押{おし}のつゑゝ〔こと〕を ぬかすなヱ。うぬをそだてるにいくらものが懸{かゝ}つてゐるとおもふ。大 勢{おほぜい}の兄弟{きやうだい}の小児{がき}の中{なか}で義理{ぎり}のある奴{やつ}だと思{おも}ふから何{なに}もかも 一番{いちはん}骨{ほね}を折{をつ}て人並{ひとなみ}にしたのだア。どなたのめへでもだれが何{なん}と 云{いつ}ても親{おや}の威光{ゐくわう}だアうぬが自由{じゆう}にさせるものかふさ〴〵しい。 煩{わづら}つてゐやアがるから了簡{れうけん}してゐりやア好{すき}な潜語{たは〔こと〕}を吐{つき}アがらア。」 【仇】「了簡{れうけん}も勘弁{かんべん}もいらねへから殺{ころ}すともどうともしておめへの (21ウ) 腹{はら}を癒{い}るがいゝ。何{なん}の面白{おもしろ}くもねへ。何{なん}ぞといふと親{おや}が食{くふ}と食{くは}ねへ さかひだの何{なん}のとおいらア極{ごく}幼年{ちいさい}中{うち}はおめへの世話{せわ}にもなつたろう がまんざら親{おや}の厄介{やつかい}にばかりなりはしねへ。何{なん}のおいら一人{ひとり}が喰{く}ふ よりか幾干{いくら}宅{うち}へ徳{とく}をつけたかしれやアしねへ。そんなに恩{おん}にかけ られる〔こと〕もねへ。」【母】「恩{おん}でねへと此{この}畜生{ちくしやう}めが。モウ〳〵〳〵勘忍{かんにん}な らねへ。どうでふて寝{ね}の持病{ぢびやう}をば薬{くすり}ばかりで治{なほ}そうとは今{いま}まで 此方{こつち}の馬鹿律義{ばかりちぎ}だア。斯{かう}してくれる。」と云{いひ}ながら病労{やみつか}れたる 仇吉{あだきち}の衿髪{えりがみ}つかんで床{とこ}のうへ我猛者{がむしや}老女{ばゝア}の金{かな}こぶし肩骨{かたぼね} (22オ) 背骨{せぼね}のきらひなくどツし〳〵とつゞけ打{うち}手{て}づよくあたれど心{こゝろ}の 中{うち}万一{まんいち}病気{びやうき}が能{よく}ならばまだ引出{ひきいだ}す金{かね}のつると心{こゝろ}を用{もち}ひし打 擲{てうちやく}もうたるゝ身{み}にはいとくるしくまた悔{くや}しさに涙声{なみだこゑ}【仇】「もつと ぶちな〳〵親{おや}もすさまじいやア鬼{おに}ばゞアめ。子{がき}のおかげで母御{おつかア}〳〵 と|他人{ひと}にいはれるのを有{あり}がたいと思{おも}はねへで少{すこ}し業金{かせぎ}がすくねへ とやかましくばかりいつて人{ひと}いびりめ。サア〳〵はやく殺{ころ}しな〳〵。」 トくやしさあまつてお八重{やへ}が[母の名也]手{て}にすがる折{をり}から|天日窓{ひきまど}より ぱつと飛入{とびい}る一団{ひとつ}の陰火{ひのたま}座{ざ}しきに落{おち}ればたちまちに烈〻{れつ〳〵}と (22ウ) してもえ上{あが}るさも恐{おそろ}しき火{ひ}の車{くるま}前後{ぜんご}に立{たち}し午頭馬頭{ごづめづ}の 鬼{おに}はお八重{やへ}を引{ひき}とらへ彼{かの}火{ひ}の車{くるま}へ載{の}せんとすれば仇吉{あだきち}は起直{おきなほ}り 今{いま}まで争{あらそ}ふ不和{なか}なれどさすが女{をんな}のやさしくも殊{〔こと〕}に母子{おやこ}の 情合{じやうあい}に恨{うら}みをわすれ母{はゝ}の裾{すそ}かよはき力{ちから}に引{ひき}とゞめ【仇】「アレ母御{おつか}ア おあやまりヨ。モシ〳〵どうぞ母御{おつかア}を堪忍{かんにん}してくださいまし。」【鬼】「 イヤ〳〵ならぬ。其所{そこ}はなせ。これまでつくツた此{この}老女{ばゞあ}が罪{つみ}の地 獄{ぢごく}へさか落{おと}し途中{とちう}も苦痛{くつう}の火{ひ}の車{くるま}は娘{むすめ}の色香{いろか}にたぶら かされし数多{あまた}の人{ひと}の胸{むね}の火{ひ}のひとつに寄{よ}りしほむらとはしらぬ (23オ) 凡婦{ぼんふ}の慾悪非道{よくあくひだう}|善道{みち}ならずして着{き}る錦{にしき}は三途河{さうづか}の岸{きし} までいたらず脱衣婆{だつゑば}の[俗{ぞく}にいふしやうつかのばゞアの〔こと〕なり]手{て}をまたずして自{みつか}ら うしなふ〔こと〕をさとらずむさぼる財{たから}は右{みぎ}を得{え}て左{ひだ}りを矢{うしな}ふ。身{み} の分限{ぶんげん}知{し}らぬ愚{おろか}な人畜生{にんちくしやう}心{こゝろ}の修羅道{しゆらだう}つくらして恩義{おんぎ}を わすれ眼{め}もくらむ暗穴道{あんけつだう}もまのあたり近{ちか}きにむくふぞ。仇 吉{あだきち}もこれより心{こゝろ}をあらためずは母{はゝ}もろともに地獄{ぢごく}の責{せめ}慎{つゝし}み おろう。」と突{つき}はなされ身{み}の毛{け}もよだつ恐{おそ}ろしさものすごけれ と仇吉{あだきち}が親{おや}とおもへば捨{すて}られず我{わが}病{やまひ}をもうちわすれ【仇】「どうぞ (23ウ) 今度{こんど}は母人{かゝさん}をかんにんなさつてくださいまし。」トさし出{だ}す手{て}さ きをぱつと立{た}つ火{くわ}ゑんに焼{やか}れおもはずも「アツ。」ト一ト声{こゑ}さけび たるわがその声{こゑ}におどろきて見{み}れば病{やまひ}の床{とこ}の上{うへ}ひや汗{あせ} ながす身{み}の労{つか}れ夢{ゆめ}とおもへど眼前{めのさき}にまだ見{み}る〔ごと〕き火{ひ}の車{くるま} 枕元{まくらもと}なる埋火{うづみひ}の火壺{ひいれ}にわが手{て}を火傷{やけど}せしか猶{なほ}火{ひ}ほどりのし たりけるが此{この}日{ひ}お八重{やへ}は切通{きりどほ}しなる家{いへ}に行{ゆき}にはかに邪熱{じやねつ}のつよく 発{はつ}したちまちむなしくなりけるがこれより家内{やうち}傷寒{せうかん}を煩{わづら}ひ 出{だ}し親兄弟{おやきやうだい}はいふに及{およ}ばずすべて仇吉{あだきち}が身{み}の汁{しる}をすゝらんと (24オ) せしやからは日{ひ}を経{ふ}るまゝに世{よ}を去{さ}りて蔭{かげ}ものこらずなりしとぞ。 この物語{ものがた}りは啌{うそ}らしけれど作者{さくしや}幼年{をさなき}頃{ころ}ほひに専{もつぱ}ら 噂{うわさ}ありし〔こと〕にて勧善懲悪{くわんぜんちやうあく}の一助{いちゞよ}なればこゝにしるして いましめとはなせり。巻{まき}をひらくの|児女童蒙{おさなごたち}他{ひと}の 振{ふり}見{み}てわが|心姿{ふり}を正{なほ}す手本{てほん}となしたまへ。なんと 子{こ}ども衆{しゆ}合点{がてん}か〳〵。 [梅暦餘興]春色辰巳園巻の十終 ---------------------------------------------------------------------------------- 底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ta81、1001142213) 翻字担当者:矢澤由紀、島田遼、藤本灯 更新履歴: 2017年3月28日公開