梅暦余興春色辰巳園　巻三

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には＄を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。　〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云／言」「开／其」「㒵／貌」「匕／匙」「吊／弔」「咡／囁」「哥／歌」「壳／殻」「帒／袋」「无／無」「楳／梅」「皈／帰」「艸／草」「計／斗」「弐／二」「餘／余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
　平仮名1文字の繰り返し　〔例〕またゝく、たゞ
　片仮名1文字の繰り返し　〔例〕アヽ
　複数文字の繰り返し　〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔　〕で囲んで示した。　〔例〕殊｛〔こと〕｝に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は｛　｝で囲んで示した。　〔例〕人生｛じんせい｝
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に＃を付けた。　〔例〕めへにち｛＃毎日｝
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに｜を付けた。　〔例〕十六｜歳｛さい｝
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【　】で示した。　〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は［　］で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は＊で行末に記入した。　〔例〕〓｛たど｝りて＊〓は「漂＋りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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（１オ）
［梅暦｛うめごよみ｝餘興｛よけう｝］春色｛しゆんしよく｝辰巳園｛たつみのその｝巻之三
江戸　狂訓亭主人著
第五回
契情｛けいせい｝も唄女｛げいしや｝も元｛もと｝は乙女｛むすめ｝にて生所｛はたけ｝が別｛べつ｝に有｛ある｝にはあらねど
貧｛まづ｝しき活業｛たつき｝親｛おや｝の為｛ため｝または其｛その｝身｛み｝の孝｛かう｝不孝｛ふかう｝で娘盛｛むすめざかり｝の七変
化｛しちへんげ｝種〻｛しゆ〴〵｝さま〴〵の世｛よ｝の中｛なか｝に多｛おほ｝くは親｛おや｝の不所存｛ふしよぞん｝と欲｛よく｝と我｛わが｝子｛こ｝の
出世｛しゆつせ｝を思｛おも｝ひ昨日｛きのふ｝はそしりし他人｛たにん｝の噂｛うわさ｝今日｛けふ｝は我｛わが｝身｛み｝の不義｛ふぎ｝不実｛ふじつ｝
生質｛うまれつい｝たる温厚｛おとなし｝き娘｛むすめ｝を末｛すゑ｝は札付｛ふだつき｝の婬婦｛いたづらもの｝にそだてゝもはぢをしら

（１ウ）
ねば気｛き｝もつかず薄情｛はくじやう｝ものゝ餌｛ゑば｝となりそゝのかされて逃隠｛にげかく｝れ
なぐさみものになる類｛たぐ｝ひ皆｛みな｝これ因果｛いんぐわ｝の母子｛おやこ｝にて日〻｛ひゞ〳〵｝非道｛ひだう｝に
導｛みちびか｝れ人間｛ひとで｝なしとなり行｛ゆく｝のみかは果｛はて｝は不実｛ふじつ｝の報｛むく｝ひにてはじめ
思｛おも｝ひし立身｛りつしん｝の半途｛なかば｝にいたりて天｛てん｝の誅｛とがめ｝男｛をとこ｝のばちにて一生涯｛いつしやうがい｝
誠｛ま〔こと〕｝の出世｛しゆつせ｝はなる〔こと〕ならず万年新造｛まんねんしんぞう｝といはれたる花｛はな｝の盛｛さか｝りも
永｛なが｝くは保｛たも｝たず。それ人｛ひと｝たるもの始終｛しじう｝を守るはかたけれどそも〳〵
女｛をんな｝と生れては五障三従｛ごしやうさんじう｝の罪｛つみ｝深｛ふか｝ければ過｛すき｝たる〔こと〕を折節｛をり〳〵｝は思｛おも｝ひ＊「五障」と「三従」の間に合符
出｛いだ｝して身のうへをよく〳〵つゝしみ花ちりて見｛み｝るかげあらぬ時｛とき｝に

（２オ）
なりても心｛こゝろ｝の花｛はな｝のちらざるやうに用心｛ようじん｝するこそよかるべし。こゝに
一首｛いつしゆ｝の古哥｛こか｝をしるして後悔｛こうくわい｝なからん〔こと〕を教｛をし｝ゆ。
ながらへばまだ此頃｛このごろ｝やしのばれんうしと見｛み｝し世｛よ｝ぞいまは恋｛こひ｝しき
たる〔こと〕を知｛し｝らざる時｛とき｝は只｛たゞ｝上｛うへ｝ばかり見る気｛き｝になりて羨｛うらやま｝しき〔こと〕
たえる間｛ま｝なし。我｛わが｝子｛こ｝に錦｛にしき｝を着｛き｝せんとて穢｛けが｝れし行｛おこな｝ひさせる
たぐひは大略｛おほかた｝母親｛はゝおや｝の所為｛わざ｝なりけり。それはさておき仇吉｛あだきち｝が素
生｛すじやう｝をこゝにたづぬれば元｛もと｝は朝夷｛あさいな｝の切通｛きりどほし｝小島町｛こじまてう｝の裏借家｛うらしやくや｝に
いとおとなしく生立｛おひたち｝しが幼｛をさな｝き節｛とき｝より音曲｛おんぎよく｝に器用｛きよう｝にてこゝや

（２ウ）
彼所｛かしこ｝の座敷｛ざしき｝にまねかれ賞｛ほめ｝らるゝのが嬉｛うれ｝しさに今｛いま｝まで一度｛いちど｝
見｛み｝も知｛し｝らぬ方｛かた｝へも遠慮｛いんりよ｝する〔こと〕なく親｛おや｝は元来｛もとより｝不自由｛ふじゆう｝なれば＊「遠慮｛いんりよ｝」（ママ）
娘｛むすめ｝が他｛ひと｝に愛｛あい｝せられて髷結切｛まげゆわい｝よりもらひ初｛そめ｝はや十四五｜才｛さい｝に
いたりては小弐朱包｛こにしゆづゝみ｝の肴代｛さかなだい｝酒｛さけ｝売｛うる｝二階｛にかい｝縁日参｛ゑんにちまゐ｝りとさそは
るゝ儘｛まゝ｝おごらせる心｛こゝろ｝の底意｛そこい｝いやしくも母親｛はゝおや｝お八重｛やえ｝が欲心｛よくしん｝から若
者｛わかもの｝どもがはりに来｛く｝るを徳｛とく｝を得｛え｝たりと悦｛よろこ｝びて色気｛いろけ｝のあらぬ仇
吉｛あだきち｝がもそつと男｛をとこ｝をたらしたらばあの息子｛むすこ｝は金｛かね｝を出｛だ｝すだろうの
にどうかいゝ鳥｛とり｝がかゝりそうなる〔こと〕もやと朝夕｛あさゆふ｝気｛き｝ばかりもみ居｛ゐ｝

（３オ）
たりしが娘｛むすめ｝は親｛おや｝に似｛に｝もやらず袖褄｛そでつま｝ひく人｛ひと｝多｛おほ｝けれどたへて
これをば見｛み｝かへらずあぢな〔こと〕から親類｛しんるゐ｝となりにし人の情｛なさけ｝にて
久｛ひさ｝しく色気｛いろけ｝白歯｛しらは｝の生娘｛きむすめ｝いやみなしにて有｛あり｝けるものが年｛とし｝を
かぞへて今｛いま｝ははや流｛なが｝れてよどむ婦多川｛ふたがは｝に数｛かぞ｝へられたる苦労人｛くらうにん｝
今宵｛こよひ｝もたしか丹｛たん｝次郎と口舌｛くぜつ｝しらけて気｛き｝のすまぬ別｛わか｝れの時｛とき｝
に増吉｛ますきち｝と愚智｛ぐち｝をならべし門口｛かどぐち｝へ母｛はゝ｝の迎｛むか｝ひに詮方｛せんかた｝なく不肖｛ふせう｝
ぶせうに立｛たち｝あがり増吉へいとまを告｛つげ｝二｜足｛あし｝三足立｜出｛いで｝しが【仇】「アヽ
なんだかおもしろくもねへ。母人｛おつかア｝おめへ先｛さき｝へ帰｛けへ｝んねへな。私｛わたい｝は跡｛あと｝から

（３ウ）
行｛いく｝から。」ト立｜止｛どま｝る。【母】「なんだな此｜子｛こ｝はおかしな〔こと〕をいふのう。おれ
がわざ〳〵迎｛むか｝ひに来｛き｝たのに先｛さき｝へ帰れの何｛なん｝のとじくねずと早｛はや｝く
歩行｛あるき｝ねへな。」【仇】「いやだヨ。私｛わた｝やアまだ用｛よう｝があるから跡｛あと｝から帰｛けへ｝るヨ。」【母】「お
めへも余程｛よつぽど｝酔｛よつ｝てゐるじやアねへか。おれと一｜処｛しよ｝に歩行｛あゆび｝なヨ。」【仇】「ヱヽ
モウじれつてへ。何｛なん｝で其様｛そんな｝に急｛いそ｝ぐのだな。」【母】「ナニじれつてへ此方｛こつち｝
がじれつてへは。此間｛こないだ｝は旦那｛だんな｝も足｛あし｝が遠｛とほ｝いじやアねへか。勘定｛かんぢやう｝しらず
めヱ。そりやアはや外｛ほか｝に旦那を見付｛めつけ｝る〔こと〕は苦｛く｝にもならねへか一ト月
でも半月｛はんつき｝でも座敷｛さしき｝ばかりで居｛ゐ｝られるものか。親父｛おやぢ｝の方｛はう｝の講中｛こうぢう｝の

（４オ）
預｛あづか｝り金｛きん｝も晦日｛みそか｝にやア揃｛そろ｝へて同行｛どうぎやう｝ヘ渡｛わた｝さねへけりやアならねへ
から二｜両｛りやう｝はぜひ拵｛こしら｝へてくれろと言てよこすしお八十｛やそ｝が［これはたしか
仇吉が娣｛いもと｝にて縁付｛えんづい｝てゐるものとしるへし］方｛はう｝の壱両もあれが内証｛ないしよ｝で都合｛つがふ｝してよこした
のだから早｛はや｝くけへさねへとおれが口｛くち｝が聞｛き｝けねへ。」【仇】「そんなに今ならべ
立ねへでもいゝやアな。」【母】「インニヤ言｛い｝はねへと手｛て｝めへはいゝ気になつて
ゐるからヨ。そしてマア此間｛こないだ｝旦那｛だんな｝の置｛おい｝て行｛いつ｝た壱両弐歩はどう
した。其時｛あれ｝から何｛なに｝も買｛か｝やアしねへじやアねへか。それに叔父｛おぢ｝さんも
二歩｜呉｛くれ｝たじやアねへか。」【仇】「よくいろ〳〵な詮義｛せんぎ｝をするのう。よく

（４ウ）
考｛かんげ｝へてお見｛み｝な。叔父さんの金｛かね｝が去頃｛まへかた｝の様｛やう｝にもらつてばかり居｛ゐ｝
られるものか。今じやア斯｛かう｝して居｛ゐ｝るから楽｛らく｝だろうと思｛おも｝つて
戯談｛じやうだん｝にもこのごろは工面｛くめん｝がよかろう何ぞといふから此間｛こないだ｝も帯｛おび｝
を一［ト］筋｛すぢ｝こせへてやつたらどんなにうれしかつたろう。その勘
定｛はらい｝に二朱ト三百文たしてやつたから二歩もらつたと云｛い｝つて
それが何時｛いつ｝まであるものかな。」【母】「ヱヽべらぼうめへ。それじやア
釣｛つり｝を取｛と｝られたのだア。ナニ今｛いま｝そんな〔こと〕をせずともいゝ〔こと〕を。きい
たふうな。斯｛かう｝して居るうち末｛すゑ｝のしがくでもしようとはしねへで

（５オ）
取｛とら｝れる所｛とこ｝ばかりこしらへるもいゝ働｛はたら｝きだア。」【仇】「どうしたといつて
いゝじやアねへか。此様｛こん｝な活業｛しやうばい｝をさせながらきてうめんな〔こと〕が出
来｛でき｝るものかな。やかましい。」【母】「ナニやかましいものか。宅｛うち｝へ行｛いつ｝て手｛て｝めへの
了簡｛れうけん｝もよく聞｛きい｝て親父｛おやぢ｝にしつかりと相談｛さうだん｝しねへけりやアならねへ。」
［仇吉は酒のうへといひしやくにさはりて］【仇】「なんだおつかア親父｛ちやん｝に左様｛そう｝いふと何｛なん｝とでもいひ
ねへ。今｛いま｝までおもいれ気｛き｝をもましてだん〴〵歳｛とし｝を取｛とつ｝て少｛すこ｝し
ぐれへな〔こと〕を何｛なに｝もおかしく言｛い｝はずといゝじやアねへかな。今度｛こんど｝叔
母｛おば｝さんか叔父｛おぢ｝さんが来｛く｝るとわけをはなしてそれでもおれがわりい

＄（５ウ）
仇吉

＄（６オ）
仇吉の母

（６ウ）
といふなら死｛し｝んでしまはア。」【母】「ふざけた〔こと〕をいはねへがいゝ。大勢｛おほぜい｝の
兄弟｛きやうだい｝の中｛なか｝で手｛て｝めへが一番｛いちばん｝おれに苦労｛くらう｝をさせて成長｛ころだつ｝たところ
で息｛いき｝をつかずに手｛て｝めへの自由｛じゆう｝をされたらいゝつらの皮｛かは｝だ。」【仇】「何｛なに｝を
私｛わたい｝が自由｛じゆう｝をしたヱ。」【母】「ヱヽやかましい。いち〳〵親｛おや｝にさからはずと早｛はや｝
く帰｛けへ｝るがいゝはな。」【仇】「なんでそんなに急｛いそ｝ぐのだナ。」【母】「いそぎやアし
ねへがはやく歩行｛あるき｝なナ。」【仇】「おれが宅｛うち｝へおれが帰｛けへ｝るにはやくつても
おそくつてもいゝじやアねへか。」ト［くだらぬ〔こと〕をいひながら親子｛おやこ｝げんくわをなしながらやう〳〵とわがやへかへり］【仇】「アヽモウ
〳〵ま〔こと〕にやかましいといつちやアねへ。」【母】「ナニやかましいとコレおいらは

（７オ）
先刻｛さつき｝から途中｛みちなか｝だからいゝかげんに聞｛きい｝て居｛ゐ｝たかあんまりしやれる
なヨ。」【仇】「しやれやアしねへが口｛くち｝やかましくつてならねへヨ。」【母】「ヲヤこの
子｛こ｝は大｛おほ｝きな声｛こゑ｝をしなさんな。外聞｛ぐわいぶん｝がわりいヨ。これでも｜家内｛うち｝に
居｛ゐ｝てはてへ〳〵気｛き｝がもめてなりやアしねへはナ。」【仇】「気｛き｝をもんで
もらはねへでもいゝのにお気｛き｝の毒｛どく｝だの。」【母】「なんだあんまりふさ
けるな。いゝかと思｛おも｝つて。」【仇】「ヲヤねつからいゝと思｛おも｝ふ〔こと〕はねへの。ま〔こと〕に
私｛わたい｝こそ気｛き｝がもめて〳〵ヱヽくやしい。」ト茶碗｛ちやわん｝をな゛ける。裏口｛うらくち｝の＊「な゛ける」の濁点位置ママ
障子｛しやうじ｝へあたつてチヤラン［引］。【母】「コレそのなげうちはだれにするのだ。

（７ウ）
サアおれをなげるともぶつともしろ。日｛ひ｝ましにふざけて親｛おや｝を
馬鹿｛ばか｝にしやアがる。」ト［しだいにつのるおや子のたかごゑ。近所｛きんじよ｝の人きたる］【春吉】「ヲヤなんだへ仇｛あだ｝さん。モシ
マアおつかア勘忍｛かんにん｝おしヨ。」ト［いふに外の二三人なかへはいりて仇吉ははる吉の内へつれてゆく］○［春吉｛はるきち｝お秋｛あき｝姉妹｛けうだい｝にてげいしや。その気にて
よみ給ふべし］【春】「仇｛あだ｝さんおまへマア今夜｛こんや｝はたいそう酔｛よつ｝たの。」【仇】「なにネお
まへの前｛まへ｝だが此｛この｝頃｛ごろ｝じやアま〔こと〕に口やかましくつてならねへから
うるさくつて〳〵。」【春】「アレサそんなにいひなさんな。どうで歳｛とし｝をと
ると愚智｛ぐち｝になるから気｛き｝やすめをいつて置｛おく｝がいゝはな。」【仇】「それでも
くやしくなるからツイ。」【春】「アレサおめへはどうもまけねへ気｛き｝だから

（８オ）
ならねへ。」【仇】「あんまりうるせへからいめへましいといつちやアねへ。」
【春】「それはそうと丹印｛たんじるし｝はどうしたのだ。なんでもおいらかこゝで
聞｛きい｝て居｛ゐ｝たら一人｛ひとり｝で小言｛こ〔ごと〕｝を云｛いつ｝て出｛で｝かけたつけ。」【仇】「ナニ全体｛ぜんてへ｝それ
から起｛おこ｝つた〔こと〕だはナ。」【春】「母御｛おつかア｝がそれをやかましくいふのか。」【仇】「ナニあれ
でもおいらの母人｛おつかア｝は時〻｛とき〴〵｝いろ〳〵な気｛き｝になつてならねへはな。」
【春】「そうかそして米｛よ｝の字｛じ｝の方｛はう｝は中｛なか｝でも直｛なほ｝つたといふわけか。」【仇】「
ナニ〳〵大違｛おほちが｝ひまだ〳〵此間｛こないだ｝十二軒｛じうにけん｝の跡｛あと｝をおもいれいはねへけ
りやアならねへ。」【春】「そうかなる程｛ほど｝それもだん〳〵わけがある

（８ウ）
だろうけれど元｛もと｝はといへば米八｛よねはつ｝さんが大｛たい｝そう苦労｛くらう｝をしたのだ
そうだから。」トいふ処｛ところ｝へ妹｛いもと｝お秋｛あき｝茶｛ちや｝をこしらへて持来｛もちきた｝る。【仇】「ヲヤ
お秋｛あき｝さん有難｛ありがた｝ふ。誠｛ま〔こと〕｝に酔｛よつ｝てくるしいから何｛なに｝より嬉｛うれ｝しい。」ト［茶｛ちや｝わんをとりて
お秋が髪｛かみ｝を見て］【仇】「ヲヤいつもより風｛ふう｝がよくツて髷｛まげ｝がひくくつていゝ■ウ。＊「■」は「の」の部分欠損
だれだ。おいらも今度｛こんど｝はそういつてもらはふ。」【秋】「今｛いま｝。三孝｛さんかう｝さんが
娘大幸記｛むすめたいかうき｝といふ本｛ほん｝を貸｛かし｝ておくれだが唄妓｛けいしや｝の一代記｛いちだいき｝だそうだ
が誠｛ま〔こと〕｝に評判｛ひやうばん｝がいゝとサ。狂訓亭｛きやうくんてい｝といふ作者｛さくしや｝は野暮｛やぼ｝な人｛ひと｝だそうだ
けれど娘｛むすめ｝と唄妓｛げいしや｝の〔こと〕はひどく穴｛あな｝を智略｛しつて｝書｛かく｝とサ。」【春】「なんだな

（９オ）
此子はつまらねへ〔こと〕をいふヨ。仇｛あだ｝さんはしやれ本｛ほん｝を直｛ぢか｝にやらかして
楽｛たのし｝んだり苦｛くる｝しんだりして居｛ゐ｝るのに草双紙｛くさざう｝のはなしなんぞは耳｛みゝ｝へ＊「草双紙｛くさざう｝。」「紙。」に振り仮名なし
はいるものか。」【仇】「ほんに心｛こゝろ｝がらとはいひながら一人｛ひとり｝で泣｛ない｝て居｛ゐ｝る時｛とき｝が
有｛ある｝がよくこれでサ座敷｛ざしき｝が勤｛つとま｝ると思｛おも｝ふヨ。」【春】「そうヨのう。しかにいらは
色｛いろ｝をした〔こと〕がねへから気｛き｝ももめる〔こと〕はねへが色が出来｛でき｝たらさぞた
のしみにもしたり腹｛はら｝もたつたりするだろうヨノ。」【仇】「ム■ウ色を木進＊「木進」（ママ）
とは新｛あた｝らしい言草｛いひくさ｝だの。延津賀｛のぶつが｝さんがおめへの〔こと〕をくはしく書て嘉造
さんが手交｛てつだつ｝て三冊｛さんさつ｝ばかりになつてゐるとヨ。あんまり立派｛りつば｝な口は＊「｛りつば｝」の濁点ママ

（９ウ）
きけめへ。」【春】「ヲヤそうか。気恥｛きはつか｝しいの。」【仇】「気｛き｝はづかしいといへばこの
間｛あいだ｝おいらも米｛よね｝さんと喧嘩｛けんくわ｝をしたのを思｛おも｝ふと今｛いま｝さら気｛き｝はづかし。」
【春】「そうか。おつかアとけんくわをしたり米｛よ｝の字｛じ｝ともの言｛いひ｝をしたり
それも不残｛みんな｝丹｛たん｝さんの〔こと〕だからしかたがねへ。」【仇】「これほど気｛き｝をもむ
のを向｛むか｝ふでも察｛さつ｝してくれねへじやアおいらの立処｛たちとこ｝がねへ。」【春】「いゝのサ
それもみんなかはいゝ男｛をとこ｝の〔こと〕だからしかたがねへ。」【仇】「それは知｛し｝れた
〔こと〕ヨ。」【春】「ヱヽ悔｛くや｝しい。うけさせられた。」【秋】「仇｛あだ｝さんモウ夜｛よ｝が更｛ふけ｝たから私｛わちき｝と一床｛いつしよ｝に
お寝｛ね｝な。」【仇】「アヽそうしようヨ。」ト［いふ折｛をり｝から］八幡｛はちまん｝の八ツ｛やつ｝の鐘｛かね｝ボウン［引］〳〵。

（１０オ）
第六回
いつも立寄｛たちよる｝湯帰｛ゆがへ｝りの姿｛すがた｝も粋｛すい｝な米八｛よねはち｝が垢抜｛あかぬけ｝したる糠帒｛ぬかぶくろ｝
口｛くち｝にくわへて抱｛かゝへ｝たる浴衣｛ゆかた｝も京藍二重染｛きやうあいにじうそめ｝八重｛やへ｝に咲｛さい｝たる丹次
郎｛たんしらう｝が花の色匂｛いろか｝に心｛こゝろ｝せく門｛かど｝に落｛おち｝たる反古｛ほこ｝さへももしやと拾｛ひろ｝ひ打開｛うちひらけ｝は
薄くこく乱｛みだ｝れて咲｛さけ｝る藤｛ふぢ｝の花｛はな｝久｛ひさ｝しき色｛いろ｝はあらじとぞ思ふ
【米】「アヽいやな哥｛うた｝だ。ふけへきな。」トいひながら丹次郎｛たんしらう｝が宅｛うち｝の障子｛しやうじ｝を
あける。【丹】「ヲヤ今日｛けふ｝はごうぎと早｛はや｝く起｛おき｝たの。湯は込｛こん｝でゐたか。」【米】「イヽヱ
よく透｛すい｝てゐるヨ。私｛わた｝やア爰｛こゝ｝で顔｛かほ｝をして行｛いく｝から其内おまへも湯へ

（１０ウ）
お出な。今｛いま｝丁度｛ちやうど｝仇｛あ｝の字｛じ｝が｜這入｛はいつ｝た所｛とこ｝だ。」【丹】「ナンノつまらねへ。ナニあい
つらに用が有ものか。」【米】「あんまり用｛よう｝のねへ〔こと〕も有｛ある｝めへ。増吉｛ますきつ｝さん
所の二階｛にけへ｝もわる長｛なが｝かつたねへ。」【丹】「コウ米八｛よねはち｝おめへは此｛このこら｝アま〔こと〕に愚
智｛ぐち｝になつたぜ。八軒｛はちけん｝の中に唯｛たつた｝一人｛ひとり｝のさばけもんだと評判｛ひやうばん｝される
身分｛みぶん｝じやアねへか。そりやア他人｛ひと｝知｛し｝らねへ妬心｛ぢんすけ｝だからかまやアし
ねへが思ひもつかねへ〔こと〕をいはれるとおいらも腹｛はら｝は立ねへが気の毒
だ。」【米】「気｛き｝の毒｛どく｝なら仇の字｛じ｝のわけを止｛やめ｝ておくれとはいふめへから
少し遠慮｛うちば｝にしておくれな。」【丹】「コウなんぞといふと仇吉｛あたきち｝〳〵と

（１１オ）
いふがおらア何｛なに｝もおめへにいはれる程｛ほど｝の〔こと〕は。」【米】「ないといふのかへ。それ
じやア丹｛たん｝さん恨｛うら｝みだヨ。どうで私｛わたい｝も此様｛こん｝な我儘｛わがまゝ｝もんだから三度｛さんど｝
に一度｛いちど｝はおまへにも気障｛きざ｝がられる〔こと〕も有｛ある｝だろうけれど不及｛およはず｝
ながら斯｛かう｝して苦労｛くらう｝してゐるから少斗｛ちつと｝はかわいそうだとお
思｛おも｝ひでもいゝじやアないかへ。」【丹】「そりやア思｛おも｝はなくつてどうするもの
か。おれもどうかして手｛て｝めへの厄界｛やつかい｝にならねへやうにしてと
いろ〳〵気｛き｝をもむけれども今｛いま｝じやア元手｛もとで｝はなし。そうかと
いつてさすがつまらねへ業体｛しやうべゑ｝をしたら手｛て｝めへの外聞｛げへぶん｝もわる

（１１ウ）
かろうと思｛おも｝ふから誠｛ま〔こと〕｝に気｛き｝がもめてならねへから。」【米】「ヲヤそれで好
色｛いろ｝をかせぐのかへ。おつな気｛き｝のもみやうだねへ。」【丹】「おれが何時｛いつ｝色｛いろ｝を
した〔こと〕が有｛ある｝ナつまらねへ。」【米】「私｛わたい｝こそつまらねへ身｛み｝の上｛うへ｝だは。」ト何｛なに｝か
わからぬ愚智｛ぐち｝をならべ争論｛いひあふ｝折｛をり｝から障子｛しやうじ｝の外｛そと｝奴｛やつこ｝の小女子｛こぢよく｝だれ
とかからかいながら欠来｛かけきた｝り【小】「ばかやア［引］イ。丹｛たん｝さん夕阝｛ゆふべ｝のものが
出来｛でき｝たからちよいとお出｛いで｝。」ト言｛いひ｝ながら障子｛しやうじ｝を明｛あけ｝米八｛よねはち｝を見｛み｝て心付｛こゝろづき｝
わるい〔こと〕をせしと気｛き｝の毒｛どく｝なる様子｛やうす｝【小】「ヲヤ私｛わた｝やアわすれた。おまへの
所｛とこ｝だツけか直｛なほ｝さん所｛とこ｝だつけか。マア今｛いま｝最｛もう｝一｛いつ｝へん聞｛きい｝て参｛まゐ｝るヨ。」トまぎら

（１２オ）
かしたる言｛いひ｝わけはこれ仇吉｛あだきち｝が使｛つかひ｝にて彼｛かの｝米八｛よねはち｝ヘはさしゆゑにかゝるさ
そくの出｛で｝たらめは色｛いろ｝の世界｛せかい｝の実生｛みばへ｝にて他｛よそ｝にはあらぬ利口｛りこう｝もの丹
次郎｛たんしらう｝へ目｛め｝くばせして障子｛しやうじ｝引寄｛ひきよせ｝欠出｛かけだ｝し行｛ゆく｝。【米】「ヲヤありやア増吉｛ますきつ｝
さ゜んの宅｛うち｝の子｛こ｝だネ。」【丹】「ヱヽムヽたしかそうだつけ。」【米】「そうだつけぐらゐ
な〔こと〕でもあるまい。いつも度〻｛たび〳〵｝来｛く｝る様子｛やうす｝だ。どうしたこつて増吉｛ますきつ｝
さんと心易｛こゝろやす｝くするのだへ。」【丹】「ヱヽナニ何｛なに｝ヨ此間｛こないだ｝畳屋横町｛たゝみやよこちやう｝で本｛ほん｝を借｛かり｝て
ゐる時｛とき｝増｛ます｝さんの旦｛だん｝か善孝｛ぜんかう｝さんの処｛とこ｝に居｛ゐ｝てそれから一所｛いつしよ｝につれて
いかれて増吉｛ますきつ｝さ゜んの宅｛うち｝で酒｛さけ｝を呑｛のま｝せられて其｛その｝時｛とき｝から一二度｛いちにと｝行たツけ。

（１２ウ）
何｛なに｝今｛いま｝のはたしか人違｛ひとちが｝ひサ。」【米】「能｛いゝ｝かげんな〔こと〕をお云｛いひ｝ナ。増吉｛ますきち｝さんは旦
那｛だんな｝も亭主｛ていし｝もありやアしないヨ。戸網町｛とあみちやう｝の店｛たな｝に居｛ゐ｝る兄｛あに｝さんが通｛かよ｝ひ番
頭｛ばんとう｝になつて今｛いま｝じやア大造｛たいそう｝仕合｛しあはせ｝かよくなつて身分｛みふん｝が正直｛ちやん｝と極｛きま｝つた
から娣｛いもうと｝が唄妓｛げいしや｝なんぞをして居るといはれては仲間｛なかま｝の衆｛しゆう｝へ聞｛きこ｝えも
わりいといつて兄｛あに｝さんが引｛ひつ｝こませて母御｛おつかア｝と一処｛いつしよ｝におくのだからなか〳〵
旦那｛だんな｝なんぞを取｛とる｝と兄｛あに｝さんが承知｛しやうち｝しねへとサ。此間｛こないだ｝しかも小池｛こいけ｝の宅｛うち｝へ
増｛ます｝さんの兄｛あに｝さんと湯浅屋｛ゆあさや｝の正兵衛｛しやうべゑ｝さんと来｛き｝なすつて其｛その｝時｛とき｝正｛しやう｝さん
のはなしでくわしく聞｛きい｝て知｛し｝つてゐるヨ。好男｛いろ｝ぐらゐはあるだろうが

（１３オ）
おまへをあすこの宅｛うち｝へつれて行｛いつ｝て御馳走｛ごちさう｝する人はないはづだよ。
但｛たゞ｝し仇吉｛あだきつ｝さ゜んは姉妹｛きやうだい｝の様｛やう｝にするといふ〔こと〕は桜川｛さくらがは｝の由｛よし｝さんがはなし
でとうから知｛し｝つて居ます。」【丹】「そうかそれじやアその増｛ます｝さんの兄｛あに｝さん
だろう。おらアまたわるく推量｛きどつ｝て旦那｛たんな｝だと思｛おも｝つて居｛ゐ｝た。時｛とき｝にお米｛よね｝
おらア手めへにいつぞは云｛い｝はふと思｛おも｝つてゐたかいや〳〵何｛なに｝もかも世話｛せわ｝
になつて居｛ゐ｝ながらいやらしい亭主｛てへし｝ぶつて妬心｛ぢんすけ｝もできすぎたとさ
げしみもしようしなまじい言出｛いひだ｝してそんならどふとも勝手｛かつて｝に
しろと突出｛つきだ｝されても立派｛りつば｝には口のきけねへ身分｛みぶん｝だからなりつ＊「｛りつば｝」の濁点ママ

＄（１３ウ）
鳥居数｛とりゐかず｝越｛こし｝て
自業｛じまへ｝の夕化粧｛ゆふげしやう｝
化｛ばか｝し上手｛じやうず｝の
稲荷横町｛いなりよこちやう｝
酔中戯言
滝亭鯉丈

＄（１４オ）

（１４ウ）
たけと了簡｛れうけん｝して居たがおれが〔こと〕ばかりいけやかましく目｛め｝くじら
たつて言｛いひ｝ながら少｛すこ｝しは手めへの心｛こゝろ｝にも遠慮｛ゑんりよ｝といふが有｛あり｝そうな
もんだトいつたら其方｛そつち｝じやアお客｛きやく｝の大事｛だいじ｝も色仕掛｛いろじかけ｝も不残｛みんな｝
おいらを見継｛みつぐ｝からだと言抜｛いひぬけ｝る気｛き｝だろうがそういふ気｛き｝がねを
させるのも実｛じつ｝に気｛き｝の毒｛どく｝になつて来｛き｝たといふは此方｛こつち｝のうつくし
づく胸｛むね｝のわりい〔こと〕だらけだからいつその〔こと〕にさつばりと切｛きれ｝て＊「さつばり」の濁点ママ
たがひに安堵｛あんど｝しよふヨ。」トいはれてびつくり米八｛よねはち｝がくやしなみだを
はら〳〵〳〵。丹次郎｛たんしらう｝にしがみつかんとせしが鏡台｛きやうだい｝の鏡｛かゞみ｝を片

（１５オ）
木ひろい入べからず
延津賀門人
津奈
入相の鐘に
はりおふ虫の声
瓢兼八
秋の月庭と
申もこればかり
延津賀
をしくとも
月にはかへし
松の枝

（１５ウ）
脇｛かたわき｝へ投出｛なけだ｝し箱｛はこ｝に寄｛より｝かゝりてしばらく無言｛だんまり｝。丹次郎｛たんじらう｝もわざと知｛し｝
らぬふりで浪花白雨｛なにはしらさめ｝といふ小本｛こほん｝を読｛よん｝で居る。［東春雨｛あづまのはるさめ｝の後編｛こうへん｝なり。御高覧願上候。狂訓亭伏申］
【米】「丹｛たん｝さん此方｛こつち｝でいはふと思｛おも｝ふ〔こと〕をさかさまらしい〔こと〕にマア何｛なに｝かしつ
かり見留｛みとめ｝た〔こと〕が有｛あつ｝ておまへが其｛その｝言葉｛〔こと〕ば｝私｛わたい｝は夢｛ゆめ｝にも他外｛よそほか｝の心｛こゝろ｝は
持｛もた｝ない此｛この｝苦労｛くらう｝何｛なん｝で切｛きれ｝るの別｛わか｝れるのと軽〻｛かる〴〵｝しくいふのだへ。それだ
から常日頃｛つねひごろ｝妬心｛やきもち｝らしいが彼是｛かれこれ｝と時〻｛とき〴〵｝釘｛くぎ｝をさして置｛おく｝のに何｛なん｝
だの角｛か｝だのとしらをきつてとふ〳〵向｛むか｝ふへ抱｛だき｝こまれてあげくの
果｛はて｝には切口上｛きれこうじやう｝おまへはそれでよかろうが私｛わたい｝はどふして座敷｛ざしき｝へ出｛で｝て

（１６オ）
のめ〳〵と勤｛つと｝まろうか。愚智｛ぐち｝なこつたが中｛なか｝の郷｛ごう｝から此方｛こつち｝へ越｛こし｝て
今日｛けふ｝が日｛ひ｝まで串戯｛じやうだん｝にもそんな〔こと〕をいはれた〔こと〕のない私｛わたい｝馬
鹿｛ばか｝らしい程｛ほど｝一途｛いちづ｝の気性｛きしやう｝何｛なに｝が証古｛しようこ｝にいふのだへ。サアそのわけを
しつかりお言｛いひ｝。何所｛どこ｝の座敷｛ざしき｝へ出｛で｝て居｛ゐ｝てもなるたけ対座｛さし｝では居｛ゐ｝
ないやうに気｛き｝がね苦労｛くらう｝の此｛この｝月日｛つきひ｝私｛わたい｝が様｛やう｝なはかないものでも藤｛とう｝
さんはじめ彼是｛かれこれ｝と動｛うご｝きのとれない義理｛ぎり｝づくめ余｛あんま｝り情｛じやう｝がこはい
といつて悪｛にく｝まれる程｛ほど｝慎｛つゝしん｝で野暮｛やぼ｝唄妓｛げいしや｝だの弱気｛ぐうたら｝だのとそし
られたり笑｛わら｝はれたりトいつていつこく色気｛いろけ｝もなく新子｛しんこ｝が初｛はつ｝に

（１６ウ）
出｛で｝たやうにこはがるばかりじやアお客｛きやく｝もなし。他｛ひと｝にも負｛まけ｝めへ風
俗｛なり｝形衣｛かたち｝も立派｛りつば｝にしよふしいやらしい〔こと〕は少｛すこ｝しもいやだといふ＊「｛りつば｝」の濁点ママ
こんな勝手｛かつて｝な唄妓衆｛はおりし｝が外｛ほか｝にもあるか知｛し｝らねへが私｛わたい｝はそれで
とほして来｛き｝て此所｛こゝ｝の土地｛とち｝では札付｛ふだつき｝の男｛をとこ｝ぎらひと名｛な｝をとる
までどんなに苦労｛くらう｝をした〔こと〕か。いかに惚｛ほれ｝たを付込｛つけこん｝で我儘｛わがまゝ｝を
いへばといつてそれじやア私｛わたい｝が思｛おも｝ひでもおまへの冥利｛みやうり｝がわるかろふ
なんぞと言｛いつ｝たら猶｛なほ｝の〔こと〕愛相｛あいそ｝のつきるわけだろうけれどおまへ
も何｛なに｝か腹｛はら｝があつて言出｛いひだ｝した切口上｛きれこうぜう｝私｛わた｝やア覚悟｛かくご｝を極｛きめ｝たからお

（１７オ）
まへもその気｛き｝で居ておくれ。」トずつかり言出｛いひだ｝す米八｛よねはち｝が詞｛〔こと〕ば｝にさ
すが丹次郎｛たんじらう｝元｛もと｝より当｛あて｝なき出｛で｝たらめに心｛こゝろ｝のそこはぶる〳〵もの。
【丹】「かくごといつてどふする気｛き｝だ。」【米】「どうするといつて切｛き｝れる女の心｛こゝろ｝
いきを聞正｛きゝたゞ｝さずといゝじやアないかね。」【丹】「いんにやまだ切｛きれ｝きらねへ
その内｛うち｝はやつぱりおいらが掛｛かゝ｝り合｛あい｝だ。」トいへば米八｛よねはち｝完爾｛につこり｝と心｛こゝろ｝に
わらへど知｛し｝らぬ顔｛かほ｝で【米】「なにも私｛わたい｝が死｛し｝ぬ日｛ひ｝には掛｛かゝ｝り合｛あひ｝にならねへ
やうに仕様がいくらもありますは。」【丹】「コウ米八｛よねはち｝何｛なに｝も死｛し｝ぬ程｛ほど｝の〔こと〕
でも有｛ある｝めへじやアねへか。」【米】「よいヨわたしが身｛み｝で私｛わたい｝が死｛し｝ぬのにいら

（１７ウ）
ざるお世話｛せわ｝さ。」【丹】「ナニ手めへの身｛み｝だ。そんな我儘｛わがまゝ｝はいはせねへ。たがひ
に彫｛ほつ｝た入｛いれ｝ぼくろはゞかりながら米八｛よねはち｝が命｛いのち｝の主｛ぬし｝は丹次郎｛たんじらう｝おれ
がからだもその通｛とほ｝り米八｛よねはち｝といふ主｛ぬし｝がありやア。ヲイそらとはなら
ねへヨ。」【米】「それだから死｛し｝ぬ気｛き｝になるのサ。しかし一人｛ひとり｝で死｛しに｝はしないヨ。」
【丹】「そしてだれと死｛し｝ぬのだ。」【米】「死｛し｝んで亭主｛ていし｝を取｛とり｝ころすのサ。」【丹】「
うらみ重｛かさな｝る伊右衛門｛いゑもん｝どのか。とんだお岩｛いは｝の声色｛こはいろ｝だ。」と惚｛ほれ｝た同士｛どうし｝
の契話喧嘩｛ちわげんくわ｝はてしもあらぬそのところへ小池｛こいけ｝のお熊｛くま｝は逢
橋｛あふはし｝の毘沙門｛びしやもん｝さまより帰｛かへ｝り道｛みち｝丹次郎｛たんじらう｝が障子｛しやうじ｝を明｛あけ｝【くま】「丹｛たん｝さん

（１８オ）
由｛よし｝さんがそういつてよこしたがネ此間｛こないだ｝の唄｛うた｝の文句｛もんく｝が出来｛でき｝たら
ばおくれとサ。ヲヤ米｛よね｝さんお早｛はや｝ふ。」【米】「お熊｛くま｝さんモウ〳〵丹｛たん｝さんが世
話｛せわ｝がやけていけないヨ。」【くま】「虫｛むし｝でも起｛おこ｝つて居｛ゐ｝るだろう。おもいれ灸｛きう｝
でもすゑておやりな。」トいふうち米八｛よねはち｝は多葉粉｛たばこ｝をつけてさし
出｛だ｝す。【くま】「ヲヤ有難｛ありがた｝ふ。」ト立｛たつ｝て居｛ゐ｝て呑｛の｝む。【丹】「マアおあがりな。」【米】「イヽヱ
よしかお熊｛くま｝さんこんな性悪｛しやうわる｝の男｛をとこ｝の所｛とこ｝へおあがりでない。」【丹】「つま
らねへ〔こと〕ばつかりいはア。」【くま】「うらやましいのう。」【米】「大違｛おほちが｝ひこふ見｛み｝
えても極｛ごく｝女好｛をんなずき｝でよはるヨ。」トいふときしも路次口｛ろじぐち｝より駒下駄｛こまげた｝の

（１８ウ）
音｛おと｝。奴｛やつこ｝の使｛つかひ｝でらちあかねばまちかねてかの増吉｛ますきち｝がうちより欠出｛かけだ｝
して来｛く｝る仇吉｛あだきち｝が姿｛すがた｝を見｛み｝ておくまはにらみ【くま】「ヱヘン。」トせきばらひ
米八｛よねはち｝に見｛み｝えないやうにして小｛こ｝ゆびを出｛だ｝して見｛み｝せる。［それとさとりて］【米八】「ドレ
小用｛てうづ｝にいかふや。」ト外｛そと｝へ出｛で｝る。其｛その｝時｛とき｝ちやうど仇吉｛あだきち｝がうしろ姿｛すがた｝を
見送｛みおく｝りてせきたつ米八｛よねはち｝。仇吉｛あだきち｝もお熊｛くま｝がをしえに米八｛よねはち｝が長居｛ながゐ｝
をねたむ女｛をんな｝の情｛じやう｝色｛いろ｝は土地｛とち｝がら土性金｛どしやうきん｝金｛かね｝をはなれて実情｛じつじやう｝
にほれた木性｛きしやう｝とながれの水性｛みづしやう｝。そもや五行｛ごぎやう｝の相生相克｛さうじやうさうこく｝をりも
節｛をり｝とて商人｛あきんど｝の声｛こゑ｝【商人】「荒神｛くわうじん｝さまの御絵馬｛おゑんま｝〳〵。」

（１９オ）
是｛これ｝より増吉｛ますきち｝仇吉｛あだきち｝が唄妓｛げいしや｝の穴｛あな｝の極秘密｛ごくひみつ｝いよ〳〵米
八｛よねはち｝仇吉｛あだきち｝が喧嘩｛けんくわ｝の趣向｛しゆかう｝の奇〻妙談｛きゝみやうだん｝辰巳｛たつみ｝の園｛その｝の後編｛こうへん｝
三冊｛さんさつ｝つゞいて御覧｛ごらん｝をねがひ上候。
［梅暦餘興］春色辰巳園巻之三終


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底本：国立国語研究所蔵本（W99/Ta81、1001142387）
翻字担当者：成田みずき、矢澤由紀、島田遼、藤本灯
更新履歴：
2017年3月28日公開