春色連理の梅 四編下 ---------------------------------------------------------------------------------- 凡例 1.本文の行移りは原本にしたがった。 2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。 3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。 4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア 5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」 6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。  平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ  片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ  複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵 7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。 8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。 9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。 10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕 11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい} 12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日} 13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい} 14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。 15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】 16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。 17.不明字は■で示した。 18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」 19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。 20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。 本文の修正 1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。 ---------------------------------------------------------------------------------- (1オ) 春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之十二 梅暮里谷峨作 第二十三齣 紅梅{こうはい}や娘{むすめ}忍{しの}ばす別座敷{べつざしき}。それならなくに四畳半{よでうはん} 囲{かこひ}にしのぶ艶少年{いろわかしゆ}は。是{これ}則{すなわち}房{ふさ}二郎けふしもはからず 舞台{ぶたい}の上{うゑ}にて。お菊{きく}の㒵{かほ}を見てしより。思{おも}ひがけざ る事{〔こと〕}なれば。是{これ}はとはかり驚{おどろ}くものから。他{ひと}はし らざる胸{むね}の中{うち}。逢{あふ}べき所{ところ}もあるものを本|店{だな}の別 (1ウ) 荘{べつそう}にて生憎{あやにく}お雪{ゆき}と一|連{しよ}なれば。まだ㒵{かほ}はしらねど も。日頃{ひごろ}利発{りはつ}なお菊{きく}ゆへ。かならずそれと推量{すいりやう}して。 さぞ腹立{はらたゝ}しく思{おも}ふべし。と査{さつ}して見れば年{とし}ゆか ぬ。少年心{わかしゆごゝろ}に太{いとゞ}なを。気{き}の毒{どく}さのあまり間{ま}がわるく。 鬱{ふさ}ぐ動静{やうす}を爾{さ}もこそと。由{よし}之助が酔{すい}な詞{〔こと〕ば}をし ほにして囲{かこひ}へ立{たち}ゆき。ひとりつら〳〵考{かんが}ふるに。 かねてお菊{きく}がこの家{うち}を。わが本店{ほんだな}の別荘{りやう}也と知{しつ}て 来{き}つるか。しらすして。頼{たのま}れて来{き}しものか。それこれと (2オ) もに聞{きゝ}たい事{〔こと〕}。咄{はな}したい事|山〻{やま〳〵}あれど。他視{ひとめ}繁{しけ}くて思 ふにまかせず。嗚呼{あゝ}何{なに}してもひよんな所{ところ}で逢{あひ}にしものよ。 いかにして。何処{どこ}ではなしをしつべき歟{か}。戯房{がくや}へゆくとも若{もし}万 |一{と}。見咎{み■がめ}られては一大事{いちたいじ}。と思{おも}ひ悩{なや}みてとつをひつ。思*「万一{と}」は「万一{ひよつと}」の脱字か、「■」は「と」の欠損か 案{しあん}にあまる其{その}処{ところ}へ。片方口{かたうぐち}を徐{そ}と開{あけ}て【きく】「房{ふさ}さん。」 【房】「ヲヤお菊{きく}さんよく爰{こゝ}がしれたね。サア早{はや}く跡{あと}をお しめよ。」ト四方{あたり}見まはす気配{きくば}りに。由断{ゆだん}なみだもこがれ たる。相惚{あいぼれ}どしの袖{そで}の露{つゆ}。秋{あき}ならねども義理{ぎり}といふ。文 (2ウ) 字{もじ}に尾上{をのへ}は隔{へだ}ちても。慕{した}へばしたふ紅葉鳥{もみぢどり}。互{たがい}にし つかり抱{いだ}きあひ。|一霎時{しばし}〔こと〕ばも無{な}かりしが。稍{やゝ}ありて【房】「 お菊{きく}さんアノ日外{いつぞや}の後{のち}一度{いちど}手紙{てがみ}をとゞけた切{ぎり}だから 心{こゝろ}でも変{かわつ}たか不実{ふしつ}な仕{し}かたと定{さだ}めし恨{うら}んでお在{いで} だろふが決{け}して然{さう}した訳{わけ}ではないヨ。私{わたし}の身{み}のうへを 思{おも}へばやツぱりおまへの後〻{のち〳〵}の為{ため}だと思ツて辛防{しんばう}し て当分{たうぶん}のうちは成丈{なるたけ}おまへの方{はう}へ便{たよ}りをしないの だから何卒{どうぞ}わるく思{おも}ツておくれでないヨ。」【きく】「アヽそ (3オ) りやアもうねお豊{とよ}どんが度〻{たび〳〵}たづねてお呉{くん}被成{なはる}からその つと〳〵にお前{ま}はんの安否{あんぴ}はしれますンで私{わちき}やア安心{あんしん} してゐますけれどそれでもやツぱり久{ひさ}しく逢{あは}ないと 恋{こひ}しくツて〳〵お前{ま}はんの事ばツかりかんがへてゐま すもんだから|可放心{ついうつかり}したり鬱気{ふさい}だりしますと御母{おつか} さんが病{やまい}でも発{で}なければ宜{いゝ}と私{わちき}のからだをあんじ ましては又{また}今頃{いまごろ}はどふしてお在{いで}だかとお前{ま}はん の事をいひ出{だ}しては親子{おやこ}が泣{なか}ない日{ひ}はありませ (3ウ) んわ。かわいそふだと思{おも}ツておくん被成{なはい}なとは申ス ものゝおまはんはあんな美{うつく}しいお雪{ゆき}さんと中睦{なかよく}し てお在{いで}被成{なはる}のだからもう私{わちき}のやうなお婆{ばア}さんは思 出{おもひだ}してもお呉{くん}なはりやアしますまいねへ。」【房】「コレサそ りやアお豊{とよ}からも私{わたし}の心{こゝろ}は聞{きい}て承知{しやうち}じやアないかね。 それだに其様{そんな}いやみを言{いつ}てお呉{くれ}でないな。身上{しんしやう}を思{おも} へばこそお雪{ゆき}と夫婦{ふうふ}に成{なつ}たものゝどふしてお前{まへ} をわすれる隙{ひま}があるものかね。そりやアあの時分{じぶん}も (4オ) 寧{いつそ}本店{ほんだな}をしくじツて勘当{かんどう}されたら見事{み〔ごと〕}立{たて}すご しにして遣{や}ると言{いつ}てお呉{くれ}だけれど然{さう}した所{ところ}がおた がひに末{すへ}のつまらない訳{わけ}だから夫{それ}よりやア本家{ほんけ}の夫 婦{ふうふ}に可愛{かわひ}がられるこそ幸{さいわ}ひ言{いひ}なりに成{なつ}て身上{しんしやう}を 堅{かた}めた上{うへ}ではお前{まへ}にも楽{らく}をさせて表向{をもてむき}夫婦{ふうふ}と いはれないでも互{たがい}に心{こゝろ}さへ夫婦{ふうふ}の気{き}なら友{とも}しら がに成{なつ}て死水{しにみづ}をとるかとられるかするだろうと いふ事から当時{とうじ}斯{かう}して辛防{しんばう}してゐるも長{なが}い事{こつ}ちやア (4ウ) なし。もうそちこち家産{しんしやう}を請{うけ}とる相談{さうだん}もあるから 然{さう}成{な}ればおまへにも今{いま}まで苦労{くろう}をさせた恩{をん}がへ しをして毎日{まいにち}逢{あひ}に行{いつ}ちやア又{また}ソラ御母{おつか}さんを寄{よせ}へ やツて跡{あと}で何{なん}しながら貝鍋{かいなべ}で鴨{かも}でも煮{に}て蕎麦{そば}を 入{いれ}て喰{たべ}て楽{たの}しむわね。」ト[すぎこしかたのむつ事をおもひ出してたがひににつこり] 【きく】「さう成{なつ}たら嘸{さぞ}嬉{うれ}しかろふねへ。」ト又{また}互{たがひ}にしつかりと 抱{だき}しめあひて須更{しばらく}無言{むごん}。このとき烹声{はゑ}の落{おち}たる炉{ろ}の 釜{かま}がどうした事かチウ〳〵。【房】「アノおまへぜんたいけふこゝ (5オ) の家{うち}を承知{しやうち}で来{き}たのかへ。」【きく】「イヽヱちツとも心付{こゝろづか}ずに 参{まい}ツたンでありますから不意{ふい}にお前様{まはん}の顔{かほ}を見て どんなに愕{びつくり}しましたろふ。それにこちらの若旦那{わかたんな}もぞん じた方{かた}でね。」【房】「ヲヤどうしてヱ。」【きく】「まアお聞{きゝ}なはいヨ。不 測{ふしぎ}な〔こと〕でね。」ト[をとゝひ母親{はゝをや}が介抱{かいはう}うけてをくり来られし事より勘八が来{き}たるときのやうす爰{こゝ}へ来{き}て其{その}人{ひと}は若旦那なるをしりし〔こと〕 心をひかれし〔こと〕又由之助がひとかたならぬしんせつなる事かれこれ〔こと〕ばみじかにさゝやきつぐれば]【房】「ハテナ由{よし}さんが然{さう}いふ なアどふいふ心{こゝろ}だしらン。」ト[すこしかんがへ]「そりやアほんとに気{き}がある のだろふぜ。」ト[ほれた心よりまわり気もでるものなり]【きく】「ナニまさか私に。」【房】「どう $(5ウ) 房二郎 逢すとも 神に 祈りて 引 注連の 心長くも 恋や $(6オ) わた らむ 麻の 屋 おきく (6ウ) して由断{ゆだん}はならないヨ。随分{ずいぶん}人一倍{ひといちばい}その方{ほう}へかけてはすば しツこい方{はう}だからどうも何{なん}ともいへないテ。」【きく】「ホヽヽ何程{なんぼ} なんでも其様{そん}な義理{ぎり}のわるい事{〔こと〕}をあの方{かた}が。」【房】「それ だツても今{いま}まで左様{そん}な心切{しんせつ}のあるやうな気{け}ぶりは一 向{とんと}無{な}かツたもの。時折{ときをり}誰{だれ}もゐないときにやアおまへの事 でなぶられる事もあるけれど何{なに}も深{ふか}しい事は聞{きゝ}もし ないから咄{はな}した事もなし。随分{ずいぶん}外{ほか}の事じやア内証{ないしやう}の 咄{はな}しをする〔こと〕もあるけれど。」【きく】「それだから那様{あゝ}はお (7オ) 言{いひ}被成{なはつ}ても私{わちき}だツて由断{ゆだん}をしやアしませんヨ。何{なん}でもおまは んに逢{あつ}ておはなし申シたら大体{たいてい}解{わか}るだろふと思ひまし たは。」【房】「そうさ。どうも由{よし}さんの腹{はら}が解{げ}せないネ。まア私の思 ふにはお前{まへ}が義理{きり}を立{たつ}てちよツくら言{いふ}事{〔こと〕}をきかない からずツと信切{しんせつ}ごかしに恩{をん}をきせて置{おい}てゆく〳〵延引{のつびき} ならないやうにしようといふつもりだろふと思ふヨ。それか 又|私{わたし}と断{きら}せる為{ため}に自分{じぶん}の手へ入る気{き}か乃至{ないし}やア双方{さうはう} へ恩{をん}をかけて義理{ぎり}づくで断{きら}せる気{き}かといふンだがまア (7ウ) どツちかといふとお前{まへ}を傘{かさ}の雪{ゆき}としたいのか山〻の やうに思{おも}はれるね。[傘の雪とはわがものにしたいと■ふ事なり]全{まつた}く然{さう}ならは私と違{ちが} ツて由さんなら名におふ金多屋{かなたや}の若旦那{わかだんな}だからおまへも考{かんが} へどころだぜ。」【きく】「ばからし■。■してもおくん被成{なはい}。私{わちき}が左様{そん} な心{こゝろ}ならば今時分{いまじぶん}まで■様{■■な}にまごついてゐやアしま せん。」【房】「それでもお前{まへ}人は三日|逢{あは}ないと心{こゝろ}のしれな いものだといふから安心{あんしん}ならないわね。」【きく】「ヲヤお前 はんが安心|被成{をし}でないくらひでは私{わちき}の身にも成て (8オ) お見|被成{なはい}。手{て}ばなして置{おく}ばかりかあんな美{うつく}しいお嬢{じよう} さまと一|所{しよ}に成{なつ}てお在{いで}のを他{わき}で見てゐるつらさと いふものはそれはもうどんなでありませう。それも お前{ま}はんの身を思{おも}へばこそ黙{だまつ}て辛防{しんばう}してゐます じやアありませんか。ほんにどうすれば此様{こんな}に惚{ほれ}る だろふ。」ト[ぶる〳〵と身をふるはして房二郎のひざへもたれながらちから一ばいにだきしめる] 第廿四齣 当下{そのとき}房{ふさ}次郎は何{なに}思ひけん俄{にわか}に顔色{かほいろ}を変{かへ}て膝{ひざ}に (8ウ) もたれたるお菊{きく}を手|暴{あら}く突遣{つきや}り【房】「コウお菊さん又 |久{ひさ}しぶりで嬉{うれ}しがらせはよしても呉{くん}ねへ。今{いま}まじやア若*「今{いま}ま」の「ま」は衍字 気{わかげ}の至{いた}りで左{と}の右{かう}のと言{いは}れるのをほん気{き}にして末〻{すへ〴〵}は 斯{かう}那{あゝ}と言{いつ}た事を今{いま}さら思へば恥{はづ}かしいやら腹{はら}が立{たつ}やら 小忌〻{こいめへま}しくツてならねへ。爰{こゝ}で落合{おちやつ}たこそ幸{さいわ}ひ互{たがい}に直談{ぢきだん}の 手|断{ぎれ}はなしとしようぜ。己{おいら}が方{はう}にやアもうみじんもみれん は無{ね}へからノ是からは勝手な浮気{うわき}をするが宜{いゝ}。しかし斯{かう} 言{い}ツたら定{さだ}めし手切足切といふだろふがそこも承知{しやうち} (9オ) だから何{なに}も立て騒{さわ}ぐにやア及{およ}ばねへせ。今|在{ゐ}る本店{ほんだな}へ 向{むけ}て迷惑{めいわく}な筋{すじ}を言掛{いひかけ}て来{こ}ずとの翌朝{あす}にでも此方{こつち} から人{ひと}を遣{や}るヨ。病{やま}犬にくひつかれたと思やアきつい事は ねへ。相当{さうとう}の掛{かけ}合をするから然{さう}思{おも}ツてゐねへ。」ト[声{こへ}あらゝかに言はなせ ばあまりの事におきくはきもをつぶし男のかほを見つめて]【きく】「まアどう被成{なすつ}たンたへ。気{き} でもお違{ちが}ひか。」【房】「フン今{いま}までこそ気{き}が違{ちが}ツてゐた かもしれねへ。此様{こんな}狐{きつね}に魅{ばか}されて本店{ほんだな}やお帒{ふくろ}に悪{わる} く思はれ実{じつ}のあるお雪{ゆき}といふ女房{■ようばう}に気{き}をもま (9ウ) せたか考{かんが}へれは考へるほど勿体{もつたい}ねへやうだ。もう斯{かう} 正気{しやうき}に成{なつ}ちやア今{いま}までの口{くち}から出{で}まかせの気安{きやす}め や程{ほど}に乗{のる}のじやアねへぜ。それを気{き}か違{ちが}ツたかもねへ もんだ。おもしろくもねへ。わらかしますぜ。」ト[せゝらわらひ。 ○わらかすとは此頃のはやり〔こと〕ばなり。みなさま御ぞんじの事なれども遠方{ゑんばう}片|土{ど}の人の為にし候也。かゝるつたなき草紙といへとも幸ひに年ふりてもすきかへ しのかまをのかるゝ〔こと〕ありしとき何事かわからずなりもてゆくゆへにしるすのみ。此すへみなしかり]【きく】「そりやアまア房 さんほん気{き}かへ。」ト[はや目はなみだ一ツはい]【房】「そふさ。今まじやア巽掛{そんけ} たツたから是{これ}からは本気{ほんき}サ。もう〳〵否気{いやき}に成{なつ}たら (10オ) 見るも否{いや}だ。」ト[つんと向をふりむく]【きく】「まアとうした事かさツばり わからないねへ。急{きう}にそうお変{かわ}りなア何{なん}そ私{わちき}か悪{わる}い〔こと〕 でもしてお前{ま}はんの㒵{かほ}へ泥{どろ}でも塗{ぬつ}たとか言{いつ}てしやく るものでもあるのかへ。然{さう}なら然と言{いつ}ておきかせな。何{なに} もおつう牙開{おくば}にものゝはさまつたやうにいはずと明{めい} 白が宜{いゝ}じやないか。サアまア此方{こつち}をお向{むき}被成{なはい}。」ト[うしろから肩{かた}へ手をかけて ふりむけんとするをふりはらふ房二郎の肘{ひぢ}かはつみにひどく乳{ち}ぶさへあたる]【きく】「アいたゝゝゝゝ。」トしばし息{いき} もつかへし動静{やうす}に附伏{つツぶし}てゐるを房{ふさ}次郎は心|強{つ■}く (10ウ) も見かへらず【房】「ざまア見たがゑ。何{なん}だ御|大{たい}そうな。 疼{いた}いなんのと言掛{いひがゝ}りはよすが宜{いゝ}。いやになりんこち りんこだぜ。」[いやになりんこたうじのはやり〔こと〕ば]お菊{きく}は稍有{やツと}乳{ちゝ}をおさへて 起{をき}なほり「それじやア今しがたお言{いゝ}のは皆{みんな}啌{うそ}でもう 先頃{とう}から私{わちき}が否{いや}に成{なつ}てお在{いで}のだね。」【房】「しれた〔こと〕ヲ。それた から己{おいら}から便宜{たより}をした〔こと〕はあるめへに。」ト[いはれておきくははつとなきふし]「チヱヽヽ 然{さう}とはしらず此{この}日頃{ひごろ}観音{くわんのん}さまや不動{ふとう}さまへ願{ぐわん}がけし て朝晩{あさばん}に茶{ちや}だち塩{しほ}だちしたも誰{だれ}ゆへだろふ。みんなお (11オ) まはんと末{すへ}かけてとふ実{じつ}な人{ひと}とは毫{ちつと}もしらず実{じつ} を尽{つく}したかひもない。今さらなまじ二人リの中{なか}をしツ てお在{いで}の御母{おつか}さんへさすが親{おや}でも面目{めんぼく}ない。まアどうし た因果{いんぐわ}で私{わちき}はまア。」ト[なほいはんにも胸せまり〔こと〕ばくこもりなきふせば]【房】「ヱヽ何{なに}を ぐづ〳〵言{い}ツてゐるンだへ。合{あわ}せものははなれものだ。煮{に}て 固{かた}めたわけにいくものか。己{おいら}だツて一生涯{いつせうがい}姉{あね}さんを抱{かゝへ}て ゐる気{き}はねへのサ。」【きく】「そりやまア房{ふさ}さんあんまりじやア ないか。ほんに其様{そんな}〔こと〕をお言{いひ}のおまへじやアなかツたに (11ウ) 是{これ}といふもいはない事か一所{いつしよ}に成{なつ}ておいでのうちに やア[お雪のそばにゐる事なり]もし万一{ひよつと}私{わちき}の方{はう}がいやに成{なつ}たらとうせ うと夫{それ}ばツかりが気{き}に成{なつ}たが今{いま}に成{なつ}て見ると其{その}時 分{じぶん}から全{まつた}く虫{むし}がしらせたのか夢{ゆめ}で夢を見るやうな。ヱヽ あんまりな変{かわ}りやうで何{なに}いひたいにも胸先{むなさき}へ。」ト[さしこむ癪{しやく} をおさへてなきふす]この折{をり}しも舞台{ぶたい}の方{かた}は彼{かの}お三輪{みわ}が嫉妬場{しつとば}に て手{て}にとるやうにちよぼの浄{じやう}るり間〻{あいだ〳〵}に聞{きこ}ゆ るせりふ。 (12オ) [上るり]〽前後{ぜんご}正体{しやうたい}なき倒{たふ}れ。 【房】「フン何{なん}た。又{また}例{れい}の癪{しやく}か。此方{こつち}が癪{しやく}に障{さは}らア。」【きく】「どう すればまア今{いま}に成{なつ}て其様{そん}な口{くち}がきかれるへ。」ト男{おとこ}の 膝{ひざ}にしがみ付{つき}悔{くや}し涙{なみだ}に声{こへ}くもり悲歎{ひたん}にせまるぞ道 理{どうり}なる。【房】「ヱヽ何{なに}をするんだへ。どうせずとも己{おいら}の口{くち}で己{おいら} がきくのだから勝手{かつて}にきかれらア。チヨツうるせへ。」ト[ひざをつきおとす] 【きく】「チヱヽヽヽヽくやしい〳〵。」ト[なき入{い}る]又{また}も聞{きこ}ゆる舞台{ぶたい}のせりふ 〽胴{どう}よくじやわいの〳〵。男はとられ其{その}上{うへ}に $(12ウ) おまつ 松彦 水鳥も 風に かたまる 夜明 かな 更行や木の 枝折し 雪の音 おきく $(13オ) 由之助 (13ウ) まだ此{この}様{やう}に恥{はぢ}かゝされ何{なん}とこらへてゐ られふぞ。思へば〳〵つれない男。憎{にく}いは 此{この}家{や}の女{おんな}めに見かへられたが口惜{くちをし}い。 〽袖{そで}もたもともくひさき〳〵乱{みだ}れ心{ごゝろ} のみだれ髪{がみ}。 【房】「さうして全体{ぜんたい}この家{うち}へはじめて来{き}たろふに 鉄面皮{あつかましく}よく此{この}茶座敷{ちやざしき}がしれて捜{さが}して来{き}たな。由 断{ゆだん}のならねへ女だぜ。」【きく】「そりやア私{わちき}やアしらなかツた (14オ) が今{いま}申シたとふりお家{うち}の若旦那{わかだんな}さんが連{つれ}て来{き}て被下{くださつ} たからサ。」【房】「ヱヽイ出{で}たらめをいふなへ。ナニ此家{こつち}の兄{にい} さんが其様{そん}な〔こと〕を|為被成{しなさる}ものか。啌{うそ}ツつきめ。」【きく】「そん なら兎{と}も角{かく}も若旦那{わかだんな}さんが|被為仰{おつしやつた}角{かど}もあるからお 呼{よび}申シて此{この}しらちを付{つけ}ておもらい申さにやアな らない。」ト[立かゝれば又もきこゆるおみわのせりふ] 〽ヱヽ妬{ねたま}しや腹立{はらたゝ}しや。おのれおめ〳〵。 【房】「どうでも勝手{かつて}にしやアがれ。」ト飽{あ}くまで手強{てづよ}き男 (14ウ) の悪口{あくこう}聞{きゝ}すてゝ立{たち}あがり片方口{かたうぐち}の太皷張{たいこばり}をひき 開{あけ}て出{いで}ゆく処{ところ}へ [上るり]〽すがた心{こゝろ}もあら〳〵しくかけ行{ゆく}向{むか}ふに。 立聞{たちぎゝ}したる彼{かの}お松{まつ}お菊{きく}をとらへて「おまへはまア何 所{どこ}の女中{ぢよちう}だへ。定{さた}めしけふの御連中{ごれんぢう}だろふがこの奥 深{おくぶか}へ何{なに}しに|来被成{きなすつ}たか。大{だい}それた事だねへ。」ト出{だ}しぬけに 胴気{どつき}をぬかれてお菊{きく}は心{こゝろ}も空{そら}なれば怕駭{ぎよつ}として 言葉{■とは}もなく【きく】「ハイ私{わたくし}は。」ト言{いつ}たまゝ俄{にはか}にさし込{こむ} (15オ) 癪痞{しやくつかへ}「ウン。」とばかりに仆{たふ}れ臥{ふ}す。【松】「ヲヤこの方{かた}はど うか被成{をし}だヨ。若旦那{わかだんな}へ貴君{あなた}御{ご}ぞんじの女じやござ いませんか。」【房】「ヱなに。」ト有繁{さすが}然{さう}とも言難{いひかね}て。只{たゞ}もじ もじとしてゐる動静{やうす}。庭{には}の方{かた}にて立聞{たちぎゝ}したる。由{よし}之助 は慌{あわたゞ}しく。障子{しやうじ}を開{あけ}てすゝみ入{いる}にぞ。思{おも}ひがけねば房{ふさ} 二郎が。おどろくを見向{みむき}もせず。水屋{みづや}の水{みづ}を柄杓{ひしやく}に 汲{くみ}て。そのまゝお菊{きく}を抱{いだ}き上{あげ}。口{くち}を割{わつ}て水{みづ}をつぎこみ。 体{からだ}を動揺{ゆすぶ}る介抱{かいはう}に。件{くだん}の水{みづ}はゴツクリと。咽{のど}へ通{とほ}りて (15ウ) 稍{やゝ}気{き}が付{つけ}ど。悔{くや}しさと悲{かな}しさが。張詰{はりつめ}たる胸隔{むなさき}な れば。なか〳〵和{やわ}らぐ容子{ようす}もなし。かゝる事とは夢{ゆめ}しらず。 けふの連中{れんぢう}に加{くは}はりたる。歌沢{うたざは}喜重{きちやう}[俗称上音]は此{この}次{つぎ}が。お 菊{きく}の出|幕{まく}なりければ。此{この}処{ところ}へ尋{たづ}ね来{き}て。此{この}体{てい}を見て共 に驚{おどろ}き。介抱{かいはう}をしにけるが。とても此{この}容体{ようだい}にては。跡{あと}の 役{やく}は勤{つとま}るまじと。請負人{うけをいにん}に只{たゞ}急病{きうびやう}のよしを告{つげ}て。由{よし}之助 が例{れい}の信切{しんせつ}。神名川{かながわ}の台{だい}なる。広屋{ひろや}理助{りすけ}が家伝{かでん}の妙薬{めうやく}神 妙丸{しんめうぐわん}を服{のま}し又{また}三包{みつゝみ}ばかり与{あた}へて「何事{なに〔ごと〕}も私{あたし}がのみこん (16オ) でゐるほどに翌日{あした}おまへの方{はう}へ出向{でむけ}るから此{この}場{ば}はまアはや く帰{かへる}が宜{よか}ろふ。」ト急{きう}に駕籠{かご}を雇{やと}ひてお菊{きく}を乗{の}せ【由】「 上音{じやうおと}おめへ御劬労{ごくろう}ながら送{おく}ツて遣{やつ}て呉{くれ}ねへか。」【音】「ヱ参{まい}り やせう。次郎{やらう}の病人{びやうにん}と違{ちが}ツてまんざらでもごぜへましね へとかなんとか馬鹿{ばか}だからね。」【由】「又くだらねへ事を言{いつ} てゐるヨ。否{いや}になりんこだぜ。」【音】「お汁{つけ}がおどりこ。甘{あま}いが おしるこ。憎{にく}いが継子{まゝツこ}生酔{なまよひ}とろんこ。」【由】「コレサ破家{ばか}を いはずと。ソレもう駕籠{かご}が出{で}るわな。」【音】「ホイ是{これ}はした (16ウ) り。ちツとも早{はや}く。ヲヽそふじやまて〳〵忘{わす}れきツてゐま した。是{これ}を広小路{ひろこうぢ}の小{こ}てふさんから届{とゞ}かりました。」【由】「浅 草{あさくさ}から何{なに}をよこした。」ト[かき付し紙をうけとりひらく]【音】「一寸{ちよつと}御披露{ごひろう}。」 歌沢{うたざは}大和{やまとの}大掾{だいじよう} 章句{もんく}改正{あらたむ}。 受領 わがもの○まつ身{み}はつらき沖{をき}の石{いし}[をきこだつ改正] ぬば玉○夜るは寝{ね}て[むね改]さへ黒{くろ}ぬりの■*■以下、一字以上欠損 (17オ) 花のくもり○雲{くも}か月かは[はな改] 心をば○かくほそ筆{ふで}の[筆の先改] かきをくる○しどなき仮名書{かながき}や[かな川改]抱{だい}てねよとの かね〔こど〕も[をきこへて改正] 夕ぐれ○あれ鳥{とり}がなく鳥の名{な}に都{みやこ}といふ字{じ}が[名所改] 身はひとつ○よどむうたかたの解{とけ}て[君に改]むすぶのかり まくら[あふよのかじ枕改] しのぶ恋ぢ○なみだでよごすおしろいの[本のもんく上下に改] 以上{いじやう}猶{なを}亦{また}追〻{をひ〳〵}改正{かいせい}。都{すべ}て涙{なみだ}といふ所{ところ}哇{うた}にはなんだと*「なんだ」の左に二重傍線 (17ウ) 唄{うた}ひ度{たく}候。 [鄙曲三昧隆達遺響歌沢章句新改正取] 歌沢能六斎訂正 歌沢小蝶女正律 【由】「何{なん}だおもしろくもねへ。きわどい処{ところ}で哇{はかた}の改{かい}正の披露{ひろう} でもあるめへ。」【音】「ハヽヽヽ左様{さやう}なら若旦那{わかだんな}。」「ヲイ頼{たの}むよ。五編{ごへん} もあらば又{また}重{かさ}ねて。」【音】「お目{め}に掛{かゝ}るでごぜへやせう。」と [いでゝゆく]畢竟{ひつきよう}お菊{きく}の落着{らくぢやく}いかに。即{すなわち}第{だい}五|編{へん}に著{あらは}すべし。扨{さて} 歌沢{うたざは}の家元{いへもと}が受領{じゆりやう}は当{たう}巳年{みどし}六月{みなづき}の事{〔こと〕}にして。三|編{べん}のじ (18オ) 候{こう}とは甚{はなはだ}相違{さうい}す。既{すで}に三編は。僕{おのれ}橋場{はしば}の里{さと}に。閑居{かんきよ}の 折{をり}の戯案{げあん}にして。七年|以前{いぜん}の出板{しゆつぱん}なれば。今更{いまさら}流行{りうこう}に 晩{をく}れたり。看官{みるひと}作者{さくしや}を罪{つみ}ない玉はで。猶{なほ}嗣編{しへんの}高覧{かうらん} を希{こひねが}ふのみ。 本編作者 梅暮里谷峨 敬白。 春色連理梅巻之十二了 ---------------------------------------------------------------------------------- 底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:124:4) 翻字担当者:金美眞、島田遼、矢澤由紀、藤本灯 更新履歴: 2017年7月26日公開