春色連理の梅 四編上 ---------------------------------------------------------------------------------- 凡例 1.本文の行移りは原本にしたがった。 2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。 3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。 4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア 5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」 6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。  平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ  片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ  複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵 7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。 8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。 9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。 10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕 11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい} 12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日} 13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい} 14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。 15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】 16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。 17.不明字は■で示した。 18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」 19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。 20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。 本文の修正 1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。 ---------------------------------------------------------------------------------- (口1オ) 連理廼梅{れんりのうめ}四編{しへんの}序{しよ} 俗中{ぞくちう}の雅{が}雅中{がちう}のぞくとは。自{みづか}ら卑下{ひげ} する亭主{ていしゆ}の滑稽{こつけい}。唄{こうた}の独吟{どくぎん}三味線{みすぢ}は。 是{これ}亦{また}庵主{あんしゆ}の行餘興{かうよけう}。業{げう}は著述{ちよじゆつ}と俳諧{はいかい}の ふたすち道{みち}に御{ご}そんじしられし。連理廼{れんりの} 梅暮里{うめぼり}谷峨{こくが}大人{うじ}。前{さき}に這{この}書{しよ}を著{あら}はして。 いきな薫{かを}りを四方{よも}に匂{にほ}はしすてに三輯{みたび}の (口1ウ) 春{はる}をむかへ好文木{こうぶんぼく}の名{な}に高{たか}かりしを。 とふいふ風{かせ}のふきしやらん。其{その}香{か}は遠{とほ}く 浪花津{なにはづ}に。さくや此{この}花{はな}冬籠{ふゆこも}り。かの地{ち}の 有{いう}となれると聞{きく}。看官{ごけんぶつ}の少女{ひめ}雅君達{とのたち}。 ひたすら遺感{いかん}に絶{た}えさりしを。今茲{ことし} 浪華{なには}の花主{とくい}より。接木{つきき}の四編{しへん}を注文{ちうもん} ありとて。先生{せんせい}日終{ひねもす}机{つくへ}に頬杖{ほうづえ}。七年{なゝとせ} (口2オ) 前{さき}の流行{りうかう}と。当時{とうじ}の人情{にんしよう}反覆{はんぷく}を。 しつくり合{あは}す数日{すじつ}の丹誠{たんせい}。連理{れんり}の 梅{うめ}の連続{れんぞく}して。花{はな}の兄{あに}きが咲振{さきぶり}の まつ魁{さきがけ}し序{しよ}に。拙{つたな}き贅言{ね〔ごと〕}を添{そへ}るものは。 三世 狂訓亭主人述 閑斎遊仙書 $(口2ウ) 本編 芳鳥女画図 何かし 桜に 遊ひて 鎌倉 長谷の 観世音の 境内 千本の 桜 花川戸 東川 謡之舞へとても 花には $(口3オ) 迷ふ 身そ 大磯{おほいそ} 化粧坂{けはいざか}の遊君 $(口3ウ) ゆるり 来る 為永 栄■ $(口4オ) 二かいの 客や今朝 の 秋 再出 由之助 $(口4ウ) 田舎{いなか} 源氏{げんじ} 中{ちう} 見 立{みたて} 朝かほや しはし ある間の てり曇り 為永 文魚 お雪{ゆき}の侍女{かしづき} お松 $(口5オ) 戻次郎{ふさじらう}が 母{はゝ}の侍女{かしづき} おとよ $(口5ウ) しら梅の一すん 先は闇路かな 梅暮里 楽峨 香をとめて ゆかしき花見小袖哉 哥沢 小銀 朝かほや酒の さむるははやいもの 哥沢 小扇 初てふやそれと しりぬる藤はかま 能六斎 女千代 露けさや蜘の 糸ひくかきつはた 十柳舎 ■彦 糸による簾や 小てう女 (1オ) 春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻の十 江戸 梅暮里谷峨作 第十九齣 大行{たいかう}の路{みち}能{よく}車{くるま}を摧{くだ}く。若{もし}人{ひと}の心{こゝろ}に比{くら}ぶれば。夷{たいらか}なる途{みち} なり。巫峡{ふこう}の水{みづ}能{よく}舟{ふね}を覆{くつが}へす。若{もし}人の心{こゝろ}に比{くら}ぶれば。これ安{やす} き流{ながれ}なり。人{ひと}の心{こゝろ}の好悪{よしあし}は。苦{はなはだ}しく常{つね}ならずと。唐土{もろこし} の|老実児{まじめなひと}が。古{むかし}いはれし言葉{〔こと〕ば}あり。今{いま}は猶{なを}さら外面{うわべ} より。測{はかり}しられぬ人心{ひとこゝろ}疇昔{きのふ}の実意{じつい}はけふの仇{あだ}。飛鳥{あすか}の (1ウ) 川{かわ}の淵{ふち}が瀬{せ}に。変{かわ}るも浅{あさ}き心{こゝろ}より。深{ふか}みへはまるは恋{こい}の 野暮{やぼ}。といふは浮世{うきよ}の薄情{うすなさけ}。他{ひと}は何{なに}ともいはゞいへ。むかし 扁屈{かたぎ}と笑{わら}はれても。想{おも}ひつめたる男{おとこ}の外{ほか}に。古{ふる}き度 独逸{どどいつ}ならねども。牡猫{おとこねこ}でも抱{だき}はせじ。と心{こゝろ}で心{こゝろ}に鎖{ぢやうまへ}を。おろし て操{みさお}を立{たて}とほす。お菊{きく}はけふしも金多屋{かねだや}の。別荘{べつそう}とは 気{き}も付{つか}ず。連{つれ}て来{こ}られて幕内{まくうち}より。房次郎{ふさじろう}を見て愕然{びつくり} しつ。はじめて爰{こゝ}の家名{いへな}を問{と}へば。予{かね}てより恋男{こひおとこ}の。咄{はなし}で 聞{きゝ}し其{その}本家{ほんけ}の。別荘{りよう}なるよしを今ぞしる。それのみなら (2オ) でお雪{ゆき}の㒵{かほ}を。目前{まのあたり}見て有繋{しかすが}に。嫉{ねたま}しからぬにあらねども。 再時{をとゝい}母{はゝ}を|扶助{たすけ}て呉{くれ}し。その恩人{をんじん}は思{おも}ひきや。此{この}家{や}の主人{あるじ} 由{よし}之助にて。しかもお雪{ゆき}の兄{あに}なりと聞{きい}て驚{おどろ}く胸{むね}の中{うち}。是{これ}を 思{おもひ}かれを思{おも}へば義理{ぎり}の柵{しから}み八重十文字{やゑしうもんじ}に。かゝる歎{なげき}の思{おも}ひ川{がは} 堰{せき}とめ難{かね}しを爾{さ}りげなく。心{こゝろ}で泣{ない}て含笑{ほうゑみ}ながら。由{よし}之助 のいふがまに〳〵。|戯房着{へやぎ}のまゝともなはれて。廊下{ろうか}つたひに 由{よし}之助が。子舎{へや}とおほしき亭{ざしき}に迄{いた}れば。由{よし}之助は|印華布{さらさ}の 座蒲団{ざぶとん}の上へ座{すは}りながら。何{いづ}れも極{ごく}拭{ふき}こんだる。桑{くは}の釣瓶{つるべ} (2ウ) 莨盆{たばこぼん}と。焼桐{やききり}にて。まわりに翻梅{こぼれうめ}の古代{じたい}蒔絵{まきゑ}したる。饅頭形{まんぢうなり}の 共蜜屋{ともなや}を覆{かけ}し。丸{まる}い手炉{しゆウろ}を。古鈍子{こどんす}の蒲団{ふとん}とも。側{かたはら}より わが前{まひ}へ曳{ひき}よせ。莨{たばこ}をつぎつゝ【由】「障子{しやうじ}をしめてずつと側{そば}へお 出{いで}。極内{ごくない}のはなしがあるから。」ト言{いは}れてお菊{きく}は何{なに}とやら。由{よし}之助 があらたまりし。容子{ようす}の心{こゝろ}ならざれば。怎生{いか}なるはなしのあるやらむ。 と思{おも}ひかねつゝ完爾{につこり}と。微笑{ほうゑみ}ながら座{ざ}に着{つく}を【由】「コレサ左様{さう}はなれて ゐては噺{はなし}がしにくいからもつと此方{こつち}へよらねへじやいけねへ。サア 強情{がうぜう}せず。」とヨト手{て}を伸{のば}してお菊{きく}の手{て}をとり。ぐいとひき (3オ) よせて。その手{て}をわが膝{ひざ}のうゑへのせて。じつと握{にぎ}り小声{こゞへ}に て「お菊{きく}さんや極内{ごくない}のはなしといふは外{ほか}でもないがねといつ て打{うち}つけに斯{かう}と口{くち}ヘ出{だ}してはどふもさすがにいひかねる訳{わけ}だ けれど夏野{なつの}ゆく小鹿{をしか}の角{つの}の束{つか}の間{ま}もとかいふ哥{うた}のとほりの此{この} 胸{むね}を察{さつ}してもらいてへといふ願{ねがい}だがどうだへ。」トいはれてお菊{きく}は ものをもいはず。|一霎時{しばし}俯向{うつむき}かんがへしが。天性{うまれつき}怜悧{さかし}ければ是{これ} 由{よし}之助が心底{しんそこ}よりの。横恋慕{よこれんぼ}にはあらずして。気{き}をひゐて 見る為{ため}ならんと。思{おも}へば爾{さ}のみに驚{おどろ}かず。手{て}は握{にぎ}られしまゝ莞 (3ウ) 爾{につこり}と。靨{ゑくぼ}の愛敬{あいけう}うるはしくも。男{おとこ}の㒵{かほ}をじつと見つめて【きく】 「ヲホヽヽヽ串戯{じやうだん}もほどに被成{なさい}ましな。今{いま}貴君{あなた}が外{ほか}に恟{びつく}りした事 があるだろふと|被為仰{おつしやい}ましたからには私{わちき}の事も御{ご}ぞんじで ありながら左様{そん}な〔こと〕を|被為仰{おつしやい}まして人{ひと}いびりな晒落{しやれ}は堪 忍{かんにん}して被下{ください}まし。」【由】「ウヽさうお言{いひ}の〔こと〕なら何{なに}もかも打明{うちあけ}ば なしにしよう。そりやア成{なる}ほど房{ふさ}の色{いろ}のお菊{きく}さんと云{いふ} 名{な}は前〻{とう}から聞{きい}てしツちやアゐたが会{あつ}たのは一昨日{おとゝい} はじめてそれもお前{まへ}のお帒{ふくろ}ともしらず介抱{かいはう}して (4オ) 家{うち}を聞{きい}て見るとかねて聞{きゝ}しつてゐるお前{まへ}の御母{おつか}さんだから 宜{いゝ}さいわひにして送{をく}りながら実{じつ}はおまへを見に行{いつ}たとこ ろが思{おも}ツたよりは百倍{ひやくばい}も美{うつく}しいうへに飽迄{あくまで}もてうしの宜{いゝ}よ うすを見るに就{つけ}ても房{ふさ}さんが夢中{むちう}に成{なつ}てゐるも無理{むり}は ねへと思へば思ふほど済{すま}ねへ〔こと〕だがしみ〴〵迷{まよ}ツて恥{はじ}をかいて も義理{ぎり}をかいてもかまはねへ気{き}に成たけれどもまだ初対面{しよたいめん}で 何処{どこ}の馬{うま}の骨{ほね}たかしられもしねへうちにまさか左様{そん}ないやら しいいやみな態{ふり}も見せられねへからあの晩{ばん}は何{なん}にもいはず (4ウ) に只{たゞ}おまへたちにかくして親子{おやこ}をみつぐといふしるしを 些{ちつと}ばかり置{おい}て帰{かへ}りや帰{かへ}ツたがその晩{ばん}からおまへの㒵{かほ}が眼{め}に付{つい} て寝{ね}ても眠{ね}つかれないくらいそれに房{ふさ}さんの所{ところ}の勘{かん}八が来{き}て おまへを困{こま}らせるやうな〔こと〕を言{いつ}て帰{かへ}ツたからどふした訳{わけ}だか 左様{そん}な動静{やうす}も聞{きゝ}たしかた〴〵昨日{きのふ}直{すぐ}と出{で}かけようと思{おも}ツたが それでは餘{あんま}り足{あし}もとを見られるやうだから痩我慢{やせがまん}に辛防{しんぼう} してけふが済{すん}だら明日{あした}から行{いつ}てまづ稽古{けいこ}を初{はじめ}てそれから漸{だん〳〵} 心易{こゝろやす}くうち解{とけ}た処{ところ}で鉄面皮{あつかましく}も本望{ほんもう}を遂{とげ}る了簡{りやうけん}。夫{それ} (5オ) といふも房{ふさ}さんは親父{おやぢ}の手{て}もとへ引{ひき}つけられて当時{とうじ}とぼ 出{で}も出来{でき}ないから出会{おちあふ}気{き}づかいは無{ない}によつて私{あたし}の身分{みぶん}は どこまでも頭巾{づきん}を冠{かむ}ツてゐて恩{をん}にかけるじやアねへがお帒{くろ}*「お袋{くろ}」は「お袋{ふくろ}」の脱字か を介抱{かいほう}して送{おく}ツて来{き}たので随分{ずいぶん}しんせつは通{とを}ツてゐるつも りだからそこらからそろ〳〵義理{ぎり}づくめに己惚{うぬぼれ}らしいが是非{ぜつぴ} 往生{おうせう}させる気{き}に定{きめ}てゐた所{とこ}へけふおもひがけずおまへが来{き}た のは弥{いよ〳〵}縁{ゑん}のあるのか。但{たゞ}し房{ふさ}さんと縁類{つゞきあひ}の事{〔こと〕}がしれて義理{ぎり}に も然{さう}いふわけがらにやアなられねへ縁{ゑん}に成{なる}のかよしんばお前{まへ} (5ウ) は義理{ぎり}を立{たて}ても私{あたし}はどふした因果{いんぐは}か恥{はづ}かしい事だがお前{まへ}ゆへ には命{いのち}もいらない気{き}に成{なつ}てゐるもの義理{ぎり}も世|間{けん}もかまやア しねへ。と斯{かう}平{ひら}ツたく言出{いゝだ}したからにはコウお菊{きく}さん串戯{ぜうだん}だ の気を引{ひい}て見るのだのと平気{へいき}に思はれてゐちやア恨{うら}み だぜ。実{じつ}私{あたし}は真剣{しんけん}だヨ。」【きく】「アレまだあんな〔こと〕ばツかり言{いつ}て お在{いで}被成{なさい}ますヨ。にくらしい。何程{なんぼ}私{わちき}が鈍痴{ばか}だからともふして 貴君{あなた}のお嬲{なぶ}ん被成{なさい}ますのを真{ま}にうけて野暮{やぼ}に泣出{なきだ}し でもしますか。それでなければ私{わちき}のやうなものに然{さう}いつて被下{ください} (6オ) ますのが実情{ほんとう}なら嬉{うれ}しうございますとでもいふかと思{おぼ}し めしてゞございませう。然{さう}言{いは}しておいてあとでお笑{わら}ひ被成{なさい}ますお つもりでございませう。寔{ま〔こと〕}に善{いゝ}おぼしめしでおあん被成{なさい}ますねへ。 ヲホヽヽヽ。もう此{この}手{て}を放{はな}して被下{ください}ましヨ。誰{だれ}か見るとわるうごさゐ ますわね。」【由】「コレサそれじやアお前{まへ}はまだ串戯{ぜうだん}だと思{おも}ツてゐるの か。どういふもんだノ。よく考{かんが}へてお見な。何程{なんぼ}男{おとこ}だからとて。ど つと言出{いゝだ}し宜{いゝ}わけでもねへ事を酔興{すいきやう}らしく何{なん}しにい つまでも百万{ひやくまん}だら並{なら}べ立{たて}るものがあるものか。それとも $(6ウ) さきなから うつむく 百合やしお らしき おうめ $(7オ) 〈画中〉あみだ堂 〈画中〉梅の百五十 (7ウ) どうあツても疑{うた}ぐるならどんな事でもしておまへの気{き}の 済{すむ}やうにしやうが併{しかし}それにやアおまへが覚期{かくご}をして呉{くれ}ねへ じやアなんぼ何{なん}でも己{おいら}ばかり心労{やつきもつき}思{おも}ツて起証{きせう}でも書{かい}た所{ところ} がそれこそあとでおまへにわらはれて見た日{ひ}にやアい よ〳〵面目{めんぼく}を踏潰{ふみつぶ}す訳{わけ}だが何{なん}と是{これ}ほどにまで想{おも}ツ てゐるものを房{ふさ}さんへの義理{ぎり}をかいてくれることは できめへか。ヱヽお菊{きく}さんその気{き}に成{なつ}てくれれば房{ふさ} さんの方{ほう}はどふともしておまへの為{ため}にならねへやう (8オ) にはしめへから。」トいふはどふやらからかひの。仮初言{かりそめ〔ごと〕}とも|聞え{きこへ} ねば。お菊{きく}は答{いらへ}に困{こま}り果{はて}しが。貞心{ていしん}もとより|堅固{かたく}し て。鉄石{てつせき}の〔ごと〕くなれば。相惚{あいぼれ}どしの房{ふさ}次郎と。契{かたら}い初{そめ}し その它{ほか}に。男{おとこ}の肌{はだ}はしらぬ身{み}の。今{いま}さら在五中将{ざいごちうぜう}か。また は光{ひか}る源氏{げんじ}のおん大将{たいせう}が。黄金{こがね}の山{やま}を積上{つみあげ}て。誘引{さそふ}水{みづ} を流{なが}すとも。彼{かの}根{ね}を絶{たへ}し萍{うきくさ}ならねば。いなんと思{おも}ひ さうにもせず。況{まし}ておもふ男には。首{あたま}のあがらぬ本店{ほんだな}の。 若檀那{わかだんな}由{よし}之助が。借使{たとひ}美男{びなん}で金持{かねもち}なりとも。是{これ}が為{ため}に (8ウ) 情{こゝろ}を動{うご}かし。操{みさほ}を破{やぶ}りて女{おんな}の道{みち}を。失{うしな}ふやうなる薄情{はくじよう} ならず。よしや是{これ}ぎり恋人{こひゞと}と。妹伕{いもせ}の契{ちぎ}り薄氷{うすらい}の。解{とけ}て 流{ながれ}て末{すへ}竟{つひ}に。結{むす}びとゞめぬ縁{ゑにし}とならば。生涯{しやうがい}孀{やもめ}で老{おい}た る母{はゝ}を。見おくり果{はて}し其{その}うゑにて。嵯峨野{さがの}の奥{おく}のむかし をしたひ。尼{あま}にしも做{な}らばやと。思{おも}ふ心{こゝろ}を決{さだ}めたるは。世{よ}に 稀{めづら}しき娘気{むすめぎ}の。真実情{しんじつじよう}ぞ哀{あはれ}なる。 第二十齣 当下{そのとき}幾間{いくま}か隔{へだ}ちたる。彼{かの}舞台{ぶたい}の方{かた}にては。今{いま}何{なに}の幕{まく}か (9オ) しらねど。折{をり}しも聞{きこ}ゆるうしろの三弦{さみせん}。哥沢節{うたざはぶし}ははなれ ても。章句{もんく}は其{その}まゝ三下り 〽いろがある承知{しやうち}でほれた横{よこ}れんぼ いひ出{だ}すからはどこまでもたてゝもらは にやならぬぞへ。 【由】「アレ見ねへ。己{おいら}のいふかわりを戯房{がくや}で唄{うた}ツてくれらア。併{しかし} 無理{むり}は無理{むり}さ。死{し}ぬ死{し}なうといふ色{いろ}のある者{もの}を横ツ 倒{たふ}しに引{ひつ}たくツてわがものにしやうといふのは餘{あんま}り情{こゝろ} (9ウ) ないやうだがそこが迷{まよ}ひで義理{ぎり}も法{ほう}もむちやくちや に成{なつ}てしまふほど惚{ほれ}させたのがおまへの悪敷{わるいい}のだ。何 故{なぜ}なら一昨日{おとゝい}御母{おつか}さんを送{をく}ツて行{いつ}たときから最初{てん}に艶 言{せじ}も愛想{あいそ}もなくぐず〳〵してゐれば宜{いゝ}事{〔こと〕}にあんまり女 才{ぢよさい}なく程{ほど}の宜{いゝ}事{〔こと〕}ばツかり言{いつ}て迷{まよ}はせるばかりか第一{だいいち} この笑窪{ゑくぼ}の愛敬{あいきやう}がわるいのだから私{あたし}のやうなものに斯{かう} 惚{ほれ}られて困{こま}るなら縹致{きりやう}■■生{うみ}つけたくれた御母{おつか}さんを恨{うら}*「■■」は「よく」の部分欠損か むよりほかにしかたがねへ。」ト正体{たわい}なまめく形態{なりふり}に。膝{ひざ}をく (10オ) づし身{み}横{よこ}にして。とらへたる手{て}を其{その}まゝに。じり〳〵お菊{きく}に ぴつたりより添{そ}ひ【由】「コウ罪{つみ}な娘{こ}だのう。」【きく】「アレサまア若旦那{わかだんな} へお聞{きゝ}被成{なさい}ましヨ。貴君{あなた}がどんなに|被為仰{おつしやい}ましてもどふも私 にやア疑{うたぐ}られますは。よし又{また}己惚{うぬぼれ}て此様{こんな}ものにでも真実{しんじつ} さう|被為仰{おつしやつ}て被下{ください}ますのかと思{おも}ひました所{ところ}がね。」ト[すこしかんがへてゐる] 【由】「おまへもほんとに疑{うた}ぐり深{ぶか}いじやアねへか。■詭{うそいつわ}りに*「■」は「ごんべん+空」か こんなにくどく言{いは}れるものかな。面{をも}しろくもねへ。」【きく】「左 様{さやう}なら私{わちき}の思{おも}ふ存分{ぞんぶん}を申シますがね跡{あと}で斯{かう}言{いつ}たら (10ウ) ほん気{き}に成{なつ}て可笑{おかし}な三平{おたふく}だ。成程{なるほど}瘡気{かさけ}と己惚{うぬぼれ}の ないものは無{ない}ものだとお笑{わら}ひ被成{なさい}ます分{ぶん}は宜{よう}ござい ますがねどうぞお腹{はら}をお立{たち}被成{なすつ}て被下{ください}ますなよ。 あのヲ貴君{あなた}にはひとかたならぬ御恩{ごおん}をうけました からどんな事でも|被為仰{おつしや}る〔こと〕を叛{そむ}きましては済{すみ} ませんが此{この}事{〔こと〕}ばつかりは堪忍{かんにん}して被下{くたさい}まし。御{ご}ぞんじ の通{とう}り房{ふさ}さんとはついした事{〔こと〕}からあゝいふわけに成{なり} まして今{いま}では母{はゝ}にもうち明{あけ}た中{なか}でありますもの (11オ) を房{ふさ}さんは男{おとこ}の事でおあんなさるから今{いま}じやアどんな心{こゝろ} でお在{いで}被成{なはる}かしれませんが私{わちき}やア死{し}んでも房{ふさ}さんと離{はな}れる 気{き}はありませんものを。どんな義理{きり}にからまりまして もほか〳〵へ心{こゝろ}はうつしません了簡{りやうけん}でござゐますから 何卒{とうぞ}わるくおぼしめしませんで堪忍{かんにん}して被下{ください}まし。 私{わちき}のやうなものにでも全{まつた}く真実{しんじつ}さう|被為仰{おつしやつ}て下{くだ}さい ますおほしめしがおあん被成{なはい}ますならば手前勝手{てまへがつて}ばか り申スやうでございますがどうぞ末長{すへなか}く只{たゞ}御{ご}ひゐき (11ウ) に被被{なすつ}て被下{ください}ましな。」ト聞{きい}て点頭{うなづく}由{よし}之助「フムなるほどた のもしい実{じつ}のある〔こと〕た。然{さう}いはれて見ちやア此方{こつち}も男{おとこ}だ からふツつりと思{おも}ひきる所{ところ}だが今時{いまとき}の娘{むすめ}にやアめづらし い一点{いつてん}ばかりに実{じつ}をつくす其{その}|堅固{かた}い心{こゝろ}を聞{きけ}ばきく ほどなほ〳〵想{おも}ひが増{まさ}ツてならねへ。成{なる}ほど房{ふさ}さんがお まへゆへじやア家産{しんしやう}もいらない気{き}に成{なつ}たも尤{もつとも}だ。己{おいら}も 男{おとこ}と生{うま}れたからには此様{こん}な美{うつく}しい実{じつ}のある娘{こ}と 然{さう}いふわけに成{なつ}て家産{しんしやう}もいらねへといふ気{き}に成{なつ}て見{み} (12オ) たらなア。」ト[ためいきをつきすこしかんがへ]「しかしおまへも是{これ}十五や十六の小娘{こむすめ} ではなし。殊{〔こと〕}に男まさりて御母{おつか}さんを養{やしな}ツて芸{げい}で弐人{ふたり} くらしてゐるといふものは大体{たいてい}な事じやアあるまいに其処{そこ} を考{かんが}へてお見{み}。なんでもおまへの才覚{はたらき}で御母{おつか}さんに早{はや}く 楽{らく}をさせて安堵{あんど}させるが孝行{かう〳〵}じやアあるまいか。それ には房{ふさ}さんばつかり憑{たの}みにしてゐた分{ふん}ではなか〳〵末始 終{すへしじう}安泰{あんたい}といふ事{〔こと〕}にはいかねへせ。斯{かう}いふと気{き}まつい〔こと〕 をいふやうだが房{ふさ}さんもまんざらな裏店{うらだな}小店{こだな}の|童 $(12ウ) 由之助 鶯に 手元の くるふ 茶杓 かな $(13オ) おきく (13ウ) 児{かき}じやアなし名前目{なめへもく}は立派{りつぱ}だけれど何{なに}をいふにも 当人{たうにん}の年{とし}が闌{いか}ねへから万端{ばんたん}私{あたし}の店{みせ}の指揮{さしづ}をうけ て渡世{とせい}をする訳{わけ}それもおまけに支配人{ばんとう}まかせ たによつて大{たい}した事{〔こと〕}は出来{でき}まいし。それにまたお 前{まへ}はさぞ憎{にく}かろふが私{あたし}の妹{いもうと}のお雪{ゆき}とはしツての通{とを} りの中{なか}ゆへ女{おんな}の子{こ}には別段{べつだん}に甘{あま}ひ親達{おやたち}が房{ふさ}さん を家{うち}へ引{ひき}とつてお雪{ゆき}とならべて置{おく}から今{いま}の分{ぶん}し やアとてもいつ又{また}会{あは}れるかしれやアしねへぜ。と言{いつ}て (14オ) おまへの方{はう}でじれこんで何{なん}とか言{いつ}て出{で}りやア手切{てぎれ}のかけ 合{あひ}となるはまアお定{さだま}りさね。親族{みうち}で此様{こん}な〔こと〕をいふ もおかしいが然{さう}聞{きい}たらけふ落合{をちやつ}たこそさいわひ 房{ふさ}さんをつかまへてどつちとも白地{しらち}を付{つけ}やうと 思{おも}ふだろうがみんが皆{みんな}おまへの㒵{かほ}をしらなけり やア何所{どこ}でかはなしをするだろふが兎{と}も角{かく}も最{もう} 斯{かう}しツちやア己{おい}が金輪際{こんりんざい}あはせはしねへから左様{さう} 思{おも}ツてゐるが宜{いゝ}といふとどふか勘{かん}八もどきて二枚目{にまいめ}の (14ウ) の敵役{かたきや}といふせりふだが斯{かう}いやにいふも畢竟{ひつきよう}迷{まよ}ひ*「二枚目のの」の「の」は衍字、「敵役{かたきや}」は「敵役{かたきやく}」の脱字か の雲{くも}とやらが霽{はれ}ねへ所為{わさ}でやツぱり狐{きつね}の落{おち}ねへから の事たろふよ。」トじれツたい思入{おもいれ}にて。角{かど}の立{たつ}たる言{いひ}まわ しに。有繋{さすか}怜悧{さかし}きお菊{きく}でも。答{いらへ}を何{なに}と浪花津{なにはづ}や。朝 紫{あさむらさき}のさめ易{やす}きは。男{おとこ}の常{つね}とかねて聞{き}く。若{もし}房{ふさ}二郎と 相談{さうたん}して。浩{かゝ}る〔こと〕をいふものか。それかこれかととつをひ つ。深念{しあん}にあまりてこみ上{あげ}る。涙{なみた}ぞやるせなかりける。 伏{ふして}稟{まう}す出像{くちゑ}に載{のし}たる名妓{おいらん}は本編{ほんへん}にその (15オ) 伝{でん}なし。是{これ}は前編{ぜん■ん}の首画{くちゑ}に出{いだ}したる青柳橋{あをやきばし} の唄{げい}妓と共{とも}に本編{このとし}の別伝{べつでん}に委{くわ}しく載たり 开{そ}は [○|連理花児{れんりのうめ}拾遺{しふゐ}別伝{べつでん}]比翼{ひよくの}鶯{うぐひす}[同作同画] 右{みき}の題号{■いがう}御披露{ごひろう}申上置候。連理{れんり}の梅{うめ}は町家{ちやうか} なからも上品{じやうぼん}の人情{にんぜう}を撰{ゑら}み専{もつぱ}ら処女{むすめ}堅{かた}ぎ を旨{むね}としたれは都{すべ}て花美{はなやか}なる趣向{しゆかう}尠{すく}なし。 (15ウ) 比翼{ひよく}の鶯{うぐひす}は中品{ちうぼん}下品{げほん}の人{にん}情を混{こん}じ専{もつぱ} ら唄妓{げいしや}遊女{ぢよらう}の意気張{いきはり}を綴{つゞ}りよくその 道{みち}の穴{あな}を穿{うが}てり。近日{きんじつ}発兌{うりいたし}可申候間|只 顧{ひたすら}御高評{ごかうひやう}を奉願上候と板元に代りて 本篇作者鈴亭門人 釣亭梅暮里楽峨述 ---------------------------------------------------------------------------------- 底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:124:4) 翻字担当者:金美眞、島田遼、矢澤由紀、藤本灯 更新履歴: 2017年7月26日公開