春色連理の梅 三編下 ---------------------------------------------------------------------------------- 凡例 1.本文の行移りは原本にしたがった。 2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。 3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。 4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア 5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」 6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。  平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ  片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ  複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵 7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。 8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。 9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。 10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕 11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい} 12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日} 13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい} 14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。 15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】 16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。 17.不明字は■で示した。 18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」 19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。 20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。 本文の修正 1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。 ---------------------------------------------------------------------------------- (1オ) 春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之九 江戸 鈴亭 梅暮里谷峨作 第十七齣 足拍子木{つけをうつをと}バタ〳〵〳〵〳〵。以前{いぜん}伊勢参{いせまい}りに身{み}を窶{やつ} したる役人{やくにん}。鉢巻{はちまき}襷{たすき}にてぬいくるみをもち 【いせ参り】「たしかに勘平{かんぺい}。」ト[うつてかゝる]この時{とき}勘平役{かんぺいやく} は藤間{ふぢま}およし。両刀{だいせう}着{き}ながしの形{なり}よろしく 前後{あとさき}へ思入{おもいれ}ありて。一寸{ちよツと}立{たち}まわり。伊勢参{いせまい}りを (1ウ) 揚幕{あげまく}の内{うち}へ。見{み}〔ごと〕に投込{なけこみ}ゆきにかゝる。[此ときおきくのおかるこしらへ 申ぶんなくおきあがり]【きく】「コレ。」ト[勘平{かんぺい}の裾{すそ}をおさえる]ひやうし木{き}チヨント 打{うつ}音{をと}と共{とも}に空{そら}に月{つき}出{いづ}る。両人{りやうにん}互{たがひ}にかほを 見合{みあは}す。[時{とき}の鐘{かね}のあしらへ]ゴヲン[引]。【藤間】「おかるか。」【きく】「 かん平{ぺい}どの。」【藤間】「コレ。」ト[おさえる]【見{けん}ぶつ大ぜい】「なり田{た}や[引] 〳〵。」是{これ}をきツかけに松並木{まつなみき}の。道具幕{だうぐまく}を 切{きツ}ておとせば。本戯台{ほんぶたい}向{むかふ}一面{いちめん}に。富士山{ふじさん}の遠見{とふみ}の 景色{けしき}誂{あつらへ}の通{とふ}り。日覆{ひおふひ}よりしだれ桜{ざくら}の釣枝{つりゑだ} (2オ) おりる。山{やま}の裾野{すその}に草土堤{くさどて}をかきわり。爰{こゝ}に清元 連中{きよもとれんぢう}居{ゐ}ならぶ。【けんぶつ】「アヽ奇麗{きれい}でござゐます ねへ。」【同】「とふも感心{かんしん}だねへ。」○[道具{だうぐ}おさまるとかすめて山おろしの鳴{なり}もの前{まへ}びさなしに] [上るり]〽落人{おちうど}も見{み}るかや野辺{のべ}に若{わか}くさのすゝき 尾花{をばな}はなけれとも世{よ}をしのび路{じ}の旅{たび} ごろも着{き}つゝ馴{なれ}にしふり袖{そで}もどこやら しれる人目{ひとめ}をばかくせど色香{いろか}梅{うめ}が花{はな}ちり ても跡{あと}のはなの中{なか}いつか古郷{こけう}へ帰{かへ}る雁{かり}まだ肌 (2ウ) 寒{はださむ}き春風{はるかぜ}に柳{やなぎ}の都{みやこ}跡{あと}に見{み}て気{き}も戸 塚{とつか}はと吉田{よしだ}ばし墨絵{すみゑ}の筆{ふで}に夜{よ}るのふじよそ めに夫{それ}と蔭{かげ}くらき鳥{とり}のねぐらをたどり来{く}る。 [両人{りやうにん}この文句{もんく}のうちよろしくふり事{〔こと〕}ありて本{ほん}ぶだいへきたり]【藤間】「このほど殿中{でんちう}の騒動{そうどう}を 聞{き}くと其{その}まゝお腰{こし}かけから鎌倉{かまくら}を出{いで}てやう〳〵 爰{こゝ}は戸塚宿{とつかじゆく}石高道{いしたかみち}で定{さだ}めて足{あし}が痛{いた}みは せぬか。」【きく】「イヱ〳〵。何{なん}のそれよりまだ行{ゆく}さきが 思{おも}わるゝわいなア。」【藤間】「それもさうかい。まだ夜{よ} (3オ) あけには間{ま}もあらふ。しかしながら昼{ひる}は人目を はゞかるゆへ。」【きく】「幸{さいわ}ひ爰の松かげ往来{わうらい}とだへの そのうちに。」【藤間】「しばしが内{うち}の足休め。さうじや さうじや。」ト[松{まつ}のもとへ立より石{いし}にこしをかけてやすらふ] [上るり]〽更{ふけ}わたる松の葉{は}音もおのづから風{かせ}が持{もち}くる 柳よりとんだ所{ところ}へ招{まね}かれて直{すぐ}なる道を旅奴。 時{とき}の捨鐘{すてがね}にてむかふより旅{たび}奴の拵{こしら}へ[柿{かき}の脚半{きやはん}わらじがけ箱{はこ}ちやう ちんを持{もち}目{め}をこすり〳〵出{いで}て来てはな道{みち}にとまる]【けんぶつ】「イヨ奴{やつこ}さんゑらうござゐ (3ウ) ますゾ。」 [上るり]〽のろりのろり〳〵と出{で}た斗{ばかり}なりふりかまわぬ ぶきやうは寝{ね}ぼけ㒵{がほ}して来{きた}りける。 ト[少{すこ}しふりありて本ぶだいへ来{きた}りおもいれよろしく]【奴】「ハアヽ殿{との}さまのおたちは正 七ツのお供{とも}ぶれ戸|塚{つか}の本陣{ほんぢん}を立て爰{こゝ}まで来{き}ても まだ夜あけぬはそんなら己{おら}ア時をとりちがへたか。 たゞしは彼{かの}にばかされたか。」 [上るり]〽まてしばし眉毛{まゆげ}ぬらして立どまり。 (4オ) ト[この文句{もんく}にて立{たち}どまりてうちんをおとしびツくりせしおもいれ]【奴】「ヤ南無{なむ}さんこいつは とんだ麁相{そさう}をした。灯{ひ}を付や■にも火打{ひうち}もねへ。」*「■」は「う」の部分欠損か [上るり]〽火{ひ}もねひ〳〵と口合{くちあい}し供{とも}の下部{しもべ}は走行{はしりゆく}。 [山おろしにて奴は下座{げざ}へはいる。おかるのおきくは奴の跡を見をくり]【きく】「あの奴どのとした〔こと〕が。もし や二人{ふたり}が身のうへを。」【藤間】「アノ奴{やつこ}めは大かた供{とも} ぞろひの刻限{こくげん}を取ちがひおツたのであらう。」【きく】「 わたしや二人{ふたり}の者の追手{おつて}かとびつくりしたわひの。」 ト[こなしよろしく]【けんぶつ大ぜい】「大和{やまと}や[引]〳〵〳〵。」 (4ウ) [上るり]〽何{なに}も跡{あと}なきうさはらしうきが中にも旅{たび} のそら初時鳥{はつほとゝぎす}あけちかく〽色で逢{あひ}しも きのふけふかたい屋{や}しきの御奉公あの奥{をく} さまのおつかひが[合]」「ふたりが塩冶{ゑんや}の御家来 で其{その}悪縁{あくゑん}か白猿{はくゑん}の子によう似{に}た㒵{かほ}の 錦絵{にしきゑ}が夫{それ}から思{おも}ひ染躑躅{そめつゝし}。」○【けんぶつ】「立ます。」 [カン]〽あんなゑにしが唐紙{からかみ}の鴛鴦{をし}のつがひの 楽{たの}しみに。 (5オ) 【けんぶつ大ぜい】「イヨゑらひ。」○所作{しよさ}のむすめと浄瑠理{じようるり}の 太夫{たゆう}を賞{ほむ}るこなたの一群{ひとむれ}戯台{ぶたい}を見{み}つゝ小{ちい}さな 声{こゑ}に【けんぶつ●】「どうも感心{うまい}ものでござゐます ねへ。」【▲】「左様{さやう}サ。小{こ}ぎての利{きい}たところと足{あし}どり の軽{かる}ひところは観雀{なりこま}と米升{こだんじ}をその儘{まゝ}だネ。」【■】「 それに又{また}両人{ふたり}とも縹致{きりやう}が美{いゝ}から猶{なほ}ひつたち ます。」【▲】「アノ勘平{かんへい}は観雀{うたゑもん}の振附{ふりつけ}をしました 故{せん}の藤間{ふぢま}勘十郎{かんじうろう}の娘{むすめ}だそふでござゐます。」 (5ウ) 【■】「ヘヱ然{さう}でござゐますかへ。どうも家業生{しやうばいにん}はまた 別段{べつだん}なものだネ。」【●】「ヲヤそれでもアノおかるは 踊{おどり}のお師匠{しせう}さんではないじやアござゐませんか。」 【▲】「左様{さやう}サ。」【●】「それにいたしては感心{かんしん}でござゐ ますねへ。なか〳〵勘平{かんへい}には劣{をと}りません。おまけに いかにも可愛{かあい}らしい㒵{かほ}じやアござゐませんか。」【■】「 ヱヽ真事{まこと}に美{いゝ}㒵{かほ}さネ。此様{こんな}〔こと〕を申スと当時人{いまのかた} には又{また}老人{としより}がむかし咄{ばなし}をすると言{いつ}て笑{わら}はれますが (6オ) 今{いま}の俳優{やくしや}にはなか〳〵斯{かう}そろツた美{いゝ}㒵{かほ}はござゐ ません。なんでもマアむかしの路考{ろかう}の面{おも}ざしに|故 杜若{おほたゆう}の愛敬{あいけう}をつけたやうでござゐます。」【▲】「 左様〻〻{さやう〳〵}。実{じつ}に美{いゝ}娘{こ}だ。さぞ男{おとこ}に気{き}をもませる 事{〔こと〕}でござゐませう。」【みな〳〵】「ハヽヽヽ。」このうち上るりは 泊{とま}り〳〵の旅籠屋{はたごや}より 〽おもき此{この}身{み}の罪科{つみとが}とかこちなみだに 目{め}もうるみ。 (6ウ) ト[このもん句{く}のうち両人ンよろしくふり事{〔ごと〕}有{あり}てとまり]【藤間】「よく〳〵おもへばあと さきの弁{わきま}へもなく今{いま}さら面目{めんぼく}もない。爰{こゝ}まで は来{きた}れども我{わが}君{きみ}の大事{だいじ}をよそに見{み}なし 不忠{ふちう}ものゝ手本{てほん}となり恩{おん}をしらぬと世{よ}の嘲{あさけり}。 この勘平{かんへい}はとても生{いき}てはゐられぬ身{み}のうへ。 そなたはいはゞ女{おんな}の事{〔こと〕}死後{しご}のとむらひたのむ。 おかるさらば。」ト[刀{かたな}に手{て}をかけるをあはてゝとゞめる双方{さうはう}のしうち申|分{ぶん}なく]【きく】「アヽコレ またしやんせ。おまへが死{し}なしやんしては私{わたし}も直{すぐ}に (7オ) 死{し}にまする。さすれば情死{しんぢう}しやとおもはれて 誰{た}がおまへを賞{ほめ}まする。爰{こゝ}の道理{たうり}を聞分{きゝわけ} て一トまづわたしが在所{ざいしよ}へ往{いつ}て下{くだ}さんせ。 とゝさんも母{かゝ}さんもそれは〳〵頼母{たのも}しいお方{かた}。 もふ斯{かう}なツたが因果{いんぐわ}じやとあきらめて女房{にようぼう}の いふ〔こと〕もちツとは聞{きい}てくれたがよいわいなア。」ト 身を入{いれ}たるせりふ。自然{しぜん}に愁{うれひ}を含{ふく}める仕打{しうち}。 眼{め}になみたをうかめしは。彼{かの}房二郎{ふさじろう}が事{〔こと〕}の $(7ウ) 苦もなげに 飛かふ蝶の ふたつかな 鈴亭門人 梅暮里 谷二 おかる 都小きく $(8オ) 勘平 藤間於由 (8ウ) 気{き}にかゝりて。開{ひら}けぬ胸{むね}ゆへつとめねども。あはれに 見{み}ゆる思入{しうち}の大出来{おほでき}。見物{けんぶつ}の人〻{ひと〴〵}は其{その}内実{ないじつ}を しらざれば。戯言{むだくち}まじりの賞讃{ほめことば}。【けんぶつ】「おかるは大{おほ} あたりだぞ。御尤{ごもつと}でござゐます。」【同】「女房{にようぼう}のいふ はうが道理{だうり}だ。勘平{かんぺい}さんはやく一処{いつしよ}に連{つれ}て去{いつ}て 沢山{たくさん}おたのしみ被成{なさい}。」【同】「腰{こし}をぬかしちやア いけませんぞ。」【芝居の人〻】「東西{とうざい}〳〵[引]。」上るりはそれ 其{その}時{とき}よりうたひきて (9オ) [上るり]〽やぼな田舎{いなか}のくらしには機{はた}もをり候ちん し事{〔こと〕}常{つね}の女子{おなご}といはれてもとり乱{みだ}し たる信実{しんじつ}がやがて届{とゞい}て山崎{やまさき}のほんに私{わたし}が あるゆへに今{いま}のおまへのうきなんぎ堪 忍{かんにん}してとばかりにて跡{あと}はなみだの花{はな}の 雨{あめ}詞{〔こと〕ば}に色{いろ}をやふくむらん。[二の句{く}の口{く}どきふり〔こと〕よろしく]卜霞{かすみ} の張{はり}ものにて清元連中{きよもとれんぢう}をかくす。 第十八齣 (9ウ) 引{ひき}つゞきドロンドン〳〵〳〵〳〵ト山下風{やまおろし}に時{とき}の鐘{かね}を うちこみ[勘平{かんぺい}おもいれありて]【藤間】「なるほど聞{きゝ}とゞけた そちが詞{〔こと〕ば}それほどまでに思{おも}ふてくれるしん切{せつ} 忘{わす}れはおかぬ。しかしながらおぬしが親達{おやたち}へ面目{めんぼく} ないが世{よ}をしのび時節{じせつ}を待{まつ}て御家老{ごかろう}へおわび せん。何{なに}から何{なに}まで忝{かたじけな}い。」【きく】「すりや聞{きゝ}わけて下{くだ} さんすか。勘平{かんぺい}どの嬉{うれ}しひぞへ。」ト[よろこぶこなし]【藤間】「サヽ 支度{したく}しやれ。」ト[おきくのおかるが手{て}をとり行{ゆき}かゝる] (10オ) [大棹{ちよぼ}の上るり]〽身{み}ごしらへするその所{ところ}へ鷺坂{さきさか}伴内{ばんない}。トよび 出{だ}しなれば[揚{あげ}まくのうちにて]【伴内】「ヤレかふヱヽ。」ト声を かける。誂{あつらへ}の鳴{なり}ものヂヤン〳〵〳〵〳〵。ドン〳〵〳〵〳〵。 伴内役{ばんないやく}と[たすき鉢{はち}まきりゝしく出{で}たち]以前{いぜん}出{いで}たる忍目附{しのびめつけ}の四人ン 紺看板{こんかんばん}竹田{たけだ}の捕手{とつた}にて銘〻{めい〳〵}突棒{つくぼう}さすまた もぢりを持{もち}引{ひき}つゞき出{いで}て来{く}る。[伴内{ばんない}おもいれありてのりぢとなり] 【伴内】「ヤア〳〵勘平{かんぺい}うぬが主人{しゆじん}の塩冶{ゑんや}判官{はんぐわん} 己{おら}が旦那{だんな}の師直公{もろなふこう}と扇{あふぎ}が谷{やつ}のアノ騒動{そふど}知{しつ}て (10ウ) はしるか知{し}らいで走{はし}るか。サア是{これ}からは色{いろ}づくし。 ヤア〳〵かばの色平{いろへい}色{いろ}のおかると馴染{なれそめ}て手{て}に手{て}を 取{と}ツてとび色{いろ}はうまいな〳〵。空色{そらいろ}かけて走{はし}れ どもさうはさせぬと千{せん}さい茶{ちや}身共{みども}は真紅{まつか}に染{そめ} あげて紫色{むらさきいろ}にしやツきばり夜{よる}も|寝{ね}ずみ{#鼠}であと 追{をふ}て定{さだ}めし末{すゑ}はくり梅{うめ}と萌黄{もえぎ}もやうに 手{て}わけして花色{はないろ}さまが執心{しうしん}な皮色{かわいろ}らしいアノ おかる藍{あい}てんづくでわたせばよし。いや茶{ちや}なんどゝ (11オ) ぢくねると朱鷺色{ときいろ}まいてひツつかまへて青{あをう}吹{ふか}せ るけんぼうはアサヽと」「ギイ」「ヲなんど〳〵。」 [上るり]〽何{なん}と〳〵と呼{よば}はつたり。 【藤間】「ヤア觜{くちばし}ながき鷺坂氏{さぎさかうじ}勘平{かんぺい}が腕{うで}のほそ ねぶか庖丁{ほうてう}の手{て}なみを見せうか。」【伴内】「ヱヽめん だうな者{もの}ども。それ。」ト[かけごへに右{みぎ}の四人ン勘平に打{うつ}てかゝる。あつらへの鳴物{なりもの}にてちよツと立{たち} まわりになり]【四人】「どつこひ。」ト声{こゑ}をそろへ一時{いちじ}に紺{こん}かんばん を引{ひき}ぬき板{いた}じめの繻{じゆ}ばんになりて勘平{かんぺい}をとり (11ウ) まく。[いろ〳〵おもしろき立まわりありて四人ンはむかふへにげてはいる。伴内{ばんない}勘平に切てかゝりちツツとたち まわりありて勘平ばん内をひきつけ]【藤間】「こゝまでうせた馳走{ちそう}には突{つかう}か 切{き}らうかいつそ鼻{はな}をそごふか。とてもの〔こと〕に。」ト[きらんと する手{て}をおきくすがりてとゞめる]【きく】「アヽモウよいわいな。かれを殺{ころ}さば おわびのお邪广{じやま}。そのまゝにしておかしやんせ。堪忍{かんにん} してやらしやんせ。」ト[伴内をつきはなす]伴内{ばんない}起{をき}あがり天窓{あたま} をかき〳〵 [上るり]〽五位鷺{ごゐさぎ}ましと秀句{しうく}して口{くち}のへらない鷺 (12オ) 坂{さぎさか}は尻尾{しつぽ}かゝへてこそ〳〵と命{いのち}から〴〵逃{にげ}て ゆく。 ト[この文句{もんく}にて伴内むかふへはしりはいる]【藤間】「残念{ざんねん}〻〻。去{さり}ながらきやつをころ さば不忠{ふちう}の不忠{ふちう}。時{じ}せつを待{まつ}ておわびせん。」[時{とき}のかねゴヲン[引]] 【きく】「アレ山{やま}の端{は}に。」【藤間】「東{ひがし}もしらむ。」【きく藤間】「横{よこ} ぐもの。」ト[空{そら}を見{み}あげる]【けんぶつ大ぜい】「大和屋{やまとや}[引]成田屋{なりたや}[引]。 イヨ〳〵二千両{にせんりやう}揃{そろひ}ました。」 [上るり]〽塒{ねぐら}をはなれ鳴{なく}からすかわひ〳〵の女夫連{めうとづれ} (12ウ) 先{さき}はいそげどこゝろは跡{あと}。お家{いへ}のあんぴいかゞ ぞとあんじ。 ト[この文句{もんく}のうち伴内{ばんない}勘平{かんへい}のうしろよりうかゞひよりて]【伴内】「ヱイ。」ト[かゝるをかん平見〔ごと〕になげのける] [上るり]〽行{ゆく}こそ〽道理{だうり}なれ。 ト三重{さんぢう}にて勘平{かんぺい}おかるの手{て}をひき一ツぱいに向{むか}ふ へはいる。○チヨント木{き}のかしら伴内{ばんない}起{をき}あがりよろ しく幕{まく}をひき中太皷{なかしやぎり}とともに見物{けんぶつ}の大{おほ}ぜい 「ガヤ〳〵〳〵〳〵〳〵。」この時{とき}までも房{ふさ}二郎はまだ出{で}て (13オ) 来{こ}ねばおゆきはあんじ【雪】「アノ松{まつ}や兄{にい}さんはまだ おわるいかねへ。」【松】「左{さ}やうでござゐますねへ。一寸{ちよツ} とうかゞツて参{さん}じませうか。」【雪】「そんなら私{わたい}も参{まいる}ヨ。 兄{にい}さんアノどちらの茶室{おかこひ}でござゐますヱ。房{ふさ}さん のお在{いで}のわ。」[房{ふさ}二郎の〔こと〕は常{つね}に兄{にい}さんと呼{よび}ならはしながら爰{こゝ}に房さんと其{その}名{な}をいふは兄{あに}にむかひてたづぬるゆへ 兄{にい}さんに兄{にい}さんといふてはまぎらはしきをもて斯{かく}は名{な}をよびしならんか。看官{ごけんぶつ}の児女達{ひめたち}かならず作者{さくしや}を難{なん}じ給ふな]【由】「ヱ房{ふさ}さんか。 房{ふさ}さんなら今{いま}しがたどうたかと思{おも}ツて様子{やうす}を見{み}に 行{いつ}たら熟睡{よくね}てゐる容子{やうす}だから黙{だま}ツて来{き}た。マア (13ウ) あゝしてちツと眠{ね}かして置{をく}が宜{いゝ}。|一ト睡{ひとねいり}したらナニ 直{ぢき}快{よく}なるだらうから。」【雪】「ヲヤ然{さう}でござゐますかへ。」ト 口{くち}にはいへど乙女気{むすめぎ}に。行{いつ}て見{み}たさは山{やま}〳〵なれど も。兄{あに}の詞{〔こと〕ば}を無下{むげ}にして。流石{さすか}に立{たち}もゆかれねば 独{ひと}りこゝろを苦{くる}しめてひそかにぢれてゐるなるべし。 【由】「サア鮓{すし}でも喰{たべ}ねへか。大{だい}ぶ今日{けふ}は大人{おとな}しいノウ。」 ト言{いひ}ながら立{たつ}てお梅{うめ}を小蔭{こかげ}に招{まね}き【由】「アノ己{おいら}は ちツと房{ふさ}さんの〔こと〕で用{よう}があるから其{その}間{うち}お前{まへ}アノ (14オ) おゆきの機嫌{きげん}をとツて遊{あそ}ばして呉{くん}なヨ。あゝ見{み}へても まだ児女{ねんねへ}だから。」【梅】「ヲヤ何{なん}の御用{ごよう}でござゐ ますヱ。そふして何処{どつか}へお出{いで}被成{なさい}ますのかへ。」【由】「ナニ 何処{どこ}へも行{いきや}アしねへがマア跡{あと}で咄{はな}して聞{きか}せるから 己{おいら}が来{く}るまで房{ふさ}さんの所{とこ}へ行{いかう}と言{いつ}てもよこして さへ呉{くれ}ねへやうにして呉{くれ}れば宜{いゝ}のだ。」【梅】「お嬢{じよう} さまをかへ。」【由】「然{さう}ヨ。何{なん}でも彼処{あすこ}を立{たゝ}せねへやう にして呉{くれ}なくツちやアいけねへ。立{たつ}と房{ふさ}さんのゐる (14ウ) 処{ところ}を捜{さが}して来{く}ると己{おいら}が大{ひど}く困{こま}る〔こと〕があるのだから 実{じつ}にお頼{たのみ}だ。幕{まく}さへ開{あけ}ばまた腰{こし}をぬかしてしまう から此{この}幕{まく}のうちだけうまくまぎらかしてゐて 呉{くれ}りやア宜{いゝ}。」【梅】「それだツても私{わたく}しやアまだ今日{けふ} はじめてゞお馴染{なじみ}がありませんものヲ。」【由】「なんの あんなに百年{ひやくねん}もなじんだ狆子{ちんころ}のやうに狂戯{ふざけ}て ゐるくせに。そふして此{この}幕{まく}はモウ今{いま}に直{ぢき}開{あく}から ノ宜{いゝ}かヱ。ヱ承知{せうち}か。」【梅】「フヽ。」ト[わらふてゐる耳{みゝ}にくちをよせて]【由】「 (15オ) そのかわり晩{ばん}には抱{だつこ}してよく暖{あつた}めて添寝{ねんね}し て遣{や}るヨ。」ト寛爾{につこり}わらひながら戯房{がくや}にいたり 【由】「皆{みな}さん大{おほ}きにお骨{ほね}をりでござゐます。」【狂言{きようけん}かた請合人{うけあいにん}】 「イヤ旦那{だんな}今日{こんち}は真{ま〔こと〕}におやかましうござゐます。 仕舞{しまい}ましてから役者衆{やくしやし}を皆{みんな}お目見{めどふり}につれて 出{で}ませうと存{ぞん}じて御挨拶{ごあいさつ}にも参{まい}りません。真平{まつぴら} 御免{ごめん}被成{なせへ}。アハヽヽヽヽ。」【由】「ハヽヽヽ御挨拶{ごあいさつ}がらおそれ入{い}るネ。 ときに今{いま}のおかるさんわヱ。」【請合人】「ヱ彼{あの}娘{こ}かネ。今{いま} (15ウ) 化粧房{けせうへや}へ|這入{はいり}ましたツけが。旦那{だんな}おなじみかネ。」 【由】「ナニ馴染{なじみ}といふでもないがネ。」【請合人】「ヱヘン旦那{だんな}。」ト [つまみぐひをする手{て}まねをしなから]「ちツとおたしなみ被成{なせへ}まし。アハヽヽヽ。」 【由】「アハヽヽヽ変{おつ}う悪索{かんくら}れちやアうまらねへぜ。 しばらくといふ役{やく}まわりに廻{まは}ツたのサ。」ト言{いひ}ながら。 化粧房{けせうべや}をそツと覗{のぞ}けば。はや四段目{よだんめ}の役者{やくしや}は 皆{みな}。それ〳〵に形{なり}も調{とゝの}ひ出{いで}て行{ゆき}しか這処{こゝ}には 居{を}らず。ひとりお菊{きく}は片隅{かたすみ}に。もの思{おも}はしく欝{うつ} (16オ) むく膝{ひざ}に。ホロリと落{おつ}るなみだの露{つゆ}を。指{ゆび}にてそツと 拭{ぬぐ}ひなから。人{ひと}や見{み}んとて思{おも}はずも。ふり向{む}く此方{こなた} の障子{せうじ}を開{あけ}て。含笑{ほうゑみ}ながら由{よし}之助の。入来{いりく}るを 見{み}て恟{びつく}りしつ【きく】「ヲヤ貴君{あなた}は再昨{おとゝひ}母{はゝ}をお連{つれ} 被下{ください}ましたお方{かた}で|被為在{いらつしやい}ますねへ。」【由】「さやうサ。 あの晩{ばん}おまへの母上{おつかさん}ともしらず介抱{かいほう}して連{つれ}て いつてはからずおまへにお目{め}に掛{かゝ}ツたけれども 私{わたし}の名{な}を明{あか}しては故障{さし}があるゆへ何処{どこ}の者{もの}とも $(16ウ) すみ〴〵に 見えて 闇あり 夜の雪 駿ミネ 杜蔭 亀嶺 おきく $(17オ) 由之助 (17ウ) 住居{ゐどころ}さへ言{いは}ずに帰{かへ}ツたから定{さだ}めし跡{あと}じやア嘸{さぞ} 不審{へん}な奴{やつ}だと思{おも}ツてお在{いで}だらふがそれはマアさて をき今日{けふ}この連中{れんぢう}にお前{まへ}が加{くわゝ}ツて来{き}被成{なさる}とは 夢{ゆめ}にもわたしやア知{し}らなかつた。」【きく】「私{わたくし}も此家{こなた}が 貴君{あなた}のお宅{うち}ともぞんじませず参{まい}りまして先刻{さきほど} アノ戯房{がくや}から一寸{ちよいと}お座敷{ざしき}を覗{のぞ}きました時{とき}貴君{あなた} が|被為在{いらつしやい}ましたから不思議{ふしぎ}な〔こと〕だと存{ぞん}じて恟{びつく}り いたしましたは。」【由】「ハア然{さう}かへ。私{わたし}を見{み}て恟{びつく}りした (18オ) より外にまだ恟{ひつく}り被成{おし}の〔こと〕があるだらふがネ。」ト言 れてお菊{きく}は胸{むね}にギツクリさとられまじと思ふほと 猶{なほ}も悲{かな}しさいやまして。不覚{そゞろ}にうるむ泪{なみだ}の睚{まぶち}を。 繻絆{じゆばん}の袖{そで}もておさえながら【きく】「ヲヤ私{わたく}しやア どういたさう。見{み}ず知{し}らずの母の病気{ひようき}を御介{ごかい}抱 |被成{なさつ}てお駕籠{かご}にまで乗{のせ}てお連{つれ}下{くだ}さいました 其{その}御深心{ごしんせつ}を考{かんが}へましたら真{まこと}にモウ難有{ありがたい}〔こと〕た と存{ぞん}じてつゐ泪{なみだ}が翻{こぼ}れました。マアろく〳〵お礼も (18ウ) 申サないうちから。」【由】「お礼{れい}がナニいるものか。余{あん}り 見{み}ず知{し}らずの中{なか}でもねへと何も独{ひとり}己{うの}惚らしく 意気{いき}がる理{わけ}も無{ねへ}がお前{まへ}にちツとはなしてへ〔こと〕 もあるし且{また}見{み}せるものもあるから一寸{ちよい}と共{いつしよ}にお 出{いで}ヨ。」【きく】「ヲヤ左様{さやう}でござゐますかへ。左様{さやう}なら少〻{すこし} お待{まち}被下{ください}まし。衣{きもの}を着{き}かへて参{まい}りますから。」【由】「 ナニ其{その}楽屋着{がくやぎ}の形{なり}が宜{いゝ}のだ。」トわりなく手{て}を とり伴{ともな}ひゆく。扨{さて}由{よし}之助が妹聟{いもとむこ}の。房{ふさ}二郎と (19オ) 兼{かね}てより。噂{うはさ}の聞{きこ}えしお菊{きく}そと。知りながら斯 ばかり。いとも柔{やさ}しく深切{しんせつ}に。心をそえる腹{はら}の中。 怎生{いか}なる思案{しあん}のあるにやあらん。畢竟{ひつきやう}今お菊{きく} を伴{ともな}ひ。何処{いづこ}に行て何をか為{なす}。开{そ}は第四編{だいしへん}に説 出{いだ}すを。あはれ十方{じつぼう}の児女{ひめ}童子達{とのたち}。愛観{あいくわん}あら せ給ひねかし。 春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之九畢 ---------------------------------------------------------------------------------- 底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:124:3) 翻字担当者:金美眞、矢澤由紀、島田遼、藤本灯 更新履歴: 2017年7月26日公開