春色連理の梅 三編中 ---------------------------------------------------------------------------------- 凡例 1.本文の行移りは原本にしたがった。 2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。 3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。 4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア 5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」 6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。  平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ  片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ  複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵 7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。 8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。 9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。 10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕 11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい} 12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日} 13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい} 14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。 15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】 16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。 17.不明字は■で示した。 18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」 19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。 20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。 本文の修正 1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。 ---------------------------------------------------------------------------------- (1オ) 春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之八 江戸 鈴亭 梅暮里谷峨作 第十五齣 万葉集{まんえうしう}に何{なに}せんに玉{たま}のうてなも八重{やゑ}もぐらはべらん 宿{やど}に二人{ふたり}こそ寝め。この古歌{こか}伊勢物{いせもの}がたりに載{のせ}て あり。それにも似{に}たるお雪{ゆき}が胸{むね}の本意{ほんゐ}もとげて 思{おも}ふ男{おとこ}と思{おも}ふが儘{まゝ}に|契妹俊{かたらひ}し両人{ふたり}が中{なか}の睦{むつま}しき 風情{ふぜい}をよろこぶ母親{はゝおや}はお松{まつ}と共{とも}に出{いで}て来{き}つ。 (1ウ) 【母】「サア〳〵仕度{したく}が出来{でき}たらモウそろ〳〵出{で}かけない かへ。兄{にい}さんが待{まつ}てお在{いで}だらうヨ。一昨日{おとゝい}のおはなし じやア夜{よ}の更{ふけ}ないように早{はや}くはじめさせると お言{いひ}じやアなかつたかへ。」【松】「ハイ左様{さやう}でございます。 モウお仕度{したく}も宜{よう}ございますからそろ〳〵まゐり ませう。ねへお嬢{じよう}さま。」【雪】「アヽ左様{さやう}なら兄{にい}さん参{まい}り ませうか。」【房】「然{さう}サ出{で}かけやう。左様{さやう}なら母上{おつかさん}行{いつ}て 参{さん}じます。」【母】「アイヨ寛{ゆつくり}としてお在{いで}。〔こと〕によつたら (2オ) 父上{おとつざん}も。迎嶌{むかひじま}のお帰{かへり}にお廻{まは}ん被成{なさる}かもしれないから。」 【房】「ヲヤ父上{おとつさん}は迎{むかひ}じまへお出{いで}被成{なさつ}たのでござゐます かへ。」【母】「アヽ梶原侯{かぢはらさま}のお下屋敷{しもやしき}に松{まつ}の払物{はらひもの}が出{で}たと 言{いつ}て昨日{きのふ}寺嶌{てらじま}の角兵衛{かくべへ}が参{まい}ツたもンだから今朝{けさ} 其所{そこ}へ御覧{ごらん}にお出{いで}のだわネ。」【房】「然{さう}でござゐます かへ。それじやア私{わたく}しやア今日{こんち}は父上{おとつさん}と御同道{ごいつしよ}に参{まい}れば 宜{よう}ござゐましたねへ。」【母】「ナニネお前{まへ}が植物{うへき}がすきだ から連{つれ}て行{いこ}うと|被為仰{おつしやつた}けれども画岸{ゑぎし}の約{やく}そくが (2ウ) あるからと申シたものだからお一人{ひとり}でお出{いで}のだヨ。」【房】「 真{まこと}に惜{おし}い〔こと〕をしましたねへ。」【雪】「貴君{あなた}其様{そんな}にお出{いで} 被成{なさり}たければ父上{おとつさん}に然{さう}申シあげてはやくお出{いで}被成{なされ}ば 宜{よい}にサ。」ト[ちよいとにらめる]是{これ}はお雪{ゆき}が恍惚心{おぼこごゝろ}に好{すい}た男{おとこ}とつれ だちて歩行{あるく}其{その}身{み}のうれしさは此{この}うへもなき 楽{たのし}みぞと思{おも}ふに男{おとこ}の房二郎{ふさじらう}は然{さ}のみの容子{やうす}も 見{み}えざれば野暮{やぼ}な此{この}身{み}と立{たち}ならばゝ外{ぐわい}ぶん あしく迷惑{めいわく}ならんと身{み}を卑下{ひげ}すればひがみさへ (3オ) 出{いづ}るはすべて婦人{おんな}の情{じよう}。かゝる大家{たいけ}の深窓{しんそう}に。育{そだ} ちし花{はな}のつぼみなる。井蛙子{せけんみず}にも心{こゝろ}づく。恨{うら}みも 流石{さすが}母{はゝ}のまへ。口{くち}へこそ出{だ}しはせね。唯{たゞ}つんと せるおもいれを。見{み}てとるお松{まつ}は女才{ぢよさい}なく【松】「 サア〳〵お供{とも}もそろひました。お手代衆{てだいしゆ}は 吉兵衛{きちべへ}と小僧{こぞう}の長松{ちやうまつ}が参{さん}じます。アノお竹{たけ} どんもお亀{かめ}どんも仕度{したく}はモウ宜{よか}らうネ。サア わか旦那{だんな}さま|被為入{いらつしやい}まし。」ト催促{せり}たてながら囂〻{がや〳〵}と $(3ウ) 画岸{ゑぎし}の別荘{りやう}へと出{いで}てゆく $(4オ) [二上り]〽ないてくれるな明{あけ}がらす[合]かわひ〳〵 お人{ひと}をかへさにやなるまい やぼからす[合]ヲヤ〳〵〳〵〳〵〳〵 (4ウ) 【由{よし}之助】「聞馴{きゝなれ}ねへ変{おつ}な小唱哥{はうた}だノウ。」【お梅】「ヲヤ〳〵 マア貴君{あなた}御存{ごぞん}じないかへ。」【由】「何故{なぜ}まだついぞ 聞{きい}た〔こと〕がねへもの。」【梅】「ヲヤ然{さう}でござゐますかへ。 こりやア北里{てう}で今{いま}大{たい}さう行流{はやり}ますとサ。アノ此間{こないだ} 市村座{にちやうめ}で勤{し}ました明烏{あけがらす}を俄{にはか}に出{だ}しましたらふ。」 【由】「ムヽ。」【梅】「それから此{この}はうたが新節{しんて}に出来{でき}たンで ありますとサ。」【由】「然{さう}か然{さう}してお前{まへ}何処{どこ}からそれを 伝受{かいだ}して来{き}たのだ。」【梅】「ナニ是{これ}はネ先日{いつか}芦場{あしば}の (5オ) 稲生{いなふ}さんといふお宅{うち}へ参{まい}りました時{とき}桜餅{さくらもち}のお政{ま■}さん か来{き}まして教{おしへ}て呉{くれ}ましたヨ。」【由】「さうか市浜{いちばま}のか。」【梅】「ハイ アノ甲子楼{きのへねや}の先{さき}の。」【由】「ムヽ彼家{あすこ}にお大女{だいぼう}といふ 娘{こ}が在{あつ}たがさぞモウ成人{おふきく}なつたらふノウ。」【梅】「アヽ 左様{さやう}サ。漂軽{ひやうきん}な美嬢{いゝこ}でござゐますねへ。」【由】「ムヽ 母人{おつかア}の芸{げい}が能{いゝ}から彼{あの}娘{こ}も仕{し}こまれたら能{いゝ}芸 人{げいにん}になるだらふヨ。」【梅】「左様{さやう}サ。今{いま}に破瓜{むすめ}に成{なつ}て 能{いゝ}芸人{げいにん}に成{な}るのが待遠{まちどう}に思{おも}ツてお在{いで}なさるだ (5ウ) らふねへ。」【由】「だれが。」【梅】「どこのかそこいらの方{かた}がサ。」 【由】「ハヽヽヽヽ無埒{くだらねへ}〔こと〕を言{いつ}て居{ゐ}る娘{むすめ}だヨノウ。」ト[わらふてゐる]【梅】「 ナニくだらない〔こと〕がありますものか。それに違{ちがひ}ござゐ ませんものヲ。」【由】「ハイ〳〵。モウうつかり他{ひと}の〔こと〕は誉{ほめ}られ ねへ。あんな児女{ねんねへ}を賞{ほめ}てさへむづかしく捻{ねち}かける から己{おいら}の女房{おかみさん}にも困{こまる}ヨ。」ト[只{たゝ}かりそめにもおかみさんといはれて嬉{うれ}しきお梅はにつこり]【梅】「 若旦那{わかだんな}へ誰{だれ}が此様{こんな}に私{わたくし}を嫉妬{やきもち}やきに為{し}まし たらふねへ。」ト[男のかほをのそきこむ]【由】「フ■宜{いゝ}ヨ。承知{せうち}だから。もツと (6オ) 何{なん}ぞ弾{ひい}て聞{きか}せなヨ。」【梅】「フヽ皆{みんな}貴君{あなた}の御{ご}そんじ な唄{もの}ばかりて何{なんに}もござゐませんものヲ。」ト[かんがへながら三味せんをとり] 【梅】「それじやアネちよいとお聞{きゝ}なはいヨ。」 〽いなりまつりの太{たい}皷の音{ね}[合]たぬきつく〴〵かん がへ腹{はら}つゞみ[合]。ヲヤ〳〵〳〵〳〵。「是{これ}はかへ唄{うた}てこさゐ ますは。滑稽{とぼけ}て居{ゐ}ますじやアござゐませんかねへ。」 【由】「アハヽヽヽヽ十軒店{じつけんだな}だヨとでも囃{はや}さうか。」【梅】「ヲヤ 何|故{ぜ}へ。」【由】「恩田鮓{おいなりさん}の元祖{ぐわんそ}だもの。アハヽヽヽヽ。しかし (6ウ) こりやア|両三弦{にちやう}て弾{ひい}たらさぞ賑{にぎ}やかだらふヨ ノウ。」【梅】「ハイそれだから今{いま}しやア北里{てう}で騒{さはぎ}にたい てい是{これ}ばかり弾{ひき}ますとサ。」【由】「然{さう}か。己{おいら}もモウいかねへノ。 北里{てう}の流行{はやり}ものをお前{まへ}から聞{きく}やうに老衰{おいこん} じやア。から。いくじはねへ。」【梅】「それだからあんなに名妓{おいらん} からお迎{むかひ}か度〻{たび〳〵}参{まい}りますわネ。さぞ恋慕{こがれ}て居{ゐ} ませうから早{はや}く行{いつ}て逢{あつ}ておあけ被成{なさい}。」ト[言{いひ}ツヽ男の かほを見つめて居る]【由】「ハヽヽヽヽ大{たい}さう思{おも}ひやりがあるノ。お前{まへ}が其様{そんな}に (7オ) 頼{たの}むなら行{いき}ませうヨ。」【梅】「ヲヤ何{なに}しにわたくしが行{いつ} て被下{ください}とおたの申シますものか。」【由】「それでも今{いま}の様{やう}に 言{いふ}じやアねへか。」【梅】「それだツても貴君{あなた}がまことに モウ〳〵お出{いで}なさり度{たい}やうなお㒵{かほ}つきをして お在{いで}被成{なさる}ものヲ。」【由】「フヽ己{おいら}は又{また}お前{まへ}が否{いや}だらふと 思{おも}ツて行{ゆか}ずにゐるが其様{そんな}に己{おいら}を出{だ}したかア行{ゆか}うか。」 ト[いはれてお梅はうれしさうにおもはす男のそばへぢり〳〵とよりて]【梅】「若旦那{わかだんな}さまヱ実正{ほんとう}で ござゐますかへ。」トいふ時{とき}下女{げちよ}らあわたゞしく来{き}て $(7ウ) 由之助 〈画中〉貴老 $(8オ) 鶯や 障子に うつす 木〻の影 ハシバ 流霜庵 都暁 お梅 〈画中〉はうた (8ウ) 【下女】「アノ昨日{さくじつ}お出{いで}被成{なさい}ました人{かた}が大勢{おほぜい}おつれ 被成{なさい}まして只今{たゞいま}|被為入{いらつしやい}ました。」【由】「然{さう}か。それじやア 連中{れんぢう}を皆{みんな}つれて来{き}たンだ。爰{こゝ}から通{とふ}したら一個〻〻{いち〳〵} あいさつを為{する}に先{さき}もめんとうだらふから直{すぐ}と 庭口{にはぐち}から奥{をく}の今日{けふ}貸{かし}きりの座敷{ざしき}へ案内{あんない}を して通{とふし}て仕舞{しまい}な。」【下女】「ハイかしこまりました。 アノどんなに美{うつく}しい娘{むすめ}が連立{いつしよ}に参{まい}りましたらふ。」 【由】「ヱ娘{むすめ}が来{き}た。」【下女】「ハイ二三ン人{にん}お娘御{むすめご}が見{み}えますヨ。」 (9オ) 【由】「ヲヤ〳〵然{さう}か。男女雑{なんによまざり}か。アハヽヽヽヽけんのんな役者 衆{やくしやし}だぜ。何{なに}しろマア早{はや}く通{とふし}てしまいねへ。」【下女】「 ハイかしこまりました。」ト[立てゆく]【由】「アノ今朝{けさ}再{また}諸処{ほう〴〵}へ しらせに然{さう}言{いつ}て遣{やツ}たらふノウ。」【梅】「ハイたしか太助{たすけ} どんが[下おとこなり]参{まい}りましたツけ。」【由】「地面{ぢめん}うちのものは はじまツたら音{をと}が聞{きこ}えるから来{く}るだらふ。」【梅】「イヱ モウわたくしのお隣{となり}のお秋{あき}さんもお向{むかふ}のお冬{ふゆ} さんも母上{おつかさん}と諸共{いつしよ}にお手助{てつたい}にお庖橱{かつて}へ先刻{とう}に (9ウ) 参{まい}ツて居{をり}ますヨ。」【由】「ヲヽ然{さう}か。それじやアお前{まへ}ノ 庖橱{だいどこ}へ往{いつ}て庖人{りやうりにん}に其方{そつち}が宜{よ}ければ直{すぐ}と役者 衆{やくしやしゆ}の方{はう}へ出{だ}すやうに然{さう}言付{いひつけ}て呉{くん}なゝ。」【梅】「ハイ。」 ト[立ゆくを又よびとゞめ]【由】「其{その}序{ついで}に精進{せうじん}の小{ちいさい}俎板{まないた}をよヲく 洗{あら}わして拭巾{ふきん}を濡{ぬ}らして持{もつ}て来{き}て呉{くん}な。」ト言{いひ}ながら 水屋{みづや}の棚{たな}から点心堂{てんしんだう}の煉羊羮{ねりやうかん}と鶏蛋糕{かすてら}と |窩糸糖{あるへい}を出{いだ}し【由】「今日{けふ}は児童{こども}と雑客{ざつきやく}だから 青磁{せいじ}の菓子器{くわしき}も沙鑼{さはり}も浮雲{あぶな}しどれへ盛{もらふ}しらん。 (10オ) ムヽソウ〳〵堆朱{ついしゆ}の食籠{じきろう}に為{し}やう。」トひとりごと。尾{を}がた 光琳{くわうりん}が金地{きんぢ}へ紅白{こうはく}の梅{うめ}を極彩色{ごくさいしき}に画{ゑが}きし袋戸{ふ■ろど}より 唐物{からもの}の時代{ふるき}堆朱{ついしゆ}の三重食籠{みつぐみじきろう}を遠州{ゑんしう}|平組紐{さなだ}の かゝりし桐{きり}の箱{はこ}から出{いだ}してまわりを絹拭巾{きぬぶきん}で撫{なで}る。 第十六齣 千早振{ちはやふる}神世{かみよ}のむかし面白{おもしろい}〔こと〕をはじめしわざ をぎの道{みち}。とは蜀山人{しよくさんじん}が秀逸{しういつ}なり。実{げ}におもし ろき俳優{わざをぎ}の大芝居{さるわか}を真似{まね}るといへども仮初{かりそめ} (10ウ) ながら舞台{ぶたい}のかゝり道具立{だうぐだて}から衣裳{いしやう}までいさゝ か不足{かけ}たる〔こと〕もなく況{ま}して勤{つとむ}る役{やく}しやは皆{みな} 鎌倉{かまくら}何町{どこ}の某{なにがし}とて人{ひと}にもしられし金満家{たいけ}の 遊伜{へやずみ}及{また}は主人{あるじ}も雑{まざ}りつゝもし所作{しよさ}などに役人{やくにん}の 足{た}らざる時{とき}は水木{みづき}の一家{いツけ}あるひは藤間{ふぢま}およし 西川{にしがは}巳喜次{みきじ}も加{くはゝ}り囃子師{はやしかた}は座{ざ}へ出{いづ}る家柄{いへがら}の 人〻{ひと〴〵}又{また}浄溜璃{じやうるり}太夫{たゆう}も達人{ゆびをり}を雇{やと}ひ狂言{きやうげん}かた より舞台番{ぶたいばん}の役割{やくわり}を請取{うけとり}たる其{その}人〻{ひと〴〵}は都{みやこ} (11オ) 民中{みんちう}。常盤津{ときはづ}静太夫{しづかだゆう}。富本{とみもと}新次{しんじ}なんど。思〻{おもひ〳〵}の 出立{いでたち}なれども。五分{ごぶ}も透{すき}なき間拍子{まひやうし}は。大芝居{さんちやうまち}に 劣{おと}らばこそ。かへつて奇麗{きれい}な景色{ありさま}の。三座風{ざなみ}に は勝{まさ}れる事{〔こと〕}あり。下{した}ざらひながらもかゝる趣向{しゆかう}の。 催{もよふし}を見物{けんぶつ}せんとて。近辺{ちかきわたり}の|知己男女{ひと〴〵}。及{また}は地面{ぢめん} うちの長屋{ながや}の女房{かみさん}娘達{むすめたち}をはじめ。由之助{よしのすけ}が茶友{ちやゆう} 俳友{はいゆう}。その外{ほか}出入{ていり}の諸商人{しよあきんど}に至{いた}るまで。午刻{ひる}前{まへ} より押{おし}かけ来{き}たり。そが中{なか}に本家{ほんけ}なる。妹{いもと}お雪{ゆき}は (11ウ) 恋聟{こひむこ}の。房{ふさ}二郎と連立{つれだち}て。はやこの別荘{ところ}に 来{き}たりしかば。由{よし}之助が側{かたはら}に。両人{ふたり}膝{ひざ}を並{なら}べて 居{を}り。お梅{うめ}もお相手{あいて}にとてお雪{ゆき}の脊向{うしろ}に見物{けんぶつ}なし。 互{たがい}に楽{たの}しみざゞめきけり。此{この}時{とき}舞台{ぶたい}は裏表{うらおもて}の 忠臣蔵{ちうしんぐら}。本行の三段目{さんだんめ}。はや師直{もろなふ}判官{はんぐわん}の。喧嘩 場{けんくわば}も過{すぎ}し跡{あと}にて。松並木{まつなみき}を摺{すり}こみし道具 幕{だうぐまく}を引{ひい}てあり。[幕{まく}のうち駅路{ゑきろ}の鈴{すゞ}いりしまごうたにてつなぎゐる]見物{けんぶつ}の人声{ひとこゑ} ガヤ〳〵〳〵〳〵〳〵。大勢{おほぜい}男女{なんによ}うち雑{まざ}りし。広椽側{ひろゑんがは}より (12オ) 座敷{ざしき}の中{なか}。互{たがひ}に賞{ほむ}るひゐきの評判{ひやうばん}。【けんぶつのむすめ●】「どう もモウ感心{うまい}じやアないかねへ。悔{くや}しさうなおもいれは なか〳〵どふして家業{ほんと}の俳優{やくしや}の容{よふ}だねへ。」【▲】「アヽ 道具立{だうぐだて}は却{かへつ}て戯場{しばや}より奇麗{きれい}だねへ。さうして どふも好男子{いゝおとこ}じやアないか。アノ竹三{たけさ}と団十郎{はちだいめ} と粂三{くめさ}を一円{いつしよ}にした容{よふ}だねへ。」【■】「ちよいとアノ 判官{はんぐわん}をしたのはネ榛田{はんだ}の四方{よも}の主人{だんな}だとサ。」 【●】「ヲヤあれが梅彦{うめひこ}さんといふのかへ。」【■】「アヽ。」【▲】「ヲヤ好 (12ウ) 男子{いゝおとこ}だねへ。」ト[はなしのうち幕{まく}のうちにはおなじ馬士{まご}うたに山おろしをかぶせる]【〓】「アレサモウ黙{だまつ}て*〓は「■」が四つの記号 おいでヨ。」トいふ時{とき}幕{まく}の外{そと}向より。鷺坂{さぎさか}伴内{ばんない}の役{やく}。 旅侍{たびさふらひ}の形{なり}脚半{きやはん}草鞋{わらじ}かけ。三度笠{さんどかさ}を持{もつ}て出{いで}て 来{く}る。跡{あと}より鹿島{かしま}の事{〔こと〕}ふれの役{やく}[白張かすゑぼしをかぶりからす万度{まんど}を かつぐ]売薬屋{ばいやくや}の役{やく}[半{はん}てんもゝ引{ひき}がけにてくすりの箱{はこ}をせをふ]伊勢参宮{いせまいり}の役 [糸{いと}だてをせをひひしやくをもつ]廿四輩{にじうしはい}の役{やく}[順礼{じゆんれい}の形{なり}]この四人ンおの〳〵 双方{さうはう}より入{いり}かわり。戯台{ぶたい}にてよろしく思入{おもいれ}ありて 【事{〔こと〕}ふれ売{ばい}やく】「貴殿{きでん}は鷺坂{さぎさか}どの。」【伴内{はんない}】「コリヤ。」ト[おさえる]時の (13オ) 鐘{かね}をうちこみゴヲン[引]。伴内役{ばんないやく}あたりへ思入{おもいれ} あり。見物{けんぶつ}は口〻{くち〳〵}に【大ぜい】「イヨ大坂屋{おほさかや}[引]。」【同】「 文五郎{おほあにい}ぶつさ゜らひでござゐますゾ。」[伴内きよろつくおもいれよろしく] 【伴内】「かねて主人{しゆじん}の仰{いひつけ}にて各方{おの〳〵がた}をはじめかく姿{すがた}を やつして徘徊{はいくわい}なすも昨日{きのふ}殿中{でんちう}に於{をい}て師直公{もろなふこう}へ 慮外{りよぐわい}なしたる塩冶{ゑんや}判官{はんぐわん}扇{あふぎ}が谷{やつ}の屋敷{やしき}へ閉居{へいきよ} の身{み}の上{うへ}科{とが}の次第{しだい}はきまらねどどふでしまひは 縛{しば}り首{くび}たかのしれた高貞{たかさだ}なれど彼{かれ}も一国 (13ウ) 一城{いつこくいちじやう}の主{ぬし}この騒動{そうどう}を聞{きく}からは本国{ほんごく}に居{ゐ}る譜代{ふだい} の家来{けらい}どもいかなる変{へん}をなさん事{〔こと〕}もはかられ ずと道中筋{だうちうすぢ}を忍{しの}びの役目{やくめ}。」【事ふれ】「それゆへに こそわれ〳〵も人目{ひとめ}をしのんで或{あるひ}は順礼{じゆんれい}いせ 参{まい}り。」【廿四はい】「売薬{ばいやく}うり廿四輩{にじうしはい}とかたちをかへて のかくし目付{めつけ}。」【売やく】「そのうへ日{ひ}ごろから鷺坂{さぎさか} どのが心{こゝろ}をかけてごさる塩冶{ゑんや}の侍女{こしもと}おかる こそ勘平{かんぺい}とちゝくりあひ殿中{でんちう}の騒動{そうどう}を幸{さいわ}ひ (14オ) 腰懸{こしかけ}から両人{ふたり}はちくてん。」【いせ参り】「それこそつん〳〵 連立{つれだつ}て欠落{かけをち}にちがひない。」【事ふれ】「夜{よ}あけるまで には此{この}道{みち}すぢへ来{く}るは必定{ひつぢやう}。爰{こゝ}にまち伏{ぶせ}して 引{ひき}さらへ。」【四人】「おかるはお手{て}にいれませう。」【伴内】「 それは重畳〻〻{ちやうじやう〳〵}。このうへは手{て}がら次第{しだい}彼{かの}おかる さへひツ払{はら}ツて来{く}れば褒美{ほうび}はずツしり。かならず ぬかりめさるな。」【四人】「心得{こゝろへ}ました。」【伴内】「道中{だうちう} すぢを間者{かんじや}と成{なり}しはおもて内実{ないじつ}はおかるが (14ウ) 行衛{ゆくへ}をさがし出{だ}し女房{にようぼう}にしたいばつかり。コリヤ〳〵 伊勢参{いせまい}り廿四輩{にじうしはい}は身{み}と一所{いつしよ}に来{き}やれ。其{その}両人{りやうにん} にはおかるを見{み}つける割符{わりふ}の書{かき}もの。」ト[事ふれ売{ばい}やくや にわたし]【伴内】「サアかう来{き}やれ。」ト伴内{ばんない}伊勢参{いせまい}り 廿四輩{にじうしはい}の三人ン右{みぎ}の鳴{なり}ものにて引返{ひきかへ}し向{むかふ}へ はいる。【事ふれ】「かういふ時{とき}には後日{ごにち}の証拠{せうこ}に 書物{かきもの}が。」ト[すこしそり身{み}になりて]「どれ一寸{ちよつと}。」ト[さらりとひらく]見{けん}ぶつの 人声{ひとごゑ}ワア〳〵〳〵〳〵。【大ぜい】「口上{かうぜう}[引]〳〵。」【ぶたいばん】「東西{とうざい} (15オ) 東西{とうざい}[引]。」【事ふれ】「上{じやう}るり名題{なだい}道行{みちゆき}旅路{たびじ}の花{はな}むこ 上{じやう}るり太夫{たゆう}清元{きよもと}慶寿{けいじゆ}太夫。わき清元{きよもと}浅{あさ}太夫 わき清元|咲{さき}太夫|三味{しやみ}せん清元|栄吉{ゑいきち}上{うは}でうし 清元|泰助{たいすけ}相勤{あいつと}めまする役人{やくにん}藤間{ふぢま}およし 都{みやこ}小菊{おきく}其{その}為{ため}口上{かうぜう}さやう。」何{なん}の〔こと〕だト聞{きく}より おもはず房二郎{ふさじろう}は我{われ}にもあらで膝{ひざ}立{たて}なほす。 [この時{とき}やはり時{とき}のかね山{やま}おろしにて事ふれ薬{くすり}うりの両人|幕{まく}の引{ひき}つけへはいる]【見物{けんぶつ}の大ぜい】「大和 屋{やまとや}[引]〳〵。」ト[よびだす]【芝居{しばゐ}の人】「ゑ[引]を[引]イ。」ト[かけごゑに慕{まく}を $(15ウ) ふと寄りて 馳走に なりぬ 梅の宿 駿イハラ 寉亭 廬阜 おまつ 房二郎 おゆき $(16オ) よき中を 人に見よとや 梅柳 流霜庵 都暁 おうめ (16ウ) ひくをと]キウ。この時{とき}おかるの役{やく}[重{かさ}ねふり袖{そで}奥女中{をくぢよちう}こしもとの形{なり}よろしく]つま からげにて走{はし}り出{い}で来{きた}り花道{はなみち}の中{なか}ほどにて 爪突{つまづく}と跡{あと}より勘平{かんぺい}つゞいて走{はし}り来{きた}る。【大ぜい】「 大和屋{やまとや}[引]成田屋{なりたや}[引]〳〵〳〵〳〵〳〵。」○此方{こなた}には 房{ふさ}二郎。心得{こゝろへ}ざれば眉{まゆ}に雛{しは}。今{いま}口上{かうぜう}に其{その}名{な}を 呼{よば}れて。思{おも}ひかげなき事{〔こと〕}なれば。驚{おどろ}く間{ま}もなく*「思{おも}ひかげなき」の濁点位置ママ 出来{いできた}る。おかるになりし役人{やくにん}は。鬘作{かつらつき}にて顔{かほ} こそ変{かは}れ。彼{かの}お菊{きく}に相違{さうゐ}なければ。弥{いよ〳〵}おどろく (17オ) 房{ふさ}二郎は。お雪{ゆき}と並{なら}びし形容{ありさま}を。目{め}の前{まへ}に見{み}る お菊{きく}が心{こゝろ}。さぞ悔{くや}しくもかなしくも。此{この}身{み}を大{いた}く うらむべし。と察{さつ}し遣{や}りてはなか〳〵に。見{み}て も居{ゐ}られず㒵{かほ}をそむけて。独{ひとり}つら〳〵おもふ やう。今{いま}この席{ざ}には由{よし}之助。お雪{ゆき}をはじめお菊{きく}の 顔{かほ}を。見知{みし}りて在{をる}ものあらざれば。此{この}幕{まく}のうち 爰{こゝ}をはづし。仕舞{しまい}になりて戯房{がくや}へ行{ゆき}。お菊{きく}に 逢{あふ}て解話{いひわけ}を。なさんものをとおもへども。 $(17ウ) 疵{きづ}もつ足もと何とやら。立難{たちかね}て 居る風情{ふぜい}を見て【由】「ヲヤ 房さん大{だい}ぶ顔の色が 悪{わる}ひゼ。どふか被成{おし}か。」 【房】「ナニどふも 先刻{さツき}から頭痛{づつう}が していけま せん。」ト[うつむいてゐる] $(18オ) 【由】「さうか。 そりやアいけ ねへ。この 騒{さはぎ}に|逆上{のぼ■}た のたらふ から囲{かこひ}へ 行{いつ}てちツと 寝転{ねころ}んで (18ウ) お在{いで}。釜{かま}もかけてあるから。」ト[いふをしほに]【房】「然{さう}でござゐ ますかねへ。それじやア御免{ごめん}被成{なさい}。アノお雪{ゆき}や 直{ぢき}来{く}るからお前{まへ}は爰{こゝ}で見{み}てお在{いで}ヨ。」ト言{いひ}すてゝ 立{たち}てゆく。○彼方{かなた}は別荘{こゝ}の主人{あるじ}の名{な}さへ。聞{きか}ねば しらず此{この}連中{れんぢう}に。頼{たのまれ}て来{き}て思{おも}ひがけずも。今{いま}房{ふさ}二郎 が可愛{かあい}らしき。娘{むすめ}と並{ならび}て睦{むつま}しげに。見物{けんぶつ}して在{ゐ}る形容{ありさま} を。お菊{きく}は敏{とく}に幕{まく}の内{うち}より。窺{うかゞ}ひ見{み}つゝ驚{おどろき}て。はや 胸{むね}塞{ふさが}る娘気{むすめぎ}に。腹立{はらたゝ}しさと悔{くや}しさと。悲{かな}しさ遣{や}る瀬{せ} (19オ) 泣{なく}ばかり。いかにせまじと思{おも}へども。今日{けふ}一日{いちにち}は買{かは}れた 体{からだ}。仮令{たとへ}怎生{いか}なる事{〔こと〕}のありとも。其{その}身{み}ながらも 自由{じゆう}には。なし難{がた}き〔こと〕なりと。心{こゝろ}を鎮{しづ}め気{き}をおち つけて。こらゆる涙{なみだ}を人〻{ひと〴〵}に。見{み}とがめられじとまぎら かし。さりげもあらずおかるの役{やく}を。勤{つとむ}るお菊{きく}が胸{むね}の うち。思{おも}ひやるさへ哀{あはれ}なり。 春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之八畢 ---------------------------------------------------------------------------------- 底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:124:3) 翻字担当者:梁誠允、矢澤由紀、島田遼、藤本灯 更新履歴: 2017年7月26日公開