春色連理の梅　初編中

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には＄を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。　〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云／言」「开／其」「㒵／貌」「匕／匙」「吊／弔」「咡／囁」「哥／歌」「壳／殻」「帒／袋」「无／無」「楳／梅」「皈／帰」「艸／草」「計／斗」「弐／二」「餘／余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
　平仮名1文字の繰り返し　〔例〕またゝく、たゞ
　片仮名1文字の繰り返し　〔例〕アヽ
　複数文字の繰り返し　〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔　〕で囲んで示した。　〔例〕殊｛〔こと〕｝に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は｛　｝で囲んで示した。　〔例〕人生｛じんせい｝
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に＃を付けた。　〔例〕めへにち｛＃毎日｝
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに｜を付けた。　〔例〕十六｜歳｛さい｝
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【　】で示した。　〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は［　］で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は＊で行末に記入した。　〔例〕〓｛たど｝りて＊〓は「漂＋りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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（１オ）
春色｛しゆんしよく｝連理梅｛れんりのうめ｝巻之二
江戸　梅暮里谷峨作
第三齣
菅野｛すがの｝きくといふ表札｛ひようさつ｝を。懸｛かけ｝し格子｛かうし｝のかた蔭｛かげ｝に。｜家内｛うち｝の＊「菅野きく」は表札の絵
様子｛やうす｝を彳殖｛たちぎく｝曲者｛くせもの｝。猶｛いよ〳〵｝耳｛みゝ｝をそばたつる。折｛おり｝からまたもや来｛き｝
かゝる男｛おとこ｝。彼｛かの｝曲者｛くせもの｝を見｛み｝るよりも。提灯｛ちやうちん｝ふつと吹消｛ふきけ｝して。其｛その｝
為体｛ていだらく｝を窺｛うかゞ｝へども。空｛そら｝曇｛くもり｝たる烏夜｛やみよ｝なれば。たがひに礎｛しか｝と
は姿｛すがた｝も｜分明｛わか｝らず。恁｛かゝ｝る時｛とき｝には門｛かど｝の番｛ばん｝四五疋｛しごひき｝の犬｛いぬ｝起｛をき｝

（１ウ）
あがりて。ワン〳〵〳〵トとり囲｛かこ｝み。吼｛ほへ｝かゝられてくせ者｛もの｝はせん
術｛すべ｝なさに軒下｛のきした｝を立離｛たちはなれ｝つゝ【わるもの】「チヨツ畜生｛ちくせう｝め。」トちやう
灯｛ちん｝消｛けし｝た彼｛か■｝男｛おとこ｝と。すれ違｛ちが｝ひわかれ行｛ゆく｝。跡｛あと｝から付｛つき｝ゆく＊「は」「の」の欠損か
犬｛いぬ｝ワン〳〵〳〵。ヲホ［引］ワン〳〵〳〵〳〵。【おきく】「なんだか今夜｛こんや｝は｜外面｛そと｝が
気味｛きみ｝がわるいねヱ。もう母人｛おツかアさん｝は帰｛かへ｝りやアしまいから戸｛と｝
じまりをしてしまをふかねヱ。」【房】「然｛さう｝サ。しめてもう
ち■と起｛をき｝て待｛まつ｝て居｛ゐ｝ようか。」【きく】「アヽ左様｛さう｝しませう。」ト［おもての戸｛と｝＊「■」は「ツ」の部分欠損
をしめにゆきしがあはてゝ男のそばへすはる］【房】「どうしたんだ。」［ちいさなこへをして］【きく】「だまつてお在｛いで｝ヨ。」

（２オ）
【房】「なんだ。」【きく】「アレサ外｛そと｝にネ何者｛だれ｝か立｛たつ｝てゐるヨ。」
【房】「ヱさうか実事｛ほんとう｝か。」【きく】「アヽ何｛なん｝でも男｛おとこ｝だヨ。」【房】「■テナ＊「■」は「ハ」の部分欠損か
そりやア何｛なに｝にしろ物窓｛ぶつそう｝だから早｛はや｝くしめるサ。」【きく】「怖｛こはい｝＊「怖」の偏は肉月
ねヱ。一所｛いつしよ｝に往｛いつ｝ておくれな。サア。」ト手｛て｝をとりて土間｛どま｝へ
下｛を｝り戸｛と｝を建｛たて｝ながら房二郎｛ふさじらう｝も。怖｛こは〳〵｝｜外面｛おもて｝をさし＊「怖」の偏は肉月
のぞくに。人蔭｛ひとかげ｝もあらざれば【房】「なんだナ何｛なに｝も居｛ゐ｝
やアしないじやアないか。」【きく】「ヲヤさうかへ。それじやア
モウ何処｛どつか｝へ行｛いつ｝てしまツたんだヨ。」【房】「ハヽヽヽヽなんだか

（２ウ）
夢｛ゆめ｝を見たやうな〔こと〕を言｛いつ｝ていらア。」ト［戸｛と｝じまりもしてしまひ］【きく】「アノ
房｛ふさ｝さんおまへさんはまアお休｛やす｝みなはいナ。母人｛おつか｝さんが
お帰｛かへ｝りでも私｛わたい｝が起｛をき｝て居｛ゐ｝ますから宜｛よい｝わネ。」【房】「ナニ〳〵
私｛あたし｝も起｛をき｝て居｛ゐ｝るヨ。はなしの様｛やう｝な成行｛わけ｝にいよ〳〵成｛な｝
れば私｛あたし｝の為｛ため｝には大事｛だいじ｝な姑｛しうと｝だものヲ。」【きく】「ヲヤうれ
しいねヱ。実正｛ほんとう｝に然｛さう｝おもつておくれか。」【房】「実｛ほんと｝も
虚｛うそ｝もあるものか。あたりまへだアね。さうして姑｛しうと｝とは
おもはないヨ。」【きく】「なんとおもひだ。」【房】「ほんとの

（３オ）
母人｛おつかさん｝とおもつて居｛ゐ｝るのサ。アノ親｛おや｝でいふじやアないが私｛あ■し｝の
母人｛おつかさん｝も深茲｛やさしく｝ツて善｛いゝ｝人｛ひと｝だが又｛また｝此方｛こつち｝の母人｛おつかさん｝のやうな淳直
人｛けつこうじん｝はないヨ。他｛ひと｝の子｛こ｝実子｛じぶんのこ｝の差別｛しやべつ｝なく可愛｛かあい｝がるから他｛ひと｝が
見たら聟｛むこ｝だか息子｛むすこ｝だかわかるまいヨ。斯｛かう｝親子｛おやこ｝和合｛なかよく｝
して居｛ゐ｝る処｛ところ｝は兄弟｛きようだい｝両個｛ふたり｝にお袋｛ふくろ｝一個｛ひとり｝と見｛み｝へるだらふ
とおもふヨ。」【きく】「然｛さう｝思｛おも｝はれたら私｛わたい｝はどふしても姉｛あね｝さんと見｛み｝ら
れるだらふねヱ。」ト［すこしくふさぐ］【房】「どふしたンだへ。」ト［いへどもいらへせざれば］「なにを
其様｛そんな｝に急｛きう｝に欝｛ふさぐ｝のだへ。何｛なに｝か気｛き｝に障｛さはる｝〔こと〕でも言｛いつ｝た

（３ウ）
かねへ。」【きく】「イヽヱ。」【房】「それじやアどうしたんだヨ。」ト［いつにかはらずやさしく
いはれて身｛み｝をふるはし俯｛うつ｝ぶしながら男｛おとこ｝のひざに㒵｛かほ｝をおし付る］【房】「アレサまア其様｛そんな｝にして居｛ゐ｝ては
わからないから㒵｛かほ｝をお見｛み｝せヨ。」ト［やつ口｛くち｝から手｛て｝をさし入｛いれ｝て乳｛ち｝ぶさをそつとひねる］【きく】「アレサ
擽｛くすぐ｝ツたいヨ。」ト㒵｛かほ｝をあげてなみだぐみつゝ房二郎｛ふさじらふ｝の
㒵｛かほ｝をじツと見｛み｝つめ【きく】「房｛ふさ｝さん今｛いま｝こそ斯｛かう｝中｛なか｝よく
しておくれだが女｛おんな｝といふものは男｛おとこ｝より早｛はや｝く〓｛ふけ｝るもの＊〓は「門＋更」
だしましておまへより三歳｛みツつ｝も上｛うへ｝だからおまへさんが立派｛りつぱ｝な
男盛｛おとこざか｝りにおなりだと私｛わたい｝はモウいゝ婆｛ばア｝さんになります

（４オ）
から左様｛さう｝なツたら此様｛こんな｝に可愛｛かあい｝がツておくれではある
まいねヱ。」【房】「又｛また｝其様｛そんな｝つまらない〔こと〕をいふヨ。共｛とも｝しらがと
思｛おも｝ツて居｛ゐ｝るもの。年｛とし｝を老｛とつ｝たから捨｛すて｝るなんのと其様｛そんな｝私｛あたし｝が水｛みづ｝
くさい了簡｛りやうけん｝だと思｛おも｝はれて居｛ゐ｝ちやアうまらないネ。ナニかへ夫｛それ｝を
おもひ過｛すご｝して欝｛ふさぐ｝のかへ。つまらねヱ。」【きく】「フヽ急度｛きつと｝かへ。」【房】「
急度｛きつと｝たア。」【きく】「見｛み｝すてないとお言｛いゝ｝のがサ。」【房】「くどいじやア
ないか。私｛あたし｝ばかり其様｛そんな｝にきめないで其｛その｝時分｛じぶん｝に成｛なつ｝て
またおまいの方｛はう｝に私｛あたし｝のやうな此様｛こんな｝面倒｛めんだう｝な引｛ひつ｝ぱりの

（４ウ）
ない万事｛ばんじ｝に行届｛ゆきとゞい｝て好風｛いき｝な美男｛いゝおとこ｝で直｛すぐ｝に家｛うち｝へ
入｛いれ｝て御新造｛こしんぞ｝さまにするといふやうな人｛ひと｝に口説｛くどき｝おとされ
て私｛あたし｝を見捨｛みすて｝ないやうにおたのもふします。」【きく】「ヲヤ
何｛なん｝だとへ。」【房】「ハイ二度｛にど｝いふと風邪｛かぜ｝を引｛ひく｝とサ。」【きく】「アヽたん
とおいじめ。モウどうで真｛しん｝から底｛そこ｝から惚込｛ほれこん｝だところを
見透｛みすか｝されたものだから何｛なに｝かに付｛つけ｝ちやアからかはれる
ねヱ。悔｛くや｝しい。」【房】「ナニからかうものか。私｛あたし｝だツてあんじらア
ね。」【きく】「なんの他｛ひと｝其様｛そん｝な〔こと〕はあんじずとも宜｛よい｝ヨ。又｛また｝いやみ

（５オ）
らしい面倒｛めんだう｝な引張｛ひつぱり｝があるのとお言｛いゝ｝だけれど此様｛こんな｝
賤｛いや｝しい身分｛みぶん｝で居｛ゐ｝ながら強｛しい｝ておまへさんのお家｛うち｝へのり
込｛こも｝うとでも言｛い｝やアしまいし唯｛たゞ｝和合｛なかよく｝御夫婦｛ごいつしよ｝にさへ成｛なつ｝
て居｛ゐ｝ればモウ其｛その｝上｛うへ｝の望｛のぞ｝みはありませんから可愛｛かあい｝さう
だと思｛おも｝ツておまへさんさへ辛抱｛しんばう｝して夫婦｛いつしよ｝に成｛なつ｝てゝお呉｛くれ｝
被成｛なはれ｝ば私｛わたい｝は本望｛ほんもう｝だと平生｛ふだん｝申シているじやアありま
せんか。しかしあんなお家｛うち｝にお在｛いで｝被成｛なはる｝お身分｛みぶん｝を此様｛こんな｝
宅｛うち｝へお置｛をき｝申シてひがない暮｛くら｝しをお見｛み｝せ申スは私｛わたい｝も

＄（５ウ）
未詳

＄（６オ）
おきく

（６ウ）
つらしおまへさんも嘸｛さぞ｝お否｛いや｝だらふねヱ。」ト［しみ〳〵男の㒵｛かほ｝を見ていふ］折｛おり｝
から｜外面｛おもて｝に聞｛きこ｝ゆる鼻唄｛はなうた｝
〽惚｛ほれ｝られて腹｛はら｝がたつならおまへをおまへであきらめさん
せ。ほどよくうまれたおまへのぶはたらき。
【きく】「房｛ふさ｝さん。」【房】「ヱ。」【きく】「あのどゝ一｛いつ｝のとふりだわネ。」【房】「フン
そりやア此方｛こつち｝で言｛いふ｝事｛〔こと〕｝サ。」【きく】「左様｛さう｝だと私｛わたい｝もちツたア
気｛き｝を強｛つよ｝くして居｛ゐ｝られるけれども丸｛まる｝ツきり呑｛のま｝れきツて
居｛ゐ｝るから悉皆｛から｝いくじはないのサ。実｛ほんと｝に房｛ふさ｝さん此様｛こんな｝者｛もの｝に

（７オ）
見込｛みこま｝れたが不運｛ふうん｝だとあきらめてお呉｛くれ｝被成｛なはい｝ヨ。」【房】「あ
きらめる処｛どころ｝か余｛あんま｝り嬉｛うれ｝しくツて死｛し｝なければ宜｛いゝ｝と思｛おも｝ふヨ。」
【きく】「うまくお言｛いゝ｝被成｛なはい｝。」【房】「実正｛ほんとう｝にサ。さうして又｛また｝弥｛いよ〳〵｝此家｛こつち｝へ
一所｛いつしよ｝になりやア私｛あたし｝だツて安｛あん｝かんとおまへにはかり苦労｛くらう｝
をかけちやア置｛をか｝ない。私｛あたし｝もそれにや了簡｛りやうけん｝があるのサ。」
【きく】「ホヽヽヽヽ私｛わたい｝にばかり苦労｛くらう｝をかけないで何｛なに｝かへおまへさんも
何｛なに｝か商売｛しようばい｝を被成｛おし｝のかへ。」【房】「左様｛さう｝サ。」【きく】「ホヽヽヽヽ。どうして
おまへさんのやうな艶麗｛やさしい｝形｛なり｝で何｛なん｝のしよう売｛ばい｝が出来｛でき｝

（７ウ）
るものかネ。さうして私｛わたい｝の方｛はう｝へ引取｛ひきとつ｝ておまへさんに挊｛かせ｝がせ
ちやアおまへさんの母人｛おつかさん｝に対｛たい｝して私｛わたい｝が済｛すま｝ないからけして
其様｛そんな｝〔こと〕は気｛き｝にをしでないヨ。」【房】「それでも私｛あたし｝だツて男｛おとこ｝だ
から何｛なに｝かして挊｛かせ｝がアネ。」【きく】「挊｛かせ｝ぐかせぐとお言｛いゝ｝だけれど
かせぐに〔こと〕をかいて色｛いろ｝を挊｛かせい｝では御免｛ごめん｝たねへ。」【房】「馬鹿｛ばか｝ア
言｛いゝ｝ねへ。おまへの外｛ほか｝に女といふものは世｛せ｝けんにやア
ないと思｛おも｝ツて居｛ゐ｝るもの。何｛なに｝しに頼｛たのま｝れたツて色｛いろ｝なんざア
しやアしない。」【きく】「フン余｛あんま｝りお言｛いひ｝被成｛なはる｝ナ。此間｛こないだ｝もおたき

（８オ）
さんがお花｛はな｝さんをはじめて連｛つれ｝て遊｛あそ｝びに来｛き｝た時｛とき｝のおまへ
さんの㒵｛かほ｝つきといふものはそれはモウ喰付｛くひつい｝てあげたいやう
だヨ。其｛その｝可愛｛かわゆ｝らしい眼｛め｝を又｛また｝もう一倍｛いちばい｝かわゆらしく被成｛おし｝
で程｛ほど｝の宜｛いゝ｝〔こと〕ばかり言｛いつ｝てお在｛いで｝だものだから跡｛あと｝でお花｛はな｝さんが
間｛ま｝がな透｛すき｝がなおまへさんの〔こと〕ばツかり言｛いつ｝て居｛ゐ｝てお滝｛たき｝
さんに取持｛とりもつ｝て貰｛もらひ｝たいやうに言｛いひ｝ましたとツサ。それだもんだ
からおたきさんも実｛じつ｝は是〻｛こう〳〵｝だと私｛わたい｝たちの〔こと〕をはなしたら
それはモウ羨｛うらやま｝しがツたり悔｛くや｝しがツたり困｛こま｝りきツたと言｛いつ｝て

（８ウ）
再昨｛おとゝい｝ネお滝｛たき｝さんが来｛き｝てはなしましたは。」【房】「ハヽヽ左様｛さう｝かへ。
そりやア奢｛おごら｝ざアなるまい。」【きく】「アヽたんとおごツて酒｛さけ｝でも
飲｛のま｝してお遣｛やり｝な。おまへさんがお酌｛しやく｝をしておやりだと
花女｛あのこ｝もさぞうかみませう。其｛その｝かはり覚悟｛かくご｝をして被成｛おし｝。」
【房】「何故〻〻｛なぜ〳〵｝。」【きく】「他｛ほか｝の娘｛むすめ｝や芸者子｛げいしやし｝にやさしくして
お遣｛やん｝被成｛なはり｝たかアマア命｛いのち｝をさし出｛だ｝して被成｛なさい｝と申す
〔こと〕サ。」【房】「ハヽヽヽヽそりやア又｛また｝どふいふ理｛わけ｝で。」【きく】「気｛き｝をもみ
もみ他｛ひと｝にでも取｛と｝られてごらんナ。つまらない者｛■｝は私｛わたい｝計｛ばか｝り＊「■」は「の」の欠損か、「わたい」の「い」は部分欠損、「｛ばか｝り」の「ば」は部分欠損

（９オ）
だはネ。それよりか寧｛いつそ｝一｛ひ｝トおもひにおまへさんを突｛つゝ｝ころして
私｛わたい｝も共｛いつしよ｝に死｛しん｝でしまふ方｛ほう｝が気｛き｝をもんで｜他人｛ひと｝に楽｛たの｝しま
れるより遙｛はるか｝ましだものヲ。」【房】「そのつもりで何｛なん｝だの彼｛か｝だ
のと面倒｛めんだう｝だから連立｛いつしよ｝に死｛しん｝でしまをふか。」【きく】「アヽそれだ
から此間｛こないだ｝私｛わたい｝も然｛さう｝申シたらお互｛たがひ｝に親｛おや｝一人｛ひとり｝子｛こひとり｝。まして親
達｛おやたち｝が何｛なに｝も不通｛やぼ｝を言｛いふ｝ではなし｜仮初｛ほん｝の義理｛きり｝あいて斯｛かう｝｜乱
糸｛もつれ｝て在｛い｝る理｛わけ｝だに因｛よつ｝てそれを我意｛みがつて｝に先｛さき｝へ死｛しん｝では
余｛あんま｝りすまないとお言｛いひ｝じやアないか。」ト少｛すこ｝しはなしが理｛り｝に

（９ウ）
落｛をち｝て思｛おも｝はず見｛み｝かはす眼｛め｝と眼｛め｝さへうるむは恋｛こひ｝の要｛かなめ｝にて
互｛たがひ｝に情｛じよう｝のたてくらべ勝｛まさ｝ず劣｛をと｝らぬ容色｛きりやう｝さへ心意気｛こゝろゐき｝
さへ美｛うつく｝しき梅｛うめ｝と柳｛やなぎ｝の処女｛むすめ｝と少年｛わかしゆ｝羨いと｛うらやま｝しき｜一対｛なか〳〵｝
のあまり｜合過｛よすぎ｝て行末｛ゆくすへ｝の身｛み｝の上｛うへ｝いかになるやらん。こゝろ
もとなき〔こと〕也けり。
第四齣
［清元］〽あさいこゝろとしらいとのそめてくやしきなれごろもありし
ながらのひとつまへ小｛こ｝づま揃｛そろ｝へてしどけなく〽風｛かぜ｝に柳｛やなぎ｝の

（１０オ）
吹｛ふく｝まゝにまかせるはずのつとめじやとてもいやな客｛きやく｝
にもひよくござおもふ男｛おとこ｝の山鳥｛やまどり｝のおろの鏡｛かゞみ｝のかげを
だにみぬ目｛め｝にくもるうす月夜｛つきよ｝ねやのしやうしに
俤｛おもかげ｝もれてもれてうき名｛な｝の流｛ながれ｝てすへはついのよる瀬｛せ｝の浪
枕｛なみまくら｝かはるまいぞやかはらじと筆｛ふで｝にちかひの神｛かみ｝かけてすみと硯｛すゝり｝の
こい中｛なか｝をたが水｛みづ｝さしてぬれ衣｛きぬ｝のなき名｛な｝を立｛たて｝てむりな事｛〔こと〕｝。
【常盤津静｛しつか｝太夫】「なか〳〵感心｛うまく｝やりやすねへ。モシ失礼｛しつれい｝なから今｛いま｝どき
這処｛こゝら｝には稀｛まれ｝ものだ。しかし声｛こゑ｝ほどに面｛めん｝はいきやす

（１０ウ）
めへ。」【由｛よし｝之助】「左様｛さう｝でねへヨ。掃溜｛はきだめ｝へ鶴｛つる｝サ。」［この由之助は房｛ふさ｝二郎が本家｛ほんけ｝の息子｛むすこ｝にてお雪｛ゆき｝の
兄｛あに｝なり。このほどつかひ過｛すぎ｝にて父｛ちゝ｝の不興｛ふきやう｝をかふむりわづかの当｛あて｝がいをもらひ隠居｛いんきよ｝同様｛どうやう｝に別荘｛べつさう｝住居｛すまゐ｝の身｛み｝也］【静】「ハテ歳｛とし｝もまだ｜春
色盛｛しんぞふさかり｝といふ声｛こへ｝だが。」【由】「やツと十五六だらふ。節｛ふし｝まはしの
様｛やう｝じやアねへ。まだとんとあどけねへ娘｛こ｝サ。」【静】「ハヽヽヽヽそろ
そろ生口｛いきぐち｝が出｛で｝やす。」【由】「ナニべらぼうめ。」【静】「ハヽヽヽヽつい
御近所｛ごきんじよ｝でごぜへやすねヱ。」【由】「ウン地面｛ぢめん｝うちヨ。このうしろ
だア。」【静】「そりやアお手｛て｝の物｛もの｝だネ。モシなか〳〵由断｛ゆだん｝はなら＊「だア」は部分欠損
ぬはヱ。」【由】「どふして。モウ其様｛そんな｝方｛はう｝へはうツかり手出｛てだ｝しやア

（１１オ）
できねへ。当時｛たうじ｝日｛ひ｝かげもの同様｛どうやう｝だものヲ。」【静】「ハテ何｛なに｝サ少〻｛ちつと｝
御不自由｛ごふじゆ｝でも斯｛かう｝して御別荘｛ごべつさう｝に｜被為在｛いらつしやる｝ほうが御本家｛ごほんたく｝に
御在｛おいで｝被成｛なさる｝よりかお気楽｛きらく｝で宜｛よう｝ごぜへやす。四方｛あたり｝は野｛の｝びろし
お庭内｛にはうち｝を歩行｛あるい｝てお在｛いで｝被成｛なさつ｝ても十日や廿日｛はつか｝の道次｛みちのり｝はあるから
御保養｛ごほよう｝に成｛なる｝のサ。」【由】「ハヽヽヽヽ又｛また｝大｛たい｝さうを言｛いは｝ア。東海道｛とうかいだう｝五十三
｜次｛つぎ｝じやアあるめへし。」【静】「ハヽヽヽしかし画岸｛ゑきし｝もひろいもので
ごぜへやすネ。」【由】「然｛さう｝ヨ。此里｛こつち｝も以前｛いぜん｝滝蕎麦｛たきそば｝でもあつた
時分｛じぶん｝は随分｛ずいぶん｝画岸｛ゑぎし｝といふと好風｛いき｝な人物｛じんぶつ｝が居｛ゐ｝たが今｛いま｝では

（１１ウ）
モウ源蔵｛げんざう｝じやアねへが何｛いづれ｝を見｛み｝ても山家育｛やまがそだち｝サ。芋堀｛いもほり｝ばか
りでしかたがねへ。変｛かはれ｝は変｛かは｝るものだノ。」【静】「イヤモ世界｛せかい｝も御馴染｛おなしみ｝の
米八｛よねはち｝仇吉｛あだきち｝か八幡｛はちまん｝で嫉妬喧嘩｛やきもちけんくわ｝をした時分｛じぶん｝の〔こと〕サネ。」【由】「
然｛さう｝ヨ。其｛その｝時分｛じぶん｝にやア己｛おいら｝もまだ怖〻｛こは〳〵｝友達｛ともだち｝の後｛しり｝に随従｛くツつひ｝て遊｛あそび｝
に行｛ゆく｝時分｛じぶん｝だツケ。」【静】「ハヽヽヽうまく｜被為仰｛おつしやら｝ア。若｛わか｝く見｛み｝られ
よふと思｛おも｝ツて。」【由】「かわいそふに斯｛かう｝見｛み｝へても故人｛せんの｝梅暮里｛うめぼり｝
谷峨｛こくが｝が著｛かい｝た二筋道｛ふたすぢみち｝の世界｛せかい｝は丸｛まる｝ツきりしらねへぜ。まだ己｛おいら｝が
卵｛たまご｝にもならねへ時分｛じぶん｝だ。」【静】「ハヽヽヽ大｛だい｝ぶ時代｛じだい｝な〔こと〕を｜被為仰｛おつしやる｝

（１２オ）
ネ。ときにモシ北里｛あつち｝の返事｛へんじ｝は何｛なん｝と申シませう。斯｛かう｝して
金子｛かね｝までよこさしツて見｛み｝りやア直｛すぐ｝にもおめへさんをお連｛つれ｝申シ
て行｛ゆか｝なけりやア私｛わたし｝が名妓｛おいらん｝へ言訳｛いひわけ｝がねへ。今夜｛こんや｝は何｛なに｝か御用｛ごよう｝が
有｛ある｝にしろ翌日｛あした｝は是非｛ぜつぴ｝｜被為入｛いらつしやる｝だらふねへ。」【由】「ウン翌日｛あした｝は
是非｛ぜひ｝往｛いく｝ヨ。何｛なに｝しろ然｛さう｝して手紙｛てがみ｝に委｛くは｝しく書｛かい｝て遣｛やつ｝たら宜｛いゝ｝
じやアねへか。おめへがずるけでもして届｛とゞけ｝ねへのじやアなし。」【静】「然｛さう｝
｜被為仰｛おつしやる｝が童児｛がき｝の使｛つかひ｝のやうにハイお返事｛へんじ｝と言｛いつ｝たばかりで
此｛この｝手｛て｝がみを出｛だ｝されもしやせんハナ。ネモシ然｛さう｝じやアありや

（１２ウ）
せんか。」【由】「ハヽヽヽそこはお前｛めへ｝の気｛き｝てんでどうとも言｛いつ｝て
をきねへナ。」【静】「ハヽヽヽありがてへ。難渋｛なんじう｝な場｛ば｝といふと此身｛こちら｝へ
仰付｛おふせつけ｝られるだ。しかし名妓｛おいらん｝も可愛｛かあい｝そふサ。此｛この｝間｛あいだ｝からお前｛めへ｝
さんの〔こと〕ばツかりあんじて「嘸｛さぞ｝まア然｛さう｝糾明｛きうめい｝させられて居｛ゐ｝
なんしたら窮屈｛きうくつ｝ざませうねへ。他｛ほか｝の人｛ひと｝から文｛ふみ｝を上｛あげ｝申シ＊「せう」は部分欠損
たところが届｛とゞ｝かず一寸｛ちよいと｝でも来｛き｝なんすやうにどうかして
呉｛くん｝なましなねへ。」と私｛わつし｝にばかり相談｛さうだん｝たからそんなら斯〻｛かう〳〵｝
とさうだんして今日｛けふ｝この金子｛かね｝を私｛わつし｝に届｛とゞ｝けさせる名妓｛おいらん｝の

（１３オ）
の心配｛しんぱい｝といふもなアどんなでごぜへやせう。若旦那｛わかだんな｝＊「名妓｛おいらん｝のの」の「の」は衍字
おめへさんも余程｛よづほど｝罪｛つみ｝つくりだ。」［是は由之助がなじみの名妓｛おいらん｝なり。静太夫は由之助のこゝろ＊「余程｛よづほど｝」（ママ）
合なれば何｛なに｝かたのまれしとおもはる。くわしくは四へん五べんにおのづからわかるべし］【由】「フンおもしろくもねへ。
彼妓｛あいつ｝のおかげじやア椀久｛わんきう｝じやアねへが此様｛こんな｝身分｛みぶん｝に
成｛なつ｝て居｛ゐ｝らア。」【静】「だから此｛この｝くれへな〔こと〕は為｛し｝ても宜｛いゝ｝
はづかありがてへ。ハヽヽヽヽハヽヽヽヽ。」【由】「ハヽヽヽヽハヽヽヽヽ。」
〽まぼろしの姿｛すがた｝はきへてかげろうのくわだんに飛｛とび｝こふ
秋｛あき｝のてふ手｛て｝にもとられずちら〳〵〳〵［合］風｛かぜ｝にみだるゝ

（１３ウ）
おしろいもはねに残｛のこ｝して草｛くさ｝がくれ。
【静】「実｛じつ｝に感心｛うまい｝。もうあれで今日｛けふ｝はおしまいかしら。」【由】「
ごうぎに賞美｛ほめる｝ノ。」【静】「破瓜｛としごろ｝の娘｛むすめ｝にしては能｛よく｝さらいま
すネ。モシ稽古所｛けいこじよ｝でも押出｛おしだ｝すつもりかネ。」【由】「どう
だか。」【静】「ハテネ。」ト［かんがへるおもいれをする］【由】「ハヽヽヽ其様｛そんな｝に気｛き｝にせず
と宜｛いゝ｝じやアねへか。」【静】「ハヽヽヽ何｛なに｝にしろ時鳥｛ほとゝきす｝でつまら
ねへ。声｛こゑ｝ばかりで姿｛すかた｝は見｛み｝せずか。」【由】「そら程｛ほど｝御懇望｛ごこんもう｝なら
御面像｛ごめんぞう｝を拝｛おが｝まそふか。」【静】「ヱそりやアありがてへ。なら＊「なら」の「ら」は部分欠損

（１４オ）
ばモウ一度｛ひとつ｝お銚子｛ちようし｝をかへずばなるまい。ドリヤ。」【由】「呼｛よび｝ねへ
ナ。」【静】「イヱサそふ〳〵お客｛きやく｝ぶツてお燗｛かん｝のたびに。モシお次｛つぎ｝
の衆｛しゆ｝などゝ言｛いつ｝てごらふじろ。ヱモよく来｛き｝てすかねへ
太夫｛たゆふ｝さんだヨ。其様｛そんな｝にたび〳〵来｛く｝ると大旦那｛おほだんな｝さまに
告達｛いつけ｝て遣｛やる｝ヨなどゝ急地｛きつと｝言｛いは｝れるだテ。」ト［からかみをあけるとたんにむかふでも
あける出｛で｝あひがしら］【静】「ホイこれはしたり。」【下女】「ヲヤびつくり
いたしました。お燗｛かん｝でございますかヱ。お呼｛よび｝なさいまし
なねヱ。」【静】「ヤ聞｛きい｝て居｛を｝ツたナ。」【下女】「何｛なん｝でございますヱ。

＄（１４ウ）
由之助
〈画中〉探幽筆

＄（１５オ）
静太夫

（１５ウ）
ホヽヽヽヽ。アノ若旦那｛わかだんな｝さまヱ唯今｛たゞいま｝うらのお梅｛うめ｝さんの母人｛おつかさん｝が
参｛まい｝りまして先刻｛さきほど｝若旦那｛わかだんな｝さまにお庭口｛にはくち｝でおねが
ひ申シて置｛をき｝ました。お梅｛うめ｝を左様｛さやう｝なら今｛こん｝ばん何卒｛どふぞ｝
おとめ被下｛ください｝まし。おかげさまで私｛わたくし｝も安心｛あんしん｝いたして行｛いつ｝て
参｛さん｝じます。と申シてお梅｛うめ｝さんを置｛をい｝て帰｛かへ｝りました。」【由】「
ウン然｛さう｝か。」【下女】「承｛うけたま｝りましたら玉川辺｛たまがはへん｝へ往｛ゆか｝れますの
ださうでござゐます。」【由】「然｛さう｝だとヨ。先刻｛さつき｝畑｛はたけ｝を見｛み｝て
居｛ゐ｝たら井戸端｛ゐどばた｝に彼｛あの｝お袋｛ふくろ｝が居｛ゐ｝たがやがて己｛おれ｝を見｜付｛つけ｝たと

（１６オ）
みへて斯〻｛かう〳〵｝いふ時宜｛しぎ｝で困｛こま｝りますが何卒｛どふぞ｝今宵｛こんばん｝彼｛あの｝娘｛こ｝を
此方｛こなた｝さまへお置｛をき｝被下｛ください｝ませんかと頼｛たの｝ンだツけ。」［是｛これ｝はお梅の母｜玉川｛たまがは｝の親類｛しんるい｝へ急用事｛きうようじ｝あり
て行｛ゆく｝にむすめをつれ立｛だち｝ては仕｛し｝たくも埓｛らち｝あかずひとり留守｛るす｝にもおけず地主｛ぢぬし｝の下女とは心やすければ一トばんとめてもらひたきよしをたのまんとおもひし
ところへ由之助にあひしかばとりあへずたのみしなり］【下女】「左様｛さやう｝でございますか。どうも
悪気｛にくげ｝のない娘｛こ｝でございますねへ。貴君｛あなた｝は又｛また｝嘸｛さぞ｝とり別｛わけ｝
可愛｛かあい｝らしいと思召｛おぼしめし｝ませう。ヲホヽヽヽヽ。」【由】「フン馬鹿｛ばか｝アいへ。」
【静】「アハヽヽヽ其｛その｝お梅｛うめ｝さんとやらは如何｛いか｝なるものだネ。」【下女】「先
程｛さきほど｝からアノ浅間｛あさま｝をさらツて居｛を｝ツた娘｛こ｝でございますヨ。」

（１６ウ）
【静】「ヱ其｛その｝娘｛むすめ｝が来｛き｝て居｛ゐ｝るとへ。そいつア若旦那｛わかだんな｝
はやくお呼｛よび｝被成｛なせへ｝ナ。」【由】「ハヽヽヽヽ左様｛さう｝一寸｛ちよつ｝くら見｛み｝せちやア
尊｛たつと｝くねへ。」【静】「ハヽヽヽ宜｛いゝ｝頑愚｛こけ｝にされる奴｛やつ｝サ。」【由】「ハヽヽヽヽ
此方｛こつち｝へ連｛つれ｝て来｛き｝な。」【下女】「ハイ。」ト［たちゆきやがてお梅をつれてざしきへ入れるにはづかし
さうにすはる］【梅】「ハイ若旦那｛わかだんな｝さま先｛さき｝ほどは。」【由】「よくお出｛いで｝だ。
モウ母人｛おつかさん｝はお行｛いで｝かへ。」【梅】「ハイモウ安心｛あんしん｝いたして参｛まい｝り
ました。有がたうございます。」【由】「然か。モウけして
心置｛こゝろをき｝なくお在｛いで｝ヨ。何｛なに｝も気｛き｝のつまる人｛ひと｝はひとりも

＄（１７オ）
〈画中〉おうめ
〈画中〉よしの助

（１７ウ）
居｛ゐ｝ないから。」【梅】「ハイ有｛あり｝がたふございます。」【静】「ヱヘン〳〵
若旦那｛わかだんな｝今夜｛こんや｝一件｛いつけん｝へ往｛いけ｝ねへとおつしやるなア
このおもいれがあるからだネ。宜｛よう｝ごぜへます注春
亭｛ちうしゆんてい｝の料理｛りやうり｝ばかりじやア承知｛せうち｝しませんゼ。鮑｛あはび｝も
今｛いま｝はのこり少｛ずくな｝か。アハヽヽヽ。貝｛かい｝のふくら煮｛に｝はおらやだちウ。」
【お梅下女】「ヲホヽヽヽヽヲホヽヽヽヽ。」［是｛これ｝より又｛また｝しはらく酒｛さか｝〔ごと〕とあり。くだ〳〵しければりやくす］【静】「ヲヤ入｛いり｝あいだね
私｛わたくし｝はマアおいとまだ。」【由】「なぜまア宜｛いゝ｝やア。」【静】「お邪广｛じやま｝に
なるも気｛き｝が利｛きか｝ねヱ。なんのと気障｛いやみ｝も言｛いつ｝ておかねへ

（１８オ）
と若旦那｛わかだんな｝は｜鉄面皮｛しやアつら｝だから。」【由】「ナニおもしろくもねへ。」
【静】「アハヽヽヽナニ実｛じつ｝は今夜｛こんや｝約束｛やくそく｝の客人｛きやくじん｝がありやすから。」
ト［それ〳〵にあいさつをしてかへりゆく］跡｛あと｝はお梅｛うめ｝と由之助｛よしのすけ｝手｛て｝もち不沙汰｛ぶさた｝な
さしむかひ若｛わか｝い同士｛どうし｝は何｛なに｝とやら間｛ま｝の悪｛わる｝さうな風情｛ふぜい｝
にてしばし詞｛〔こと〕ば｝も途｛と｝ぎれたり。今｛いま｝この両人｛ふたり｝が形容｛ありさま｝は
将｛まさ｝に是｛これ｝
やがて開｛さく｝つぼみの梅｛うめ｝の匂｛にほ｝ひかな。
春色連理梅巻之二畢


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底本：東京大学文学部国語研究室蔵本（4L:124:1）
翻字担当者：島田遼、矢澤由紀、成田みずき、藤本灯
更新履歴：
2017年7月26日公開