春色連理の梅 初編上 ---------------------------------------------------------------------------------- 凡例 1.本文の行移りは原本にしたがった。 2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。 3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。 4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア 5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」 6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。  平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ  片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ  複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵 7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。 8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。 9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。 10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕 11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい} 12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日} 13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい} 14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。 15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】 16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。 17.不明字は■で示した。 18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」 19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。 20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。 本文の修正 1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。 ---------------------------------------------------------------------------------- (口1オ) 春色{しゆんしよく}連理楳{れんりのうめ}序{ぢよ} 人{ひと}ならばいかに浮名{うきな}やたちぬらむ。 枕{まくら}に通{かよ}ふ夜半{よは}の梅{うめ}が香{か}。となん。 偶然{ぐうぜん}に詠{よみ}たりし宿{やど}の妻{つま}は。其{その}夫{つま}の 疑心{ぎしん}解{とけ}やらず。恋{こひ}の濡衣{ぬれぎぬ}着{き} たりとかや。実{げ}に梅{うめ}は武士{ものゝふ}の勢{いきほひ} (口1ウ) あればにや。色香{いろか}を慕{した}ふと聞{きひ} て忍雄{しのびを}といはれん事{こと}其{その}謂{いは}れ なきにしもあらず。越後{ゑちご}に八房{やつぶさ}の 梅{うめ}あれば駿河{するが}に実{さね}なしの 梅{うめ}ありといへり。軒端{のきば}の梅{うめ}には 式部{しきぶ}が操{みさほ}後{のち}の世{よ}の今{いま}に薫{かほ}り (口2オ) 袖{そで}の梅{うめ}には二日酔{ふつかゑひ}の移香{うつりが}も 床{ゆか}しく。言訳{いひわけ}くらき夜{よる}の梅{うめ}。 星{ほし}をさゝれて二三輪{にさんりん}。袂{たもと}から出{で}る 葩{はなびら}は梅屋舗{うめやしき}の土産{みやげ}にあらず。 小梅{こうめ}の地名{ちめい}を其{その}まゝに。世話 女房{せわにようぼう}に命{なづ}けたるこそ粋{すひ}な (口2ウ) 作者{さくしや}の才{はたらき}なれ。茲{こゝ}に梅暮 里{うめぼり}の作号{さくごう}に因{ちなみ}て連理{れんり}の梅{うめ} の一株{ひとかぶ}あり。二世{にせ}谷峨{こくが}うしの 筆先{ふでさき}に培{つちか}いて花{はな}の盛{さか}りを 多{おほ}く見{み}せて后{のち}。実{み}のりを 結{むす}ぶ仕組{しぐみ}なり。編{へん}を継穂{つぎほ}の (口3オ) 梅暦{うめごよみ}。開{ひら}くやけふの売初{うりぞめ}から。 利{り}をも恵方{ゑほう}の板元{はんもと}が御得意{おとくゐ} さまへ芳{かうば}しき御評判{ごひやうばん}を ねがふといふ。 花の屋よし彦。 $(口3ウ) 柳{やなぎ}桜{さくら}色絵{いろゑ}の加賀豊年{かゞぼね} 擬{ぎす}芸者{げいしや}仲吉{なかきちに}*「擬」に返り点「二」、「吉」に返り点「一」 おきく $(口4オ) さくら咲{さく} 中に 柳{やなぎ}は 男なれ しなよく まじる 雛{ひな}の豆{まめ} いり 玖玉亭 京英 擬{ぎす}義尚{よしひさに}*「擬」に返り点「二」、「尚」に返り点「一」 房二郎{ふさじろう} 擬{ぎす}娘{むすめ}紫{むらさきに}*「擬」に返り点「二」、「紫」に返り点「一」 お雪{ゆき} $(口4ウ) 鶯{うぐひす}の初音{はつね}の里{さと}に母親{はゝおや}と両個{ふたり}貧{まづ}しく住居{すまゐ}して 木綿{もめん}布子{ぬのこ}の垢染{あかじみ}し形{なり}に ひきかへ心{こゝろ}の錦{にしき}は 多{おほ}く 得{ゑ} がた き 孝貞{かうてい} 両全{りやうぜん}の娘{むすめ}お梅{うめ} 梅暮里谷二述 $(口5オ) 世{よ}に|紙人形{あねさま}といふ ものは雛{ひな}に擬{なぞらへ}し玩{もてあそび} なり。抑{そも〳〵}雛祭{ひなまつり}は身{み}の上{うへ}一切{いつさい}の 災厄{さいやく}をゆづりて祓{はらふ}の具{ぐ}なり 雛{ひな}あるひは母子{はふこ}と名{な}づけ 蓋{おほ}ふて物{もの}をもつて 母子{はゝこ}の身体{しんたい}を撫{なで} 水辺{かはべ}に解除{やくよけ}しまた |桃花酒{しろざけ}を飲{の}むも禊事{はらひ}を 修{する}意{こゝろ}文徳実録{ぶんとくじつろく}といふ書{ほん}に 母子{はゝこ}祓具{ばつぐ}の義{ぎ}あり。しかれば世{よ}の|児女達{ひめたち} つね〳〵|紙人形{あねさま}を製{こしら}へ食事{まゝごと}をして 義理{ぎり}あいさつ朝夕{ちやうせき}の お膳立{ぜんこしらへ}をおぼへ給ふべし 金多 屋{かねたや}の 息子{むすこ} 由{よし} 之 介 $(口5ウ) 美食{びしよく}にも まだ あきたらで 花柚{はなゆ}かな 魯鈍翁 (1オ) 春色{しゆんしよく}連理梅{れんりのうめ}巻之一 江戸 梅暮里谷峨作 第一齣 摂州{せつしう}伊丹{いたみ}の故人{こじん}。鬼貫{おにつら}が発句{ほつく}に。「骸骨{がいこつ}のうへを |化粧{よそふ}て花見{はなみ}かな。」と悟{さと}ツて見{み}ればあなめ〳〵小野{をの}と もいはず薄{すゝき}生{おふ}。秋{あき}の哀{あはれ}に感{かん}じては。妻{つま}乞{こふ}|錦馬{しか}の 音{ね}もほそる。夜半{よは}の契{ちぎ}りをいかにして。悟{さと}れるもの なら親{おや}兄弟{はらから}に。苦労{くらふ}をかける〔こと〕もあるまじ。卑竟{ひつきよう} (1ウ) 迷{まよふ}が恋{こひ}なるを。迷{まよ}はぬてふは匹夫匹婦{ひつぷひつぷ}の。あはれを しらぬ情{ぢよう}なしのみ。されば迷{まよ}ひし男女{なんによ}の中{なか}にも。義理{ぎり} といふ字{じ}をしらぬにあらねば。|他人{ひと}の誹{そしり}は承知{せうち}し ながら。惚{ほれ}て惚{ほれ}られて合惚{あひぼれ}とやら。とゞのつまりは堂囲{だうかう} と。手前勝手{てまへがつて}の相談{さうだん}も。逼{せま}り〳〵て暗{くら}からぬ。身{み}さへ 世間{せけん}を忍{しの}ぶ摺{ずり}。みだれそめにし意{こゝろ}の駒{こま}の。狂{くる}ひ出{だ}し てはなか〳〵に。止途{とめど}もあらぬ一心{ひとすぢ}に。馬鹿{ばか}らしくはる 恋{こひ}の意地{いぢ}。さらに我{わ}が気{き}もしれぬほど。愚痴{ぐち}になツ (2オ) たる|合性{すいた}どし粋{すい}な浮世{うきよ}に野暮{やぼ}らしき。口説{くぜつ}に募{つの}る 争論{いさかひ}も。|和合過{なかのよすぎ}し我意{わがまゝ}より。惚{ほれ}たよわみは五分〻〻{ごぶ〳〵}にて。 果{はて}は互{たがひ}に抱{いだ}きつき。|他人{ひと}も入{い}らざる和睦{なかなほり}。済{すみ}ぬる跡{あと}か睦{むつまし}う。 余念{よねん}なげなる相対{さしむかひ}。火鉢{ひばち}の端{ふち}に肘{ひぢ}をかけて。灰{はい}へ何{なに}やら 火箸{ひばし}もて。くだらぬ事{〔こと〕}を書{かき}ちらす。|美少年{わかしゆ}の側{そば}へ是{これ}もまた。 寄添{よりそひ}ながら同{おなじ}様{やう}に。灰{はい}へ字{じ}を書{か}く白歯{しらは}の娘{むすめ}今茲{ことし}十九か 廿歳{はたち}なるべし。最{いと}艶容{あてやか}なる生質{うまれつき}。形{なり}こそ少{すこ}し肥{ふと}り たれ。爪{つま}はづれの艶{やさ}しさは高位{かうい}の姫君{ひめぎみ}にも恥{はづ}べからず。 (2ウ) 今{いま}如何{いか}なる〔こと〕やなしけん。草束{くさたばね}の島田{しまだ}の位置{いち}少{すこ}しわれて 頬{ほう}にぱらつく鬢{びん}の毛{け}を。撫{なで}あげながら。少年{わかしゆ}の㒵{かほ}を じつと見つめ【お菊{きく}】「ヲヤ房{ふさ}さん其{その}字{じ}は何{なに}とよみますヱ。」[若衆{わかしゆ} はほゝゑみながら]「これかへ是{これ}はなんだらぼうしの柿{かき}のたねサ。」【菊】「ヲヤその 柿{かき}の種{たね}はおまはん大{たい}お好{すき}だらふネへ。」【房】「ナニ他{ひと}柿{かき}の種{たね}をくふ ものがあるものか。」【菊】「フンいゝかげんに|被成{おし}ヨ。私{わたい}がやかましく云{いわ}な からふものなら既{すんで}の〔こと〕でその柿{かき}の種{たね}に見{み}かへられるところサ。 憎{にく}らしい。」【房】「なんぼ私{あたし}が猿{さる}の像{やう}な面{かほ}でも柿{かき}の種{たね}は謙{きらひ}さ。 (3オ) ヲ。猿{さる}の好{すき}なア桃{もゝ}だツけネ。」【菊】「よいヨ。なんとでもおツしやい。不断{ふだん} |無絶間{しよツちう}お滝{たき}さんの〔こと〕計{ばツかり}思{おも}ツてお在{いで}だから一寸{ちよい}としても 其様{そんな}字{じ}をお書{かき}のだ。ゑゝも腹{はら}が立{たつ}。」ト[房二郎{ふさじろふ}が灰{はい}へかきしたきといふ字{じ}を火{ひ}ばしにてけす。 さてこのおたきといふ女は青柳{あをやぎ}ばしの芸者{げいしや}にて近所{きんしよ}なればお菊{きく}とも心やすく行{ゆき}かひすれども房二郎とわけあるにもあらざれは何{なに}もやきもちにはあらず。たゞ 如斯わけもなき〔こと〕にからかつたりからかわれたりするがほれた中{なか}にてはもつとも楽{たの}しき〔こと〕なるべし]【房】「ヲヤ〳〵つまらない字{し} を書{かい}て痛{いた}くもない腹{はら}を探{■く}られるからモウ〳〵灰{はい}へ書{かく}〔こと〕は*「■」は「さ」の部分欠損か |停止{おやめ}にしませう。」【菊】「アヽお止{よし}被成{なさい}。其様{そんな}字{じ}は私{わたいン}処{とこ}の火鉢{ひばち} へは書{かゝ}せません。サア〳〵そんな人{ひと}は火{ひ}へもあたらせる (3ウ) 〔こと〕はなりませんから其方{そつち}へお退{どき}被成{なさい}。」ト[房二郎の膝{ひざ}をつく]【房】「ひ どいぞんきだネ。然{そう}卑{やす}くして貰{もら}ひたくないものだ。斯{かう}見{み} えても私{あたし}には立派{りつぱ}な|御内室{おかみさん}が附{つい}て居{ゐ}るヨ。」【菊】「ヲヤ おまはんにおかみさんの在{ある}〔こと〕は少{すこ}しも存{そん}じましなんだヨ。 おまへさんの|御内室{おかみさん}ならさぞお美{うつくし}からふネへ。」【房】「美{うつく}しい どころか見{み}た〔こと〕はないがむかしの路考{ろかう}と先達{こないだ}死{し}んだ |杜若{おほたゆふ}を搗雑{つきまぜ}て拵{こしら}へたやうな㒵{かほ}でネそれはモウどんなに 奇麗{きれい}でそして真{ま〔こと〕}にやさしく可愛{かあい}がツてくれるヨ。」ト (4オ) [■はれてすこし顔色{かほいろ}をかへて]【菊】「左様{そう}でございますかへ。そりやアおまへさんの よふな方{かた}を御亭主{ごていしゆ}に持{もて}ばどんなにやさしくても宜{よふ} ございますのサ。そふしておまへさんのお嫁{よめ}ごさんだから お年{とし}も十四か十五でさぞお可愛{かあひ}らしからふ。おまへさん もお可愛{かあい}がんなさるだらふネへ。アノお名{な}は何{なん}とお云{いゝ}だ。」 【房】「ナニ歳{とし}は十九だから私{あたし}に三歳{みツつ}上{うへ}だけれども容義{きりやう}が 美{いゝ}から誰{だれ}が見{み}ても十五六より上{うへ}には見{み}へないヨ。逢{あは}せて あげよふか。」【菊】「アヽお目{め}に懸{かゝ}りたいネへ。」【房】「名{な}はお菊{きく}と (4ウ) 言{いゝ}ます。是{これ}こゝに。」ト[お菊{きく}の鼻{はな}のうへをちよいとつく]お喜久{きく}は寛爾{につこり}嬉{うれ}し くも。又{また}恥{はづ}かしき娘気{むすめぎ}に。恋{した}ふ男{おとこ}はわが身{み}より。弟{おとゝ}と思{おもふ} こゝろから。後{のち}には了{つゐ}に相想{あひさう}を。尽{つか}されやせん悲{かな}しやと。 取越苦労{とりこしくらふ}をいへばえに。岩手{いわで}の躑躅{つゝじ}色{いろ}に出{で}て。つゝむと すれど顕{あらは}るゝ。惚{ほれ}た性根{しやうね}ぞわりなけれ。【菊】「房{ふさ}さん。」【房】「何{なん}だ へ。」【菊】「実正{ほんとう}かへといふも面皮{おし}が強{つよ}いねへ。おまへさんより三歳{みツつ} も上{うへ}の姉{あね}さんで在{い}ながら此様{こんな}に惚{ほれ}るといふも卑竟{ひつきやう}おまへ さんが其様{そんな}に気安{きやす}めがお上手{じやうづ}だからサ。しかしうるさいと (5オ) お思{おも}ひだらふねへ。」【房】「うるさいどころか嬉{うれし}くツて戦粟{ぞく〳〵}するヨ。 コラ此様{こんな}に毛孔{けあな}が立{たつ}ほど。」【菊】「ヲヤ是{これ}は実{ほんと}にお寒{さむ}いのだ。サア 足{あし}をこゝへお入{いれ}ヨト[横{よこ}によりて股{また}をひらき男{おとこ}の足{あし}を入{いれ}てあたゝめる]アレサ二布{いもじ}へ突{つッ}かけ てはいけないわねへ」【房】「嬉〻{うれしい〳〵}こゝと乳{ちゝ}のあいだか一{い}チばん 温{あつたか}くツて宜{いゝ}ヨ【菊】サア〳〵そんなら手{てゝ}も両方{りやうほう}とも斯{かう}して 入{いれ}ておゝ置{をき}」ト[しつかり互{たがひ}にだきつく]【菊】「ヲヤ冷{つめ}たい鼻{はな}だねへ。然{そふ}いへ ばモウ何時{なんどき}だかしら。」[折{おり}からきかゝる夜商人{よあきんど}の声{こゑ}]「茶{ちや}めしあんかけ 豆腐{どうふ}。茶飯{ちやめし}やでごさい。」【房】「あれは 毎晩{まいばん}うしろ裏{うら}から見附 (5ウ) 前{みつ■まへ}へ夜明{よあかし}に出{で}る人{ひと}の声{こゑ}に似{に}て居{ゐ}るねへ。」【菊】「アヽきつと然{そう}だヨ。 それではモウそちこち二更{よつ}だらふ。今夜{こんや}は止宿{おとまり}では悪{わるい}かねへ。」【房】「 ナニ宜{いゝ}がお邪魔{じやま}なら帰{かへ}らふか。」【菊】「アレ又{また}其様{そんな}憎{にくま}れ口{ぐち}を お仰{きゝ}だヨ。よく人{ひと}に気{き}を揉{もま}せる〔こと〕計{ばつかり}お言{いひ}だねへ。憎{にく}らしい。 それとも否{いや}かへ。」【房】「なにが。」【菊】「私{わたい}と斯{かう}してお在{いで}のがサ。」【房】「いやな くらひなら斯{かう}|為堕落{のろく}はなりません。自由{じゆう}になるものならお前{まへ} の骸{からだ}と私{あたし}の骸{からだ}と、一身{ひとつ}に成{なつ}て仕舞{しまつ}たら気{き}がもめなくツて寧{いつそ}宜{よか}らふと思{おも}ふヨ。」ト[いはれておきくはしんそこうれしく別段{べつたん}に又{また}につこりして]【菊】「うれしい (6オ) ねへ。」【房】「ア。アレサ其様{そんな}にひどく抱{だき}しめてはおまへの胸{むね}て鼻{はな} も口{くち}も押{おさ}れて息{いき}が出{で}ないで苦{くる}しいやネ。」【菊】「ホヽヽヽヽ惚{ほれ}たに 加減{かげん}が出来{でき}るものかネ。サアそれでは床{とこ}をとツてほんとに 寝{ね}ませう。」【房】「寝{ね}るばかりかへ。」【菊】「アヽそれとも何{なに}かお喰{たべ}か。」 【房】「なアに何{なに}もモア喰{くい}たかアないがネ寝{ね}るばかりでは私{あたし}やア 否{いや}。」【菊】「ホヽヽヽヽ外{ほか}に何{なに}をするンだへ。」【房】「外{ほか}に斯{かう}いふ〔こと〕をサ。」ト[肘{ひぢ}を 突{つい}て腰{こし}を立{たて}ながらおきくの手{て}をもちそへ㒵{かほ}をしつとみて]【房】「ソラ御覧{ごらん}。」【菊】「ヲヤまアあきれるヨ。」ト 言{いひ}ツヽおきくは身{み}をあせり「ハ。アヽ可愛{かあ}いゝねへ。」といふ声{こへ}に (6ウ) 母親{はゝおや}は目{め}を覚{さま}し【母】「コレサおきくやお菊{きく}ぼうや眼{め}を覚{さま} しなヨ。ひどくうなされるノウ。おきくや。」とゆり起{おこ}され て眼{め}を覚{さま}し。あたりを見れば我{わ}が家{いへ}ながら。母{はゝ}と枕{まくら}を並{なら}べ たる。是{これ}思{おも}ひ寝{ね}の夢{ゆめ}にぞありける。【菊】「ヲヤまア私{わたや}ア何{なに}か 妄言{ね〔ごと〕}でも言{いゝ}ましたかへ。」[母{はゝ}は笑{わらひ}ながら]「アヽ言{いつ}たとも。どんなに面白{おもしろ}ひ 〔こと〕を言{いつ}たらふ。」トいはれてお菊{きく}は胸{むね}にギツクリなんと答{いらへ}も 内証{ないしよう}はうち明{あけ}ばなししたれども。男{おとこ}と添寝{そひね}の夢{ゆめ}なれば。 如何{いか}なる言{〔こと〕}や聞{きか}れけん。と思{おも}へば流石{さすが}処女気{むすめき}に。母{はゝ}の (7オ) 手前{てまへ}も恥{はづ}かしく【菊】「おかしいねへ。」ト手付{てつか}ずに。言{いゝ}まぎらし て𧝒{よぎ}の襟{ゑり}。ひき冠{かぶ}りツヽ寝反{ねがへ}りし。娘{むすめ}の後{うしろ}惆然{つく〴〵}と母{はゝ}は 見{み}ながら嘆息{ためいき}つき世{よ}が世{よ}であらば斯{かく}ばかり。娘{むすめ}も恋{した}ひ あちらでも。恋{した}ふ中{なか}ぞとしるからは。貰{もら}へるものなら聟{むこ} に乞{こひ}さらずば嫁{よ■}に遣{や}るとても。晴{はれ}て和合{なかよき}夫婦中{めうとなか}。孫{まご} をも生{うま}ばどのやうに。嬉{うれ}しき〔こと〕であるやらん。儘{まゝ}にならぬが 浮世{うきよ}ぞと。娘{むすめ}の。心{こゝろ}くみ分{わけ}て。不覚{そゞろ}に涙{なみだ}さしぐむは。女親{おんなおや}の 情{じやう}なるべし。噫{あゝ}這{この}親子{おやこ}の薄命{ふしあはせ}なる。今{いま}こそ恁{かゝ}る浅間{あさま} $(7ウ) 房二郎 $(8オ) おきく (8ウ) しき寮朋町{りやうぼうまち}の長屋住{ながやずみ}。一中節{いつちうぶし}の師匠{ししやう}をして。 世{よ}わたる綱{つな}も三味線{さみせん}の。糸{いと}より細{ほそ}き娘{こ}の挊{かせぎ}。母{はゝ}も共〻{とも〳〵} 賃縫針{ちんしごと}。賃糸{ちんいと}をとる車{くるま}より。廻{まは}し難{かね}たる痩世帯{やせせたい}。 はかなく暮{くら}す身{み}の上{うへ}なれ。昔{むかし}は何{どこ}町の某{なにがし}と。町人{ちやうにん}ながら ゆび折{おり}の。大家{たいけ}の生{うまれ}で在{あり}ながら。折重{おりかさな}りし狂津日{まがつみ}に。 せんかたもなく|零落{おちぶれ}て。袖{そで}に涙{なみた}のかゝる時{とき}。人{ひと}の心{こゝろ}の奥{をく} ゆかしくも。栄曜{ゑえう}に習{なら}ひし芸{げい}に身{み}を。助{たす}けられたる母{おや} と娘{こ}が。世間{せけん}に馴{なれ}ぬ憂{うき}苦労{くらう}。水{みづ}の行衛{ゆくへ}と人{ひと}の身{み}の (9オ) 果{はて}はしられぬものにぞありける。 第二齣 名{な}におふ鎌倉{かまくら}の横浜町{よこはまちやう}に。面庫{みせぐら}高{たか}く並{ならび}たる。格子 造{かうしづく}りの質店{しちみせ}あり。主人{あるじ}は近頃{ちかごろ}世{よ}を去{さ}りて。子息{むすこ}は病身{ひよはき} 生質{うまれつき}。且{かつ}また年{とし}も更{ゆか}ざれば。本店{ほんだな}の差図{さしづ}にて。支配人{ばんとう} の勘八{かんはち}に。当分{たうぶん}鄽{みせ}を任{まか}せしかば。隠居所{いんきよじよ}とにはあらねども。 店{みせ}と後堂{をく}との中庭{なかには}の。中{なか}へ隔{へだて}に冬木{ふゆき}のみ。植並{うへならべ}たる生垣{いけがき} の。向処{あなた}に分根{はなれ}し亭{こざしき}の。障子{しやうじ}の裏{うち}には当子{たうし}の母{はゝ}。何{なに}か苦{く} (9ウ) に成{な}る物案{ものあん}じ。側{かたはら}に居{ゐ}る侍婢{はしため}の。お豊{とよ}といふは年{とし}久敷{ひさしく}。 仕{つか}ひ馴{なれ}たる中年増{ちうどしま}。主従{しゆう〴〵}ながら女同志{おんなどし}。後家{ごけ}の胸{むね}にも 餘{あま}りつる。事{〔こと〕}などあれば左{と}の右{かう}のと。相談{さうだん}をさへする中{なか}なれ ば。火鉢{ひばち}へ炭{すみ}を継{つぎ}ながら【豊】「私{わたくし}もいろ〳〵探{さぐ}ツて他{ひと}から聞{きゝ}ます になか〳〵金{かね}づくで手{て}を切{きら}うと遊{あそ}ばしてもそれはむだでご ざいませう。先{さき}の女{おんな}が若旦那{わかだんな}さまに極{ごく}|為堕落{おつこち}で若旦那{わかだんな} さまも又{また}大{たい}そふ惚{ほれ}てお在{いで}被成{なさい}ますから相惚{あひぼれ}とやらで ございますものヲ。とてもむづかしうございますヨ。」【母】「それだ (10オ) から余{わたし}もま〔こと〕に苦労{くらふ}だわナ。然{さう}して其{その}娘{こ}は房{ふさ}より歳{とし}も 更{うへ}ばかりか稽古所{けいこじよ}を出{だ}して居{ゐ}る娘{むすめ}だから嫁{よめ}に取{と}らふと言{いつ}た 処{ところ}が親類中{しんるいぢう}で不承知{ふせうち}だらふしそれには又{また}本家{ほんだな}からはお|雪 女{ゆきさん}を是非{ぜひ}房{ふさ}の所{とこ}へ嫁{よこ}そふといふはなしに成{なつ}ているものヲ。 本家{ほんだな}の〔こと〕ではあるし否{いや}だとは言{いは}れず。それに|お雪女{あのこ}も嬉{うれ} しがつて此方{こつち}へ来{く}るのを楽{たの}しみにして居{ゐ}るといふ〔こと〕だから爰{こゝ} で房{ふさ}の心{こゝろ}が柔弱{ぐれる}と本店{ほんだな}へ対{たい}して済{すま}ぬばかりか勘八{かんはち} 任{まかせ}の店{みせ}だから始終{しじう}は麗簾{のれん}へでも拘{かゝは}る大事{だいじ}になりも*「簾」は「たけかんむり+广」 (10ウ) しようかと思{おも}ふとモウ胸{むね}も一杯{いつぱい}に成{なる}ヨ。」【豊】「ホンニ左様{さやう}でご ざいますねへ。しかしふだんお|柔和{おとな}しい若旦那{わかだんな}さまで |被為入{いらつしやい}ますからそれはモウ無理{むり}に離別{おきれ}あそばせと申シ たら御承知{ごせうち}も被成{なさい}ますまいがこゝの処{ところ}は先{まづ}ともかく も御本家{ごほんけ}のお嬢{じやう}さまを御新造{ごしんぞ}さまに被成{なさら}ないでは 斯{かう}いふ理{わけ}でお家{いへ}の大事{だいじ}にもなる〔こと〕だから得{とつ}くり貴君{あなた} が御異見{ごいけん}を遊{あそば}したらそれでも何{なん}でもお菊{きく}さんで無{な}け ればならぬと強{しい}て|被為仰{おつしやり}も被成{なさい}ますまと存{そん}じ*「ますまと」(ママ) (11オ) ます。」【母】「然{さう}サ。わたしも左様{さう}思{おも}ふが色情{このみち}ばかりは互{たがひ}にあつく 成{なつ}て居{ゐ}る処{ところ}を他{はた}から彼是{かれこれ}いふと猶{なほ}募{つのる}もので果{はて}には面倒{めんどう}だと 思{おも}ふとひよんな〔こと〕にも成{な}るものだからしらぬ㒵{かほ}をして居{ゐ}たは。実{しつ}は 先{さき}は手取者{てとりもの}だから母娘{おやこ}が馴合{なれあつ}で房{ふさ}を欺{だま}して|黄金{かね}にでも仕{し} やうといふ計略{もくろみ}だと思{おも}ツたから秋風{あきかぜ}の立{たつ}た時{とき}手切{てぎれ}でも出{だ}せば済{すむ}と たかをくゝツて居{ゐ}た処{ところ}が|大相違{おほちかひ}て何{なに}かおぬしのいふ通{とふ}り噂{うはさ}を 聞{きけ}ば其{その}娘{むすめ}はなか〳〵身分{みぶん}にも似合{にあは}ぬ貞実{ていじつ}もの母親{はゝおや}も真{ま〔こと〕}に 善{いゝ}人{ひと}だそふだヨ。然{さう}して見{み}ると慾{よく}にかゝツて房{ふさ}と馴染{なじん}だンでも (11ウ) ないからま〔こと〕に可愛{かわひ}そふサ。」【豊】「左様{さやう}でございます。アノぜん体{たい} お嬢{ぢやう}さんとはマア御婚礼{ごこんれい}遊{あそ}ばしてそれから彼{あの}|女子{おこ}は別{べつ}に若 旦那{わかだんな}さまの御{ご}ほよう所{しよ}に被成{なさつ}てお置{をき}被成{なさつ}たら宜{よう}ござい ませうに。」【母】「さうもいかないわナ。其様{そんな}〔こと〕を聞{きい}たらお雪{ゆき}も心気{こゝろもち}を わるくするだらふしそふすりやア直{ぢき}本家{あちら}へも聞{きこへ}る。聞{きこ}へて見{み} ると始終{しじう}やツぱり房{ふさ}の為{ため}に悪{わるい}わナ。」【豊】「左様{さやう}でございます ねへ。深{ふか}くおあんじ遊{あそ}ばせば左様{さう}でございますがしかし此{この}御身 上{ごしんしやう}で一個{ひとり}ぐらひな女{おんな}を別{べつ}に|被成{して}お置{をき}遊{あそ}ばしたからとて何程{いくら} (12オ) おいたみに成{なり}ますものか。それを何{なに}も御本家{ごほんだな}だからとて然{さう}かれ 是{これ}|被為仰{おつしやる}理{わけ}もありますまいと存{ぞん}じますがねへ。」【母】「ナニそれはモウ 旦那{だんな}が[房二郎が父{ちゝ}なり。即|夫{をつと}をさしていふ]存命{たつしや}でござればよしやお雪{ゆき}さんを嫁{よめ}に貰{もら}う にしろ外{ほか}に一個{ひとり}や両個{ふたり}の女{おんな}が在{あ}ツたからとて子細{しさい}はないが何{なに}を いふにも今{いま}では本店{ほんたな}へ任{まか}せた身上{しんしよう}鄽{みせ}は番頭{ばんとう}の了簡{りやうけん}しだい。 それといふも|房二郎{あのこ}が病身{びやうしん}故{ゆへ}去年{きよねん}十五で元服{げんぶく}させる処{ところ}を 小{こ}がらだから未{ま}だ宜{いゝ}と旦那{だんな}が|被為仰{おつしやつ}て元服{げんぶく}もさせず。店{みせ}へも とんと出{で}ないからの〔こと〕だわナ。此{この}頃{ごろ}体{からだ}も少{すこ}し達者{ぢやうぶ}に成{なつ}たか (12ウ) ら強面{やつき}と成{なつ}て呉{くれ}なければならぬ処{ところ}を此{この}しだら。もしひよツと お雪{ゆき}を謙{きらつ}て房{ふさ}が囲{かう}のあゝのといふ〔こと〕が本店{ほんだな}へ聞{きこ}へたらそれ はモウ大変{たいへん}サ。」【豊】「なんにいたせ貴君{あなた}にお似{に}遊{あそ}ばして若旦那{わかだんな} さまが御奇量{ごきりやう}よく御生{おうまれ}遊{あそ}ばしたから娘衆{むすめたち}がほれていけ ません。それだからやツぱり貴君{あなた}が御生{おうみ}やうのおわるいので ございますヨ。」【母】「なんだ其様{そんな}戯言{じようだん}どころではないわな。」 【豊】「ホヽヽヽヽそれでも貴君{あなた}それに違{ちが}ひございませんものヲ。」【母】「ホヽヽヽヽ そんな〔こと〕はどふでも宜{いゝ}がマアどふしたもんだらふノウ。」【豊】「とても (13オ) お師匠{ししよう}さんとはきれいにお離{きれ}遊{あそ}ばす理{わけ}にはなりますまいヨ。 どうも私{わたくし}どもが聞{きゝ}ましたばかりも其{その}心{こゝろ}いきが如何{いか}にもお可哀{かあひ} そふでございますものヲ。」【母】「なにがヱ。」【豊】「アノ此間{こないだ}本屋{ほんや}の 浅{あつ}さんが申シましたがおきくさんといふ娘{こ}は真{まこと}に感心{かんしん}だ。あんなに 若旦那{わかだんな}さまに惚込{ほれこん}で在{い}ながら若旦那{わかだんな}が長{なが}くでも側{そば}に 遊{あそ}んで|被為入{いらつしや}るとそれはモウ頻{しき}りにあんじてからにお袋{ふくろ}さん がさぞおあんじ遊{あそ}ばすだらふからマアお家{うち}へお帰{かいん}被成{なさつ}て然{さう} して又{また}来{き}て下{くだ}さい。といふと若旦那{わかだんな}が立腹{おほこん}被成{なさ}ツて其様{そんな} $(13ウ) おとよ $(14オ) 房二郎の母 (14ウ) に邪魔{じやま}なら帰{かへ}ります。とつん〳〵被成{なさる}もんだから又{また}その 機嫌{きげん}をお直{なほ}さし申ス様子{やうす}の艶{やさ}しい〔こと〕はモウどんなに 可愛{かあひ}らしうございませうと申シましたヨ。」【母】「浅{あつ}さんもおきく とやらの家{うち}へ行{ゆく}のかへ。」【豊】「ハイ若旦那{わかだんな}さまが連{つれ}て入{いら}しツたそふ でございます。」【母】「ヲヤ然{さう}かへ。マア逢{あひ}もしない私{わたし}が心{こゝろ}をあん じてあの房{こ}をはやく帰{かへ}すやうにして呉{くれ}るのは大体{たいてい}な心配{こゝろづかひ} ではないのさノウ。それに自身{じぶん}の手{て}ひとつで親{おや}を養{やしなふ}中{なか}だから 物{もの}〔ごと〕平生{つね}に不自由{ふじゆう}がちだらふし然{さう}いふ娘{むすめ}を貰{もら}ツて (15オ) 嫁{よめ}に仕{し}ようものならそれはモウ万事{ばんじ}にやさしくツて身上{しんしよう}の為{ため} にも宣{いゝ}には違{ちがひ}ないとは思{おも}ふものゝ本家持{ほんだなもち}は然{さう}もならず。 ましてお雪{ゆき}といふ結縁{いゝなづけ}同{どう}やうの嫁{よめ}はあるし何{なにゝ}しろ困{こま}ツた ものだノウ。」【豊】「左様{さやう}サ。お雪{ゆき}さまも|先達{とう}から若旦那{わかだんな}さま には惚{ほれ}てお在{いで}被成{なさる}御様子{ごやうす}だから御夫婦{ごふうふ}におなんなさるのが さぞお楽{たの}しみでございませうヨ。」【母】「ホヽヽヽヽそれといふも房{ふさ}が余{あんま} り艶{やさ}しいから娘衆{むすめツこ}に想{おもは}れるのみか本家{ほんだな}の方{かた}〳〵をはじ め何人{だれ}にでも可愛{かあひ}がられるは私{わたし}も嬉{うれ}しいがハテ斯{かう} (15ウ) いふときは餘{あんま}り人{ひと}に可愛{かあひ}がられるもよしあしだヨ。」ト あんじわづらふ親心{おやこゝろ}。慰{なぐさ}めかねしお豊{とよ}まで。ホツト計{ばかり}に嘆息{ためいき}を つくより外{ほか}はなかりけり。【母】「アノ是{これ}はモウ是{これ}ぎりの〔こと〕だが。」[一段{いちだん} こゑをひそめて]「勘八{かんぱち}の仕{し}うちがどふもわたしの心{こゝろ}にそまぬ〔こと〕が折節{おりふし} あるから是{これ}も又{また}心配{しんはい}だわな。」【豊】「アノ貴君{あなた}ヱ私{わたくし}も支配人{ばんとう}さんの 〔こと〕ではあり人{ひと}の口{くち}でございますから只今{たゞいま}までは申さずに おりましたが此間{こないだ}御本店{ごほんけ}のお松{まつ}どんが御新造{ごしんぞ}さまのお使{つかひ}に 参{まい}りました時{とき}私{わたくし}に噺{はな}しましたにはアノけふで十日{とうか}ほど跡{あと}に (16オ) 此方{こちら}の番頭{ばんとう}さんが来{き}なさいまして私{わたくし}どもの旦那{だんな}さまに おはなし被成{なさる}を隔紙{からかみ}の外{そと}で聞{きい}ておりましたが大分{だいぶ} 当節{このせつ}は若旦那{わかだんな}さんもお動楽{どうらく}をなさるそふでございます。 然{さう}して女郎買{じようろかい}ばかりではなくアノ一中節{いつちうぶし}のお師匠{ししよう}さん に大{たい}そふお金{かね}を御遣{おつかひ}なさる。」【母】「ヱ。」【豊】「マアお聞{きゝ}あそばせ。それに あつく成{なつ}て|被為入{いらしつ}て支配人{ばんとう}の御異見{ごゐけん}もお聞{きゝ}被成{なさら}ない そふだねへ。お父様{とつさま}が没{おか■れ}あそばしてまだお間{ま}もないにどう いふものでございませう。何{なん}だか御隠居{ごいんきよ}[房二郎のはゝをいふ]さまがおあまい (16ウ) せへだと番頭{ばんとう}さんが申シましたヨ。それを旦那{だんな}さまがお聞{きゝ} 遊{あそ}ばしてどうも若{わか}いうちは有{あり}かちだがしかし前髪{まへがみ}も落{おと}さ ないうちから廓通{くるはがよひ}はござれ稽古所{けいこじよ}ツぱいりをするやう ではならない。先{まづ}様子{やうす}を見{み}たうへで弥{いよ〳〵}止{やま}ぬ〔こと〕なら家{いへ}には替{かへ} られないからどうか一ト評議{ひやうき}せずはなるまいと|被為仰{おつしやつ}たを お嬢{じやう}さま[お雪をいふ]がお聞{きゝ}遊{あそ}ばしてそれはモウどんなにおあんじで お在{いて}被成{なさい}ますだらふ。お可愛{かあひ}さうでございますと申まし たヨ。」ト聞{きい}てとほうに暮相{くれあひ}の空{そら}うち仰{あふ}ぐ母{はゝ}おやが (17オ) 心労{しんらう}猶{いよ〳〵}まさるなるべし。 春色連理梅巻之一畢 ---------------------------------------------------------------------------------- 底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:124:1) 5丁表、5丁裏は原本落丁のため、同研究室所蔵の別本(A4:0232)により補った。 翻字担当者:島田遼、矢澤由紀、成田みずき、藤本灯 更新履歴: 2017年7月26日公開