日本語史研究用テキストデータ集

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小三金五郎仮名文章娘節用こさんきんごろうかなまじりむすめせつよう

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三編下

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小三金五郎仮名文章娘節用 三編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
仮名文章{かなまじり}娘節用{むすめせつよう}三編{さんへん}下之巻
江戸 三文舎自楽補述
第九回
朝{あさ}夕に。木〻{きゞ}の落葉{おちば}を雨{あめ}と見{み}つ。冬{ふゆ}をば告{つぐ}る寂{さび}しさに。心{こゝろ}も
空{そら}も時雨月{しぐれづき}。訪{と}ふ人{ひと}もなき草{くさ}の扉{と}へ。友{とも}さそひ来{き}て音信{おとなふ}は。
水鶏{くひな}にあらぬ子雀{こすゞめ}の。ちゝよはゝよと啼{なく}声{こゑ}を。聞{きく}につけても
哀{あは}れ添{そ}ふ。紫雲{しうん}は小三{こさん}の亡{なき}後{あと}を。吊{とむ}らふひまに金{きん}の介{すけ}を。
なぐさめてもまだ聞{きゝ}わけの。泣{ない}ては母{はゝ}を尋{たづ}ぬるゆゑ。不便{ふびん}の

(1ウ)
増{まし}て可愛{かあい}さに。泪{なみだ}のかはくひまもなし[母{はゝ}におくれし金の介は。紫雲{しうん}や金五郎ともろともに。七日〳〵の寺{てら}
まゐりに小三のはかへ花{はな}をたむけ。念仏{ねんぶつ}となへておがむをば。見やう見{み}まねの子心に。内へかへりてあそぶにも。さすがちすぢといひながら菊の花など折{おり}て来{き}つ。庭{には}に
立{たつ}たる石{いし}どうろうへたむけてちひさき手をあはせ]【金】「なんまい〳〵。のゝちやんなんまい〳〵。ばゝアこゝへ
来{ち}て。なんまい〳〵仕{ち}なよおばちやんもお出{いで}よウ」ト[わけわからねどおがむをば]見るに
つけ聞{き}くにつけ。乳母{うば}も紫雲{しうん}も倶{とも}なみだ。[金の助をいだきあげ]【紫】「コレ金ぼうヤ。又{また}
そんな〔こと〕をして。おばさんを泣{なか}せるのかヱ。アヽ栴檀{せんだん}はふた葉{は}とやら。
やがて成人{せいじん}したならば。孝行者{かう〳〵もの}にならうのに。いたいけ壮{さか}りのこの
子{こ}を捨{すて}て。死{しん}だ小三が心の中{うち}。マアどのやうにつらかつたろう。思ひやる

(2オ)
ほど後生{ごしやう}のさわり。ア■南無{なむ}あみだ仏{ぶつ}あみだ仏{ふつ}」ト[つまぐるじゆずもしめりがちうばもなみだ
の目をぬぐひ]【うば】「とてもかへらぬ繰言{くり〔こと〕}と。思ひ直{なほ}し気{き}を取{とり}なほしましても。
お可愛{かあい}そふな〔こと〕をいたしました」ト[かたるもはなすもなみだゆへ金の介はたいくつして]【金】「ばゞア。
おばちやん処{とこ}モウいやだヨ。面白{おもちよ}くないかヤ。内{うち}行{いこ}うよウおつかちやんへ
行{いこ}うよウ」【うば】「又{また}そんな事をおつしやるかよ。お聞{きゝ}わけのわるい。こゝが
お坊{ぼう}さんのお宿{やど}でございますから。内{うち}へ行{いか}ふ〳〵とおつしやるものでは
ございません」【金】「フウ。坊{ぼう}の内{うち}爰{こゝ}でないよ。おつかちやんへ行{いか}ふよう。
おばちやん。ばゞアいけないヨ。坊{ぼう}内{うち}へ帰{かい}やせないよ。」【紫】「ヲヽそふかヱ〳〵

(2ウ)
わりいばゞアだぞ。アヽしかしだましすかしても。まだぐわんぜも
ない子供{こども}だから。内{うち}へ帰{かへ}ろうといふも無理{むり}ではない。小三{こさん}が座{ざ}しき
活業{しやうばい}で。なんぼ傍{そば}には居{い}ない勝{がち}でも。三日{みつか}と離{はな}れた事{〔こと〕}もないの
に。やがてもう五十日あまり。賑{にぎ}やかな処{ところ}で育{そだ}つた子{こ}が。こんなさむ
しい処{ところ}へ来{き}て。緋鯉{ひごい}や亀{かめ}の子{こ}が合手{あひて}だから。どうでも遊{あそ}びに
あきるはづ。コレ金{きん}ぼうヤ。おまへは利口{りこう}ものだから。おばさんの
いふ〔こと〕をよくお聞{きゝ}。アノおまへのおつかさんはの。それは〳〵遠{とほ}ウい
処{とこ}へお出{いで}たから。モウ内{うち}には誰{たれ}ヱもお出{いで}だはないよ。それだから内{うち}へ

(3オ)
行{いか}ふ〳〵といはずに。おばさんの処{ところ}にいつまでも居{ゐ}るのだよ」【金】「坊{ぼう}の
おつかちやん死{ちん}だから。お寺{てら}へ行{いつ}ちまつたかヱ」【金】「夫{そい}
たから坊{ぼう}の内{うち}無{なち}〳〵かヱ」【紫】「さうサ。よくわかるぞ。それだから爰{こゝ}が
坊{ぼう}やの内{うち}だよ」ト[うばとふたりでなぐさむるおりから下女がかけ来り]「モシあなたへ。どこのか御隠
居{ごいんきよ}さまが。お目にかゝりたいといつて入{い}らつしやいましたヨ」【紫】「さうかヱ。
そんならどなただかマア庭口{にはくち}からお通{とほ}し申シな」【下女】「ハイ〳〵」ト[立てにわ
口へまはり。しをり戸{と}ひらきこなたへと通{とほ}せば。つゑをつき〳〵入り来るは金五郎が祖父{ぢい}白翁{はくおう}なり]【白】「ヤレ〳〵よい御|住居{すまゐ}じや。
ママ御免{ごめん}くだされ」ト[ざしきへとほり座になほりて]「偖{さて}ハヤわしは金五郎めが祖父{ぢい}で

(3ウ)
御{ご}ざるが。たしかこなさんは。小三{こさん}どのゝ姉子{あねご}といふ〔こと〕ゆゑ。聞{きゝ}たい事{〔こと〕}
はなしたい事。山〳〵あれば孫{まご}めにかくれ。わざ〳〵尋{たづ}ねてまゐつ
たが。おさし合{あひ}なお客{きやく}はござらぬか」ト[いふに紫雲{しうん}もよろこびながら。なにかやうすもわからねば。たゞ
いんぎんに手をつかへ]【紫】「是{これ}は〳〵どなたさまかとぞんしましたら。金五郎さんの
お祖父{ぢい}さん。よふマアお出{いで}あそばした。何{なん}にも御遠慮{ごゑんりよ}な者{もの}はをり
ませんから。何{なん}なりともお心{こゝろ}おきなく。おはなしなさるがよろ
しうござります」ト[やさしき〔こと〕ばに白翁{はくおう}は。老{おひ}の目やにをふきながら。紫雲{しうん}のかほをうちながめ]【白】「ヤレ〳〵
姉妹{あねいもと}とはいひながら。小三{こさん}どのに生{いき}うつし。おまへの顔{かほ}を見るにつけ

(4オ)
涙{なみだ}がモウさきだつやうじや。扨{さて}何{なに}から申さうやら。心{こゝろ}のうちがとり
込{こん}で。前後{ぜんご}するのも老{おひ}の癖{くせ}。退屈{たいくつ}ながら一ト通{ひととほ}り。はなすを聞{きい}て
くだされや。その子細{しさい}といふはしらしやつた通{とほ}り。不思議{ふしぎ}な縁{ゑん}で
金五郎{きんごらう}と。小三{こさん}どのと深{ふか}ふなり。たがひに思{おも}ひおもはれゝばこそ
深切{しんせつ}づくが苦労{くらう}のたね。大概{たいがい}に惚合{ほれやつ}てゐたならば。人{ひと}のおもはく
世{よ}の義理{ぎり}にもかゝはらずに。たのしみだろうに。あんまり可愛{かあい}がり
いとしほかられたから。孫{まご}めもその情{なさけ}にまよふて。うちを外{そと}の
夜{よ}どまりばかり。一ツ{ひとつ}づゝ年{とし}はとれども。放埓{ほうらつ}が直{なほ}らぬゆゑ。|始終{とゞ}の

(4ウ)
つまりが案{あん}じられて。異見{いけん}はしても糠{ぬか}に釘{くぎ}。豆腐{とうふ}にかす
がひきかぬが儘{まゝ}よと。捨{すて}て置{おい}ては為{ため}にならず。刃物{はもの}もをり〳〵
磨{とが}なければ。錆付{さびつい}て切{き}れぬ道理{だうり}。その錆{さび}を落{おと}すには。普通{ひとゝほり}の
世事{せじ}の合{あは}せ砥{ど}では。とても切{き}れる〔こと〕ではないと。推量{すいりやう}をして見{み}る
時{とき}は。わしが心{こゝろ}の荒砥{あらと}にかけても。切{き}らねはならぬ浮世{うきよ}の義理{ぎり}
お雪{ゆき}といふ孫娘{まごむすめ}と。祝言{しうげん}までさせたから。とても添{そ}はれぬ悪縁{あくえん}と
思{おも}ふたゆゑに孫{まご}めにかくれ。アヽいつでかあつたげな。小三{こさん}どのゝ内{うち}へ
たづねゆき。はじめて逢{あ}ふたその席{せき}で。よろこばせもせず孫{まご}めが

(5オ)
身{み}のうへ。かう〳〵いふ訳{わけ}あれば。長{なが}ふとはいはぬほどに。いやでも
あろうがしばしが間{あひだ}。どうぞ縁切{えんきつ}てくだされと。無粋{ぶすい}なむご
いたのみをば。聞{きい}てなみだにむせながら。義理{ぎり}と恩{おん}とを聞訳{きゝわけ}て。
ふつつり思{おも}ひ切{きり}ましよと。いはれた時{とき}のわしが胸{むね}。うれしさ
あまつて不便{ふびん}なは。小三{こさん}どのゝ心{こゝろ}の中{うち}。さぞつらかろう悲{かな}しかろ。
とおしはかられて侶{とも}なみだ。アヽ浮世{うきよ}が儘{まゝ}になるならば。容㒵{きりやう}と
いひ利発{りはつ}といひ。やさしい心{こゝろ}の生{うま}れつき。孫{まご}めと夫婦{ふうふ}にしてやつ
たら。さぞマアたがひに嬉{うれ}しがろと。思{おも}つたばかりでそれもかなはず。

$(5ウ)
瀬遊
老松{おいまつ}を
たよりて
藤{ふぢ}のそだち
けり

$(6オ)

(6ウ)
是非{ぜひ}も泣{なく}〳〵帰{かへ}つたが。それから後{のち}は金五郎{きんごらう}めも。そは〳〵する
やうすもなく。内{うち}にばつかりゐるゆゑに。偖{さて}は心{こゝろ}が直{なほ}りしかと。家
内{かない}のものがよろこんで。機嫌{きげん}をとるほど鬱{ふさ}ぎ顔{がほ}。じれては部
屋{へや}にとぢこもり。何{なに}か屈宅{くつたく}なやうすを見{み}ては。又{また}案{あん}じるが親{おや}の
つね。両親{ふたり}の者{もの}もお雪{ゆき}めも。仝{おんな}じやうに苦労{くらう}がれば。わしもやつぱり
気{き}にかゝり。考{かんが}へて見{み}る程{ほと}合点{がてん}がゆかず。もし金五郎{きんごらう}がわか気{げ}の
癖{くせ}で。愛相{あいそ}づかしの腹立{はらだち}まぎれ。疵{きず}でも付{つけ}て騒動{そうどう}を。出来{でか}
したゆゑにふさぐかと。思{おも}つて見{み}れば片時{かたとき}も。あんじにむねが

(7オ)
やすまらず。わざ〳〵|青柳橋{やなぎばし}へ尋{たづ}ね行{ゆき}て。見{み}ればおもひも
つかぬ人の。栖家{すみか}となりて勝手口{かつてぐち}も。変{かは}つた事で引越{ひつこ}せし
かと。あたりの人に尋{たづ}ねしに。小三どのゝしる人にや子{こ}までなし
たる身ながらも。男{おとこ}の為{ため}と義理{ぎり}づくで。身を捨{すて}られたあつぱれ
貞女{ていぢよ}。近所{きんぢよ}の者{もの}までその当座{たうざ}は。皆{みな}惜{おし}がつて泣{なき}ましたと。なみだ
ながらの物語{ものがた}り。聞{きい}て突胸{とむね}のわしがびつくり。かなしさ不便{ふびん}さ
やるせなく。その捨{すて}られし子{こ}の行{ゆく}さき。聞{き}けば真{しん}身の姉子{あねご}の
ところへ。引取{ひきと}られしといふ〔こと〕なれば。悔{くや}みもいひたしやうすも

(7ウ)
聞{きゝ}たさ。孫{まご}めが顔{かほ}も。イヤ孫{まご}ではない彦{ひこ}てあつた。見ねば心{こゝろ}も落{おち}
つかぬゆゑ。駕籠{かご}をとばせてやう〳〵来{き}ました。子{こ}まである
身としつたなら。なんのむごく縁切{えんき}らせう。なま中{なか}包{つゝ}みかく
されたが。今となつては却{かへつ}て恨{うら}み。年{とし}に不足{ふそく}のないわしが。長
命{ながいき}せずばこのやうに。かなしい泪{なみだ}はこぼさぬもの。なんの因果{いんぐわ}で
生延{いきのび}たか。おもへば年{とし}が恨{うら}めしい」ト[老{おひ}のなみだをくりかへし]愚痴{ぐち}になるのも
〔こと〕わりなり。紫雲{しうん}もあらまし聞{きゝ}とるうち。[ともになみだをもよほして]【紫】「ほんに
妹{いもと}が薄命{ふしあはせ}は。約束{やくそく}事とは申ながら。子{こ}までなしても日かげ妻{づま}

(8オ)
一日{いちにち}半時{はんとき}人なみの。息{いき}をもつかぬ苦労{くらう}を仕{し}死{しに}。わたくしとても真{しん}
身といふは。天{てん}にも地{ち}にも小三ひとり。力{ちから}におもふ甲斐{かい}もなく。
杖{つゑ}にはなれし今のかなしみ。わすれ紀念{がたみ}の金{きん}の介{すけ}で。すこ
しはうさもはれますが。まだマアま〔こと〕にくわんぜもなく。明{あけ}ても
暮{くれ}ても母{はゝ}をしたひ。泣{なく}につけすねるにつけ。逹者{たつしや}で居{ゐ}たなら
どうかうと。思{おも}ひ出しては仝{おんな}じやうに。泣{ない}て泪{なみだ}のかはく間{ま}は。
ほんに一日{いちにち}もござりません」【白翁】「イヤモウそりやいわるゝまでも
ない。おまへの胸{むね}を推量{すいりやう}すると。わしが胸{むね}もはりさくやうで。矢{や}も

(8ウ)
楯{たて}もたまる事ちやない。マ。マそれは左{と}もあれ。孫{まご}めが忰{せがれ}はどこに
おるか。ちよつと逢{あい}たい逢{あ}はせてくだされ」【紫】「ほんにさやうで
ございましたネ。金{きん}ぼうは奥{おく}にお出かヱ。乳母{ばゞあ}一寸{ちよつと}連{つれ}てお出」ト
[よびたてられて金の介はうばよりさきへかけきたり]【金】「おばちやん。坊{ぼう}おとつちやんお出だとおもつ
たヤ。余所{よちよ}のおぢいちやんだネ」【紫】「是{これ}はしたり。よそのお祖父{ぢい}さんでは
ないヨ。是{これ}は坊{ぼう}ヤのお祖父{ぢい}さんだから。手をついてお辞義{じぎ}をおしよ」
【白】「ヤレ〳〵おとなしいよい子{こ}じや。ドレ〳〵祖父{ぢいや}の側{そば}へ来{き}やれ。ヲヽよく
いふ〔こと〕をきくぞ。そんならお土産{みや}をやりましよ。サア〳〵手を

(9オ)
出しやれ。ヲヽ手へ〳〵がよく出来{でき}たぞ。ヤレ〳〵可愛{かわ}いゝ能{いゝ}子{こ}しや
ナア」ト[ようかん一トさほ出しやればいたゞいてうれしそうに]【金】「おばちやんコレお菓子{かち}お祖父{ぢい}ちやん
お呉{くゑ}だ。有難{ありがた}うごぢやイまちゆ」【紫】「ヲヤよいお菓子{くわし}をおいたゞき
だの。よく忘{わす}れずにお礼{れい}を申たぞ。よいお祖父{ぢい}さんを持{もつ}て。坊{ぼう}は仕
合{しあは}せものだそ」【白】「ハヽヽヽヽ。イヤこの坊{ぼう}ヤを見るにつけ。はじめて逢{あつ}つた*「逢{あつ}つた」の「つ」は衍字
わしでさへ。可愛{かわい}くつてならぬもの。いくら疾深{しつこ}く異見{いけん}をしても。
金五郎めが聞{きゝ}おらぬも道理{とりをり}かヱまして小三どのは女{おんな}の事。このマア
いたいけな子{こ}を置{おい}て飽{あき}もあかれもせぬ中{なか}で男{おとこ}のためと

(9ウ)
身を捨{すて}られたは。貞女{ていちよ}ともあつぱれとも。賞{ほめ}ても是{これ}が称{ほめ}つく
されふか。しかし真{しん}身のこなさんが。身に取{とり}てはこの翁{ぢゞい}を。鬼{おに}とも
蛇{じや}とも悪魔{あくま}とも。さぞマアにくいと思{おも}はつしやろが。そのいひ訳{わけ}では
なけれども。この子{こ}を内{うち}へ引取{ひきとつ}て。晴{はれ}て金五郎{きんごらう}が忰{せがれ}と披露{ひろう}し。
小三どのゝ亡{なき}跡{あと}も。ねんごろにとむらはせましよ。せめてはそれを
なぐさめに。思{おも}ひあきらめてくだされ」ト[なみだふき〳〵いひければ。紫雲{しうん}もうれしさかぎりなく。な
みだのとめどもなき顔あげて]「だん〳〵厚{あつ}い思{おほ}しめし。何{なに}とてお恨{うら}み申ませう。
みんな過世{すくせ}の因縁{いんねん}ゆゑ。どうもしかたもござりません。それに

(10オ)
つけても姉妹{はらから}が。身{み}のうへのあらましを。おはなし申すもお恥{はづ}
かしいが。わたくしどもが生立{おひたち}は。かやう〳〵でござります」ト[兄弟{きやうたい}二人母なきゆへ
小三が身{み}は生{うま}れ落{おち}より。文{ふん}の丞{じよう}に養育{やういく}せられ。わが身も共{とも}に情{なさけ}にて。親{おや}にかねをさつけられし]「その恵{めぐみ}にて里{さと}に行{ゆき}しが。
早{はや}く父{ちゝ}にも死{しに}わかれ。里親{さとおや}にたまされて。うき川竹{かはたけ}に沈{しづ}みし事{〔こと〕}。
小三{こさん}も金五郎と共{とも}に育{そだ}ち。たがひに末{すゑ}を契{ちぎ}りしに。金五郎{きんこらう}は
本家{ほんけ}へ養子{やうし}となれば。小三は便{たよ}りなき身{み}をかこち。心{こゝろ}狂{ぐる}ひて
鴨川{かもがは}へ。身{み}を沈{しづ}めしがふしぎにたすかり。悪者{わるもの}の手{て}にわたりて。
つひに同{おな}じ花街{くるわ}へ売{う}られ。唄妓{けいしや}となりてくらすうち。縁{えん}ありて

(10ウ)
金五郎にめぐり逢{あひ}しより。二世{にせ}をちぎりてふかくなり。つひに子{こ}
どもの出来{でき}しゆゑ。身請{みうけ}をされて囲{かこ}はれし〔こと〕。又{また}その身{み}も仝{おな}じ
ころに。さる人に受出{うけいだ}され。この別荘{しもやしき}に養{やしな}はれしが。便{たよ}りの人に早{はや}く
わかれて。頻{しきり}に仏門{ふつもん}の志願{こゝろざし}おこり。髪{かみ}を剪{き}り尼{あま}となりつ。世{よ}を
のがれてくらすうち。妹{いもと}が身{み}の薄命{ふしあはせ}から。浮世{うきよ}の義理{きり}にせばめられ。
添{そふ}事{〔こと〕}ならぬを覚悟{かくご}して。心{こゝろ}づよくも身{み}を果{はた}せしは。みな男{おとこ}の為{ため}を
思{おも}ひ。操{みさほ}を立{たて}ぬくこゝろざし。妹{いもと}ながらも天晴{あつぱれ}貞女{ていちよ}。只{たゞ}一トすぢの不
量見{ふりやうけん}と。おぼしめさずに心{こゝろ}の中{うち}。推量{すいりやう}してやつてくださいまし。」ト

(11オ)
[いちぶしじうをつまびらかに。かたれば白翁もかんるいをながし]【白】「さて〳〵姉妹{きやうだい}揃{そろ}いもそろいし。貞婦{ていふ}といはふか
義婦{ぎふ}といはふか。殊{〔こと〕}に小三は幼{ちいさ}い時{とき}から。金五郎{きんごらう}と一処{ひとつ}に育{そだ}ち。家出{いへで}
して死{しん}だと聞{きい}た。養娘{やしなひむすめ}のお亀{かめ}であろとは夢{ゆめ}にもしらぬが大きな
あやまり。そふいふ訳{わけ}のある事を。養子{やうし}の身ゆゑ金五郎も。遠慮{えんりよ}
して人にも明{あか}さず。ひとりで苦労{くらう}をして居{ゐ}たかと。思{おも}へば小三が
心の中と。金五郎が胸{むね}の中{うち}が。不便{ふびん}でどうもなりませぬ」ト。[思ひやりつゝうち
なげくに紫雲もなみだをせきかねて。ともにないては物{もの}がたり。はなしはなみだではかどらず。うばもつぎの間で金の介を。ねかしながらのもらひなき。しやうじふすまの明
たても。なみだでしめるばかり也]偖{さて}も白翁は。泣〻{なく〳〵}紫雲に別{わか}れをつげ。家に帰{かへ}りて

(11ウ)
金五郎の。両親{りやうしん}はじめお雪{ゆき}にも。小三がなり行{ゆき}紫雲{しうん}の身のうへ。金
の介{すけ}事{〔こと〕}までも。くはしく語{かた}りける程{ほど}に。皆{みな}もろともに泪{なみだ}にくれて。
小三を惜{おし}まぬものもなし。この上はすこしもはやく。忘{わす}れ紀念{がたみ}の
金の助を。引取{ひきとつ}て小三の亡{なき}後{あと}。ねんごろに吊{とむ}らはんとて。金五郎にも
このよしを相譚{かたら}ふに。喜{よろこ}ぶ〔こと〕限{かぎ}りなく。それより日をえらみ向{むか}ふ
島{じま}より。金の介を。乳母{うば}もろともに呼{よび}むかへ。お雪の子となして
いつくしみ。小三は世{よ}になき数{かす}に入{い}れども。あらためて先妻{せんさい}と呼|称{な}し。
仏事{ぶつじ}も手厚{てあつ}く行{おこな}ひければ。金五郎はいへばさら也。紫雲乳母も

(12オ)
上{うへ}なくよろこひ。家内{かない}の者{もの}も朝夕{あさゆふ}に金{きん}の助{すけ}を掌中{てのうち}の珠と
愛{あい}し。只{たゞ}すこやかに成長{せいちやう}するを。指{ゆひ}をりかぞへてくらすほどに。
はやくも小三{こさん}が百ケ日に当{あた}りけれは。金五郎{きんごらう}は寺{てら}に詣{まうで}んとて
金{きん}の介{すけ}を乳母{うば}に抱{いだ}かせ供{とも}の男{おとこ}を引連{ひきつれ}て菩提所{ぼだいしよ}へとて
出行{いでゆき}ける[あとにお雪{ゆき}は下女とともに。金五郎のへやをかたづけなどする時{とき}。下女あやまつてたばこぼんを打かへしけるはづみに。引出しより
さま〴〵のほぐの出しまゝに。取{と}り入れんとする中に。女の文がらめきし文{ふみ}出しかば。下女はこれを手にとりあげちひさなこゑにて]【下女】「ヲヤ〳〵
御新造{ごしんぞ}さんへ。一寸{ちよつと}御覧{ごら■}あそばせ。女中{ぢよちう}のお文{ふみ}がございましたよ」*「■」は「ん」の欠損か
【お雪】「ドレお見{み}せ。ほんにねへ。ヲヤ常{たゞ}のお文{ふみ}だと思{おも}つたら。書置{かきおき}の事{〔こと〕}

(12ウ)
としてあるから。こりやア小三{こさん}さんの書置{かきおき}だよ。わるいものが有{あつ}
たネヱ。モウ是{これ}を見{み}たら中{なか}を読{よま}ないのに。胸{むね}か一{いつ}ぱいになつたヨ」
【下女】「ヲヤお書置{かきおき}でございましたかへ。ほんに思{おも}ひ出{だ}してもお可{か}あい
そふでございますネヱ」【お雪】「そうさ大{おほ}かた若旦那{わかだんな}の事{〔こと〕}が。いろ〳〵
書{かい}てあるだろうから。見{み}たさも見{み}たいが泪{なみだ}のたね。それにひよつ
と知{し}れでもしたら。お腹{はら}をお立{たち}なさるとわるいから。マア〳〵よしに
しませう」ト[しまはんとするところへ母おやが出来りて]【母】「お雪{ゆき}ヤ。モウ今{いま}に金五郎{きんごらう}も
帰{かへ}るだろうよ。はやくそこを片付{かたづけ}ておしまひ」【お雪】「ハイモウしまひました。

(13オ)
アノおつかさん。一寸{ちよつと}是{これ}を御覧なさいま〔こと〕によい手{て}でございます
ねへ」【母】「ドレ〳〵。ヲヽ書置{かきおき}の事{〔こと〕}。アヽ小三{こさん}どのゝ書置かヱ。又{また}そん
なものを見{み}つけ出{だ}して」【お雪】「それでもお杉{すぎ}が見つけましたもの。
開{ひら}いて見ましてもよろしうございませうかネヱ」【母】「不遠慮{ぶゑんりよ}
なれど。あんまり可愛{かわい}そうだから。ちつとばかり明{あけ}て見なナ。アノ
杉{すぎ}ヤ。おまへはの。お煎花{にばな}のしたくをしておくれヨ」【下女】「ハイ〳〵かしこ
まりました」ト[下女は勝手{かつて}へ立てゆくお雪はこは〴〵文をひらけばその文にいはく]
逢{あ}ふは別{わか}れの初{はじ}めとはかねてより人の身の定{さだ}め

(13ウ)
なきに引{ひき}くらべ覚悟{かくご}いたしをり候ひしにやうやく只今{たゞいま}おもひ
あたり候まゝこの世の御|名残{なごり}に一|筆{ふで}書残{かきのこ}し参候まづとや
御|平{たい}らかに御くらし被遊候御事此上もなふ御よろこび申上
まゐらせ候さてしもわが身事いやしき賤{しづ}のふせ家{や}に
生{うま}れ草葉{くさば}の露{つゆ}のはかなき身を御|父君{ちゝぎみ}の御|情{なさけ}にて
やう〳〵人となり候御|恩{おん}のほど海{うみ}とも山とも詞{〔こと〕ば}には尽{つく}し
かたく夫のみならず親姉{おやあね}まても命{いのち}をつなぎ御|恵{めぐ}みの
浅{あさ}からぬ御事いつの世にかむくひまゐらせんやうもなく
あまつさへ一日の御|恩{おん}もおくらずかへつて御|辛労{しんらう}のみかけ
まゐらせ候この身の罪{つみ}の深{ふか}き御事申上へくやうも御座
なく候えにしは神{かみ}のむすばせ給ふ御事にやもとより
いやしきわが身ながらも君の御|情{なさけ}にあづかり参候より
ひとかたならぬ御気がねのみあそばしさふらふもみな

(14オ)
わが身{み}故{ゆへ}と存し候へは身もよもあられす只〻{たゞ〳〵}つたなき
身をのみうらみ参候御祖父{おぢい}さま御はじめお雪{ゆき}さまにも
さぞ〳〵わか身を御にくしみ御うらみ被遊候はゝはて〳〵は
君{きみ}の御ためあしからむと行{ゆく}すゑの〔こと〕ぞんじつゞけ候へは
ながらへをり候ほどつみをかさぬる思ひにて後{のち}の世さへも
空{そら}おそろしく又このうへにかず〴〵の御くろうかけまゐ
らせんもはかりかたくせめては我{わが}身を果{はた}し候はゝすゑ〴〵
君の御こゝろもやすかるべしととくより覚悟{かくご}はきはめまゐら
せ候へとも女心の浅{あさ}ましく御|名残{なごり}のみをしまれてけふ
まてながらへをり候御事ま〔こと〕に〳〵御はづかしく存
参候只〻此うへはお雪さまと御中よふ御祖父{おぢい}様
御はしめ御|両親{りやうしん}さまへも御|孝行{かう〳〵}のほどねがひ上まゐらせ候
二ツには姉{あね}事は御存じの通{とほ}りま〔こと〕にたよりなき

(14ウ)
身{み}のうへこれまではおよばずながらもたがひに便{たよ}りに
いたしをり候へども末{すゑ}〳〵は猶{なほ}〳〵たよりなき身に
さふらへは何{なに}とぞ御|見捨{みすて}なふ御めをかけ被下候やうねんし
上まゐらせ候又{また}金之助事はくわんぜなきわんはくものに
さふらへはわが身なきのちはたづねわび泣{なき}むつがり
候|半{はん}かと今より目{め}に見え候やうにてみれんながら
ふびんにぞんじ参候姉方{あねかた}へも昨日{さくじつ}まゐりよそながら
いとまこひのついでに金之介の事もよく〳〵頼{たの}みおき
候へはあのかたへ御あづけ下され候西東{にしひがし}もわかり候やうに
成候はゝ母なし子とて人にわらはれぬやう手ならひ
などよく〳〵御をしへ下され候へく候かへす〴〵も君の御身
もち只今{たゞいま}までのやうなる御こゝろにては御ためあしく
候まゝ是{これ}より御|心{こゝろ}を入れかへむりなる御酒{ごしゆ}を御すごし

(15オ)
被成ず御|宿{やど}にのみ御|出{いで}あそばしお雪{ゆき}さまにも無理{むり}なる
御事御申なされぬやうねがひ上まゐらせ候猶{なほ}このうへの
御ねがひには後{のち}の世の御事に御座候百{もゝ}とせの御よはひ過{すご}させ
給ひて未来{みらい}はひとつはちすのうてなこそひとへに願{ねが}ひ
上参候ま〔こと〕にをさなき時{とき}より御したしみ申あげ
時{とき}の間{ま}の御わかれだに心うくそんじさふらふにかくなかき
御わかれとなりさかさまなる御ゑかういたゞき候はいかなる
むくい因果{いんくわ}にやとくりかへしま〔こと〕に〳〵御なごり
をしさいはんかたなくこゝろもみだれさふらふて申上度
御事は浜{はま}の真砂{まさご}の尽{つき}せねど明{あけ}がたちかきかねの音{ね}に死
出{しで}の山|路{じ}へ心せきをしき筆{ふで}とめ参候かしく
道{みち}しらぬくらきよみぢへ初旅{うひたび}の
身{み}は御仏{みほとけ}を力{ちから}にぞして

$(15ウ)
積翠
花{はな}の香{か}を
したふて蝶{てふ}の
番{つが}ひかな

$(16オ)
■広筆

(16ウ)
とよみ終{をは}り。お雪{ゆき}も母{はゝ}ももろともに。目{め}を泣{なき}はらして顔{かほ}見{み}
あはせ。[なみだを袖{そで}にふきながら]【母】「アヽヤレ〳〵よしない文{ふみ}を明{あけ}て見{み}たゆゑ。
かなしさもかなしし胸{むね}がせまつて。大{おほ}きに泪{なみだ}をこぼしました。
金五郎{きんこらう}の迷{まよ}ひしも。尤{もつとも}な筈{はづ}美人{ひじん}だと。お祖父{ぢい}さんさへ小
三{こさん}が容㒵{きりやう}を。おほめなさるほどな生{うま}れつき。容㒵{かほかたち}は格別{かくべつ}な
事{〔こと〕}だが。心{こゝろ}だてといひこの手蹟{しゆせき}まで。うつくしいとも見事{み〔ごと〕}とも。
約束事{やくそく〔ごと〕}とはいふものゝ。わか死{じに}をするゆゑに。人{ひと}にすぐれて
生{うま}れて来{き}たのか。金五郎{きんごらう}のためをおもひ。おまへに義理{ぎり}を

(17オ)
立{たて}通{とほ}して。名{な}を汚{けが}さない貞女{ていぢよ}の鑑{かゞみ}。ほんにお雪{ゆき}ヤかならず仇{あだ}
に思{おも}ひなさんなヨ。この書{かき}おきはおまへの為{ため}には。実{ま〔こと〕}によい手本{てほん}
だヨ。このやうに金五郎{きんごらう}を大事{だいじ}にして。道{みち}を立{たて}るが女{おんな}のたし
なみ。金{きん}ぼうも麁略{そりやく}にしてはすまないヨ」【お雪】「ほんにさやうで
ございます。わたくしが人{ひと}なみに。よく気{き}のつくやうな生{うま}れなら。
このやうな事{〔こと〕}にはなりますまいに。因果{いんぐわ}な事{〔こと〕}でございまし
た」ト[おや子二人がくやみなき。なみだに袖{そで}をしぼりけり。をりから下女がはせ来り]【下女】「若旦那{わかだんな}さまのお帰{かへ}り」
ト[つぐるに母は奥へゆく]お雪{ゆき}は手{て}ばやく文{ふみ}をしまひ。泣{なき}がほかくして

(17ウ)
出迎{いでむか}へば[金五郎はその顔見て]「お雪{ゆき}どうぞしたのか。泪{なみだ}ぐんだ顔{かほ}つきだが。ハゝア
大{おほ}きな形{なり}をして。又{また}おつかさんにしかられたの」【お雪】「イヽヱそんな
事{〔こと〕}ではございませんが」ト[あといひかねしが手もちなきゆゑ]「アノ金{きん}ぼうはどふいたし
ましたヱ」【金五郎】「ばゞアと先{さき}へ奥{おく}へ行{いつ}た」ト[きものをきかへおびをしめながら]「アヽヤレ〳〵
くたびれたぞ。ほんにお雪{ゆき}けふはの。寺参{てらめへ}りをして直{すぐ}に向{むか}ふ島{じま}へ
行{いつ}たら。紫雲{しうん}さんのお伝言{〔こと〕づけ}があつたぜ。おめへに金{きん}ぼうを連{つれ}て。
ちつと泊{とま}りかげに来{こ}いとヨ」ト[いへどもお雪はうつむいてハイといつたばかりゆゑ。金五郎はふしんにおもひ]【金】「ハテ
どうもおれはおめへのやうすがわからねへが。何{なに}をそんなにふさぐ

(18オ)
のだろう。ハヽアきこえたこりやア何{なん}だの。おれが小三{こさん}の寺参{てらめへ}り
に行{いつ}たから。それで癪{しやく}にさわつたのだの」【お雪】「どういたしてまあ
そんな事{〔こと〕}が」【金】「心{こゝろ}になけりやアどういふ訳{わけ}だか。心{こゝろ}をおかずと
言{いつ}てきかせな。一生{いつしやう}添{そは}ふと思{おも}ふには。隔{へだ}てぬでこそ夫婦{ふうふ}といふ
もの」【お雪】「そのへだてるといふ事{〔こと〕}は。誰{だれ}かわたくしに教へましたか」
【お雪】「外{ほか}の事{〔こと〕}は
ともかくも。小三{こさん}さんの事{〔こと〕}ばつかりを」【金】「へだてたといふ事{〔こと〕}か」
【お雪】「ハイ。それゆゑにこそこのかなしみ。先{せん}からわたくしに斯〻{かう〳〵}だと。

(18ウ)
訳{わけ}をお聞{きか}せなすつたら。あなたにも御苦労{ごくらう}をかけますまい
のに」【金】「なんだナ。又{また}おもひ出{だ}したやうに。モウいくらいつてもはじ
まらねへ。みれんも大概{たいげへ}にやめてくんな」【お雪】「しつこいやうで
ございますが。何{なん}につけ彼{か}につけて。常〻{つね〳〵}わするゝ〔こと〕もなく。みん
なわたくしがおろかゆゑだと。この身{み}を恨{うら}んでおりますが。けふは
取{とり}わけいつもより」【お雪】「又{また}そんな〔こと〕
ばつかり。お疑{うたが}ひが晴{はれ}ませぬから。申シますからお腹{はら}をお立{たち}あそ
ばしますなヨ。アノあなたのおるすのうち。お煙草盆{たばこぼん}の引出{ひきだ}し

(19オ)
から。小三{こさん}さんの遺書{かきおき}が。出{で}ましたゆゑにツイちよつと」【金】「見{み}た
ので気色{きしよく}にさわつたろう」【お雪】「なんぼおろかなわたくしでも。先{せん}
から深{ふか}い訳{わけ}ある事{〔こと〕}を。知{し}つておつたらどうでもいたして。あなた
のお側{そば}へ小三{こさん}さんを。呼{よび}ます事{〔こと〕}もできましたろうに。なぜかく
してはくださいました」【金】「モウどのやうにいつたとて。とてもかへ
らぬ繰言{くり〔こと〕}だ。小三{こさん}の事{〔こと〕}をかくしてゐたは。おれが一生{いつしやう}の誤{あやま}り
だから。堪忍{かんにん}してくんな。年{とし}もいかねへおめへにまで。いろ〳〵苦労{くらう}
させたのも。みんな因縁{いんねん}約束事{やくそく〔ごと〕}。このうへはいふまでもねへが。

(19ウ)
金{きん}ぼうを可愛{かわい}がつてやつてくんな。アヽ何{なん}だかひどく鬱{ふさい}で来{き}た
お雪{ゆき}おめへいゝ子{こ}だから。茶碗{ちやわん}に一盃{いつへゑ}酒{さけ}を持{もつ}て来{き}てくんな。その
うちちよつくり奥{おく}へ行{いつ}て。みんなの機嫌{きげん}を取{とつ}て来{こ}やう」ト
[はおりをひつかけ奥{おく}へゆくお雪{ゆき}は酒{さけ}をもち来{きた}れば。金五郎もへやへかへりて]「お雪{ゆき}金{きん}ぼうはの。祖父{ぢい}さんの側{そば}に
媚付{こびつい}てゐて。好{すき}なねだり事{〔こと〕}をしてゐるぜ」【お雪】「さやうでございますかヱ
お祖父{ぢい}さんにはよいお合手{あひて}でございます。ハイあなた御酒{ごしゆ}を」ト[茶わん
をぼんにのせさしいだせば]【金】「ヲツト有{あり}がたし御苦労{ごくらう}だつた」ト[手にとりあげていきをもつかずぐつとのむ
ゆゑお雪はびつくり]「ヲヤあなた召{めし}あがるのなら。煖{あつた}めて参{まゐ}ればよふござい

(20オ)
ましたネヱ」【お雪】「ほんに
その事{〔こと〕}もあの書置{かきおき}に。いつそ案{あん}じて書{かい}て有{あり}ましたヨ」【金】「そふだつけ
のう。いつでもこのぐい呑{のみ}では。小三にひどく気{き}をもませたが。アヽ今{いま}
思{おも}へば是{これ}も後悔{こうかい}。モウ〳〵ふつつり止{やめ}にする。思へば小三はおれが
為{ため}の。善知識{ぜんちしき}でもあるだろう」ト[何かにつけて身のおこなひを。あらためるのも小三の貞心。天に通ぜしゆゑにこそ]
[あつぱれ賢{けん}女といひつべし]是{これ}よりして金五郎は。主君{しゆくん}へ忠勤{ちうきん}怠{おこた}る〔こと〕なく白翁{はくおう}
初{はじ}め両親{りやうしん}に。孝{こう}を尽{つく}す〔こと〕日{ひ}にまし厚{あつ}く。お雪{ゆき}とも中睦{なかむつ}ましく
して。金{きん}の介{すけ}を愛育{あいいく}し。紫雪{しうん}の庵{いほ}りも四季{しき}折〻{おり〳〵}に。訪{と}ひおと*「紫雪{しうん}」(ママ)

(20ウ)
信{づれ}て疎遠{そゑん}せず。忠孝信義{ちうかうしんぎ}全{まつた}きゆゑに。家内{かない}に和順{わじゆん}の基{もとゐ}をひき。
お雪{ゆき}の腹{はら}にも子{こ}を儲{もふ}けて。幾千万代{いくちよろづよ}賑{にぎ}はしく。益{ます〳〵}家{いへ}富{とみ}栄{さ}かえ
ける。かゝる目出{めで}たき因{ちなみ}によりて。金五郎が実{じつ}の親{おや}。文{ぶん}の丞{じやう}も年来{ねんらい}
の。勘気{かんき}をこの時{とき}免{ゆる}されしかば。京師{みやこ}の家{いへ}には養{やう}子をなし。その身{み}は
直{たゞち}に東{あづま}へ下{くだ}り。|親族券属{うがらやから}に対面{たいめん}して。喜{よろこ}ぶ中{なか}に小三{こさん}の身{み}の果{はて}。
聞{きい}て悲歎{ひたん}の泪{なみだ}にくれ。頻{しきり}に無常{むじやう}を観{くわん}ずるものから。終{つひ}に髪{かみ}を剃{そり}
仏門{ぶつもん}に入{い}りて身{み}を雲水{くもみづ}にまかせつゝ。諸国行脚{しよこくあんぎや}に出{いで}しとなん。
仮名文章娘節用三編下之巻大尾


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ky4/3、1001952991)
翻字担当者:島田遼、金美眞、矢澤由紀、銭谷真人
付記:鶴見人情本読書会編「〈翻刻〉『仮名文章娘節用』前編(・後編・三編)」(「鶴見日本文学」2~4、1998~2000)を対校資料として利用した。
更新履歴:
2017年3月28日公開

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