日本語史研究用テキストデータ集

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小三金五郎仮名文章娘節用こさんきんごろうかなまじりむすめせつよう

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三編上

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小三金五郎仮名文章娘節用 三編上

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(口1オ)
器{うつは}の古{ふる}きを愛{めづ}るのは。ひねつた茶人{ちやじん}の|一
癖{もちまへ}にして。旨{うま}き物{もの}を食{しよくし}たがるは。小児{こども}と意地{いぢ}
のきたな連中{れんぢう}。婦人{ふじん}を視{み}て目{め}のなきは。
放蕩家{はうたうか}の病{やまひ}なるべし。観所{めさき}と趣向{すぢ}の
あたらしきを。妙{めう}で誤説{ごせつ}の咎{とが}めもなく。ヤンヤと*「ヤンヤ」に右傍線
蘭語{らんご}で賛言{ほめ〔こと〕ば}は。戯作通{けさくつう}の看的{ごげんぶつ}。評判{ひやうばん}

(口1ウ)
よし野{の}の花{はな}より高{たか}く。部数{ぶかず}は春{はる}の山{やま}ほどに。
売{うら}ん〔こと〕を欲{ほつ}するは。言{いは}ねどしるき発客{とんや}の
慾情{よくじやう}。活業{しやうばい}原{もと}より忌敵{いみがたき}。速{はや}いが勝{かち}の新板{しんはん}は
夕河岸{ゆふがし}の魚{うを}を競{きそ}ふに斉{ひと}し。近属{このごろ}娘
節用{むすめせつよう}の。刻成{こくなつ}て発市{うりだし}は。近{ちか}きにあれは序
文{じよぶん}でも。口上{こうじやう}なりと出{で}たらめに。はやく〳〵と書肆{ふみや}

(口2オ)
より。使{つかひ}をおこして居催促{ゐざいそく}。机下{つくゑのもと}に居眠{ゐねふり}し。
調市{でつち}の鼾{いびき}を聴{きゝ}ながら。筆{ふんで}を採{とり}て斯{かく}ばかり
有{あり}のまゝに記{しる}すになん
甲午の
孟春
三文舎主人

$(口2ウ)
晋子
国八の
かねて迷ひや
桜の花

$(口3オ)
題美人 松亭主人毫
我{わが}園{その}に
うゑて
みましを
さくら
花{ばな}
人の
たをらん
事をしそ
おもふ
四海浪魚の
きゝ耳
あけの炎 雲峰

$(口3ウ)
古{ふる}き歌{うた}に
おもへたゞ雀{すゞめ}の
ひなをかひおきて
そだつるほどは
かなしきものを

$(1オ)
旧本の写意に
倣て 国直画

(1ウ)
仮名文章{かなまじり}娘節用{むすめせつよう}三編{さんへん}上の巻
江戸 三文舎自楽補述
第七回
生者必滅{しやうじやひつめつ}会者定離{ゑじやぢやうり}は。浮世{うきよ}のならひと悟{さと}つたる。言{〔こと〕ば}も今{いま}は
身{み}のうへに。おもひあたりし憂事{うき〔こと〕}と。小三は胸{むね}にこたへたる。人にしら
れぬ心労{しんらう}も。かねての覚悟{かくご}といひながら。さすが女のやるせなく。浮気{うはき}
を捨{すて}て真実{しんじつ}に。二世{にせ}を三世とちきりたる。かはらぬ中の金五郎{きんごらう}の
為{ため}とはいへど今{いま}さらに。義理{ぎり}といふ字{じ}にせめられて。縁{えん}を切{き}らんは

(2オ)
なか〳〵に。身{み}を裂{さか}るゝよりくるしくて。とやせんかくと案{あん}じれば。あんじ
るほど猶{なほ}物{もの}おもひ。まさる苦労{くろう}を胸{むね}の中{うち}に。置{おき}どころさへ泣{なき}の
たね心{こゝろ}を鬼{おに}に持{もつ}とても。道{みち}にかけたる愛相{あいそ}づかしは。いふにいはれぬ恩
愛{おんあい}と。執着{しうぢやく}の絆{きづな}たちがたく。ふつ〳〵おもひなやみしが。左{と}にもかく
にも末{すへ}かけて。添{そ}はれぬあだな縁{え}にしゆゑ。なまじいな〔こと〕いひ出して。
臨終{いまは}ににくしみ受{うけ}んには。女子{おなご}は罪{つみ}の深{ふか}き身{み}に。罪{つみ}かさなりていつ
の世{よ}に。罪{つみ}滅{ほろぼ}さんやうはなし。うすき縁{え}にしは前{まへ}の世{よ}の。因果{いんぐわ}と思ひ
定{さだ}めなば。人{ひと}をうらみ身{み}をうらむ。よしなき罪{つみ}はなきものをと。

(2ウ)
あじきなき世{よ}を悟{さと}れども。心{こゝろ}ぼそさのいとゞしく。生{おひ}さきのある子{こ}を
捨{すて}て。いとしい男{おとこ}のためながら。くらき冥土{よみぢ}へ旅立{たびたゝ}んは。よく〳〵業{ごう}の
深{ふか}き身{み}と。又{また}くりかへす迷{まよ}ひの闇{やみ}に。ひとり胸{むね}のみくるしめつ。年{とし}ごろ
日{ひ}ごろの辛労{しんらう}が。つもり〳〵てこの頃{ごろ}はうき立{たゝ}ぬ気{き}のむすほれて。食
事{しよくじ}も日{ひ}〻にほそるものから。面{かほ}もかたちもやせがれて。うつら〳〵と
気{き}を病{や}むも。〔こと〕わりせめて哀{あは}れなり。かゝりし程{ほど}に金{きん}五郎はあん
じる〔こと〕大{おほ}かたならず薬{くすり}よ医者{いしや}よとさま〳〵にこゝろを配{くば}り気{き}を
つけていたはりやさしくさるゝにつけ。小三{こさん}はいとゞその情{なさけ}の。あつきと

(3オ)
恩{おん}の深{ふか}かるを。おもひつゞけ考{かんが}ゆれば。いかに義理{ぎり}でも。操{みさほ}でも。いとし
可愛{かあい}の夫{つま}と子{こ}を。捨{すて}て死{し}すべきやうもなく。いつその事{〔こと〕}に白翁{はくおう}が
縁{えん}きつてくれとたのみたる。事{〔こと〕}をうちあけ金五郎{きんごらう}に。はなし
てだん合{こう}したならば。どうかかうかとさま〴〵に。こゝろもみだれ
気をもみて。病{やま}ひはます〳〵重{おも}るゆゑ。寝{ね}ても起{おき}てものほせるの
み。頭痛{づつう}とゆるぐ歯{は}のいたみに。胸{むね}のやすまるひまぞなき。金五郎
はつとめの身{み}ながら。あんじる〔こと〕ひとかたならず。日毎{ひ〔ごと〕}〴〵に訪{と}ひ来{きた}
るが。今日{けふ}しも例{れい}の〔ごと〕く入{い}り来{きた}りて。[奥へとほれば小三のそばに金の助はもちあそびをところせましとならべたてよねんも

(3ウ)
なくあそびゐる]【金五郎】「どうだ小三。けふはちつとも快方{いゝほう}かの」ト[とはれて小三はくるしき中にも金五郎のかほをみるよ
りなやめるかほににつこりわらひ]【小三】「ハイやつぱりけふも仝{おんな}じ事{〔こと〕}で。どうもふさいでなりま
せん」【金五郎】「さうか。ま〔こと〕にどうも困{こま}つたものだ。薬{くすり}は毎日{まいにち}せひ出{だ}しての
むか。ばゞア立{たて}つけて呑{のま}してくんなよ」ト[うしろをむけばうばは火ばちへすみをつぎながら]「ハイなるツ
たけ精出{せいだ}しておのませ申て。はやくおこゝろよくしてあげたいとぞんじ
ますが。今度{こんど}のお医者{いしや}のお薬{くすり}は。ま〔こと〕にあがりにくいそうで。ねつから
どうもはかどりません」【金五郎】「そりやアわりいのう。どうで薬{くすり}はのみに
くいから。誰{だれ}しもすゝんでのむものはねへが。そんなに無精{ぶせい}じやアどふも

(4オ)
いかねへ。それにあの医者{いしや}にかけてから。ねつからはか〴〵しくねへやう
だから。なんなら医者{いしや}を取替{とりかへ}るがよかろう」【小三】「ナニあのお医者{いしや}さまも
お巧者{こうしや}だから。転{かへ}ますにもおよびますまい。どうでかういふ病気{びやうき}と
いふものは。はか〴〵しい事{〔こと〕}はないと申ますから。お気{き}をもんでください
ますな。わたくしがこのわづらひより。あなたに御苦労{こくろう}かけます〔こと〕が
と。おもひまはしますともう〳〵。いつそこのまゝ死{し}にましたほうが。は
るかましでございませう」ト[いひつゝなみだはら〳〵〳〵]【金五郎】「またそんな馬鹿{ばか}な〔こと〕をいふヨ。
なに死{し}ぬのがましなものか。病{やま}ひは気{き}から発{おこ}るといふから。気{き}のもち

(4ウ)
やうではやくも直{なほ}り。重{おも}くもなるのに。おめへのやうに些{ちいつ}と煩{わづら}ふと。死{し}ぬ
はうがましだ〳〵と。気{き}で気{き}を病{や}むものだから。ちよつとした病気{びやうき}も埓{らち}が
あかねへのだ」【小三】「それでもどうも心{こゝろ}がら気{き}で気を病{や}む気{き}はこざいま
せんが。もとより苦労症{くろうしやう}な生{うま}れつきゑ。つまらないことも気{き}にな
つて。あんまり深{ふか}くかんがへますから」【金五郎】「それがわりはナ寝{ね}る目{め}もね*「わりはナ」(ママ)
ずに考{かんが}へて。気{き}で気をもんで苦労{くろう}をしても。まゝにならねへことか
儘{まゝ}になるものかナ。余計{よけい}なくろうで命{いのち}を削{けづ}るやうなもんだ勿論{■■ろん}*「■■」は「もち」の欠損か
平生{へいぜい}おれの為{ため}をおもつて。人{ひと}の知{し}らねへくろうをしてくれる

(5オ)
のは。深実{しんじつ}うれしいは山{やま}〳〵だが。こんなにわづらつてくれちやア。実{じつ}に
どうも困{こま}りきるぜ。是{これ}からは考{かんが}へ事{〔ごと〕}はさらりとやめて。苦労{くろう}は地
獄{ぢごく}へでも捨{すて}てしまふがいゝ」【小三】「あなたはさう一ト口{くち}におつしやいますが。迚{とて}
も女は罪{つみ}が深{ふか}いから。苦労{くろう}は一生{いつせう}放{はな}れません苦労{くろう}よりこのからだが。
さきへ地獄{ぢごく}へまゐりませう」ト[あはれな〔こと〕をいひ出すにぞ金五郎もむねふさがりて]【金】「その気{き}の小{ちい}
せへのが病{やま}ひの原{もと}だ。老人{としより}かなんぞしやアあるめへし。是{これ}しきの病気{びやうき}で
死{し}ぬものかな。ちつと気{き}をきりけへて。向島{むかふじま}の姉御{あねご}のところへ。保養{ほよう}
にでも行{いつ}て見{み}るがいゝ」「わたくしも向{むかふ}じまの姉{あね}さんに。久{ひさ}しく逢{あ}ひ

(5ウ)
ませんから。この間{あいだ}からどうぞして。まゐりたいとぞんじておりました。
老少不定{らうせうふぢやう}は世{よ}のならひ。盛{さか}りの花{はな}も散{ち}るは常{つね}。定{さた}めなき世{よ}と申シ
ますから。あすをもしれぬわたくしが身{み}のうへ。もしもの事{こと}があつ
たらば」と[あといひさしてむねせまり金五郎のかほと金の助の]顔{かほ}を見つめる目{め}になみだ。袖{そで}にあぶ
れて膝{ひざ}のうへに。雫{しづく}と落{おつ}るを子心{こごゝろ}に。ふしんにおもふ金之介は。のびあ
がりて小三の顔{かほ}を。つく〴〵と[見てひざにとりつき]【金の介】「おつかちやんなに泣{なく}のだヱ。
おとつちやんお呵{しか}いか。坊{ほう}あやまゆから堪忍{かんに}ちておくゑよウ」ト[いはれて小三はた
まりかねこゑをしのびてなきむせび金の介をだき上て]可愛{かあい}さあまりてせつなさは。胸{むね}もはりさくばかり

(6オ)
なる。金五郎{きんごらう}も男心{おとこごゝろ}に。口{くち}にはさま〴〵いひまぎらせど。小三{こさん}の胸{むね}を
おしはかり。せまき女のこゝろから。よしなき苦労{くらう}に取{とり}つめて。もし
もの〔こと〕もあらんかと。おもひ過{すご}して胸せまれど。さとられじとて
はな紙{がみ}に。泪{なみだ}つゝむぞ無理{むり}ならず。乳母{うば}のお乳{ちゝ}もかたはらに。二人
がこゝろを推量{すいりやう}して。共{とも}になみだにむせびける。[小三はやう〳〵なみだをぬぐひ]「この子
のまだぐわんぜもなく。わたしが愚痴{ぐち}な心{こゝろ}から。つまらぬ事を案{あん}じ
立{だて}して。あんまりかなしくなつたゆゑ。ついなみたをこぼしたのを。
旦那{だんな}にしかられる〔こと〕かとおもひ。あやまるこゝろのしほらしさ

$(6ウ)
巴島
まゝならぬ
浮世{うきよ}ぞ
日中{ひる}の暑{あつ}さ哉

$(7オ)

(7ウ)
なぜ子{こ}どもといふものは。こんなにもマアかはいかろう。この子の成{せい}じん
するにつけ。慾{よく}にかぎりはないゆゑにいつまでもたつしやでゐる気{き}でも。
寿命{じゆみやう}がなけれはそれもかなはず。もしあすが日{ひ}に目{め}を寝{ね}むつた
ら。さぞマア跡{あと}で泣{なく}だろうと。それが今{いま}から見らるゝやうで。死{し}ぬ気{き}
はさら〳〵ないけれど。とても長命{ながいき}のできないわたくし。遺{ゆい}ごん
ではござりませんか。ひよつとマアさかさまな〔こと〕で。この儘{まゝ}死にでも
いたしましたら。たより少{すく}ないこの子の身{み}のうへ。他{た}にんの手に
かけないやうに。どうぞ向島{むかふじま}の姉{あね}さんのところへ。おあづけなすつて

(8オ)
くださいまし。とても日{ひ}かげで育{そだ}つたこの子{こ}。すへ始終{し■う}あなたの御*「■」は「ゞ」の欠損か
家督{ごかとく}をつぎます〔こと〕もなりますまいから。養子{やうし}にやらねばならぬ
生{おひ}さき。今{いま}からあんまり他人{たにん}の中{なか}で。いぢめられたり苦労{くろう}をさせたら。
根{ね}がひよはい生{うま}れゆゑ。虫{むし}もちにでもなりませうから。外{ほか}へや
つてくださいますな。御如才{ごぢよさい}もござりますまいが。六ツか七ツにもなり
ましたら。手{て}ならひや読書{よみもの}も。教{おし}へてやつてくださいまし。又{また}二ツ{ふたつ}に
はお雪{ゆき}さんと。御夫婦{ごふうふ}中{なか}よくおくらしなすつて。御祖父{おぢい}さんはじ
め御両親{ごりやうしん}へも。御苦労{ごくらう}をかけ申さぬやうに。御孝行{ごかう〳〵}になすつて

(8ウ)
くださいますれば。わたくしはモウとのやうな。仏事供養{ぶつじくやう}をして
くださるより。思{おも}ひ残{のこ}す事{〔こと〕}もなく。うかみます。あなたには子{こ}ども
の時{とき}からおなじみ申シて。ひとかたならず御恩{ごおん}をうけましたが。
この世{よ}の縁{えん}が薄{うす}いかして。この子{こ}ができても末{すへ}かけて。添{そ}ふにそは
れぬ身{み}の因果{いんぐわ}。何{なん}のむくひでこのやうに。後生{ごしやう}のわるい生{うま}れかと。
いくたびおもひかへしても。かへらぬ〔こと〕でござりますが。是{これ}もやつ
はり女{おんな}の愚痴{ぐち}。このうへのお情{なさけ}には。わたくしのからだはあなたのお
寺{てら}へ。どうぞやつてくださいましそふしたならあの世{よ}へ行{いつ}て。おそばに

(9オ)
おられませうかと。はかないやうでございますが。今{いま}の身{み}にてはそれが楽{たの}
しみ。お察{さつ}しなすつてくださいまし」ト[又もなみだともろともにくりかへしてぞなげきける]【金五郎】「まだ
そんなつまらねへ〔こと〕をいふよ。あんまりくよ〳〵思{おも}ふから。ちつと取{とり}のぼ
せたのじやアねへかノ。この一日二日はなんでもおれの顔{かほ}さへ見ると。あはれつ
ぽい事{〔こと〕}ばつかりいふから。おれまでどうか気色{きしよく}がわるくなるやうだ。ぐち
な〔こと〕を考{かんげ}へ立{だて}して気{き}でも狂{ちが}ふといかねへからほんに気{き}をしつかり
もつがいゝぜ。お雪{ゆき}にひどく気{き}がねをするから。それでこんな病気{ひやうき}がお
こるのだろう。あの子{こ}[お雪の事]と祝言{しうげん}したのはしつてゐる通{とほ}り祖父{ぢい}さんや

(9ウ)
親父{おやじ}の気{き}やすめの為{ため}だから。何{なに}も今{いま}さらおめへを捨{すて}る心{こゝろ}もなし又{また}
金坊{きんぼう}がてきたから。栄耀栄花{ゑようえいぐわ}こそさせられねへが。そんなに不自由{ふじゆう}
もさせめへし。日{ひ}かげ者{もの}でもなんでも。共{とも}にこゝろさへかはらねへけりやア
いゝじやアねへか。儘{まゝ}にならぬのが浮世{うきよ}だとは唄{うた}にさへうたふから。其処{そこ}
を承知{しようち}してなにも時節{じせつ}だと。気{き}を大{おほ}きくもつて往生{わうじやう}していなけ
りやア。苦{く}の世界{せけへ}がわたられるものかな。ほんに往生{わうじやう}するといつち
やア気{き}がゝりだつけ。アヽ鶴亀{つるかめ}〳〵」と[小三のこゝろをなぐさむる〔こと〕ばのはしにもいまはしき〔こと〕のみいひて気にか
けるもむしのしらするゆへなるべし]この日は金{きん}五郎も何{なに}となく。小三の身があんじ

(10オ)
られて。帰{かへ}るこゝろもなかりしかば。看病{かんびやう}がてらこゝに泊{とま}りて。夜{よ}もすがら
しめりがちなる〔こと〕のみはなして。夜更{よふけ}てみな〳〵うち臥{ふし}ける。あくる
あした金五郎は。早{はや}く起出{おきいで}仕{つか}への身{み}なれば。たち帰{かへ}らんと身{み}じたく
するに。小三{こさん}はこゝろのつかれにや。まだ目覚{めさま}さぬこなたには[金之介があさおき
にてうばをあひ手にあそびゐるそばへきたりてあやしながら]【金五郎】「ばゞアや子{こ}どもといふものはま〔こと〕に朝{あさ}おき
なものだのう。坊{ぼう}やのしやべるこゑでおらア目{め}をさましたやつよ」【うば】
「さやうでございますかヱ。どういたしてもおぼうさんは。お昼寝{ひるね}をなさいます
から。朝{あさ}がおはやうございますのさ。ほんにおつかさんはまだお目{め}ざめが

(10ウ)
ござりませんネ。旦那{だんな}さんヱ。あなたはさぞモウ御|苦{く}ろうでござい
ませうが。ま〔こと〕におこまんなすつた〔こと〕でございますネヱ」【金】「そうよ。実{じつ}に
苦労{くろう}でならねへ。それになんだか気{き}にかゝる〔こと〕ばつかりいふから。どうも
あんじられて安心{あんしん}ならねへよ。おれは勤{つと}めの身{み}の〔こと〕ゆへ。毎{まい}にち附{つき}
どほしについても居{い}られず。なんでもてめへひとりがたのみたから。ずい
ぶん気{き}をつけてやつてくんな。女{おんな}といふものは心{こゝろ}のせめへものだから。ひよん
な〔こと〕でもしめへかと。それが一ばい心配{しんぱい}だ」ト。[いひながら金之介のあたまをおさへて]「こりや
金{きん}ぼうヤ。おつかアはきい〳〵がわりいからの。あんまり世話{せわ}をやかせずに

(11オ)
おとなしくしてゐるのだヨ。又{また}明日{あした}来{く}る時{とき}に。お|土産{みや}をたんと買{かつ}て来{き}て
やりませう」ト[いへばうれしそうにひざにとりつき]【金の】「おとつちやん。坊{ぼう}おとなちくするかヤ
うまいものお呉{くゑ}よ。明日{あつた}おつかちやんきい〳〵まだわゆいかヤ。坊おとな
ちくすゆヨ」【金五郎】「ヲヽさうだ〳〵。坊{ほう}は利口{りこう}ものだからおとなしくする
のふ。そんならおとつさ゜んはマア帰{かへ}りませう。おつかアはまだ目{め}を覚{さま}
さねへからしづかにしなよ」ト[いふこゑきゝつけ小三はおきいで]【小三】「ヲヤモウあなたお帰り
なさいますかヱ。今日{こんち}は御番{ごばん}でありますかヱ」【金五郎】「フウ。モウ四ツだから
帰{かへ}らざアなるめへなんぞ用{よう}でもあるのか」【小三】「さやうさねへ用{よう}と申す

$(11ウ)
芳吾
負〻児{おふらみ}を
おろしてしばし
涼{すゞ}み哉

$(12オ)

(12ウ)
のでもございませんが。なんだか今朝{けさ}は御帰{おかへ}し申すのが」ト[なごりおしげなやうすゆゑ]【金】
「又{また}そんな〔こと〕をいつてとめるのか。けふは顔{かほ}ツつきがでへぶいゝやうだぜ。なんに
しても帰{かへ}つて又出直{でなほ}して来{こ}やう。主人{しゆじん}へつとめの間{ま}をかゝぬも。親父{おやぢ}や
祖父{ぢい}さんへのこゝろやすめだ。マアなんでも精出{せいだ}して薬{くすり}を呑{のむ}がいゝぜ」
【金】「大体{たいてい}なら
くり合{あは}して来{く}る気{き}だが。あんまり遅{おそ}ければ明日{あした}のあさは是非{せひ}来{く}るヨ。
それとも用{よう}でもあるならさういつておきねへ」【小三】「ほんにそれ〳〵。
金{きん}ぼうの背中{せなか}の灸{きう}がまがつておりましたから。どうぞ直{なほ}して

(13オ)
やつてくださいまし。そしてまだ疱瘡前{ほうそうまへ}でございますから。観音{かんのん}さまの
二王{にわう}さまの股{また}をくゞらせてくださいましヨ。この頃{ごろ}はあつちこつちに
だいぶ疱瘡{ほうそう}がありますそうだから。それにアノモウひとり行{あるき}をい
たしてあぶなくつてなりませんから。転{ころ}ばずの玉子守{たまごまぶり}と。水{すい}てん宮{ぐう}
さまのお守{まぶ}りをかけさせてやつてくださいまし。爰{こゝ}らはきんじよに
川{かは}がおほうございますから。水{みづ}がこわくつてなりません」ト[ばんじにつけて子をあん
じるこゝろのうちぞふびんなり]【金五郎】「なんだな。そんな事{〔こと〕}はいつでもいはれるものを。あん
まりいろ〳〵な〔こと〕をいふから。おれも帰{けへ}るのがおかしいやうだマア

(13ウ)
モウ一{いつ}ぷく呑{のん}でから帰{けへ}る事{〔こと〕}とせう」ト[男心にも気にかゝればわかれのつらさもむりならず]
[小三はたばこをすひ付て出しながら]【小三】「袖引{そでひき}たばこであなたのお足{あし}を。無理{むり}にとゞ
めた哥妓{つとめ}の時分{じぶん}は。真{しん}のくろうも苦{く}にならず。はやく身{み}まゝに
なりたいと。楽{たの}しみ尽{つき}てかなしい今{いま}の身{み}。おもへば夢{ゆめ}のやうでござい
ますねへ」【金五郎】「さうよこの子{こ}のできねへ時分{じぶん}が。ほんの色事{いろ〔ごと〕}後生楽{ごしやうらく}
むりなくぜつにすねたり妬{やい}たり。つらいと思{おも}ふは逢{あ}はねへ晩{ばん}夕{ゆふ}
べの恨{うら}みは今夜{こんや}の手{て}くだ。おもしろい事{〔こと〕}もたのしみも。かんげへて
見{み}るとむかしのやうだ。爺{ぢゞ}いしみたいひぐさだが。アヽ年{とし}はなんでも

(14オ)
重{と}らねへ事{こつ}た。あの時分{じぶん}のやうな身{み}のうへに。もう一度{いちど}なつて
見{み}てへものだ」ト[じゆつくわいめきたるくり〔こと〕にふさぐこゝろを子はしらで金の介はあそびにあきけん]【金の】「おつかちやん
坊{ぼう}。ばゞアと遊{あそ}ぶのモウいや〳〵だよ。なんぢよ味{うま}いものお呉{くゑ}よう」【小三】「
アイ〳〵。モウもうおあそびはいや〳〵かヱ。そんならばゞアや。お菓子{くわし}でもや
つておくれヨ」【うば】「ハイ〳〵。お坊{ぼう}さんサア落雁{おらく}をあげませうネヱ」【金の】「乳母{ばゞあ}
坊{ぼう}。落雁{おらく}いや〳〵だよ。梨子{なち}食{たべ}たいよ。おつかちやん。仏{のゝ}ちやんの梨子{なち}
おくゑよう」【小三】「ナニ仏{のゝ}さんの梨子{なち}かヱ。坊{ぼう}はこのあいだお歯{は}が痛{いて}〳〵
だつたから。|信州{とほ〳〵}の|戸隠{のゝ}さんにお願{ねが}ひ申シたから。梨子{なし}は給{たべ}られ

(14ウ)
ないからお菓子{くわし}におしよ。いゝ子{こ}だネヱぼうは」【金の】「お菓子{かち}いや〳〵だ
もの。仏{のゝ}ちやんに上{あん}がちて居{い}る。梨子{なち}おくゑよう」ト[すこしなきごゑになる]【金五郎】「坊や
なぜそんなにだゞをいふ。梨子{なち}は毒{どく}だから悪{わり}い〳〵。だゞをいつていびる
から。おつかアの|気色{きい〳〵}がわるくなるのだ。おとなしくしてお菓子{くわし}をたべな。
赤{あか}いうまいのがあるから。コレ坊{ぼう}や。なぜそんなに|似指{ちん〳〵}をいぢるのだ。
|似指{ちん〳〵}をいぢると手{てゝ}へ灸{あつゝ}すゑるよ」【金の介】「灸{あつゝ}いや〳〵御{ご}めんだよウ
おとつちやん|似指{ちん〳〵}いぢやないかヤ。なんじよ買{かつ}ておくゑよう」【金五郎】「ヲヽ
さうおとなしくするなら味{うま}いものを買{かつ}てやりませう。おとつさんは

(15オ)
お屋{や}しきへ帰{かへ}るから。お竹{たけ}に抱子{だつこ}して。両国{りやうごく}のお橋{はし}の方{ほう}へ一処{いつしよ}に
来{き}な。お菓子{くわし}とお|手遊{もちや}とそして何{なに}を買{かつ}てやろうのう」【金の介】「アノウ
お菓子{かち}とおもちやと。そイかヤ。アノウ仏{のゝ}ちやん上{あげ}る花{はな}〳〵
買{かつ}てお呉{くゑ}よう」ト[いはれて小三はむねにぎつくり金五郎も気にかゝれば]【金五郎】「ヱヽこのぼうずは妙{めう}
な子{こ}だのう。なんぞといふと仏{のゝ}さんへ買{か}つて上{あげ}やう〳〵といふが。気{き}に
なる〔こと〕をいふ坊主{ぼうず}だぞ。マア何{なん}でもいゝから一処{いつしよ}に来{こ}い〳〵。そん
なら小三|大事{だいじ}にしな。ばゞア気{き}を付{つけ}てくんなよ」ト[いゝつゝおりてぞうりをはけば
金の介はお竹にいだかれさきへおもてへ出てゐる小三は金五郎のうしろよりきもののゑりをなほしながら]【小三】「さやうなら御|機{き}げんよう

(15ウ)
ヲヤあなた。ちよつとこちらを向{むい}てお見{み}せなさいまし」ト[いとまごひにもわかれ
をおしめば金五郎はふりかへりて]【小三】「ハイお頭上{つむり}に何{なに}やら
芥{ごみ}が」と[とる手もふるへこゑくもりこれがこの世の見おさめかと]おもへばこゝろも消〻{きへ〴〵}に。じつと見{み}
つめる目{め}になみだ。せきくる胸{むね}のせつなさを。咳{せき}にまぎらす顔{かほ}に
袖{そで}。あてゝ泣目{なくめ}をかくすなる。心{こゝろ}の中{うち}の四苦八苦{しくはつく}。おもひやる
さへ哀{あは}れなり[金の介はわけもなく]「おとつちやん早{はや}くお出{いで}よう。ぼう負背{おんぶ}
居{ち}て|待居{まつて}るヨ」ト[せたげられて金五郎もせんかたなさにかうし戸を]またぐはづみに門口{かどぐち}の。石{いし}に
つまづき[よろ〳〵〳〵]【金五郎】「ホイ。こいつアしまつた」【小三】「ヲヤどうなさいましたヱ」

(16オ)
【金五郎】「ナニ鼻緒{はなを}を踏{ふみ}きつたのヨ。ハテ面妖{めんよう}な。きのふ買{かつ}た雪駄{せつた}だから。
切{き}れるはづはねへけれど。どうもふしぎじやねへかのう」ト[又気にかけて
しあんがほ]【小三】「そんならアノきのふお買{かひ}なすつたお雪駄{せつた}の鼻緒{はなを}が。アノ
切{きれ}ましたかヱ」【小三】「ヱヽ」ト[むねにこたへてほつといき]
「あのそんならお雪駄{せつた}をお竹{たけ}にもたせて。直{なほ}しのところへおやん
なさいましな」【金】「なアに二本{にほん}鼻緒{はなほ}が一本きれたのだから。履{はい}て
行{いつ}て橋台{はしでへ}で直{なほ}させやう。サア金ぼう一処{いつしよ}に来{き}な」ト[心ならずも出ゆきける]
小三は金五郎のうしろ蔭{かげ}。見ゆるまで見{み}おくりて。名残{なご}りの泪{なみだ}の

(16ウ)
やるせなく。とゞめかねしをかくては果{はて}じと。思{おも}ひかへしてしよくじをば。
やう〳〵に給{たべ}しまひ[やうじをつかひながらきのぬけし〔ごと〕くかんがへて居たりしがうばにむかひ]【小三】「ばゞアヤ。けふは
旦那{だんな}もいろ〳〵御用{ごよう}があるそふだから。モウ出直{でなほ}してお出{いで}なさりも
しまひし。わたしも気分{きぶん}が大{おほ}きによいから。保養{ほよう}がてら今{いま}ツから。
向{むか}ふ島{じま}へ行{いか}ふと思{おも}ふよ。それにこの節{せつ}はモウ花屋{はなや}しきの七{なゝ}くさも
さかりだろうし。天気{てんき}はよし。金ぼうをつれてぶら〴〵と出{で}かけ
やうよ」【うば】「それはよろしうございますが。おわんばいのわるいのに。とふ
道{みち}をおあるきなすつたら。又{また}あとがおわるうござひませうヨ」【小三】「ナニ

(17オ)
爰{こゝ}からはそんなに遠{とほ}くもないものを。ぶら〳〵と出{で}かけたら。気{き}が
はれてかへつてよかろうヨ。向島{むかふじま}の姉{あね}さんも。金{きん}ぼうが成人{せいじん}した
のを見{み}たがつて。連{つれ}て来{こ}い〳〵とお文{ふみ}をたび〳〵およこしだから。
まア何{なん}にしても出{で}かけようヨ」ト[是より小三は身じたくして下女のお竹を内にのこし]乳母{うば}に金
の介{すけ}をおぶはせて。向島{むかふじま}へと出行{いでゆき}ける。小三の姉{あね}真名鶴{まなづる}は。富家{ふか}
の隠居{いんきよ}に愛{あい}せられて。向{むかふ}じまの洲崎村{すさきむら}なる。秋葉{あきは}の社{やしろ}のほとり
ちかくの。別荘{べつそう}に住居{すまゐ}して。月雪花{つきゆきはな}を友{とも}としつ。いと楽〻{らく〳〵}とくらし
居{い}けるが。この春{はる}隠居{いんきよ}は世{よ}を去{さ}りて。なき人の数{かず}に入{い}りしかば。本家{ほんけ}の

(17ウ)
主人{あるじ}も真名鶴{まなづる}の便{たよ}りなき身{み}をあはれみおもひ。殊{〔こと〕}に壮年{としわか}の
〔こと〕なれば。いづかたへなりとも支度{したく}して。嫁入{よめい}らせやらんと深切{しんせつ}に。情{なさけ}
厚{あつ}くいひけれども。真名鶴{まなづる}は今{いま}さら縁着{えんづき}て。栄耀{ゑよう}をのぞむ心{こゝろ}も
なく。勤{つとめ}の身{み}にて年久{としひさ}しく。つらい苦労{くらう}もしあきたれば。たとへ
不自由{ふじゆう}のくらしをするとも。世{よ}を物静{ものしづ}やかに送{おく}らんこそ。上{うへ}もなき
楽{たの}しみなれば。あはれ尼{あま}となり仏門{ふつもん}に入{い}りて。隠居{いんきよ}をはじめ亡親{なきおや}
の。後{のち}の世{よ}をもとふらはん〔こと〕。生涯{せうがい}の願{ねが}ひなりとて。ひたすらのぞみ
けるゆへ。本家{ほんけ}の主{あるじ}もその心操{こゝろばへ}の。清{きよ}らかなるをふかく感{かん}じて。望{のぞ}みに

(18オ)
任{まか}せて。別荘{べつそう}を真名鶴{まなづる}にゆづり。その庭{には}の中{うち}に庵{いほり}を造{つく}らせ。念仏
庵{ねんぶつあん}といふ号{な}をつけて。仏事{ぶつじ}をいとなむ|補助{たすけ}とし。日{ひ}〻の雑費{さつひ}はつき
毎{〔ごと〕}におくり。不自由{ふじゆう}なくくらさせければ。真名鶴{まなづる}は日ごろの望{のぞ}みも
かなひその恩義{おんぎ}の厚{あつ}きをよろこび。浮世{うきよ}をのがれし心地{こゝち}にて。髪{かみ}を
切{き}り尼{あま}となり。名{な}を紫雲{しうん}とあらため。月〻{つき〳〵}に彼{かの}庵{いほり}にて。百万遍{ひやくまんべん}を
いとなみつ。仏{ほとけ}に仕{つか}ゆるを身{み}の業{わざ}とし。行{おこな}ひすましてくらしけるは。いと〳〵
殊勝{しゆしよう}の事なりけり。頃{ころ}しも秋{あき}の中{なかば}なれば。庭面{にはもせ}に桔梗{きけう}。女郎花{おみなへし}なで
し子{こ}藤{ふぢ}ばかまなど。さま〴〵秋艸{あきくさ}の咲{さき}みちたるまゝ。紫雲{しうん}は御仏{みほとけ}に

(18ウ)
まゐらせんと。庭下駄{にはげた}をはきおりたちて。花{はな}を手折{ており}てゐるおりから
枝折戸{しおりど}の外{そと}に人{ひと}おとするゆゑ[ふりかへりてひとめ見るより]【紫】「ヲヤ〳〵|青柳{やなぎ}ばしの
姉{ねへ}さんだネ。かくマアお出{いで}だねへ。サア〳〵こつちへお上{あが}りナ。ヤレ〳〵。よく
お出{いで}だ」ト[さすがしんみのきやうだいゆゑ]よろこぶ〔こと〕大{おほ}かたならず。小三も姉{あね}の無事{ぶじ}な
顔{かほ}を。見{み}てうれしさのかぎりなく。乳母{うば}の背中{せなか}に負{おは}れゐる。金の介を
抱{いだ}きおろし。手{て}をひきて座{ざ}しきへ通{とほ}り[おさだまりのあいさつすみてみやげものなどいだすとき]【紫】「
ヤレ〳〵ま〔こと〕に久{ひさ}しぶりだネ。ヲヤ御無用{ごむよう}におしならよいに。遠方{えんほう}だのに
お土産{みや}まで。ほんにこのあひだ人をあげた時{とき}。おまへがちつと気色{きしよく}が

(19オ)
わるいと。お返事{へんじ}に書{かい}ておよこしだから。どういふやうすかといつそ
モウ案{あん}じくらして。ちよつと見舞{みまひ}にまゐろうとおもつてゐたが
あいにくわたしも時候{じこう}にあたつて。つい〳〵けふまで出{で}かねてゐたよ。
まだおまへも顔{かほ}の色{いろ}もわるいが。気分{きぶん}はだん〴〵よいほうかヱ。そ
して舟{ふね}でゞもお出{いて}のかヱ」【小三】「イヽヱあるいて参{まゐ}りましたよ。見{み}かけ
程{ほど}心{こゝろ}もちはわるくもございませんが。只{たゞ}ふさぐばかりでございます
のさ。わたくしはモウ手{て}まへにかまけて。御無沙汰{ごぶさた}ばつかりいたします
から。あなたのおあんばいのおわるかつたのを。ぞんじませんでお尋{たづ}ね

(19ウ)
申もいたしません」【紫】「ナニサわたしのはほんの当分{とうぶん}の事{〔こと〕}。モウさつぱり
と心{こゝろ}よいヨ。ほんに金{きん}ぼうよくお出{いで}だネ。ちつと見{み}ないうちに大{おほ}きく
お成{なり}だぞ。目{め}つきや口{くち}もとがおとつさんに生{せう}だねへ」【小三】「金ぼうヤ。手{て}を
ついておばさんに。ハイ御|機{き}げんようトお辞義{じき}をしなよ」【紫】「アイ〳〵よく
お辞義{じき}ができますぞ利口{りこう}ものだぞ。サア〳〵おばさんに抱子{だつこ}をおし
うまいものを御馳走{ごちそう}するから。ヲヽよくいふ〔こと〕をお聞{きゝ}だぞ可愛{かは}いゝ
ねへ」ト[金の介をひざのうへにいだきあげながらうばにむかひ]【紫】「乳母{ばあや}アお出{いで}かヱ。ハイしばらくおたつ
しやでよいネ」【うば】「ヘイ。ありがたふござります。ま〔こと〕に御不沙汰{ごぶさた}さまを

(20オ)
いたします。へヽヽヽヲヤお坊{ぼう}さんおうれしうございますかヱ。お抱子{だつこ}でよふござい
ますネヱ」【紫】「この子{こ}もおまへの丹精{たんせい}で。ま〔こと〕におとなしく成人{せいじん}したネヱ。
ほんに氏{うぢ}より育{そだ}てがらとやら。此{この}すへともどうぞ面倒{めんどう}見{み}てやつて
おくれ」【うば】「イヱモウお利口{りこう}なお生{うま}れつきでございますから。目{め}から
お口{くち}へぬけますやうで。よその子供{こども}衆よりも御合点{ごがてん}がよくまゐります
のさ」【紫】「ほんにそふだろうネヱ。金{きん}ぼうヤ。おとつさんは御|機{き}げんよいかヱ」
【紫】「ヲヽお竹{たけ}は内{うち}におるす
番{ばん}でおとつさんはお屋{や}しきかヱ。よくわかるねへ。お常{つね}ヤ。お煮花{にばな}を早{はや}く

(20ウ)
こしらへてソシテ。今{いま}そふいつたものを取{とり}にやつておくれかヱ」【下女】「ハイ〳〵
只今{たゞいま}お煮花{にばな}もできますヨ。アノお菓子{くわし}も三松{さんまつ}どんが取{とつ}て参{さん}じました」
【紫】「そんならはやく爰{こゝ}へ持{もつ}て来{き}て金ぼうに上{あげ}ておくれそしての鯛七{たいしち}へ
そふいつてやつて金{きん}ぼうヤおつかさんのお好{すき}なうまい魚{さかな}を取{とつ}ておくれヨ」
【下女】「ハイ〳〵かしこまりました」ト[にばなと菓子をもちはこふ]【小三】「ヲヤモウおかまいなさいますな。
今日{こんち}は御馳走{ごちそう}をいたゞきますより。久{ひさ}しぶりでゆつくりと。むかし咄{ばなし}や。
うさばなして。気{き}をはらすのが何{なに}より御馳走{ごちそう}」【紫】「ほんにさうさねへ。
女{おんな}といふものは久{ひさ}しぶりで逢{あつ}ても。身{み}の上{うへ}ばなしかなんぞより。

(21オ)
外{ほか}にはなしもないものさ。マアお茶{ちや}ができたからお菓子{くわし}をおあがり。
サア金{きん}ぼう好{すき}ならたんとおあがりヨ」【小三】「ハイあがりがたふ。さやうなら
坊{ぼう}やいたゞきな。ヲヤ〳〵おめづらしい。お|牡丹餅{はぎ}でございますかヱ」【紫】「アイ富貴
牡丹{ふきぼたん}といふ道明寺{どうめうじ}のおはぎさサ。そちらにあるのは都鳥{みやこどり}といふお菓子{くわし}
で。両方{りやうほう}ながら向島{むかふじま}の名物{めいぶつ}だからたべて御覧{ごらん}」【小三】「ほんにさやうで
ございますかヱ。サア坊{ぼう}いたゞきておたべ。ばゞアにもお相伴{しやうばん}させませう」
【小三】「ほんに誠{ま〔こと〕}においしう
ございますネヱ。乳母{ばゞあ}とんだよいお菓子{くわし}だのう」【うば】「さやうでございます

(21ウ)
此{この}やうなお菓子{くわし}を向島{むかふじま}で売{うり}ますのをさつぱり存{ぞん}じませんネヱ」
【小三】「そふさモシお姉{あねへ}さんヱ。これは御|近所{きんじよ}で初めましたかヱ」【紫】「アイ直{ぢつ}き
この秋葉{あきは}さまの裏門{うらもん}の通{とほ}りで。土手{どて}へ出{で}る道{みち}サ。松花園{せうくわゑん}といふ内{うち}で。
ちかごろ売初{うりはじ}めたがとんだよくするネヱ」【小三】「さやうでございます。実{ま〔こと〕}に
美味{おいしう}ございますから。坊{ぼう}が大悦{おほよろこ}びでたんといたゞきます」【紫】「それはよかつた
ねへ金ぼうたんとおたべヨ。乳母{ばゞあ}は酒{ひたり}の方{ほう}だから今{いま}にお肴{さかな}が来{く}ると
一ト口{ひとくち}あげるヨ」【うば】「イヱ御酒{ごしゆ}よりか又このおはぎと都鳥{みやことり}は結構{けつこう}でござい
ます。そして手奇麗{てぎれい}でございますから。おつかひ物{もの}やお土産{みやけ}などには。

(22オ)
よろしうございますネヱ。これは今{いま}にはやり出{だ}しませう」【紫】「さうサわたしの
処{とこ}の本店{ほんだな}なぞでも。人をつかはさる度毎{たんび}に。いつでも買{かつ}て来{こ}いとおつしやる
そふさ。どこでも評判{ひやうばん}がよいからはやつて来るのサ」【小三】「ほんに|向島{こつち}も今
じやア都{みやこ}になりましたネヱ」【紫】「この節{せつ}はおまへ。梅屋敷{うめやしき}の七|種{くさ}が盛{さか}り
だから。たいそう見物{けんぶつ}の人が出るヨ。それに蓮華寺{れんげじ}の大師{だいし}さまの
お庭{には}がよく出来{でき}たから。だん〴〵こつちも賑{にぎ}やかになるはネ」【小三】「さやうで
ございますネヱ。わたくしも些{ちつと}やすみましたら。坊{ぼう}をつれて梅屋しき
の七くさから蓮華寺の大師さまへお参{まゐ}り申ませう。今年{ことし}は旦那{だんな}も

(22ウ)
前厄{まへやく}でございますから。お身のうへに何事もないやうに。金ぼうの
行{ゆく}すゑやわたくしの。後{のち}の世の助{たす}かるやうに。よく祈{いの}つて参りませう」ト
[ほろりとなみだをこぼすにぞ紫雲も何とやらあはれになり]【紫】「ほんにおまへもわたしに似{に}て。後生願{ごしやうねが}ひ
だと見えるねへ。金ぼうは退屈{たいくつ}だろうから。三松{さんまつ}と一処{いつしよ}にお庭{には}の池{いけ}の
緋鯉{ひごい}に。お菓子{くわし}でもやつておあそび」ト[いはれて金の介はいそ〳〵よろこびうばに手をひかれにはにおりたち]調
市{でつち}の三松{さんまつ}を相{あい}手にして。池{いけ}のほとりをめぐりあるき。緋鯉{ひごい}亀{かめ}の子など
おひまはし余念{よねん}もなくぞあそびゐる。
仮名文章娘節用三編上之巻終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ky4/3、1001952991)
翻字担当者:太田幸代、金美眞、矢澤由紀、銭谷真人
付記:鶴見人情本読書会編「〈翻刻〉『仮名文章娘節用』前編(・後編・三編)」(「鶴見日本文学」2~4、1998~2000)を対校資料として利用した。
更新履歴:
2017年3月28日公開

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