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小三金五郎仮名文章娘節用こさんきんごろうかなまじりむすめせつよう

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後編下

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小三金五郎仮名文章娘節用 後編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
仮名文章{かなまじり}娘節用{むすめせつよう}後編{こうへん}下之巻
江戸 曲山人補綴
第六回
小三{こさん}は乳母{うば}や下女{げぢよ}を臥{ふさ}しめ。行灯{あんどう}の側{そば}につくねんと
ひとり何{なに}やら物案{ものあん}じの。顔{かほ}うちながめ金五郎{きんごらう}「コウ小三{こさん}
何{なに}をしてゐるのだ。なぜ寝{ね}ねへ。又{また}持病{ぢびやう}でもおこつたか。」ト[とはれて
小三はほつといき]「イヽヱ持病{ぢびやう}ではありませんが。つく〴〵おもひまはし
ますと。あなたの事{〔こと〕}が苦労{くらう}になつて。」【金五郎】「なぜおれがどふ

(1ウ)
した。」【小三】「もとより御好{おすき}でなかつた御酒{ごしゆ}を。此{この}頃{ごろ}のやうにあが
りますから。しみ〴〵それがわたくしは。」【金五郎】「フウわかつた。
おれがあんまり。酒{さけ}を呑{のん}だり身{み}もちがわるいから。行{ゆく}すゑ
こしかたを思{おも}ひまはすと。つまらねへものだと愛相{あいそ}がつ
きて。それが苦労{くらう}になるのだらう。ウヽそうだらう〳〵。いや
になつたらいやだといへ。おれも男{おとこ}だきれてやるは。」【小三】「ソレ
そんな無理{むり}をおつしやるから。それか苦労{くらう}で片時{かたとき}も。気{き}の
やすむ間{ま}はござりません。大{おほ}かたお宿{やど}のお雪{ゆき}さんにもやつ

(2オ)
ぱり御無理{ごむり}をおつしやりませうが。それではわるふござります。」
【金】「なんの事{こつ}たおかしくもねへ。そんなつまらねへ事{〔こと〕}を案{あん}じずと
サアもふ寝{ね}ねへか寝{ね}るがいゝ。」ト[手をのばしてひきよせる]【小三】「アレまだ着{き}ものも
着{き}かへませんよ。」【金】「いゝはな。着{き}ものはそれでも大事{だいじ}ねへ。」ト[いひつゝ小三の]帯{おび}を
とけば。うれしげに上着{うはぎ}をぬぎ。下着{したぎ}のまゝに寄{より}そふて。顔{かほ}みあ
はせてたがひに[につこり]【金】「コレ小三{こさん}そなたもかねて知{し}る通{とほ}り。心{こゝろ}に
そまぬお雪{ゆき}の事{〔こと〕}。とやかく内{うち}でいふゆゑに。のつひきならぬ
義理{ぎり}づめで。しぶ〳〵請{うけ}はうけたれと。松{まつ}に桜{さくら}は見{み}かへられず

(2ウ)
そなたにまさつた花{はな}があらふか。かならすそれを苦{く}にし
ねへがいゝ。しかし親{おや}を捨{すて}両刀{ふたこし}を捨{すて}て。矢立{やたて}をさして町人{ちやうにん}に
ならふとおもへば。一も二もねへ心{こゝろ}やすひ世界{せかい}だのふ。」【小三】「サア
それがいやさに苦労{くらう}になります。只{たゞ}あなたが全{まつた}ふに。お宿{やど}
のお首尾{しゆび}のよいやうに。お雪{ゆき}さんともお中{なか}よく。みなさまに
御安堵{ごあんど}させて。わたくしをも見{み}すてゝさへくださらねば
どのやうなせつないくらしをしても。少{すこ}しもいとひはいた
しません。」ト[しんじつ見へし女のみさほ金五郎もおもひやりて]【金】「おれもその真{ま}ごゝろを

(3オ)
見{み}ぬいたゆゑに。世間{せけん}はれて。内{うち}へ入{い}れてへとおもふけれど
何{なに}をいつても養子{やうし}のかなしさ。むかしの身{み}ならいさ
くさなしに。おつけへはれて夫婦{ふうふ}だがかへつて今{いま}の身{み}の
上{うへ}が。思{おも}ひまはせばつまらねへ。」ト[ぐちなくり〔こと〕くりかへせしが]「アヽおれとした
事{〔こと〕}が。つい胸{むね}におもつてゐるゆゑ。女{おんな}のやうなぐちばつかり
儘{まゝ}になるのもならぬのもみんな約束{やくそく}しかたがねへ。これも浮{うき}
よだとふなるものか。のふ小三{こさん}。床{とこ}へ|這入{へゑつ}て又{また}いゝ夢{ゆめ}でも結{むすば}ふ。」ト
[ぐつと引よせひとつ夜着]いかなる事{〔こと〕}や契{ちぎ}るらん。在斯{かゝりし}程{ほど}に。隠居{いんきよ}白翁{はくおう}は

(3ウ)
金五郎{きんごらう}が日{ひ}にまし放蕩{はうとう}つのりて。家{いへ}にとては居{を}らざるゆゑ
養父{やふふ}文次郎{ぶんじろう}はじめ家内{かない}のものに。一{いち}ばい気{き}がねをしたり
しが。お雪{ゆき}もはや十五にもなりたれば金五郎{きんごらう}と婚姻{こんいん}をむす
ばんには。すこしは足{あし}も止{とま}らんと。頻{しきり}に是{これ}をすゝめしかば。金五郎{きんこらう}
は心{こゝろ}ならずも。婚礼{こんれい}はしつれども。お雪{ゆき}はまだ年{とし}もゆかず
殊{〔こと〕}に手{て}のなきおぼこ気{き}なれば。とにかくおもしろからぬゆへ
さま〳〵こしらへだましては。小三{こさん}がもとへのみ通{かよ}ふものから。
はやくも二{ふた}とせばかり立{たて}ども。猶{なほ}不身持{ふみもち}の止{やま}ざりけり。隠居{いんきよ}

(4オ)
白翁{はくおう}は是{これ}を愁{うれ}ひ。文次郎{ぶんじらう}夫婦{ふうふ}もお雪{ゆき}の仕{し}かたの。あしき
ゆゑに金五郎{きんごろう}が。内{うち}に居{ゐ}つかぬと口{くち}にはいへど。心{こゝろ}には真
実{しんじつ}わが子{こ}の可愛{かあい}さに。金五郎に愛相{あいそ}やつきん。我{われ}あるうち
は善悪{ぜんあく}とも金五郎{きんごろう}の為{ため}をおもへども。いくほどもなく吾{わが}
齢{よは}ひ。はてにし後{のち}やいかならんと。老{おい}の心{こゝろ}をいためつゝ。おもひ
あまりて手{て}をまはし。小{こ}さんの名所{などころ}聞{きゝ}たゞし。こゝろの中{うち}を
さぐりしうへ。理{り}を説{とき}て縁切{えんき}らせ。事{〔こと〕}に寄{よら}ば金{かね}を出{いだ}し。支
度{したく}していづかたへなりとも。片付{かたづけ}やらんと思案{しあん}しつ。金五

(4ウ)
郎{きんごろう}が当番{とうばん}にて。詰所{つめしよ}へ出{いで}て留守{るす}の日{ひ}に。小三{こさん}がもとへぞ
尋{たづ}ねゆきぬ。頃{ころ}しも文月{ふみづき}上旬{はじめつかた}。小さんははでな中形{ちうかた}の。ゆ
かたに藤色{ふしいろ}のうらゑりかけ。黒繻子{くろじゆす}の帯{おび}しどけなく〆{しめ}。
あらひ髪{がみ}をうしろへさげ。椽側{えんがは}へ出{いで}て金{きん}の介{すけ}の腹{はら}かけ
を縫{ぬふ}て居{ゐ}たりける。折{おり}から表{おもて}に人{ひと}ありて。「たのむ〳〵。」と案
内{あんない}を乞{こ}ふに。小三{こさん}は「ハイ。」といらへつゝ[立出{たちいつ}れば隠居{いんきよ}白翁{はくおう}が]「卒爾{そつし}ながら小
三{こさん}どのゝお宿{やど}は。爰{こゝ}てござりますかな。」【小三】「ハイその小{こ}さんは
わたくしでござりますが。あなたはついに見{み}なれぬおかた。

(5オ)
どちらから御出{おいで}なされました。」【白翁】「ハアそんならこなたさまが
小三{こさん}どのか。わしはこなさまにちと内〻{ない〳〵}咄{はな}しがあつてわざ〳〵
来{き}ました。ゆるさつしやれ。」と[上へあかればいふかしながら]【小三】「何{なに}はともあれそこは
端{はし}ぢか。マア〳〵こちらへお通{とほ}りなさいまし。」ト[奥{おく}へ通{とほ}せば座{さ}になほりて]【白】「扨{さて}
こなさまの名{な}はかねてより。聞{きい}ては居{ゐ}れど逢{あ}ふははじめて。
わしは金五郎{きんごらう}の祖父{ぢゞ}白翁{はくおう}といふものでござるが。今日{けふ}わざ〳〵
来{き}ましたのも。外{ほか}の事{〔こと〕}でもござらぬが。アノ孫{まご}の金五郎{きんごらう}め
が事{〔こと〕}。イヤもう見{み}るかげもないあのやうな者{もの}を。よふマア

(5ウ)
可愛{かあい}がつてやつてくださる。真身{しんみ}にとつてはうれしいともかた
じけないとも。礼{れい}は詞{〔こと〕ば}に尽{つき}ませぬ。その深切{しんせつ}なこゝろを見込{みこん}で。
ちとたのみたい事{〔こと〕}がござる。」ト。聞{きく}より小三{こさん}は胸{むね}に釘{くぎ}。はつと
心{こゝろ}に当惑{とうわく}し。いかゞはせんと思{おも}ひしが。今{いま}さらおどろく事{〔こと〕}に
もあらず。かねての覚期{かくご}はこゝぞとおもひ。胸{むね}なでおろし
気{き}をとり直{なほ}し。茶{ちや}煙草盆{たばこぼん}を出{いだ}しつゝ[しとやかに手をつかへ]【小三】「ほんに
わたくしも若旦那{わかだんな}さまのお咄{はな}しにてつね〴〵から。
御噂{おうは}さをうけ給{たま}はりましたあなたの事。お目{め}にかゝり

(6オ)
ますははじめてゞござりますれど。真身{しんみ}の親{おや}に訪{とは}れたこゝろ。
おうれしうござります。よふマアお出{いで}あそばしました。」ト[いふかほ
つく〳〵打まもり]【白翁】「イヤあまりよくも参{まい}らぬて。アヽ物{もの}ごしといひ取{とり}
まはし。容㒵{きりやう}まで高位{うへつかた}の。奥方{おくがた}とてもはづかしからぬ。人{ひと}に
すぐれた生{うま}れつき。いかなる人{ひと}の身{み}の果{はて}か。見{み}れば見{み}るほど
うつくしい。アヽ若{わか}いものゝ迷{まよ}ふはもつともかい。こなさんを
内{うち}へ入{い}れたなら。孫{まご}めが尻{しり}も落{おち}つくであらうけれど。上{かみ}へ
のきこえ世間{せけん}のおもはく。義理{ぎり}と人目{ひとめ}の詮{せん}かたなさ。

(6ウ)
たのみといふは茲{こゝ}の事{〔こと〕}。知{し}つてるかはしらねども。金五郎{きんごろう}
はわしがためには。惣領{そうれう}むすこの一人孫{ひとりまご}。世{よ}が世{よ}であるなら。
無理{むり}わがまゝも仕次第{ししだい}だが。だん〳〵深{ふか}いやうすがあつて。
あれが親{おや}は家出{いへで}なし。其{その}弟{おとうと}が今{いま}での家督{かとく}。その養子{やうし}
となりし金五郎{きんごろう}。あかの他人{たにん}といふではなけれど。養
子{やうし}と名{な}のつくかなしさは。おもふにまかせぬ世間{せけん}の人目{ひとめ}。
家{いへ}の娘{むすめ}のお雪{ゆき}といへるを。娶合{めあは}せねはならぬゆゑ。金五
郎{きんごろう}もふせう〴〵。やうやくこのごろ婚礼{こんれい}しても。お雪{ゆき}は

(7オ)
まだ子供{こども}同然{どうぜん}で。おもしろくないから片時{かたとき}も。内{うち}に居{ゐ}つかぬは
もつともかい。わしが孫{まご}でいふではないが。世{せ}けんの人{ひと}にほめ
られて。それほどの事{〔こと〕}わきまへぬやうな。気性{きしやう}でもなか
つたが。今{いま}に夜{よ}どまりはなほやまず。女房{にようほう}はほんのすもり
同様{どうやう}。それは誰{たれ}ゆゑこなさんゆゑ。わしが命{いのち}のあるうちは。
内外{うちと}の者{もの}もわしにめんじて。金五郎{きんごろう}がわるいとはいはね
ども。見{み}らるゝ通{とほ}りわしも老人{としより}。今{いま}をもしれぬ身{み}のうへ
ゆゑ。わがなき後{のち}は金五郎{きんごろう}の身{み}のために。ならぬ〔こと〕もあらう

$(7ウ)
小三行{ゆく}末{すへ}を
あんじて
金五郎を
諌{いさむ}

$(8オ)

(8ウ)
かと。案{あん}じ過{すご}せば夜{よ}の間{ま}も寝{ね}られず。苦労{くろう}で寿命{じゆみやう}も
ちゞまるやうじや。こんな事{〔こと〕}いふたら鬼{おに}とも蛇{じや}とも慈悲{じひ}
なさけのない心{こゝろ}とおもはつしやらうが真実{しんじつ}あれが
にくゝもなくば。内{うち}の娵{よめ}のお雪{ゆき}の中{なか}に。子{こ}どもの一人{ひとり}も出
来{でき}るまで。遠{とほ}ざかつてもらいたい。さすれば世間{せけん}のおもはく
もよし。又{また}子{こ}どもでも出来{でき}てからは。こなさんを内{うち}へ入{い}れ
ても大事{だいじ}ない。今{いま}金五郎が義理{ぎり}のある身{み}で。こなたを
内{うち}へよぶときは。部屋住{へやずみ}の事{〔こと〕}ゆゑ世{せ}けんへすまず。

(9オ)
こゝをとつくり合点{がてん}して。しばしのうちを辛抱{しんぼう}して。思{おも}ひ
きつて見{み}てくだされ。もしそのうちが待遠{まちとを}なら。こな
さんの心{こゝろ}にかなふやうな。身{み}の為{ため}によい処{ところ}を見{み}たて。この
爺{ぢゝ}がしたくして。縁付{かたづけ}て進{しん}ぜませう。さうすりやこなた
の身{み}も落{おち}つき。おほくの人{ひと}のきげん気{き}づまをとるにも
及{およ}ばず。せめてはわしが礼心{れいごゝろ}。気楽{きらく}にして進{しん}ぜたい。」ト[ものやわ
らかにことをわけ]のつひきならぬ義理{きり}づめの。たのみにいやといはれ
ねば。いつそわが身{み}のなり行{ゆき}を。うち明{あけ}んとはおもひ

(9ウ)
しが。今{いま}さら素性{すじやう}を明{あか}しなば。見{み}さげられもし殊{〔こと〕}に
又{また}。金五郎{きんごらう}の為{ため}あしからんと。[おもひさだめてかほをあげ]【小三】「だん〳〵のお
たのみうけたまはり。何{なに}と申{もふ}さんやうもなく。大事{だいじ}の〳〵
若旦那{わかだんな}さまを。人{ひと}にわるくいはせたり。あなたがたへいろ〳〵
な。御苦労{ごくらう}をかけましたもみんなわたくしがいたづら
からつくつた罪{つみ}でござります。おゆるしなされてくだ
さいまし。それをマアにくいともおぼしめさず。気楽{きらく}に
させてやりたいと。かへつてやさしいそのお〔こと〕はもつたい

(10オ)
ないとも有{あり}がたいとも。申さふやうはござりませぬ。去{さり}ながら
わたくしは。たとへ外{ほか}にどのやうな。けつかうな処{ところ}がござり
ませうとも。楽{たの}しみのぞみはござりませぬ。只{たゞ}若旦那{わかたんな}や
みなさまの。おためになります事{〔こと〕}ならば。たとへこがれて
死{し}すまでも。ふつつり思{おも}ひ切{きり}ませう。」ト[いふもなみだの]うるみ声{ごゑ}
わつとばかりにせきあげて。正体{しやうたい}もなく泣{なき}ゐたるこゝろの
うちぞいかならん。[白翁{はくおう}もともによろこびなみだ]「ヤレ〳〵マアよくおもひ
切{き}つてくださつた。かたじけないぞや小{こ}さんどの。そのかな

(10ウ)
しさを見{み}るがいやさに。今日{けふ}行{いつ}てたのまふか。明日{あした}行{いつ}てい
はふかと。一日{ひとひ}〳〵と見合{みあは}せても。どふでいひ出{だ}さねば果{はて}
しがつかねば。心{こゝろ}を鬼{おに}にしてわざ〳〵来{き}たが。さぞにくか
らうが是{これ}も身{み}のため。うき世{よ}の義理{ぎり}の詮{せん}かたなさ。
老{おい}の身{み}に後生{ごしやう}は願{ねが}はず。縁切{えんき}りに来{き}た罪{つみ}つくり
わしが胸{むね}のせつなさも。すいりやうしてくだされよ。
この事{〔こと〕}とくと承知{しようち}なら。けふあすといふでもない
こゝろまかせにいつなりと。こなたの身{み}にも怪我{けが}の

(11オ)
ないよう。手{て}ぎはよくやつてくだされ。」ト[いひつゝ立て出ながら]「金五郎{きんごらう}
とは縁切{えんきつ}つても。わしはやつぱり孫娵{まごよめ}のこゝろ。この後{のち}なん
ぞ不自由{ふじゆう}あらば。かならず〳〵遠慮{えんりよ}なふ。なんなりと
さういつてよこさつしやれ。こなさんの身の落{おち}つくまでは。
いつまでもわしが貢{みつぎ}ますぞや。」ト[他人{たにん}とおもはぬ]白翁{はくおう}が。やさしき
〔こと〕葉{ば}にうれしさあまり。かなしさやるせなきまゝに。とかく
のいらへさへもせず。只{たゞ}うつ臥{ぶし}て泣居{なきゐ}たる。その心根{こゝろね}の不便{ふびん}
さを。おもひやりつゝ白翁{はくおう}も。老{おい}のなみだにかきくれしが。

(11ウ)
心{こゝろ}よわくてかなはじと思{おも}ひ直{なを}してかへりける。小{こ}さんは
もとよりお雪{ゆき}の事{〔こと〕}を。聞{きい}てゐたゆゑ末{すゑ}〳〵は。中{なか}を断{さか}
れんは必定{ひつじやう}なり。もし縁切{えんき}らるゝ事{〔こと〕}とならば。生{いき}てゐた
とて甲斐{かひ}なき身{み}の。別{わか}れてつらき日{ひ}を送{おく}らんより。死{し}
して苦患{くげん}をまぬかれんと。こゝに覚悟{かくご}をきはめしも。
せまき女子{おなご}のこゝろから。嗚呼{あゝ}是非{ぜひ}もなき事{〔こと〕}にこそ。
かゝりしほどに乳母{うば}のお乳{ちゝ}は。最前{さいぜん}よりの一五一十{いちぶしじう}を。
次{つぎ}の間{ま}にて聞{きく}ものから。小三{こさん}の胸{むね}のせつなさを。さこそと

(12オ)
おもひやるほどに。おのれもともに胸{むね}のうち。はりさくばかり
のくるしさを。こらへてしのび泣{なき}ゐたるが。今{いま}はなか〳〵こらへ
かねて。わつとばかりに走{はし}り出{いで}[小三のそばへすわりながら]【うば】「もしあなた。とんだ
事{〔こと〕}になりましたねへ。あのやうにマアうつくしく。おいそれと
お受合{うけあい}なすつたは。どふいふお心{こゝろ}か合点{がつてん}がまゐりません。お
ぼうさんのある事{〔こと〕}を。なぜうち明{あけ}てかう〳〵だと。おつしやらぬ
のでござります。子{こ}までなしたる恋中{こひなか}と。お聞{きゝ}なすつたら
お祖父{ぢい}さまも。無理{むり}に切{き}れろとはおつしやるまいに。今{いま}若

(12ウ)
旦那{わかだんな}と御縁{ごえん}を断{きつ}て。どうなさる思{おぼ}しめしでござります。
お坊{ぼう}さんがかわゆくはござりませんか。あのお子さんの事{〔こと〕}は
お案{あん}じなさらぬか。マアどふいふお心{こゝろ}でござります。」ト[只ひとすぢに金の介
や小三を]大事{たいじ}とおもふゆゑ。心{こゝろ}を付{つけ}るこは異見{いけん}。乳母{うば}はかくこそ
ありたけれ。[小三はなみだのかほをあげ]「ほんにそなたのいふ通{とほ}り。子{こ}まである
身{み}を断{さか}れる事{〔こと〕}。せつないともかなしいとも。胸{むね}の中{うち}ははり
さくやうで。そのくるしさは譬{たと}へられうか。それゆゑ金{きん}ぼうの
ある事{〔こと〕}を。うち明{あけ}やうとおもふたが。男{おとこ}の子{こ}は縁{えん}切{き}らるゝとき。

(13オ)
男親{おとこおや}に付{つく}がならひ。なま中{なか}な事{〔こと〕}いひ出{だ}して。あの子{こ}まであ
ちらへ引{ひき}とられては。若旦那{わかだんな}も今{いま}までよりは。なほ〳〵御苦労{ごくらう}
が増{ます}であらうし。二{ふた}ツには又{また}わたしもあの子{こ}を。手{て}ばなし
てはたのしみもなく。さぞ日{ひ}にましさみしからうと。みれん
らしいがいひ出{だ}さぬも。やつぱりたがひの為{ため}ばかり。又{また}若旦那{わかだんな}
と縁切{えんき}つても。わたしや外{ほか}にどのやうな。男{おとこ}が有{あろ}うと二人{ふたり}
とは。馴染{なじみ}をかさぬる気{き}はないから。いつがいつまでもいまの
通{とほ}りに。斯{かう}してくらす心{こゝろ}ゆゑ。そなたもやつぱり今{いま}までの

(13ウ)
とほりに。金坊{きんぼう}の世話{せわ}をしておくれよ。」ト。[いふもなみだのあとやさき]乳母{うば}も
目をこすりながら【うば】「ま〔こと〕にあなたのお心{こゝろ}の中{うち}を。推量{すいりやう}いた
せばいたすほど。わたくしの胸{むね}もはりさくやう。なる程{ほど}おぼう
さんのある事{〔こと〕}を。おかくしなすつたは深{ふか}ひお心{こゝろ}。たとへ今日{けふ}が
日{ひ}御縁{ごえん}がきれても。一生{いつしやう}別{き}れきりといふではなし。ほんの人
目{ひとめ}や浮世{うきよ}の義理{ぎり}と。お祖父{ぢい}さまの先刻{さつき}のお〔こと〕ば。す
こしの御|辛抱{しんぼう}でござりませう。又{また}おぼうさんの事{〔こと〕}は
おつしやるまでもなく。ばゞア〳〵とお馴染{なじみ}なすつたもの

(14オ)
なんで佗人{たにん}とおもひませう。もつたいないがわたくしが。産{うみ}申
したお子{こ}だとぞんじますもの。たとへどのやうな苦労{くらう}をいた
しても。お育{そだ}て申{もふ}す気{き}でござりますから。ちつともお案{あん}じ
なさいますな。しかし是{これ}からわか旦那{だんな}の。お手{て}がきれたら
なをあなたは。いろ〳〵御|苦労{くろう}あそばすだらうと。それが
おいたはしうござります。」と。[ほろりとおとす]ためなみだ。小{こ}さんも浴衣{ゆかた}
の袖{そで}を[目にあて]【小三】「わたしも今度{こんど}の縁切{えんき}りが。一生{いつしやう}の身{み}の大
事{だいじ}だから。只{たゞ}何事{なに〔ごと〕}も神{かみ}まかせ。わるい工{たくみ}をしたのぢやア

$(14ウ)
切ろとは
人の
しやく
り歟
凧登り
江戸
五篤

$(15オ)

(15ウ)
なし。天道{てんとう}さまも見{み}どほしゆゑ。今日{けふ}はけふ明日{あす}はあすと。
その日{ひ}の風{かぜ}に任{まか}するばかり。せつぱつまつたそのときは。
又{また}外{ほか}に思案{しあん}もあらうから。それを案{あん}じてくんな
さんな。今{いま}にも若旦那{わかだんな}がお出{いで}なすつても。かならずわるい
顔{かほ}をしないで。今{いま}お祖父{ぢい}さんのお出{いで}なすつた事{〔こと〕}も。
おしらせ申ちやアわるいよ。」【うば】「それは呑{のみ}こんでおりますが。
なんぼお祖父{ぢい}さまのおたのみで。お家{いへ}の為{ため}や若旦那{わかだんな}
のおためとは申シながら。常{つね}にかはつてあなたの気{き}

(16オ)
づよさ。お思{おも}ひきりのよさといふものは。あんまり見事{み〔ごと〕}で
ござりますから。どふも合点{がてん}がまゐりませぬ。」ト[いはれて
小三ははつととうわく]死{し}する覚悟{かくご}をさとられじと[わざとまぎらすぢびやうのしやく]
【小三】「アイタヽヽヽヽヽヽ。今{いま}のもや〳〵で持病{ぢびやう}の癪{しやく}が。どうやら頭
痛{づつう}もするやうな。」ト[まくらを取てよこになる]乳母{うば}はせんかたなく〳〵も。
次{つぎ}の間{ま}へ立{たつ}て行{ゆき}て。金{きん}の介{すけ}のゆかたびらを。縫{ぬ}ふも泪{なみだ}で
はかどらし。小{こ}さんはしばし気{き}をやすめんと。よこに
寝{いね}ても眠{ねむ}られず。只{たゞ}胸{むな}さきのみとゞろきて。とやせんかく

(16ウ)
やとさま〴〵に。思{おも}ひなやみしをりからに。隣{とな}れる家{いゑ}に
て若{わか}ものども。二三人にて声高{こはだか}に。浮世{うきよ}ばなしのいろ〳〵
なる。[中に一人がいひけるは]【■】「コウ八さん。おめへおらがむかふにゐた。つとめ
あがりの女{おんな}を見{み}たか。」【▲】「フウ見{み}た〳〵。二十三四のいゝ女{おんな}だ
つけ。あれがどふした文{ふみ}でもよこしたか。」【□】「ばかアいひねへ。
アノ女{おんな}で此間{こないだ}大騒動{おほさうどう}があつたアな。」【△】「ハテノまた逃{にげ}でも
したのか。」【□】「どふして〳〵。逃{にげ}たぐらゐならいゝけれど。首{くび}をくゝ
つて往生{わうじやう}したアな。」【△】「ヱヽくゝつたか。ヤレ〳〵とんだ事をやら

(17オ)
かしたの。そりやアマアどふいふ訳{わけ}だ。」【□】「聞{きゝ}ねへアノ女{おんな}はの。婦
|多川{たがは}の女郎{ぢようろ}だがの。さる処{ところ}の息子{むすこ}に惚{ほれ}て〳〵ほれぬいて。
たがひに心{こゝろ}をあかし合{あつ}て。末{すゑ}は女夫{めうと}だ夫婦{ふうふ}にならうと。約
束{やくそく}をしたが聞{きゝ}ねへ。その息子{むすこ}が。おめへ内{うち}にやアの。いゝ嫁{よめ}が
あるんだアな。それをなんでも深{ふか}くかくして。まだ女房{にようぼう}は持{もた}ねへ
から。請出{うけだ}す〳〵とだまかしたが。大{おほ}ふでかしよ。それからお
めへ相応{さうおう}に。金{かね}まはりもいゝもんだから。親父{おやぢ}の金{かね}をひん
盗{ぬす}んで。身受{みうけ}をしておれが長屋{ながや}へ。連{つれ}て来{き}て囲{かこ}つて置{おい}て

(17ウ)
の女房{にようぼう}はたゝき出{だ}しの。から手{て}におへねへから。親父{おやぢ}はおほ
おこりで。上{かみ}がたへやるの。田舎{いなか}へやるのと大{おほ}もんちやくよ。
した処{ところ}があの女{おんな}は。女郎{ぢようろ}に似{に}あはぬよく出来{でき}た者{もの}で嫁{よめ}が
出されたり親父{おやぢ}がおこつたのを聞{きく}と。サア気{き}をもんで〳〵。
息子{むすこ}が不埓{ふらち}とはいふものゝ。嫁{よめ}を出{だ}したり内{うち}がもめるも。
みんなわたしがあやまりと。ひどく嫁{よめ}に気{き}がねを
して。生{いき}てゐちやア四方八方{しはうはつほう}。丸{ま}るくいかねへと思{おも}ツた
そうで。とう〳〵書置{かきおき}をして。首{くび}をくゝつて死んで

(18オ)
しまつたから。嫁{よめ}も帰{けへ}るし息子{むすこ}もそれから。しかたが
ねへからおとなしくなつたが。なんとその女郎{ぢようろ}はよつぽと
気{き}めへもので胸{むね}がいゝに。第一{たいゝち}貞女{ていじよ}といふ女{おんな}だ。」【△】「ほんに
女{おんな}のかゞみだのふ。水滸伝{すいこでん}一百八人{いつひやくはちにん}の中{うち}にどうかありそう
な豪傑{がうけつ}な女{おんな}だの。なるほど女は魔{ま}のもので。外面如
菩薩内心如夜叉{げめんによぼさつないしんによやしや}とかなんとか。仏{ほとけ}さまがいわしつた
通{とほ}り。顔{かほ}はうつくしくつても肝魂{きもたま}のおそろしいのが
あるものだ。しかしあの女{おんな}もその息子{むすこ}の。一旦{いつたん}恩{おん}になつ

(18ウ)
たから。男{おとこ}の為{ため}や何{なに}かを思{おも}つて。死{し}んだのはあつぱれ
名{な}が残{のこ}るが。おしいかな首{くび}をくゝつたからおしめへだ。と
ても死{し}ぬならいさぎよく。身{み}を投{なげ}るもちうだから。剃
刀{かみそり}で咽{のど}をぐつとやると。鏡山{かゞみやま}の尾上{をのへ}ときてがうぎに
きいてゐるせ。」【□】「さうよのふ。そこがやつぱり気{き}がよ
わいから。剃刀{かみそり}でやつたらいたからうとおもつて。くゝつ
たのだらうが見{み}つともなかつた。」【△】「さうだらう〳〵。それ
ぢやアやつぱりその息子{むすこ}の。面{つら}よごしでわらはれ草{ぐさ}

(19オ)
だの。ほんに死{し}ぬのもよつほどあんべゑものだ。なんにしても
おそろしや〳〵。」ト。[はなすを小三はきゝすましつく〴〵おもふひとり〔ごと〕]「ハテ世{よ}の中{なか}にも似{に}た
事{〔こと〕}があればあるもの。今{いま}のはなしのやうすでは。この身{み}に
似{に}たのも辻占{つぢうら}か。あきもあかれもせぬ中{なか}を。心{こゝろ}におもはぬ
あいそづかしが。どうマアなんといはれやう。死{し}ぬる今期{いまは}に若
旦那{わかだんな}に。お腹{はら}をおたゝせ申ては。後{のち}の世{よ}までの心{こゝろ}がゝり。ひとつ
蓮{はちす}もおぼつかなし。アヽなんとせう彼{か}とせう。」ト[ひとりむねのみくるしめける]金{きん}
の介{すけ}は婢女{げぢよ}のお竹{たけ}と。いづかたへ行{いつ}てあそびゐたるがさきに

(19ウ)
白翁{はくおう}が立帰{たちかへ}るとき。すれちがひて帰{かへ}り来{き}しが。子{こ}ども心{こゝろ}
にも小三{こさん}や乳母{うば}が。なにやらなげくやうすゆゑ。褒美{ほうび}
さへもねだらずして。又{また}門口{かとぐち}に立出{たちいで}て。土{つち}ほぜりして
居{ゐ}るをりから。金五郎{きんごろう}が来{きた}るを見{み}て。[よろこびて内にかけこみ]【金の介】「おつかア
ちやん。おとつちやんがお出だよ。おつかアちやん〳〵。」ト。[出たりはいつ
たりするうちに]金五郎{きんごろう}は入{い}り来{く}るゆゑ。小三{こさん}は顔{かほ}をしかめつゝ。起{おき}あ
がりて右{みぎ}の手{て}にて[むなさきをきつくおさへながら]【小三】「お出{いで}なさいまし。」ト[いつたばかり]
さしうつむいて〔こと〕ばなし。【金五郎】「どうしたおかしな顔{かほ}つきだの。

(20オ)
気色{きしよく}でもわるいのか。」ト[いつにかはらぬ]やさしき詞{〔こと〕ば}に。小三はいとゞ胸{むな}
さきの。さけるばかりにさしこむ癪{しやく}を。おさへても猶{なほ}おさまらぬ。心{こゝろ}
一ツに白翁{はくおう}が。いひたる事{〔こと〕}をいかにせん。なま中{なか}な事{〔こと〕}いひ出{だ}さば。
たのまれしかひもなし。又{また}金五郎{きんごろう}に胸{むね}のうちをさとられしど*「さとられしど」(ママ)
[わさとなにげなく]【小三】「けふ髪{かみ}をあらひましたら。ま〔こと〕に頭痛{づつう}がつよくして。
ふさいでならぬにいろ〳〵な事を。考{かんが}へますと心{こゝろ}ぼそくて。それ
でつい顔{かほ}いろも。」ト[せつなさかくしてわらひがほ]金{きん}の介{すけ}はさしのぞきて「おつかアちやん
もう気色{きい〳〵}なほつたかヱ。」ト[いわれてなみだをほろりとおとし]【小三】「アイもういゝよ。」【金五郎】「なんの

(20ウ)
気色{きしよく}がわるさうなら。髪{かみ}を洗{あら}はなけりやアいゝに。」【金の介】「おとつ
ちやん。今{いま}ね。よしよ{余所}のおぢいしやん来{き}て坊{ばう}こはかつたよ。」【金五郎】「ナニ
おぢいさんが来{き}た。そりやどこのおぢいさんだ。」と[とはれて小三ははつとばかり]胸{むね}
とゞろくをそらさぬ顔{かほ}で【小三】「ナニサなんでござりますよ。矢剣堀{やげんぼり}の
御隠居{こいんきよ}さんが御出{おいで}なすつたのでござりますが。この子{こ}は見{み}ると
こわがつて。どふもなりません。ヲホヽヽヽ。」ト[わらひにまぎらす]心{こゝろ}の中{うち}。さこそ
つらくもかなしかるべし。【金の介】「おとつちやんお土産{みや}あるかへ。」【金五郎】「ホイ
しまつた。ツイ今日{けふ}はわすれて来{き}た。そのかはりばゞアと

(21オ)
行{いつ}て。何{なん}ぞいゝものをとつて来{き}な。」【金の介】「アイチヤワばゞア行{ゆか}ふやう。」ト
[せたげるゆへに次の間より立出る乳母{うは}もなみだ顔{がほ}]【うば】「サアお坊{ぼう}さんまゐりませう。」ト[金の介をいだき出{て}てゆく
そぶりをつく〳〵と見てふしんがほ]【金】「なんだてん〳〵におかしな顔{かほ}をして。どふもおれにや
ア合点{がつてん}がいかねへ。なんぞ苦労{くらう}な事でも出来{でき}たか。コレなぜ
おれをはへだてるのだ。そりやアわからねへといふものだゼ。」【小三】「ヱヽなにも
込入{こみいつ}た事{〔こと〕}もござりませんから。あなたをばへだては致{いたし}ませんが。
余{あんまり}うつ〳〵として居{をり}ましたから。つい色〻{いろ〳〵}な事{〔こと〕}を案{あん}し過{すご}して。
互{たがひ}にこしかた行{ゆく}末{すへ}を。咄{はなし}て果{はて}は泪{なみだ}をこぼし。ふさいでなりませぬ

(21ウ)
からとろ〳〵と。少{すこし}気{き}を休{やす}めたのでござります。ガわたくしよりは
あなたのお顔{かほ}。いつにないお色{いろ}のわるさ。お心持{こゝろもち}でもお悪{わる}くは
ござりませぬか。」【金】「ナアニおれのはこりやア持{もち}めへだから。時〻{とき〴〵}ふさぐか
直{ちき}になほるよ。」ト[口にはいへど心には何くれ彼くれさま〳〵の苦労あれども]男気{おとこぎ}の。それとしらさぬ胸{むね}
の中{うち}。言{いは}ぬはいふに弥増{いやまし}て。猶{なを}さらつらきものぞかし。【小三】「あなたちつと
お気{き}ばらしに。御酒{ごしゆ}でもおあがんなさいませんかヱ。」【金】「いや〳〵酒{さけ}
よりはマアちつと寝{ね}よう。全体{ぜんてへ}けふは番{ばん}だから。どうも来られ
ねへ処{ところ}たつけが。きのふもおとゝいも来{こ}ねへから又{また}案{あん}じるだらうと

(22オ)
気{き}になつてそれでやう〳〵ぬけて来{き}たのよ。一{ひ}ト寝入{ねいり}やつ
たら直{なほ}るだらう。」ト[小三のまくらを引よせてねころびながら]「のう小三{こさん}。実{ま〔こと〕}に人{ひと}のいつ
生{しやう}は。どうなるものかしれねへものだの。今{いま}ごろ斯{かう}して暮{くら}さう
とは。おらア夢{ゆめ}にも気{き}がつかねへよ。末〻{すゑ〳〵}かけて夫婦{ふうふ}だと。互{たがひ}に
思{おも}ひおもはれたに。お雪{ゆき}といふ悪魔{あくま}が|這入{へゑつ}て。苦労{くろう}をさせる
せつなさつらさ。夫{それ}ゆゑにこそ祖父{ぢい}さんや両親{ふたおや}へ。いち倍
気{き}かねをするといふも。アヽうるせへ世{よ}の中{なか}だのふ。」【小三】「其{その}様{やう}に
マアお雪{ゆき}さんの事{〔こと〕}を。とやかくとおつしやるがお雪{ゆき}さんは。

(22ウ)
大事{だいじ}の〳〵お家{いへ}のお娘{こ}でござりますから。かわいがつて
あげてくださいまし。どうで私{わたくし}は日陰{ひかげ}の身{み}ゆゑ。どうなつ
てもよろしうござりますから。そんなにあちこちお気{き}をつか
つて。必{かならす}煩{わづらふ}てくださいますな。それが私{わたくし}は苦労{くろう}で〳〵なりま
せん。」と。しばし泪{なみだ}にくれ六ツ{むつ}の。かねのなるまでまどろ
まんと。金五郎{きんごろう}はこゝにうち臥{ふし}ける。是{これ}より小三{こさん}金五郎{きんごろう}に
あいそづかしをいふや否{いな}や。[そは三べんを見て知{し}り給ふべし]
仮名文章娘節用後編下之巻終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ky4/2、1001952983)
翻字担当者:矢澤由紀、金美眞、島田遼、銭谷真人
付記:鶴見人情本読書会編「〈翻刻〉『仮名文章娘節用』前編(・後編・三編)」(「鶴見日本文学」2~4、1998~2000)を対校資料として利用した。
更新履歴:
2017年3月28日公開

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