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小三金五郎仮名文章娘節用こさんきんごろうかなまじりむすめせつよう

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前編下

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小三金五郎仮名文章娘節用 前編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[小三{こさん}金五郎{きんごらう}]仮名文章{かなましり}娘節用{むすめせつよう}前編下巻
江戸 曲山人補綴
第三回
当下{そのとき}小三{こさん}は胸{むね}なでおろし。泪{なみだ}を袖{そで}にぬぐひつゝ。金五郎{きんごらう}
の側{そば}へさしより【小三】「今{いま}さら実{ま〔こと〕}を申ましても。一旦{いつたん}お疑{うたが}ひを
受{うけ}ましたれば。誠{ま〔こと〕}とは思{おぼ}し召{めす}まいがあなたにお別{わか}れ申
てより。一日{いちにち}片時{かたとき}わすれませず。泣{ない}てはあかし哭{ない}てはくらし。
いつそかなしい日{ひ}をおくるも。やがて東{あづま}へ落{おち}ついたら。呼{よび}によこすと

(1ウ)
おつしやつた。そのお〔こと〕ばを力{ちから}にして。今日{けふ}か明日{あす}かと指{ゆび}をりて
まてば一日{ひとひ}も十日{とをか}のおもひ。明{あけ}ても暮{くれ}てもお便{たより}なく。一ト月{つき}
たち二タ月過{すぎ}三月四月と日は立{た}てども。風{かぜ}のたよりのお文{ふみ}
さへ。ないてくらしてをるうちに。この春{はる}の弥生{やよひ}のころ。日さへ
わすれはいたしません。上{はじめ}の八日{やをか}の夜{よ}もふけて。みな家内{うちぢう}は
寝{ね}しづまつても。わたくしばかり目{め}も合{あは}ず。こしかた行{ゆく}すゑ
どうかうと。思{おも}ひまはせばいとゞしく。たよりなき身{み}にあなたに
まで捨{すて}られては世{よ}にたのみなく。いつそ死{し}なふか果{はて}やうかと案{あん}じ

(2オ)
すごしてをります折{をり}から閨{ねや}の戸{と}とん〳〵うちたゝき小{こ}さん〳〵と
あなたのおこゑ。さてはと嬉{うれ}しく戸{と}をあけて見{み}ればなんにも真{しん}
の闇{やみ}これも心{こゝろ}のまよひかと。また寝{ね}ますると又{また}とん〳〵小{こ}さん〳〵
とよぶこゑの。三{さん}度{ど}四{よ}たびときこゆるゆゑまた出{で}て見{み}れば物{もの}
もなし。われとわが身{み}で合点{がてん}もゆかず。途方{とはう}にくるれば寺{てら}〳〵
にひゞく夜中{よなか}の鐘{かね}の音{ね}の。あはれ无常{むじやう}を告{つげ}るかと。ながらへがたく
胸{むね}せまり。物{もの}うき月日{つきひ}を送{おく}りますのも。心{こゝろ}ぐるしく苦患{くげん}に
なり。いつそ死{し}んたかましであらふとおもへばしきりにぞく〳〵と

(2ウ)
首{くび}すぢもとから身{み}の毛{け}たち死{し}ねよ〳〵と死神{しにがみ}の。ついて死{し}ぬ
のをすゝめますのか立{たつ}てもゐても落{おち}つかすわれをわすれて
ぶら〳〵と。家{いへ}をぬけ出{いで}はしりましたが。その後{のち}の事{〔こと〕}はさつぱり
しらすどうして身{み}を投{なげ}しやら。加茂河{かもがは}へながれ着{つい}たを近所{きんじよ}
のものに引上{ひきあげ}られ。息{いき}ふき返{かへ}して見{み}ましたところが。顔{かほ}も見{み}
しらぬこはい男{をとこ}が。せげんとやら人{ひと}かひとやらいふ。男{をとこ}とふたり
でいろ〳〵なあたいやらしい〔こと〕をいふて。抱{だか}れて寝{ね}るかいふ〔こと〕聞{きく}
かと。いはれてこはさおそろしさ。いろ〳〵にわび言{〔こと〕}してもこはい

(3オ)
目{め}ばかりいたしまして。聞入{きゝい}れのない無理非道{むりひだう}。といふて身{み}をけが
すくらゐなら。舌{した}を喰{くつ}てなと果{はて}ませうと存{ぞん}じましたが身{み}
を投{なげ}てさへ助{たすか}るものを。まだ命{いのち}の尽{つき}ぬ〔こと〕なら。どうぞして東{あづま}へ
くだり。あなたのお顔{かほ}をもう一度{いちど}。見{み}ましたうへで死{しに}たいものと。
おもふた心{こゝろ}の通{つう}じましたか。その悪梘{わるもの}がいふ〔こと〕きかずは遠{とほ}い大
磯{おほいそ}へ売{うり}こかし。金{かね}にするとやら申{もふし}ますゆゑ。とても運{うん}わるく
死{しに}おくれ。悪者{わるもの}の手{て}にとらへられては。おとつさんのところへ
直{すぐ}すなほには返{かへ}す〔こと〕もありますまいし。とうで憂目{うきめ}をみる

(3ウ)
位{くらゐ}なら。大磯{おほいそ}の廓{さと}は朝暮{あさくれ}に。人{ひと}の入{い}りこむところといへば。そこへ
身{み}を沈{しづ}めたなら。あなたにめぐり逢{あ}はれふかとはかないことを
便{たよ}りにして。御恩{ごおん}のふかいおとつさんを。お見棄{みすて}申{もふ}す心{こゝろ}はなけ
れど。心{こゝろ}一{ひと}ツに詮{せん}かたなく。とう〳〵この額俵{がくだはら}やへ。歌妓{げいしや}にうられ
てまゐりましたが。おもひもよらずたつた今{いま}。あなたにお目{め}にかゝり
ましてあまりの〔こと〕のうれしさに。ものさへいはずに立{たち}ましたは私{わたくし}
が前後{あとさき}の考{かんか}へなく。不調法{ふてうほう}でござりますから。おゆるしなされて
くださりまし。殊{〔こと〕}にあなたに逢{あい}たいばかりに。覚期{かくご}いたしてこの

(4オ)
苦界{くがい}へ身{み}を沈{しづ}めは沈{しづ}めましたが。今{いま}さらお目{め}にかゝりますと
ま〔こと〕に身{み}のほどがはづかしく。消{きえ}てなくなりたふござります。
どふで大切{たいせつ}のおとつさんを捨{すて}。道{みち}ならぬ〔こと〕に身{み}を堕{おと}し御苦
労{ごくらう}かけてあなたには。御憎{おんにく}しみをうけたこの身{み}いつまでながらへ
をられませう。どふぞこの世{よ}の思{おも}ひ出{で}には。今{いま}までのおうたがひ
をおはらしなされてくださりまし。」ト[しじうなみだのうるみごゑにひとのきこえをはゞかりてわびる〔こと〕ばのせつ
なるをきけばさすがに金五郎もいつたんはらはたちけれど]かくまでわか身{み}をふかく思{おも}ふてこの泥水{どろみづ}に
身{み}をしづめても。蓮{はちす}に似{に}たる心{こゝろ}の潔白{けつばく}。苦労{くらう}さするもわれゆへ

(4ウ)
か。不便{ふびん}のものやと心{こゝろ}にはおもへど男{をとこ}の事{〔こと〕}なれば。そのまゝ心{こゝろ}
もをれかねて。返事{へんじ}もせずに空睡{そらねむり}[小さんはなほもすりよりてかほさしのぞき〳〵]「
もしあなた是{これ}ほどまで申{もふし}ますのにおうたがひがはれませ
ぬか。ヱ。ヱ金五郎{きんごらう}さんへ。どふぞ御堪忍{ごかんにん}あそばして。お心{こゝろ}を直{なほ}し
てくださりまし。もしおうたがひがはれましたら。たつた一言{ひと〔こと〕}いつ
ものやうに堪忍{かんにん}するとやさしいお詞{〔こと〕ば}。お聞{きか}せなすつてくだ
さりましよよ。」ト[じがねあらはすむすめ気の金五郎にとりつきてしばしなみだにくれけるが]こゝろづきて涙{なみだ}をはら
ひあたり見{み}まはし金五郎{きんごらう}の側{かた}へに置{おき}たる指添{さしぞひ}を音{おと}せぬやうにそろ

(5オ)
りと抜{ぬく}を。見{み}るより金五郎{きんごらう}ははねおきて。[その手をしつかりおさへつけ]【金】「コレ何{なに}を
するあぶねへは。人おどしの刃物三昧{はものざんまい}か。」ト[いふかほつく〴〵小さん見て涙ほろり]「ヱヽお情{なさけ}
ないそのお〔こと〕ば。女子{をなご}だてらに人{ひと}おどしのこはい刃物{はもの}が持{もた}れませ
うか。そりやあんまりでござります。なんぼあなたが男{をとこ}でもお情{なさけ}
ないお胴欲{どうよく}でござりませふ。是{これ}ほど事{〔こと〕}をわけまして。お侘言{わび〔こと〕}を
申ますにたつた一言のおへんじもなく。しばらくお目{め}にかゝら
ぬとて。そんなにもマアわたくしがにくゝておいやになりましたか。夫{そ}
りやあなたでもござりませぬ。たとへ女夫{めをと}のかためはせずとも

(5ウ)
一旦{いつたん}あなたのお口{くち}から。戯談{ぜうたん}におつしやつたかは存{そん}じませぬが。行{ゆく}
すゑかけて女房{にようぼ}にするの。二年{にねん}や三年{さんねん}遠{とほ}ざかつても。かはる心{こゝろ}は
ない〔こと〕の。短気{たんき}を出{だ}さずに便{たよ}りをまてのと。人{ひと}ばつかりを嬉{うれ}し
がらせて。わづか半年{はんとし}あまりのあいだに。左様{さう}お心{こゝろ}の変{かは}りま
すはあんまりきこゑぬあなたのお心{こゝろ}。どうでそのやうにおきらひ
なされば。なにを楽{たの}しみに今日{けふ}が日{ひ}からむたに命{いのち}をながらへ
ませう。わたくしがなき後{あと}でせめて一遍{いつへん}の御回向{こゑこう}をと。申{もふし}た
処{ところ}がおいやの私{わたくし}。とてもそれもかなひますまい。これもみんな

(6オ)
約束{やくそく}〔ごと〕。いたしかたもござりませぬ。」ト[ゆだんを見すましまたぬきかひるを金五郎はさしそへもきとり]【金】「はや
まつた〔こと〕して後悔{こうくわい}するな。それほどにふかく思{おも}つてゐるなら生{いき}
ながらへて後{のち}の世{よ}まで。人{ひと}の物{もの}わらひにならぬやうに。にごりし
名{な}をもすゝぎあげ生{いき}わかれた真身{しんみ}の姉{あね}に。めくりあふて
名|告{のり}あひ。古郷{こきやう}に残{のこ}したわが親父{おやぢ}に。孝行{かう〳〵}せうとは思は
ぬか。殊{〔こと〕}にそなたの身{み}のうへは。此家{ここ}へ売{うら}れて来{き}た〔こと〕ゆゑ。我{わが}
ものならぬ主人{しゆじん}の骸{からだ}。なりや今{いま}こゝで死{しん}で見ると。主人{しゆじん}も難
義{なんぎ}このおれも。のがれぬ中{なか}で難義{なんぎ}をするは。死{し}は一|旦{たん}にしてなし

(6ウ)
易{やす}く生{しやう}はかたしといふところへ。心{こゝろ}づかぬかコレ小{こ}さん。」【小三】「ヱヽそんなら
あなたおうたがひがはれましたと申シますのか。そりやほんとうで御
座{ござ}りますかへ。」【小三】「ヱヽうれしうござい
ります。それでちつと気{き}が落付{おちつき}ました。」ト[たがひに心はとけながら金五郎も男のいぢなん*「ございります」(ママ)
とやわらぐ〔こと〕ばもなければ又酒肴を]いひつけて唄妓{げいしや}幇間{たいこ}をよびにやると。ほどなく
みな〳〵どや〳〵と来{く}る。【たいこ目八】「ヘイ旦那{だんな}その後{のち}は一|別{べつ}已{い}来。とんと見
参{けんざん}つかまつりませぬ。」【金】「ほんに目八公{めはこう}。さつき逢{あつ}たまんまだつ
けの。」【目八】「ホイさうでありましたつけか。」【たいこもく蔵】「大しくじり目八公{めはこう}それぢやア

$(7オ)

(7ウ)
先刻{せんこく}已来{いらい}といひてへのふ。」【げいしやおとわ】「ヲヤ旦那{だんな}お帰{かへ}んなすつたとぞんじ
ましたら。またこゝの穴{あな}へお|這入{はいり}なさいましたネ。ヲホヽヽヽヽ。ヲヤ小三{こさん}さん
是{これ}はおはやう。さぞおくたびれなすつたらう。」ト[あいさつするに小さんはけどられじとなみ
だをかくし]【小三】「アイやう〳〵今{いま}しまひましたヨ。ま〔こと〕に〳〵暑{あつ}くつて。ひつち
より汗{あせ}になりましたよ。」ト[いひまぎらせどとやかくにむねのどうきのをさまらねはさしうつむいてふさぎゐる]【もく蔵】「とき
においらんはまだ御入内{こじゆだい}がごぜへませんぬ。モシ旦那{だんな}やつがれがちよ
つと勅使{ちよくし}に立{たち}ませうか。」ト[いふに金五郎はわらひながら]「ナアニ足下{そつか}の足{あし}を労{らう}す
までもなしさ。ちつと見{み}かけた山{やま}があるからおいらんの処{ところ}へ勅使{ちよくし}も

(8オ)
たてず御内意{ごないい}もしねへのよ。」【おとわ】「ヲヤ〳〵旦那{だんな}はおいらんに。かたい
約束{やくそく}をなすつたぢやアありませんかへ。それにマアそんな〔こと〕を。」【金】「
ナニサ今{いま}に容子{やうす}がわかりせへすりやア。真名鶴{まなづる}も呼{よび}にやるのす。
まア〳〵そんな〔こと〕は偖置{さておき}として諸事{しよじ}酒{さけ}だ唄{うた}へ〳〵。」ト[ぎよいにしたがふげいしやの長うた]
〽さうした黄菊{きぎく}としらぎくの。おなしつとめのその中{なか}に外{ほか}のきやく
しゆは捨小船{すてをふね}。」トうたいはやしでにぎはしく。しだいに銚子{てうし}の数{かず}もかは
れば。はや〔こと〕くせりのはやり唄{うた}。上{かみ}がたうたでさはぎ立{たつ}れど。とかく
小三{こさん}はうき〳〵せず。[目八は小三のかたをたゝき]【目八】「コレ女房{にようぼ}どもなぜマアそのよに

(8ウ)
ふさいでをる。ちと浮{うき}〳〵しやいのふ。イヨ成田{なりた}屋ア。」【小三】「アレモウいやだヨ
おふざけでない。」【目八】「コレサなぜそんなにひんしやんするのだ。人目{ひとめ}が多{おほ}
くてはづかしいかさうか〳〵。ハテさて初心{しよしん}な子{こ}てばあるぞ。おまへとわた*「子てば」の濁点位置ママ
しのその中{なか}はしらねへものはネヱ。もし旦那{だんな}。」【金】「大{おほ}きにサの。左右{とかく}この
子{こ}は男{をとこ}が嫌{きれ}へだそうで。なんぼ馴染{なじみ}のねへおれても。ちつとかそ
つとは何{なん}とか彼{か}とかのふおとわ。」【とわ】「さやうさねへ。今日{けふ}はどふかおし
ださうでま〔こと〕にふさいでお出{いで}なさるが。こりやア何か釈{わけ}がありま
せう。」ト[けどつたやうすの口うらに金五郎はわざとまぎらし]【金】「さうヨ大{おほ}かた色男{いろをとこ}が。待{まつ}てゐるのをこつ

(9オ)
ちへ呼{よん}だでそれできつくふさぐだらう。どふでおれがやうなのつぺら
ほんは女{をんな}にやア縁遠{えんどほ}いから。兄弟分{きやうだいぶん}になるつもりだ。ちいせへもん
ぢやア面倒{めんだう}だからサア〳〵是{これ}へついでくんな。」ト[大きなゆのみへ酒をつがせのみにかゝるを小さんはおさへて]
「モシあなた。それではあんまり過{すぎ}ますぞへ。」【金五郎】「なぜ酒{さけ}がすぎち
やアわりいのか。」【小さん】「わるいと申すぢやござりませんが。あんまりあがる
とお身の毒{どく}わたしがすけてあげませう。是{これ}もやつぱり勤{つとめ}の一ツ
みなさんわらつておくんなさんなよ。」ト[ぐつとのみほしほつといき]【もく蔵】「イヨ浜{はま}〳〵あり
がたし。玉藻前{たまものまへ}の再来め。これらがほんのよしこの〳〵。」【目八】「モシ旦那{だんな}

(9ウ)
わたくしが目{め}のわりいせへか。小三{こさん}さんはどふもおいらんに似{に}てゐなさる
ぢやアごぜへませんか。」ト[いはれてふたりはむねにぎつくり金五郎はわざとそらとぼけ]【金】「ナニ小三{こさん}がカどれ〳〵。」
ト[わらひながら]小三{こさん}の顔{かほ}をさしのぞけば小三{こさん}はうれしさ恥{はづ}かしさに[はながみでかほをかくす]
【金】「ほんにのふ足下{そつか}の目{め}のせへでもねへ。おれにもさう見えるやつ
ヨ。他人{たにん}のそら似{に}とやらだ。のふ小三{こさん}。」ト[いはるゝたびにむねどき〳〵]【小三】「どふでございます
かわたくしなんぞか。」【金】「アヽなんだかひどく酔{よひ}がまはつた。ケヱイ[引]コウ
小三{こさん}水{みづ}を一{いつ}ぱいもつて来{き}てくんな。」ト[そのまゝそこへうちふすに小さんは下へをりてゆく]【もく】「旦那{だんな}
もしモウたぬきでお逃{にげ}なさるネ。そりやアちかごろあなたても御{ご}

(10オ)
せへません。モウ一ツ献{けん}じませう。モシ旦那{だんな}およつちやアいけません。モシ
旦那{だんな}これはしたりモウおよつたそふな。」【目】「そんなら。モウそろ〳〵
軍勢{ぐんぜい}はこの陣{ぢん}を退{しりぞ}かふ。のふおとわさん。」【おとわ】「さうさねへ。」ト[いふところへ小三はちやわんに
水をくみきたり]【小三】「ヲヤ旦那{だんな}はおよつたかへ。」【目八】「さやうさ。あんまりあがりつゞけ
だからちつとおよるがようごぜへやせう。そんなら小三{こさん}さんおゆるりと。」
【もく蔵】「しかし旦那{だんな}と小三{こさん}さんとさしむかひぢやア。猫{ねこ}に鰹節{かつぶし}泣{なく}子{こ}に
乳{ちゝ}で。ちつとあぶねへものだテネ。」【小三】「ヲヤいやよ。わたしも今に下{した}へ行{ゆく}
がネアノおとわさんはゞかりながら。枕{まくら}とかいまきをちよつと下{した}へさういつて

(10ウ)
おくんなさいな。」【おとわ】「アイ〳〵合点{がつてん}でございますヨ。」ト[みな〳〵は下{した}へゆく]引{ひき}ちがへて下
女{げぢよ}かいまきと枕{まくら}を持来{もちきた}り【下女】「モシ枕{まくら}をおさせ申ませうかへ。」ト[いふとき金五郎は]
小三{こさん}の膝{ひざ}をそつとつく。小三{こさん}はこゝろを呑{のみ}こんで【小三】「ナニわたしが今お起{おこ}し
申て上るからそこへ置{おい}ていつておくれ。」【下女】「ハイ〳〵かしこまりました。」ト[まくらをおいて
したへゆく]金五郎{きんごらう}は目を明{あい}てあたり見まはし枕{まくら}を取{とつ}て又{また}ねころび【金】「
七段目{しちだんめ}の由良{ゆら}といふ計略{けいりやく}だ。サアもつとこつちへよんな。」ト[小さんの手をとり引よせる]
【金】「なんのこつたな。そんな野暮{やぼ}なもの
がゐるものか。但{たゞ}しはいやかうれしくねへか。」【小三】「あなたのおこゝろがとけ

(11オ)
まして嬉{うれ}しい〔こと〕はうれしいと。思{おも}ふにつけて又{また}一{ひと}ツ。心{こゝろ}がゝりが出来{でき}ました。」
【小三】「人{ひと}の事{〔こと〕}よりあな
たの〔こと〕さ。聞{き}けば千年屋{ちとせや}の真名鶴{まなづる}さんと。深{ふか}い中{なか}とおつしやる
〔こと〕。真名鶴{まなづる}さんは情{なさけ}を売{うる}が。勤{つと}めのならひに引{ひき}かへて。わたくしは又{また}
座敷{ざしき}ばかりの。はかない歌妓{げいしや}の身{み}のうへゆゑ。たとへどのやうな釈{わけ}
あつても。弾妓{けいしや}は抱{かゝ}への女郎衆{ぢようろしゆ}には。勝{かた}れぬが廓{くるわ}のならはし。それ
ゆゑなま中{なか}お目{め}にかゝつても今日{けふ}より末{すゑ}はどのやうな。つらひ憂
目{うきめ}を見{み}ませうか。しらねばしらぬで心{こゝろ}はすめど。あなたと真名

(11ウ)
鶴{まなつる}さんとの訳{わけ}もあれば。やつはりほむらをもやすたね。悋気{りんき}は女
子{をなご}の嗜{たしなみ}なれど。さすが女{をんな}の浅{あさ}はかに。よい㒵{かほ}ばかりはしてゐられ
ず。どのよな〔こと〕であなたのお名{な}まで。出{で}るやうな〔こと〕でもありませう
かと。今{いま}からそれがさきだつ劬労{くらう}。思{おも}へばかなしうござります。」【金】「
なんのこつたなこりやアおかしい。そんな苦労{くらう}を今{いま}からすると。天井{てんじやう}
で鼠{ねずみ}が笑{わら}ふによ。この廓{さと}の立{たて}だといつても。思{おも}ひこんだか男{をとこ}の意
気地{いきぢ}。廓{さと}の掟{おきて}をやぶつて見{み}せうと。いふはま〔こと〕の意気張{いきはり}づく。
だが真名鶴{まなづる}とおれが中{なか}も。ふかい馴染{なじみ}であらふかと。一寸{ちよつと}聞{きい}ても

(12オ)
腹{はら}が立{たつ}はづ。牽頭{たいこ}歌妓{げいしや}もくはしい〔こと〕は。たかひに顔{かほ}に出{た}さぬから。
惚{ほれ}て通{かよ}ふとおもつてゐれど。これにやア深{ふか}い様子{やうす}があるのヨ。と言{いふ}
釈{わけ}は外{ほか}でもねへが。おめへが家出{いへで}をした〔こと〕をしらせの状{ぢやう}にがつかり
して。この世{よ}に望{のぼ}みも絶{たえ}たから。ながらへてゐやうともおもはなんだが。*「望{のぼ}」は「望{のぞ}」の誤字か
又{また}よく〳〵考{かんが}へて見{み}ると。実{じつ}に死{しん}だか壮健{たつしや}でゐるか。又{また}は外{ほか}にいひ
かはした男{をとこ}があつて逃{にげ}たのか。取{とり}とめた〔こと〕もわからぬのに。己{おれ}ばかり心
中{しんちう}立{た}るもあんまり愚痴{ぐち}な穿鑿{せんさく}で。末代{まつだい}人{ひと}のものわらひ。殊{〔こと〕}に上*「立{た}る」(ママ)
方{かみがた}の親父{おやち}をはじめ。此地{こつち}の養父{おやぢ}や養母{おふくろ}に。苦労{くらう}をかけるは大{だい}ふ孝{かう}

(12ウ)
と。心{こゝろ}でこゝろを取直{とりなほ}しても。おめへの〔こと〕が忘{わす}られねへから。他{ほか}の女{をんな}にや心{こゝろ}も
うつらず。一日{いちにち}〳〵とくらすうち。友達{ともだち}にさそはれて。いや〳〵灯籠{とうろう}を
見物{けんぶつ}に。来{き}た日{ひ}が丁度{ちやうど}真名鶴{まなづる}の。突出{つきだ}しの日{ひ}でとり〴〵に。美{うつ}くし
いと評判{ひやうばん}するゆゑもしや少{すこ}しも似{に}てゐるかと。見{み}れば迷{まよ}ひかそなた
にそのまゝハテ似{に}た者{もの}もあるものと。客{きやく}になつてよそながら聞{きけ}ばやつ
ぱり都{みやこ}といふから。心{こゝろ}ゆかしくなつかしく。初会{しよくわい}の晩{ばん}からうちとけて
たがひに身{み}の上{うへ}あかした処{ところ}似{に}たのも道理{だうり}お鶴{つる}といつて。里{さと}にやら
れた六兵衛{ろくべゑ}どのゝ。惣領娘{そうれうむすめ}と聞{きい}てびつくり。妹{いもと}のおかめは斯〻{かう〳〵}と咄{はな}

(13オ)
せばお鶴{つる}も共{とも}に驚{おどろ}き。泣{なき}つかこちつあはれなはなしで一{ひと}ツに寝{ね}
るは偖{さて}おいて。妹{いもと}のそなたに心中立{しんちうたて}。帯紐{おびひも}とかぬさすがの気性{きしやう}。
おれとても又{また}おめへの生死{しやうし}が。知れぬからとて姉{あね}の。真名鶴{まなつる}を抱{だい}
ても寝{ね}られず。といふて見捨{みすて}るも本意{ほんい}でねへから。妹{いもと}のよしみに
客{きやく}になつて。末{すへ}ながく力{ちから}にならふと。約束{やくそく}をして通{かよ}ふゆゑ。深{ふか}い
様子{やうす}のある〔こと〕を。誰{たれ}一人{ひとり}知{し}る者{もの}もなく。今日{けふ}まで義理{ぎり}であそ
びに来{き}たのヨ。ところが今度{こんど}額重{かくじう}で。かゝへの芸者{けいしや}の小三{こさん}といふが
浅間{あさま}の踊{をど}りをおどるといふが。廓中{くるはぢう}での随一{ずいいち}と。とり〴〵に評判{ひやうばん}

(13ウ)
するを。守田屋{もりたや}の二階{にかい}で真名鶴{まなづる}と共{とも}に。見{み}ればそなたに違{ちが}は
ねば。どういふ〔こと〕でこの廓{さと}へ。遠路{ゑんろ}を隔{へだて}て来{き}てゐるかと不審{ふしん}に思{おも}へ
ば幇間{たいこ}どもが。男{をとこ}のために身{み}を売{うつ}たの男{をとこ}と逃{にげ}たのなんの彼{か}のと。
いふを聞{きい}てはこの胸{むね}が。はりさくばかりに腹{はら}が立{たつ}て。心{こゝろ}のくさつた
女{をんな}の事{〔こと〕}ふりむいて見{み}るもいま〳〵しいと。あきらめて見{み}ても凡夫{ぼんぶ}
の〔こと〕ゆゑ。やつぱり迷{まよ}ふ心{こゝろ}の愚痴{ぐち}からなんでも実否{じつふ}を糺{たゞ}し
たうへ。ともかくもしやうとおもつて。みんなにしらせず帰{かへ}つたふりで
取{とつ}てかへしてこゝへ来{き}て。見{み}ればそなたに違{ちか}ひはねへが顔{かほ}を見る

(14オ)
よりものもいはずに。逃{にげ}るから猶{なほ}腹{はら}が立{たつ}て今{いま}のやうにいつたも無
理{むり}ぢやアあるめへがの。かう心{こゝろ}がとけるからは。真名{まな}づるを爰{こゝ}へ呼{よん}で
兄弟{きやうだい}の名{な}のりをさせてやるぜ。」ト[きいて小三は大きにおどろき]「ヱヽそんならアノ真名{まな}つる
さんは。わたしの姉{あね}さんでござりましたかへ。アノ姉さんで。」【金】「さうヨ正真
正銘{しやうじんしやうめい}のおめへの姉{あね}よ。」【小三】「ヱヽそりやマアうれしうござります。さう
とは微塵{みぢん}もぞんじませんで浅{あさ}い女{をんな}のこゝろからいろ〳〵愚痴{ぐち}な恨{うらみ}
〔こと〕はもつたいないとも恥{はづ}かしいとも。又{また}嬉{うれ}しいもやま〳〵なれど。なん
の因果{ゐんぐわ}でこのやうに。兄弟{きやうだい}ふたりがそろひもそろつてつらひ

(14ウ)
つとめの流{なが}れの身{み}はかないなりで名{な}のりあひ。つもるはなしの
うき〔こと〕も。亡{なき}両親{ふたおや}が草葉{くさば}のかげから。御聞{おきゝ}なすつたらうかばれ
ますまい。おなじつとめのその中{なか}でもだまされしとはいひながら。
真名鶴{まなづる}さんは親{おや}のため。苦界{くかい}にしづむもばちでもない。それに
引{ひき}かへわたくしは。いたつら事{〔ごと〕}の心{こゝろ}がら。御{ご}をんの深{ふか}いおとつさんを。都{みやこ}
に残{のこ}して此{この}つとめ我{わが}身{み}でわが身{み}の愛相{あいさう}もこそも。つきはてゝ
はづかしい。面目{めんぼく}もない身{み}でござります。」「なるほど夫{それ}ももつと
もだが。ハテ何事{なに〔ごと〕}もみんな約束{やくそく}。どふするものかしかたがねへはな。

(15オ)
そんな〔こと〕を苦{く}にやまねへで。久{ひさ}しぶりだから。浮{うき}〳〵して。ちつとにつこり
して見せな。いつでものろけるやうだが。真名鶴{まなづる}とおめへとよく似{に}て
ゐるが。ならべて見{み}たら又{また}いちだん。おめへのほうがうつくしからう。」【小三】「
ヲホヽヽヽヽそんな〔こと〕をおつしやるけれど。姉{あね}さんとおまへさんは。どふも
しれませんヨ。」ト[につこり笑てよりかゝる]【金】「こいつアおかしい。姉{あね}さんとおれがどふ
したと。」【金】「
なんのこつた寝{ね}たらふといふとか。」【金】「ハテおめへも疑{うたが}ひぶかい。
今{いま}もくどくいふ通{とほ}り。ちいさい時{とき}からひとつに育{そだ}つて。あんまり

(15ウ)
かわいがられもしなんだが。にくがられもしねへ中{なか}だにおめへを
すてゝ真名鶴{まなづる}に見{み}かへるこゝろがあるものか。」【小三】「それでも恋{こひ}
は思案{しあん}の外{ほか}。をとこの心{こゝろ}は秋{あき}の空{そら}とやら。おうたがひもふすでは御
座りませんが。アノ芝居{しばゐ}でもいたしますお半{はん}長右衛門{ちやうゑもん}を見{み}る
やうに。思案{しあん}の外{ほか}の不義{ふぎ}いたづら長右衛門{ちやうゑもん}は年{とし}といひ。おきぬ
といふおかみさんのある身分{みぶん}でひとり娘{むすめ}のおはんをば。身{み}おもに
させたいたづら者{もの}。」【金】「コウ〳〵なにをいふ。そりやアほんの狂言{きやうげん}だ。
よし又{また}実説{ほんとう}のことにもしろ。なんのおれが水{みづ}くさい。そんな心{こゝろ}を

(16オ)
もつものかな。朱{しゆ}にまじはれば赤{あか}くなると。おめへもわづかなあいだ
泥水{とろみづ}をのんだら。たいそう手{て}も足{あし}もはへたの。モウいゝ加減{かげん}にやき
もちをやいて久{ひさ}しぶりだから。もつとこつちらへよんねへヨ。」ト[ぐつと引よせて
おびをとく]【小三】「わたくしはモウあんまり嬉{うれ}しくつて夢{ゆめ}ぢやアないかと思{おも}
ひますヨ。」【金】「ヘン夢{ゆめ}なら大{おほ}かた。はやくさめればいゝとおもふだ
らう。」【小三】「又{また}そんなにくい〔こと〕を。夢{ゆめ}ならどふぞ。いつまでもさめ
ずにおれば。よふござります。」【金】「うそ〳〵。そしてモシ夢{ゆめ}なら
どふする気{き}だ。」【金】「それ

$(16ウ)
加賀千代
しぶいかはしらねど
柿{かき}の初{はつ}ちぎり

$(17オ)

(17ウ)
から。」【小三】「どふだかぞん
しません。」と[かほをあかくしてうつむく]【金】「ナニしらねへことがあるものか。だれかにおそ
わつて御存{ごぞん}じだらう。ドレちよつとあらためて見{み}よう。」ト帯{おび}も
心{こゝろ}もうちとけて。ちぎりそめたるゆかたびら玉{たま}のあせをや
しぼるらん。かくて是{これ}より金五郎{きんごらう}は千年屋{ちとせや}へ人{ひと}をはしらせ
真名鶴{まなづる}をまねきよせて。小三{こさん}に対面{たいめん}させしかば。真名{まな}づるも
しきりに驚{おどろ}き生{うま}れてはじめて兄弟{きやうだい}の。まめで逢{あ}ふたる
よろこびに。嬉{うれ}しさあまる悲{かな}しさは身{み}まゝにならぬつとめ

(18オ)
と勤{つとめ}。あぢきなき世{よ}とうちかこち。泣{なき}つわらひつ夜{よ}と共{とも}に
かたみに憂{うさ}をかたりける。かくまで小三{こさん}と金五郎{きんごらう}は。浅{あさ}からぬ
中{なか}なるゆへ真名{まな}づるは小三{こさん}の事{〔こと〕}いふまではなけれども。千世{ちよ}に八
千世{やちよ}もすへかけて不便{ふびん}と思{おも}ひ憐{あはれ}みて。お情{なさけ}かけてくだされか
しと。いと念頃{ねんごろ}にたのみける。偖{さて}も金五郎{きんごらう}は小三{こさん}と契{ちぎ}りを
込{こめ}しよりたがびにつのる恋中{こひなか}に。一日{いちにち}逢{あは}ねば気{き}にかゝり。二日{ふつか}も*「たがびに」の濁点ママ
顔{かほ}を見{み}ぬ時{とき}は心{こゝろ}もすまず苦{く}になるまで。一ト{ひと}とせあまり
通{かよ}ひけり。ころしも師走{しあす}の半{なか}ばにて。雪{ゆき}は木{こ}ずゑの花{はな}とちり

(18ウ)
寒{さむ}さいとはぬ若{わか}い同士{どし}。雪見{ゆきみ}の船{ふね}を堀{ほり}へつけ。連{つれ}をはづして
金五郎{きんごらう}は。ほろゑひ機嫌{きげん}に只{たゞ}ひとり額田原屋{がくだはらや}へ入{い}り来{く}
れば。それと見{み}るより若{わか}い者{もの}「これは旦那{だんな}だいぶお遅{そ}ふ。この
大雪{おほゆき}に。よい御{ご}きげんで。」【金】「雪{ゆき}のふる夜{よ}も雨{あめ}の夜{よ}も。かよひくるわ
の大門{おほもん}をか。ハヽヽヽヽ。めつぱう寒{さむ}くつてげん気{き}なしヨ。十公{じふこう}いつもの
とふり飲込{のみこん}だらうの。」【十吉】「ヲツト合点承知之助{がつてんせうちのすけ}。モシ今夜{こんや}ら
はしつかりおあつたまんなせいまし。サアお二階{にかい}へ。」ト[あんないに金五郎ははしごとん〳〵]
奥{おく}の小座敷{こざしき}へうち通{とほ}れば[娘分のおきく茶たばこぼんをもちきたりて]「ヲヤ金{きん}さんよく

(19オ)
いらしやいました。お珍{めづ}らしいものが沢山{たくさん}ふりましたねへ。」【金】「さうサ
夫{それ}だから一{いち}ばい寒{さむ}いの。」【お菊】「よくこのマアおさむいに。あなたもよつぽ
ど小三{こさん}さんにやア御信仰{ごしんこう}でございますネ。」【金】「御{ご}すいさつのとほ
りス。しかしおめへなんぞも容㒵{ようぼう}はよし気{き}めへといひ。しん心{じん}を
する男{をとこ}が多{おほ}からふ。」【おきく】「ヲヤよろしく申{もふし}ておくんなさい。なんの
私{わたくし}のやうな者{もの}をつめつてくれる人{ひと}もございませんヨ。」【金】「うまく
いふぜ。しつぽりとしんねこではまぐりのお吸物{すひもの}を〆{しめ}てる人{ひと}がのふ
おきくさん。」【おきく】「ヲホヽヽあんな。にくらしい〔こと〕を。小三{こさん}さんにいつつけ

(19ウ)
ますよ。」【金】「ハヽ。コウお菊{きく}さん。おめへに献上{けんじやう}しようと思{おも}つて持{もつ}て来{き}
たものがあつたつけ。」ト[ふところから本べつこうのくわんぎくのくしを出してやる]【きく】「およしなさればよいに。
毎度{まいど}どふもお気{き}のどくさまで。」【金】「なんのマアだまつて取{とつ}て置{おき}なナ。
おめへのすきな。紀{き}の国{くに}やのだから。」【きく】「ま〔こと〕にありがたふござり
ます。ほんに釻菊{くわんぎく}がた源之助{げんのすけ}のてござりますネ。どふもま〔こと〕に
風{ふう}といひ。甲{かう}といひ。いつそ好{すい}た形{なり}でござりござりますヨ。」【金】「コウ
ときに小三{こさん}は都合{つがふ}は能{いゝ}かの。どこぞ座敷{ざしき}へ出{で}てゐるかへ。」【きく】「イヽヱ
なんでございますヨ。方〻{はう〴〵}から口{くち}がかゝりましたが。なんだか気色{きしよく}が悪{わる}

(20オ)
いとやらで。みんなおざしきをことわつて引{ひき}こんでゐなさいますよ。」
【きく】「ナニ癪{しやく}ではあります
まいが。大{おほ}かた此{この}雪{ゆき}に。あたんなすつたのでありませう。小三{こさん}さんの気
色{きしよく}のわるいは。おまへさんのお薬{くすり}が。いつち。よくきゝますからはやく
しらせて参{まゐ}りませう。」【金】「何{なん}のかんのと嬉{うれ}しがらせるのか。おもへも*「おもへも」(ママ)
よつほどさるものだヨ。」ト[きせるでしりをちよいとたゝく]【きく】「ヲホヽヽ有{あり}がたふござります。」ト
[おきくは立て下へ行。ほどなく小三はしづ〳〵と]揩子{はしご}をあがつて出来{いできた}る。すがたは何{なに}か。なやましげ
に顔色{ぐわんしよく}さへも常{つね}ならず。あらひ髪{がみ}なる島田髷{しまだわげ}。鬢{びん}のおくれ

(20ウ)
毛{げ}寝{ね}みだれしを。黄楊{つげ}の小櫛{をぐし}にかきあげつゝ。おもき顔{かほ}に
もにつこりと。わらひをふくむあいきやうは。俗{ぞく}に所謂{いわゆる}いのち
取{とり}男{をとこ}ころしといふべけれ。金五郎{きんごらう}はあんかへあたり寝{ね}ころ
びてゐる側{そば}へ。小三{こさん}はよりそひ。さしうつむくを[さしのぞきつゝ]【金】「どふした
ひどくふさぐのふ。雪{ゆき}の寒{さむ}さにあたつたか。かぜでも引{ひき}アし
ねへかの。」【小三】「風{かぜ}もちつとは引{ひき}ましたが。そればかりてはありま
せん。」【小三】「持病{ぢびやう}や酒{さけ}
の二日酔{ふつかゑひ}なら。ふさいでゐてもあなたのお顔{かほ}。見{み}れば直{なほ}るは常{つね}

(21オ)
の事{〔こと〕}そんな〔こと〕ではござりません。」【金】「ハテおつな〔こと〕をいふもんだの。
そしてマアどふいふ〔こと〕だ。」【小三】「なんだかいつそ苦{く}になつて。人{ひと}にも云{いは}
れぬ心{こゝろ}の苦労{くらう}。」【金】「ナニ人{ひと}にいはれぬ苦労{くらう}が出来{でき}た。ハテナ。ハヽアそれ
ぢやア大{おほ}かた。なじみの客{きやく}が身{み}うけをするといふ〔こと〕か。」【小三】「なんのマア
そんな〔こと〕が。アノなんでございます。」【小三】「アノ是{これ}でござい
ます。」ト[はらへゆびをさしてはづかしそうにかほをかくす]【金】「そんならとまつたのかアノ夜喰{やしよく}の
かたまりが出来{でき}たといふのか。」【小三】「ハイそれだからモウ。ま〔こと〕にくら
うでなりません。」【金】「なんの〔こと〕かと思{おも}つたにどふでかういふ。なかだ

(21ウ)
もの。子{こ}の出来{でき}るのは覚悟{かくご}のうへ。なにも苦{く}にする〔こと〕はねへ。そふ
してとまつたのは。いつからた。」【金】「
そりやア大{たい}さうはやかつたの。しかし身{み}おもになるからは。いつ迄{まで}
つとめも。なるめへから。追{おつ}つけ春{はる}になつたらどふなりと。重兵衛{じうべゑ}
に懸合{かけあつ}てつがふしてつとめをひかせるから。必{かなら}ずあんじることは
ねへヨ。マア〳〵何{なに}はともかくも。実{み}をむすぶ目出{めで}たいことだ。こゝろ
祝{いわ}ひにこれからわつさり。みんなをよんで酒{さけ}とせう。」【小三】「とは云{いふ}
ものゝこれからは。一{い}チばいあなたに御苦{ごく}らうを。かけませうかと

(22オ)
それが今{いま}から。」【金】「くらうになるとは金{かね}ばかりのくらう。つまらぬ
ことを案{あん}じ立{だて}して煩{わづら}つてくれちやア。いかねへゼ。サア〳〵酒{さけ}た。」ト
これよりいつもの幇間{たいこ}芸者{げいしや}。大{おほ}ぜいあげて大{おほ}さはぎ。酒筵{しゆえん}
にときやうつしけん。
仮名文章娘節用巻之下終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Ky4/1、1001952975)
翻字担当者:片山久留美、成田みずき、島田遼、銭谷真人
付記:鶴見人情本読書会編「〈翻刻〉『仮名文章娘節用』前編(・後編・三編)」(「鶴見日本文学」2~4、1998~2000)を対校資料として利用した。
更新履歴:
2017年3月28日公開

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