浮世新形恋の花染 三編下 ---------------------------------------------------------------------------------- 凡例 1.本文の行移りは原本にしたがった。 2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。 3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。 4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア 5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」 6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。  平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ  片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ  複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵 7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。 8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。 9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。 10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕 11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい} 12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日} 13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい} 14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。 15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】 16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。 17.不明字は■で示した。 18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」 19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。 20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。 本文の修正 1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。 ---------------------------------------------------------------------------------- (1オ) [浮世{うきよ}新形{しんがた}]恋{こひ}の花曽女{はなぞめ}第三編巻之下 江戸 松亭金水編次 第九回 直{なほ}きを以{もつ}て怨{うら}みに報{ほう}ずと。|古昔{むかし}の聖者{せいしや}も宣{のたま}ひけん。 おしゆんは嚮{さき}にさま〴〵の。怨{うら}みありとはいひながら。今{いま}斯{かく} 零落{おちぶれ}窶{やつ}れはてたる。色絹{いろぎぬ}がありさまを。見るに忍{しの}び ず諫{いさ}め励{はげ}まし。手{て}に手をとりてよふ〳〵と。おのが門 辺{かどべ}へ伴{とも}なひ来{き}しが。内{うち}には良人{おつと}伝{でん}兵へあり。逢{あは}ば互{たがい}に (1ウ) 悪{あし}かりなん。いかゞせましとおもふ所{ところ}に。色絹{いろぎぬ}は家{いへ}の さまを右視{とみ}左視{かうみ}つゝおどろきて。「これは猿廻{さるまは}しの与{よ}*原本に括弧なし 次郎さんが。宅{うち}にやあらん。」といふにより。「どうしてそれ*原本に括弧なし を。」と問{とひ}かけるに。詞{〔こと〕ば}短{みぢ}かく在{あり}し次第{しだい}を。逸〻{いち〳〵}にもの*原本に括弧なし がたり。「どの㒵{かほ}さげて此{この}家{や}にいり。与次{よじ}郎さんに㒵合{かほあは}*原本に括弧なし されう。実{じつ}におまへの深切{しんせつ}は。死{し}んでも忘{わす}れはおき ませぬ。どふぞ迚{とて}ものお情{なさけ}に。死{し}ぬなりと生{いき}るなり とわたしのまゝにさしてよ。」と。歎{なげ}くをおしゆんは慰{なぐ}さ (2オ) めて。「そふ言{いは}るゝは尤{もつとも}なれど。おまへとわたしは従弟{いとこ}*原本に括弧なし 同士{どし}。たとへ怨{うら}みのあるにもせよ。それは誠{ま〔こと〕}に当座{とうざ} の事。固来{もとより}血縁{ちすじ}の両個{ふたり}が中{なか}。これが見捨{みすて}てよい物{もの}か。 なるほどそういふ訳{わけ}ならば。与次{よじ}郎さんには逢{あひ}にく からふ。幸{さいわ}ひこゝの薪小屋{まきごや}は。人{ひと}の来{く}る処{とこ}でない。マア〳〵 今宵{こよひ}はこゝで明{あか}し。翌{あす}夜{よ}あければわたしが胸{むね}に。了 張{れうけん}があるほどに。何{なに}もかもうちまかして。苦労{くらう}をせ ずに居{ゐ}るがよい。悪{わる}いやうにも計{はか}らふまい。」と。飽{あく}まで (2ウ) 誠{ま〔こと〕}をあらはせば。猶{なほ}さら愧{はづ}る色絹{いろぎぬ}が。たゞアイ〳〵も口{くち} のうち。たとへ此{この}場{ば}はふり切{きつ}ても何処{どこ}へどうとの宛{あて}も なし。さらば今宵{こよひ}は薪小屋{まきごや}にと。忍{しの}ぶもつらき浮身{うきみ} の宿{やど}。おしゆんは己{おの}が半天{はんてん}を色絹{いろきぬ}にうち着{き}せつゝ 門{かど}の戸{と}あけて内{うち}にいれば。伝{でん}兵へは。待{まち}わびて【伝】「ヲヽお しゆんか。今日{けふ}は大分{だいぶ}遅{おそ}かつたの。兄貴{あにき}は何処{どこ}へ往{いつ}た やら。この二三日は内{うち}へ帰{かへ}らず。おりやモウ一人{ひとり}でさみし かつた。しかし手{て}まへが毎日{まいにち}〳〵稼{かせい}で呉{くれ}るで不自由{ふじゆう} (3オ) なく。斯{かう}して居{ゐ}るはありがたい。去{さり}ながらいつがいつ迄{まで} 浮{うか}〳〵して居{ゐ}てもつまらぬものだ。どうか仕{し}やうもあ らふかと。今日{けふ}も一日{いちにち}とつおいつ。考{かんか}へてもよい智恵{ちゑ} も出{で}ねへはへ。」【しゆん】「マア何事{なに〔こと〕}も時節{じせつ}が来{こ}にやア。成 就{じやうじゆ}するものではないから。くよ〳〵思つて煩{わづ}らふてゞ もおくんなはんな。主{ぬし}が煩{わづ}らや倶{とも}なんぎだヨ。」【伝】「 そりやアモウちけ{違}へねへ。」【しゆん】「夫{それ}はそうと今日{けふ}見世{みせ}へ。アノ 源作{げんさく}づらが参{まい}りましたヨ。」【伝】「ナニ〳〵源作{げんさく}が。ハテそれは又{また} (3ウ) どうして。」【しゆん】「それからマアお聞{きゝ}なはい。どうしてか此処{こゝ}の 内{うち}に居{い}るといふ〔こと〕を。しつて居{ゐ}まさアな。そしてモウ吾 儕{わたし}をつかめへて。ヤレ惚{ほ}れたの恋{こひ}しいのと。色{いろ}〳〵さま〴〵 な事を言{いつ}て。あげくの果{はて}に小判{こばん}を包{つゝん}で。茶代{ちやだい}だと いつて呉{くれ}ましても。わたしは夫{それ}をとりはしないが。色{いろ}〳〵に して気{き}を引{ひい}て。おまへの在家{ありか}を聞{きゝ}たいやうす。しかし吾 儕{わたし}がこゝに居{ゐ}るを。しられたからには油断{ゆだん}がならない。 ひよつと来{く}るかもしれませんから。その時{とき}はおまへさん (4オ) 何処{どこ}へなりと隠{かく}れてお出{いで}。わたしがいゝやうに言{いつ}て かへしますから。」ト聞{きい}て伝{でん}兵へ眉{まゆ}を頻{ひそ}め【伝】「ハテそりやア思 ひもつかねへ。何{なに}もあいつ。おれが往方{ゆくへ}をたづねる筈{はづ}は ねへけれど。大{おほ}かたおれが指{さし}て居{ゐ}る。雲竜丸{うんりようまる}が欲{ほし}い のか。たゞしはおれが罪{つみ}を訴{うつた}へ。なきものにして福住{ふくずみ}の 家{いへ}を押領{おうれう}しよふといふのか。その二ツつに違{ち}ひあるめへ。」【しゆん】「 何{なん}だか先{さき}の気{き}はしれねへが。まア〳〵逢{あは}ねへにしくは ないから。」【伝】「ヨシ〳〵それは大{おほ}きに承知{しやうち}だ。時{とき}に手{て}めへが (4ウ) 帰{かへ}るだらふと思つて。甘{うめ}へお菜{さい}を煮{に}て置{おい}たぜ。」【しゆん】「 ヲヤそふかへ。何{なに}をへ。」【伝】「当{あて}て見さつし。」【しゆん】「何{なん}でもさかな だらう。」【伝】「大{おほ}ちげへ。」【しゆん】「初茸豆腐{はつたけどうふ}かへ。」【伝】「イヽヤ。」【しゆん】「夫{それ} しやアどうもしれない。マア何{なん}にしろお飯{まんま}を給{たべ}やう。 おまへはモウおあがりか。」【伝】「一所{いつしよ}に喰{くは}ふと思つて。待{まつ}て 居{ゐ}たアな。」【しゆん】「そうかへ。サア〳〵給{たべ}やう。どれ。」ト[なべのふたをとりて]「ヲヤ マア何{なん}だと思つたらお芋{いも}の煮{に}ころばしさ。それで もマアよく気{き}が付{つい}たねへ。」【伝】「手{て}めへこれがすきじやア (5オ) ねへか。」【しゆん】「アイ誠{ま〔こと〕}に好{すき}だヨ。しかし青善{あをせん}で給{たべ}たやう な芋{いも}は外{ほか}にはないねへ。」【伝】「そりやアしれた事さ。」【しゆん】「 しかしおまへさんのお手自{てつから}。煮{に}てお呉{くん}なすつたの だから。それよりやア甘{うま}いヨ。」【伝】「ヘン。でへぶ世事{せじ}がいゝの この客人{きやくじん}は。そんな事を言{いつ}てせかしても。御祝義{ごしうぎ} とはいかねへぜ。」【しゆん】「ヱヽモウ口{くち}の悪{わる}い。わたしやア此{この}ごろ つく〳〵そう思ひますは。モウ死{し}んでも思ひ残{のこ}りはない と。」【伝】「なぜ。」【しゆん】「なぜと言{いつ}ても。おまへさんと斯{かう}して (5ウ) 夫婦{ふうふ}のやうにして。三日{みつか}でも暮{くら}したからサ。」【伝】「いや ごめんなせへ。否{いや}だと言{いつ}てにげてあるいた癖{くせ}に。」【しゆん】「 あれさ。ありやアどふも義理{ぎり}づくだはね。」【伝】「今{いま}は義 理{ぎり}はねへか。」【しゆん】「ないといふ訳{わけ}ではないが斯{かう}なつた物{もの} をどふしませう。モウ此方{こつち}もやけだから構{かま}はない。」【伝】「 はやく其{その}やけになつて呉{くれ}ると。おれも余{よつ}ほどよかツ たツけ。」【しゆん】「おまへさんはヨウ愚痴{ぐち}をいふよ。憎{にく}らしい。」 【伝】「ヲヤ今{いま}可愛{かあいゝ}と言{いつ}たつけの。」【しゆん】「しらないヨ。サア〳〵寝{ね}ま (6オ) せう。どふで今夜{こんや}も兄{あに}さんは帰りはしない。」【伝】「ごう ぎに床{とこ}いそぎだの。ア丶しかし起{おき}て居{い}ても仕方{しかた}が ねへ。マア〳〵寝{ね}るが浮世{うきよ}の楽{らく}さな。」ト二人は床{とこ}をしき のべて。尽{つき}せぬ夢{ゆめ}をむすぶなるべし。かくて其{その}夜{よ}も明{あけ} ければ。例{いつ}ものごとくおしゆんは起{おき}いで。そこら甲斐{かひ}〴〵 しく働{はたら}きて。朝餉{あさげ}を仕{し}まへばはや四{よ}ツまへ。おしゆんは 潜{ひそか}に薪小屋{まきごや}へ。食物{しよくもつ}をはこびつゝ。色絹{いろぎぬ}に給{たう}べさせ 今に見世{みせ}へ出{で}るほどに。その時{とき}彼処{かしこ}へ伴{とも}なひて。こま $(6ウ) $(7オ) (7ウ) ごまと相譚{そうだん}すべし。それまでこゝに忍{しの}んでと。彼{かれ}が 心をおちつかせ。さて立かへりて押入{おしいれ}より。取出す櫛筥{くしばこ} 鏡{かゞみ}立。嗽茶碗{うがいぢやわん}よ楾{はんぞう}よと。縡{〔こと〕}は足{た}らねど女の嗜{たしな}み 仕{し}まひ道具{どうぐ}をとり揃{そろ}へ【しゆん】「モシどうしても白粉{おしろい}は。仙 女香{せんぢよかう}がいゝねへ。私{わちき}はモウ年{とし}のいかねへ時分{じぶん}から。あればツ かり付たもんだから。外のはどふもいやだね。」【伝】「そふか。しかし 今じやア。ちと遠{とふ}くなつたもんだから。買{かふ}のも不自{ふじ}ゆうだ のふ。」【しゆん】「さやうさ。それでも方{ほう}〴〵に。取次{とりつぎ}が有{あり}ますから。 (8オ) 夫{それ}はそうと手序{てついで}だから。ちよつと髪{かみ}をなでつけて あげやう。」【伝】「そんなら頼{たの}まふか。ヲヽひさしぶりで鏡{かゞみ}を 見た。なるほど苦労{くらう}はしめへものだ。ごうきに窶{やつ}れた。」 【しゆん】「ホンニこりやア悪{わる}い事をしたツけ。私{わち}きや毎日{まいにち}そふ 思つて居{ゐ}るけれど。そんな事を言{いつ}たら。猶{なほ}塞{ふさ}ぎな さるだらうと思つていはないが鏡{かゞみ}を見{み}せないけ りやアよかつた。」【伝】「なんの塞{ふさ}ぐといふ理屈{りくつ}もねへのサ。」 トいへどもやつれし面影{おもかげ}を。見{み}れば見るとて物{もの}かな (8ウ) しく。夫{それ}に付{つけ}ても往{ゆく}すへを。おもひまはせばいとゞなを 胸{むね}のみいたく塞{ふさ}ぐなるべし。かゝる所{ところ}に表{おもて}のかた「おしゆん*原本に括弧なし ぼうは宅{うち}にか。」と。いふ声{こゑ}。それと伝{でん}兵へをば。矢庭{やには}に其 処{そこ}の押{おし}いれへ。隠{かく}して勝手{かつて}へたちいづる。おしゆんは潜 戸{くゞりど}引{ひき}あけて「アレマア源作{げんさく}さん。昨日{きのふ}もあの位{くらい}おとめ申 たのに。こんな汚{むさ}くるしい所{ところ}へお出{いで}なすツて。モウ〳〵いやで ございますヨ。」トいへば此方{こなた}はうちわらひ【源】「イヤその汚{むさ}くる しいには些{ちつと}もかまはぬ。その汚{むさ}い所{ところ}から生{うま}れた人間{にんげん}。其{その} (9オ) 汚{むさ}い所{ところ}が恋{こひ}しさに。わざ〳〵尋{たづ}ねて来{き}た位{くらゐ}だ。 イヤ今{いま}おつくり最中{さいちう}じやの。ヤア美{うつ}くしい事〳〵。 その美{うつ}くしい㒵{かほ}かたちで。伝{でん}兵へどのと色事{いろ〔ごと〕}とは。ヱヽ ありがてへわへ〳〵。伝{でん}兵へさんがころりとするも。イヤ無 理{むり}とはおもはれねへ。コレサこれおしゆんぼうハテサ情{なさけ}を しらねへの。」ト綢繆{しなだれ}かゝれば心{こゝろ}には。忌〻{いま〳〵}しさと思へ ども。其処{そこ}をしのぶも二人{ふたり}が身{み}の為{ため}。何{なん}につけても 此処{こゝ}にありては。都合{つがう}のわろき事のみなれば。騙{だま} (9ウ) して見世{みせ}へ連{つれ}ゆかんと。心{こゝろ}にもあらぬ笑{わら}ひ㒵{がほ}【しゆん】「それ ほどにまでおぼしめす。おまヘさんのお心{こゝろ}いき。何{なに}あだに ぞんじませう。したがモシ白藤{しらふぢ}さん。昨日{きのふ}からして何{なん}ぞ といふと。ソレ伝{でん}兵へヤレ伝兵へと。わたしが色{いろ}か何{なん}ぞのやうに モウ〳〵否{いや}でございますヨ。伝{でん}兵へさんは佶{きつ}としたおかみ さんのあるお方{かた}。なんの吾儕{わたし}がアノお方{かた}に。思はれる筋{すち} もなし。おもはふ道理{どうり}もございません。」【源】「ナニ伝{でん}兵へを 思ひもせぬ。思はれもしないとか。ハヽヽヽヽ。イヤこれ〳〵。口{くち}は (10オ) 調法{てうほう}のめ〳〵と。そんな嘘{うそ}がつかれるのふ。コレおしゆんぼう よく聞{きゝ}な。そなたは大{おほ}かたしるまいが。伝{でん}兵へめは人 殺{ひとごろ}し。まだそのうへに星月家{ほしづきけ}の。雲竜丸{うんりようまる}といふ剣{つるぎ} を。偸{ぬす}み取{とつ}た大盗人{おゝどろぼう}。それゆへに此{この}せつは。草{くさ}をわけ てのお尋{たづ}ねもの。それをマア有{あり}がたそうに。舎蔵{かくまつ}て置{おく} 与次{よじ}郎も与次{よじ}郎。可愛{かあい}がつて。抱寝{たきね}をする。女{をんな}も女。 世{よ}の中{なか}は。ハテサいろ〳〵なもの。十人{しふにん}よれば十色{といろ}の了簡{れうけん}。アヽ 去{さり}ながら人殺{ひとごろ}しや盗人{どろぼう}とは。大{おほ}かたしらずに居{い}るで (10ウ) あらふ。あんな奴{やつ}に便〻{べん〳〵}と。かゝり合{あつ}て居{ゐ}るときは 咎{とが}もないそなたまでが。同罪{とうざい}におちねばならぬ。ヲヽ 怖{こわ}もの〳〵。夫{それ}よりか。今{いま}のうちに気{き}を切{きり}かへて。白藤{しらふぢ}に乗{のり} かへれば。一生{いつせう}安楽{あんらく}。なんとどうだ。おしゆんぼう。ハテ美{うつ} くしいしろ物{もの}だなア。」トおしゆんが襟{ゑり}へ手{て}をかけて。引 寄{ひきよせ}るをふり払{はら}ひ【しゆん】「ヱ丶またしても〳〵。いやらしいこと おかしやんせ。伝{でん}兵へさんが人殺{ひところ}しも。何{なに}もかも承知{せうち}の上{うへ} で。吾儕{わたし}は惚{ほれ}たが身{み}の因果{いんぐは}。良人{おつと}のためなら首{くび}砍{き}ら (11オ) れうが。縛{しば}られやうが厭{いと}ひません。」【源】「それ見{み}ろとう〳〵 実{じつ}をぬかした。サアその可愛{かあいゝ}伝{でん}兵へめに。縄{なは}かけて引{ひか} ねばならぬ。戸棚{とだな}の内{うち}が怪{あや}しい。」トいひつゝ明{あく}る襖{ふすま}の音{おと} ともに飛出{とびだ}す伝{でん}兵へはかねて准備{ようい}の身{み}の構{かま}へ【伝】「ヤア 源作{げんさく}の道{みち}しらずめ。わが養母{ようぼ}と奸淫{かんいん}なし。夫{それ}さへ あるにこの伝{でん}兵へを。亡{なき}ものにせんと悪児{わるもの}に。持{たの}みて喧*「持{たの}み」(ママ) 嘩{けんくは}を仕{し}かけさせ。止{やむ}事{〔こと〕}を得{え}ずその兇身{あいて}を。過{あや}めたり しを咎{とが}にして。此{この}身{み}を捕{とら}へ縛{しば}り首{くび}。討{うた}んとはかる横 (11ウ) 道{わうどう}もの。ことにはこの身{み}を盗人{ぬすびと}とは。サヽ何{なに}を盗{ぬす}んだ。サア なんと。」【源】「ヲ丶サ手{て}まへが差{さし}て居{い}る。その匕首{わきざし}は星月家{ほしづきけ} の。重宝{ちようほう}なる雲竜丸{うんりようまる}。」【伝】「どなたの家{いへ}の重宝{ちようほう}か。そんな 事はしらねへが。五十両{ごじうりよう}の金{かね}の形{かた}に。そなたの手{て}から 預{あづ}けたしろ物{もの}。金才覚{かねさいかく}が出来{でき}ぬゆへ。流{なが}して呉{くれ}との 持{たの}みゆへ。迷惑{めいわく}ながら指料{さしりよう}にしておいたがどうしたのだ。」*「持{たの}み」(ママ) 【源】「ヱヽつべこべと面倒{めんどう}だ。そんな覚{おぼ}へは此方{こつち}にやねへ。 盗人{どろぼう}〳〵大盗賊{おゝどろぼう}め。サア尋常{じんぜう}に腕{うで}まはせ。」ト立{たつ}てかゝ (12オ) れば伝{でん}兵へも「町人{ちやうにん}ながらもおぼへあり。そふ手込{てごめ}には なるめへ。」ト互{たがい}にあらそふその中{なか}へ。物{もの}をもいわずにわけ いる女{をんな}。誰{たれ}ぞと見れば色絹{いろぎぬ}なり。二人{ふたり}は呆{あき}れて右 左{みぎひだ}り「ヤヽそちや色絹{いろぎぬ}どうしてこゝへ。」ト問{とは}れて色絹{いろぎぬ}泪{なみだ} を流{なが}し「㒵{かほ}見{み}あふだに恥{はづ}かしながら。始{はじ}めをいへば箇 様〻〻{かう〳〵}にて。民弥{たみや}に衣類{いるい}を剥{はぎ}とられ。死{し}ぬに死なれぬ 身{み}の業因{がういん}。かなたこなたと呻吟{さまよふ}て。おしゆんが情{なさけ}に この薪小屋{まきこや}。しのんで聞{きけ}ば源作{げんさく}さん。余{あま}りに無体{むたい}の言{いひ} (12ウ) かけ難題{なんだい}。枕{まくら}こそはかはさねど。伝{でん}兵へさんはわたしの 良人{おつと}。それを捨{すて}ての不義{ふぎ}婬奔{いたづら}。この身{み}は八{や}ツ裂{ざき}車裂{くるまざき}。 つみはむくひてこの光景{ありさま}。淫奔女{いたづらをんな}の見{み}せしめには。生{いき} ながらなる餓鬼道{がきどう}も。みな此{この}身{み}から出{で}たる錆{さび}。たれを 怨{うら}まんやうもなし。夫{それ}に付{つけ}てもおしゆんさんが。世{よ}にも情{なさけ} のありがたさ。骨身{ほねみ}に染{しみ}て辱{かたじけ}なく。思ふにつけても源 作{げんさく}さん。そりや余{あん}まりでござんすぞへ。人殺{ひとごろし}とやらいふ事 は。わたしは知{し}らぬ事なれど。剣{つるぎ}の事は吾儕が証人{せうにん}。おまへ (13オ) の手{て}から伝{でん}兵へさんへ。預{あづ}けたにちがひない。夫{それ}を今さら 盗人{どろぼう}じや。縄{なは}かけて引{ひか}ふとは。無理{むり}にも程{ほど}の有{あつ}たもの。 兄弟{きやうだい}とてよふ似{に}も似た。民弥{たみや}さんが慳貪{けんどん}邪慳{ぢやけん}。世に めづらしいなされかた。兄{あに}といひ弟{おとゝ}といひ。揃{そろ}ひも揃 ふた人{ひと}でなし。」トいはせもあへず白藤{しらふぢ}が。呵〻{から〳〵}とうち 笑{わら}ひ「たつた一晩{ひとばん}薪部{まきべ}やへ。泊{とめ}て貰{くれ}た位{くらい}な事で。怨{うらみ} かさなる伝{でん}兵へやおしゆんが肩{かた}持{もつ}馬鹿女{ばかをんな}め。民弥{たみや}が 呆{あき}れてふりすてたは。些{ちつ}とも無理{むり}でねへ所{ところ}だ。夫{それ}を (13ウ) 何{なん}だ大造{たいそう}らしく。ヤレ不実{ふじつ}だの人{ひと}でなしだの。イヤハヤ呆{あき} れて物{もの}が言{いへ}ねへ。おのれがしつた事ではねへは。其処{そこ}除{のき} おれ。」ト突倒{つきたふ}す。「イヤ〳〵除{のか}ぬ。」と糴{せり}あふ所{ところ}へ。どや〳〵〳〵と裏*原本に括弧なし 表{うらおもて}より。いり来{く}る侍{さふらひ}立派{りつぱ}な打扮{でたち}。白藤{しらふぢ}民弥{たみや}に縄{なは}うち かけ。おの〳〵そこへ衝立{つゝたち}て「ヤアかなはぬ。白藤{しらふぢ}源作{げんさく}。尋 常{じんしやう}に腕{うで}まはせ。」ト呼{よば}はる声{こゑ}に源作{げんさく}は。身{み}を捻{ひね}つて此 方{こなた}を見{み}かへり【源】「ナニ〳〵そちや寸八{すんはち}門太{もんた}。今{いま}ひとりはお猿{さる} の与次{よじ}郎。平生{つね}にかわつたその打扮{でたち}。また何{なに}ゆへに弟{おとうと}へ (14オ) 縄{なは}までかけた。憎{にく}くい奴。」ト白眼{にらめ}ば人{ひと}〴〵から〳〵とうち 笑{わら}つて「愚{おろ}かや〳〵。われ〳〵これまて姿{すかた}をかへ。あるひは飴*原本に括弧なし 売{あめうり}男伊逹{をとこだて}と。あられぬ業{わざ}も主君{しゆくん}の命{いひつけ}。雲竜丸{うんりようまる} の剣{つるぎ}のゆくゑ。たつねんための計略{けいりやく}なるに。おのれが 口{くち}より口ばしる。天{てん}の照覧{せうらん}のがれぬ処{ところ}。まつた是{これ}なる 白藤{しらふぢ}民弥{たみや}は。汝{なんぢ}が弟{おとゝ}たるにより。定{さだ}めて悪事{あくじ}は弁{わき} まへぬらんと。見|当{あた}りしを倖僥{さいわい}に。縛{くゝ}しあけて責{せめ}と へば。五ヶ{ごか}年|以前{いぜん}兄弟{きやうだい}二人。星月殿{ほしづきどの}の宝蔵{ほうざう}へ。しのび (14ウ) いりて奪{うば}ひ把{と}りしと。縡{〔こと〕}明白{めいはく}に白状{はくじやう}したれば。最{も} はやのがれぬ両個{ふたり}が罪{つみ}咎{とが}。またそのうへに福住屋{ふくずみや}の 後家{ごけ}を奸通{かんつう}するのみならず。壻{むこ}伝{でん}兵へを亡{うし}なはん と。既{すで}に自筆{じひつ}の一札{いつさつ}を。わたして持{たの}みし覚{おぼ}へもあらん。*「持{たの}み」(ママ) 弟{おとゝ}民弥{たみや}も色絹{いろぎぬ}と。蜜通{みつつう}なしたるそのうへに。伝{でん}兵へを 毒殺{どくさつ}せんと計{はか}りし事もあるよしなり。旁{かね〴〵}以{もつ}て不届{ふとゞき}至 極{しごく}。サア縄{なは}かゝれ。」と立{たち}よれば「イヤ縄{なは}はかゝるまい。ごろ つきの贋{にせ}官人{やくにん}。その手{て}しやいかぬ。出直{でなほ}せ。」トいはせも (15オ) 敢{あへ}ず「さらば名乗{なのつ}て聞{きか}すべし。猿廻{さるまは}しの与次郎とは 仮{かり}の名。まことは天野{あまの}与次右衛門{よじゑもん}。 男伊逹{をとこだて}の寸八は。戸倉{とくら} 寸左衛門{すんざへもん}。門太は金松{かなまつ}門太夫{もんだいふ}。みな星月家{ほしづきけ}の股肱{ここう}の臣{しん}。 ものども来れ。」といふ声{こゑ}に。アツと答{こた}へて夥兵{くみこ}の面〻{めん〳〵} 犇々{ひし〳〵}とおつとりまき。白藤{しらふぢ}をからめとる。これ見て伝 兵へ身をしさり「今は何{なに}をか包{つゝ}み申さん。おのれは福 住{ふくずみ}伝{でん}兵へなり。この者よりして預{あづか}りおきたる。剣{つるぎ}は則{すな} はちこゝにあり。いざお改{あらた}め下さりませう。去{さり}ながら $(15ウ) $(16オ) (16ウ) そのいぜんお女郎{ぢようろ}金三{きんざ}をうち留{とめ}ましたる。血{ち}しほの 穢{けが}れ。」【与次】「其処{そこ}が剣{つるぎ}に血{ち}をぬれば。大雨{おゝあめ}降{ふつ}て汚{けが}れ を流{なが}す。剣{つるぎ}の威徳{いとく}かまひござらぬ。いかにも其{その}方{ほう}お 女郎{ぢよろ}金三{きんざ}を。過{あや}めたりとはいひながら。渠{かれ}は固来{もとより}大 磯{おほいそ}にて。人を殺{ころ}し立のきし。旧悪{きうあく}のあるものにて。た とへ汝{なんぢ}に討{うた}れずとも。刑罰{けいばつ}のがれぬ罪人{ざいにん}なれば。人 |殺{ごろ}しの罪{つみ}はなし。元{もと}のごとくに福住{ふくずみ}の。家名{かめい}相続{さうぞく} いたすべしと。星月殿{ほしづきどの}の厳命{げんめい}なり。」と。聞て伝{でん}兵へ再 (17オ) 拝{さいはい}しつ。その恩{おん}を感{かん}じける。かゝる処{ところ}に色絹{いろぎぬ}は。し きりに己{おの}が先非{せんひ}を悔{くひ}て。はや世{よ}の中{なか}もこれ限{かぎ}り と側{そば}にありあふおしゆんが手筥{てばこ}の。剃刀{かみそり}とつて 咽吭{のどぶえ}へ突立{つきたて}んとしたりしを。伝{でん}兵へあはやとおし留{とゞ}め 一旦{いつたん}の誤{あやま}りは。みな人毎{ひと〔ごと〕}にあるならひ。殊{〔こと〕}に吾{われ}とは 夫婦{ふうふ}といふ。名{な}のみ。枕{まくら}もかはさねば。民弥{たみや}と奸通{かんつう} したりとも。その罪{つみ}軽{かろ}しといふべきか。我{われ}とても親{おや} のゆるせし。妻{つま}をきらひて道{みち}ならぬ。お俊{しゆん}とかゝる (17ウ) 有情{わけ}になる。これさへ愧{はづ}る所{ところ}なりと。さま〴〵に 宥{なだ}むるにぞ。自害{じがい}はおもひとゞまりて。直{すぐ}に緑{みどり}の 黒{くろ}かみを。砍{きり}はらひつゝ尼{あま}となり。悪人{あくにん}なからも一 旦{いつたん}は。二世{にせ}とまでも誓{ちか}ひたる。民弥{たみや}が後{のち}の世{よ}且{かつ}は又{また} 縁{えん}につながる源作{げんさく}等{ら}が。菩提{ぼだい}を吊{とは}んとおもひける。 福住{ふくすみ}の後家{ごけ}おたゑは。それともしらでありけるが 伝{でん}兵へおしゆん色絹{いろぎぬ}等{ら}かへり来{きた}りて斯{かう}〳〵と縡{〔こと〕}の 始末{しまつ}をものがたるに。嗟{あつ}とばかりに呆{あき}れはて。且{かつ}は (18オ) その身{み}の放蕩{ほうとう}堕弱{だじやく}。また色絹{いろぎぬ}が変{かは}りはてたる 姿{すがた}を見るにかなしくて。絶入{たへいる}ばかりに歎{なげ}きしが。人{ひと}〴〵 に励{はげ}まされ。女児{むすめ}に先{せん}を超{こ}されたり。われも倶{とも}に と黒髪{くろかみ}を。剃{そり}おとしつゝ尼{あま}となり。いかなればかく 浅{あさ}ましき。心{こゝろ}となりて居{い}たりけん。我{わが}身{み}ながらも愧{はづ} かしと。非{ひ}を悔{くひ}なげきて是{これ}よりは。念仏{ねんふつ}三昧{さんまい}の 外{ほか}他事{たじ}なかりき。されば民弥{たみや}と源作{けんさく}はいよ〳〵其{その} 罪{つみ}明白{めいはく}にて。死刑{しけい}となりしと聞{きく}よりも。かの死骸{しがい} (18ウ) を引{ひき}とりつゝ。懇{ねんごろ}に葬{ほう}ふりてひとへに後世{こせ}を吊{とむら}ひ ける。かゝりにければ伝{でん}兵へは親類中{しんるいぢう}うちよりて。元{もと}の ごとくに福住{ふくずみ}やの家{いへ}を継{つが}せおしゆんをもて新{あらた}に 妻{つま}に迎{むか}へさせ。二人{ふたり}の尼{あま}には草庵{さうあん}を補理{しつらひ}つゝ。不自 由{ふじゆう}なく手{て}あてをいたしつかはしぬ。さればまた花水 橋{はなみづばし}の三八{さんはち}には。伝{でん}兵へおしゆん両個{ふたり}とも。再生{さいせい}の恩{おん}あ れば。厚{あつ}く礼{れい}をつくしつゝ。唄女{げいしや}お鶴{つる}を身{み}うけして 与次{よじ}郎か妻{つま}となし。両家{りようけ}ます〳〵繁昌{はんじやう}して。めで (19オ) たき春{はる}をむかへしとなん。 作者{さくしや}伏{ふして}曰{まうす}。この物{もの}がたりを思ひ興{おこ}せしとき。伝{でん} 兵へおしゆんが身{み}の浮沈{ふちん}は。いふもさらなり。色絹{いろぎぬ} 等{ら}がゆくたてまで。また種〻{くさ〴〵}の赴向{しゆかう}を加{くわ}へ。解{げ}を 俟{また}ずして勧懲{くはんちやう}の。意{い}を明{あき}らかにせんとなせしに。 例{れい}の方言{ほうげん}をもて綴{つゞ}るなれば。意外{おもひのほか}にくだ〴〵 しく。いと長{なが}やかになるにより。此{この}編{へん}をもて満尾{まんび} にせよ。下手{へた}の談議{たんぎ}の長やかなると書肆{ふみや}が言{いふ} (19ウ) も黙止{もだし}がたく。筆{ふで}を閣事とはなりぬ。然{さ}はれ巻{まき}の 尾{しり}にいたりて。自他{じた}悉{〔こと〕〴〵}く混雑{こんざつ}せり。固来{もとより}丁数{てうすう} 限{かき}りあれば。具に述{のぶ}るに暇{いとま}あらず。いつも替{かは}らぬ 大詰{おゝつめ}狂言{きやうけん}たゞ筋のみを彰{あら}はして。巻の諡{くゝり}をなし たれば。諫漏{そろう}なる事いと多{おほ}かり。看官{みるひと}よろしく 察{さつ}し給へと。松亭{しやうてい}金水{きんすい}欽{うやまつて}白{まうす}。 恋の花染三編巻之下大尾 ---------------------------------------------------------------------------------- 底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(A4:0089:3) 翻字担当者:成田みずき、島田遼、銭谷真人 更新履歴: 2017年7月26日公開