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比翼連理花廼志満台ひよくのれんりはなのしまだい

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四編下

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比翼連理花迺志満台 四編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[比翼{ひよく}連理{れんり}]花{はな}迺{の}志満台{しまだい}第四編巻之下
東都 松亭金水編次
第廿三回
当下{そのとき}お滝{たき}は紙治{かみぢ}が膝{ひざ}をチョイト突{つい}て【たき】「ヨウきいてお呉{くん}な
さいヨ」【治】「マア左様{さう}言{いつ}て見{み}なゝ。訳{わけ}も言{いは}ねへで知{し}れるものか」【たき】「そん
なら言{いひ}ませう。ナニ外{ほか}の事{こつ}てもないが。今度{こんど}の一件{いつけん}に爺{ちやん}がかゝつ
て。其{その}条路{すじみち}をたゞすと言{いつ}て居{ゐ}ますから。大{おほ}かた近{ちか}いうちには訳{わけ}が
分解{わかる}だらうが。いよ〳〵小春{こはる}さんの方{はう}に何{なん}にも密事{わるい〔こと〕}もなし

(1ウ)
此間{こなひだ}珍波{ちんぱ}へ来{こ}なかつたのも。何様{どう}かいふ間違{まちがひ}だといふ事{〔こと〕}が。|明〻
地{すつぱり}とわかつたら。何卒{どうぞ}お前様{まはん}気{き}を直{なを}して。此間中{こないだぢう}からおいひの
通{とほ}り。早{はや}く小春{こはる}さんを|御内室{おかみ}さんに仕{し}てお呉{くん}なさい。夫{そん}ならと
言{いつ}て私{わち}きやア他{ほか}へ縁付{かたづく}事{〔こと〕}は否{いや}だから。則{やつぱり}こゝへ置{おい}てお呉{くん}な
はるとも。また|家内{うち}へ来{こ}いとお言{いひ}なら。お前様{まはん}の|家内{うち}へ往{いつ}て
小春{こはる}さんと姉娣分{きやうだいぶん}に成{なつ}て。睦{なかよ}くしますから。モウ〳〵〳〵是{これ}からは
たとへ同室{いつしよ}に居やうが。別{へつ}に居様{ゐやう}が。それは〳〵嫉妬{やきもち}らしい
事{〔こと〕}は勿論{もちろん}。爪{つめ}の垢{あか}ほども仕{し}ませんヨ。たとへ私{わちき}の見{み}て居{ゐ}る前{まへ}で

(2オ)
アノ嬢{こ}と何様{どん}な戯談{じようだん}を被成{おし}だらうが。また同床{いつ}にお寝{ね}なら*「同床{いつ}」は「同床{いつしよ}」の脱字か
𧝒{よぎ}をかけて押付{おつつけ}てあげ様{やう}といふ気{き}に成{なり}ましたは。只{たゞ}斯{かう}いつ
たら何{なん}だか合点{がつてん}の行{いか}ねへ事{こつ}たとお思{おも}ひだらうが。不斗{ふと}した
事{〔こと〕}で実{じつ}に私{わち}きやア。世間{よのなか}を悟{さとつ}たといふと可笑{おかしい}が。ほんとうに」ト
[〔こと〕ばに力{ちから}をいれて]「左様{さう}言{いふ}気{き}になりましたから。お前様{まはん}も其{その}つもりで
私{わち}きの願{ねか}ひ通{とほ}りに仕{し}てお呉{くん}なはいな。其{その}かはり私{わち}きが左様{さう}
言{いふ}心{こゝろ}になつたのを不便{ふびん}だと思{おも}つて何卒{どうそ}末{すゑ}長{なが}く。見捨{みすて}ない
で世話{せわ}をしてお呉{くん}なはいナ。一生{いつしやう}のお願{ねが}ひだと言{いつ}たのはその

(2ウ)
事{こつ}てございます。ヱ。ヱ否{いや}かへ」ト言{いは}れて紙治{かみぢ}は暫時{しばらく}手{て}をくみ
て居{ゐ}たりしが莞爾{につこ}りとして【治】「何{なに}も否{いや}と言{いふ}訳{わけ}は些{ちつと}もねへ
のス。しかしお前{めへ}何様{どう}言{いふ}気{き}に成{なつ}て。其様{そん}な事{〔こと〕}をいふかア知{し}ら
ねへが。サテ何様{とう}も同室{いつしよ}に居{ゐ}て見{み}りやア。長{なけ}ヱ月日{つきひ}左様{さう}美麗{うつくしく}
ばかりも往{いか}ねへ。左様{さう}かと言{いつ}て夫{そ}りやア何時{いつ}までも此所{こゝ}へ
置{おい}て。世話{せわ}をしてやるも仔細{しせへ}はねへやうなものゝ。実{じつ}の所{ところ}が左様{さう}
しても扨{さて}末{すゑ}の納{おさま}りもつまらず。世間{せけん}の人{ひと}にやア囲{かこ}ひもの〳〵と
賤{いや}しめられて何{なん}ぞの端{はし}にやア。後指{うしろゆび}をさゝれるのも。餘{あん}まり

(3オ)
どつとも仕{し}ねへ訳{わけ}で。枝橋{えだばし}の鬼勝{おにかつ}と世間{せけん}へしられた。爺{とつ}さんの名{な}まで
汚{よご}れるやうなものだから。夫{それ}よりやア自己{おいら}がいふ通{とほ}りにして夫相応
な所{とこ}へ縁付{かたづく}が宜{よか}らうぜ。また小春{こはる}が事{〔こと〕}は爺{とつ}さんにまで苦{く}らう
かけて気{き}の毒{どく}だけれど。チツト此方{こつち}に了張{りやうけん}も有{ある}から。なんぼお前{めへ}
が左様{さう}言{いつ}ても。ヲイ夫{それ}とは往{いか}ねへ」ト聞{きい}てお滝{たき}は眼{め}をうるませ
て。治兵衛{ぢへ}が膝{ひざ}の側{そば}へすり寄{より}【たき】「ヱヽ夫{それ}じやアお前様{まはん}否{いや}かへ。
ヱ。ヱ私{わち}きも否{いや}でございます。何{なん}ぞといふと縁付{かたつけ}〳〵と言{いつ}て
からに。其{その}位{くらゐ}なら始{はじ}めツから。此様{こんな}に迷{まよ}はしてお呉{くれ}でなけりやア

(3ウ)
宜{いゝ}。古イトヽ一{いつ}じやアないけれど。今更{いまさら}私{わち}きが否{いや}にお成{なり}のなら
元{もと}の白地{しらぢ}にしてお返{かへ}し。左様{さう}すりやアお前様{まはん}と。遭{あは}ぬむかしの
他人{たにん}だから。何様{どう}しやうがつらくも恋{こひ}しくもないは。サア逢{あは}ない
むかしの気{き}にしてお返{かへ}しヨ」【治】「アヽコレサ咽{のど}が痛{いて}へはな。ヱヽこの
嬢{こ}も聞{きゝ}わけがねへのふ」【たき】「アイ聞{きゝ}わけがありません。外{ほか}の事{〔こと〕}
ならお前様{まはん}の気{き}に。些{ちつと}も背{そむ}くまいと言{いふ}誓願{せいぐはん}だけれど。この
事{〔こと〕}ばかりやア。たとへお前様{まはん}が腹{はら}をお立{たち}だらうが。百万多羅{ひやくまんだら}訳{わけ}
を言{いつ}てお聞{きか}せだらうが。私{わち}きは承引{しようち}しても腹{はら}の虫{むし}が合点{がつてん}

(4オ)
しませんは。大方{おほかた}お前様{まはん}の了張{りやうけん}じやア。どうせ始終{しじう}むづかしい
から。私{わち}きを騙{だま}して縁付{かたづけ}て仕{し}まつて。そして小春{こはる}さんを|家内{うち}へ
お入{い}れの気{き}だらうが。そりやホンニ今{いま}飲{の}む酒{さけ}が毒となれ。私{わちき}も
枝橋{えだばし}の鬼勝{おにかつ}の女児{むすめ}でございます。歯{は}から外{そと}へ出{だ}した〔こと〕を
後{あと}へは引{ひき}ません。急度{きつと}嫉妬{やきもち}らしい事{〔こと〕}は爪{つめ}の垢{あか}ほども仕{し}ないから
と言{いつ}ちやア仕{し}ません。先刻{さつき}もいふ通{とほ}り私{わち}きが一生{いつしやう}のお願{ねが}ひだ
から。今{いま}私{わち}きが言{いつ}た通{とほ}りにしてネ。ヱヽアレナお前様{まはん}何{なん}だネ。人{ひと}に
ばツかり口{くち}を利{きか}して置{おい}て。平気{へいき}に成{なつ}て川岸{かし}ばかり見{み}てお出{いで}

(4ウ)
だネ。何{なに}を其様{そんな}に見{み}るンだヱ。今{いま}屋根{やね}へ乗{のつ}た唄女衆{げいしやしゆ}を御覧{ごらん}の
かへ。左様{さう}いふ薄情{うはき}ものだからいけやアしないヨ。憎{にく}らしい」【治】「アイタヽヽヽヽ。
モウ〳〵爪{つめ}るのは御免{ごめん}だ。何{なに}もおれが平気{へいき}に成{なつ}て居{ゐ}も仕{し}ねへもの
ヲ。そして些{ちつと}も嫉妬{やきもち}はやかねへといふ口{くち}の下{した}から。ヤレ唄女{けいしや}を見{み}るノ
何{なん}のと云{い■}じやアねへか。夫{それ}が嫉妬{やきもち}でねへのか。たとへ見{み}たツても川岸{かし}
とこゝと隔{へだ}つて何様{どう}なるものか。夫{それ}せへやかましく言{いふ}位{くれへ}だものヲ」
【たき】「ムヽ一{いち}ばん上足{あげあし}をお取{とり}たネ。私{わち}きの気{き}は左様{さう}じやアない。他{ひと}に
気{き}を揉{もま}して置{おい}て。何処{どこ}を風{かぜ}が吹{ふく}かといふ様{やう}な。皃{かほ}をしてお出{いで}で

(5オ)
憎{にく}らしいからサ」【治】「イヱ〳〵何様{どう}いたして。貴嬢{あなた}の被仰{おつしやる}事{〔こと〕}を些{ちつと}も疎略{そりやく}
には承{うけたま}はりません」【たき】「アレモウ左様{さう}いふ憎{にく}らしい口{くち}だものヲ。また爪{つめ}
るが宜{いゝ}かへ」【治】「アヽ〳〵夫{それ}ばツかりは真平{まつぴら}だ」【たき】「夫{そん}なら私{わち}きのいふ〔こと〕を
身{み}に入{い}れて聞{きい}てお呉{くん}なはいヨ」【治】「先刻{さつき}から身{み}に入{いれ}て聞{きい}て居{ゐ}らア
な。モウ〳〵何{なん}にも言{いは}ずとよしサ。お前{めへ}の心意気{こゝろいき}は腸{はらわた}の真{しん}まで
知{し}れたヨ」【たき】「真実{ほんとう}にかへ。夫{それ}じやア誠{ま〔こと〕}に嬉{うれ}しいねへ。そんなら
お前様{まはん}何{なに}も角{か}も私{わち}きの言{いふ}通{とほ}りにしてお呉{くれ}かへ」【治】「何様{とう}も其
所{そこ}は何{なん}とも言{いへ}ねへ。なぜと言{いつ}て見{み}ねへ。マア第一{だいゝち}小春{こはる}の仕打{しうち}も

$(5ウ)
鬼勝{おにかつ}が
計{はか}らひ
にて
紙治{かみぢ}が
うたがひ

解{とく}

$(6オ)

(6ウ)
わからねへじやアねへか」【たき】「そりやア追付{おつつけ}爺{ちやん}が帰{かへ}りせへすりやア
しれまさアな」【治】「其様{そん}な事{〔こと〕}も何{なに}も角{か}も洗{あら}ひあげて。すツかりと
分解{わかつ}たうへで。また爺{とつ}さんとも相談{そうだん}して何様{どう}とも仕{し}やう。マ■
夫{そ}りやア宜{いゝ}から盃{さかづき}でもまはしねへ。ヲヽ〳〵燗{かん}がべらぼうに醒{さめ}た」
【たき】「ヲヤ左様{さう}かへ。温{あつた}めにやりませう」トお三{さん}を呼{よ}ぶ。当下{そのとき}鬼勝{おにかつ}は
珍波楼{ちんぱらう}の使{つかひ}の事{〔こと〕}を始{はじ}め。逐一{ちくいち}糺{たゞ}して帰{かへ}り来{きた}り【勝】「お滝{たき}今{いま}帰{けへ}つた。
段〻{だん〳〵}洗{あら}ひ方{かた}を仕{し}て見{み}りやア。全{まつた}くアノ嬢{こ}[とは小はるをさしていふ]が悪{わる}いのじや
アねへ。色〻{いろ〳〵}な番狂{ばんくる}はせがあるもんじやねへか」【たき】「ヲヤ爺{ちやん}。お帰{かへ}

(7オ)
りか。マア二階{にかい}へお出{いで}ヨ。今{いま}旦那{だんな}も来{き}てお出{いで}なはるから」【勝】「ムヽ左様{さう}か。
夫{そ}りやア丁度{てうど}よかつた」トズシ〳〵二階{にかい}へ上{あが}ツて【勝】「コリヤア旦那{だんな}よく
お出{いで}なさいやした。サテ早速{さつそく}ながら小春{こはる}さんの一件{いつけん}に就{つい}て。此{この}女児{がき}
も何{なん}だか毎日{まいにち}塞{ふさい}で居{ゐ}やすから。イヤ自己{おれ}が往{いつ}て洗方{あらひかた}をして
見{み}やうと。今日{けふ}わざ〳〵小春{こはる}さんの宅{うち}を尋{たつね}て参{めへ}りました所{とこ}が
イヤハヤとんだつまらねへ事{〔こと〕}が出来{でき}やしてネ。大騒{おほさわ}ぎの大笑{おほわら}ひサ。
しかし夫{それ}ゆゑに。マア間違{まちげ}への筋{すじ}も分解{わかり}やした」ト
彼{かの}お吉{きち}が来{きた}りて。口上書{かうじやうがき}を証拠{しやうこ}に二人{ふたり}を盗賊{ぬすびと}なりと

(7ウ)
言{いひ}かけし事{〔こと〕}より。仲人{ちうにん}に入{いつ}て明日{あす}の晩{ばん}まて其{その}座{さ}を預{あづ}
かりし事{〔こと〕}。夫{それ}より珍波{ちんぱ}へ往{いつ}て使{つかひ}の人{ひと}を糺{たゞ}したる所{ところ}*「夫{それ}より」の「り」の右傍に「。」
小春{こはる}が宅{うち}に形容{かたち}よからぬ侍{さふらひ}。留守居{るすゐ}せしが彼{かの}紙治{かみち}
よりの口乗書{こうじやうがき}を受取{うけとり}し由{よし}を聞{きゝ}。鬼勝{おにかつ}はまた小
春{こはる}が方{はう}へ立戻{たちもど}り。是{これ}を聞{きけ}ば小春{こはる}は考{かんが}へて。買物{かいもの}の
留守{るす}を暫時{しばらく}頼{たの}みしは。畝山{うねやま}強六{がうろく}といふ人{ひと}なり。さ
すれば其{その}人{ひと}腹黒{はらきたな}くも。手紙{てがみ}をかくしたるならん。
然{さる}にても其{その}手紙{てがみ}。いかにして和{わ}の一{いち}が災難{さいなん}の場{ば}に

(8オ)
落{おち}ちりしならん。兎{と}にかく合点{がてん}のゆかざる事{〔こと〕}の多{おほ}
けれど。小春{こはる}が他心{ほかごゝろ}ありて。手紙{てがみ}は見{み}ながら珍波{ちんぱ}へ来{きた}
らざるにてはなき仔細{しさい}は。|明〻地{あからさま}に分解{わかり}たるよし。都{すべ}て
おちもなく物語{ものがた}る。
【治】「何{なん}にしろ大{おほ}きに御苦労{ごくらう}でございやした。ハヽア夫{それ}じやア全{まつた}く小春{こはる}は
手紙{てがみ}を見{み}ねへのかネ。勿論{もちろん}其{その}とき珍波{ちんぱ}から使{つかひ}の男{をとこ}も。手{て}がみを
男{をとこ}にわたしたと言{いひ}やしたツけ。夫{そん}なら夫{それ}は宜{いゝ}と仕{し}た所{ところ}が。髪結{かみゆひ}の
お吉{きち}めが其{その}手紙{てがみ}を持{もつ}て来{き}て。私{わたし}を盗賊{どろぼう}だと言{いふ}とへ。大胆{ふてへ}女{あま}だア。

(8ウ)
己{うぬ}が衒{かたり}をした事{〔こと〕}は棚{たな}へあげて。他{ひと}を盗人{どろぼう}だなンぞと悪名{あくめう}をつけ
あがりやア。此方{こつち}も男{をとこ}だ。知県所{だいくわんしよ}へでも引出{ひきだ}して。ギウ〳〵言{いは}して
やらなくツちやアならねへ」と。立{たち}かゝるを。お滝{たき}と鬼勝{おにかつ}は周章{あはて}て
おし止{とゞ}め【勝】「コレサ旦那{だんな}何所{とこ}へお出{いで}なさる。アノお吉{きち}が所{とこ}へかへ。ハテサテ
なんぼ利口{りかう}でも発明{はつめい}でも。其処{そこ}はまだお若{わか}い所{ところ}だ。今{いま}お前{めへ}さんが
其{その}勢{いきほ}ひでお出{いで}なすツて。彼是{かれこれ}と理屈{りくつ}を被仰{おつしやつ}た所{とこ}が。女{をんな}でこそ
あれ彼女{きやつ}も口{くち}は剃刀{かみすり}の様{やう}で。仲{なか}〳〵屈服{くつぷく}する様{やう}な風{ふう}じやア
ごさいやせんから。却{けへつ}て外聞{げへぶん}をお闕{かき}なさる斗{ばかり}だから」【たき】「左様{さう}サ〳〵。

(9オ)
そりやア今{いま}爺{ちやん}が言{いふ}通{とほ}り。つまりませんやアネ。夫{それ}より翌{あした}の晩{ばん}こゝへ
来{く}るといふから。当下{そのとき}押{おさ}へてじり〳〵と理屈{りくつ}を言{いつ}てお聞{きか}せなは
い。左様{さう}すりやア何様{どん}な者{もの}でも。困{こま}るだらうじやアありませんか」ト
父子{おやこ}が〔こと〕ばを尽{つく}すにぞ【治】「夫{それ}も左様{さう}かな。夫{そん}なら翌{あした}の晩{ばん}の
事{〔こと〕}にしやうか」【勝】「左様{さう}なせへまし。夫{それ}に翌{あした}の晩{ばん}は小春{こはる}さんも
此所{こゝ}へ来{き}なさる積{つも}りだから。丁度{てうど}宜{よふ}ごせへます」トいはれて
紙治{かみぢ}も漸〻{やう〳〵}に。怒{いか}り解{と}け【治】「サア夫{そん}ならば其{その}積{つもり}にして。今{いま}ツ
から一杯{いつぱい}飲直{のみなを}そう。何{なん}ぞ肴{さかな}を言付{いひつけ}て遣{やつ}て呉{くん}ねへ」トこれ

(9ウ)
より酒殽{さけさかな}を改{あらた}めて。暫{しばら}く酒宴{さかもり}しツヽ其{その}夜{よ}は紙治{かみぢ}も帰{かへ}りけり。
第廿四回
懸{かけ}ならべたる行灯{あんどう}に。日中{ひる}より明{あか}るき夜{よる}の様{さま}。船{ふね}か〳〵と声{こゑ}
かくる。折{をり}しも来{きた}る一個{ひとり}の女{をんな}。すつと|這入{はいつ}て「モシにたりやの勝{かつ}
さんといふのは此方{こゝ}でございますかへ」【おさん】「ハイこちらでござい
ます。お前{まへ}さんは何方{どつち}から」【女】「ハイ私{わた■}は髪結{かみゆひ}の吉{きち}と言{いふ}者{もの}で
ございますが。旦那{だんな}はお宿{やど}にお出{いて}かへ」【さん】「ハイ宅{うち}でございます」
ト言{いひ}ながら立{たつ}て奥{おく}へ行{ゆけ}ば。程{ほど}なく主{あるじ}の鬼勝{おにかつ}は。紺太織{こんぶとり}の

(10オ)
大布子{おほどてら}に。飛色{とひいろ}羅紗{らしや}の三尺{さんしやく}をしめ。銀{ぎん}ぐさりの幾筋{いくすじ}か付{つい}
た。大{おほ}きな烟草入{たばこいれ}を片手{かたて}にさげて。奥{おく}から出来{いできた}り【勝】「ハヽア
お吉{きつ}さ゜んか。サアお上{あが}んなせへ。でへぶ緩{ゆる}りとお出{いで}だネ」【吉】「ヲヤ旦那{だんな}
此間{こないた}は。モウ凶{ひよん}な事{〔こと〕}でとんだ御厄介{ごやつかい}に成{なり}まして。誠{ま〔こと〕}に御気{おき}の毒{どく}
さまでございますが。今晩{こんばん}お約束{やくそく}だから参{まへ}りました。マア御免{ごめん}
なさいまし」ト言{いひ}なから上{あが}つて見世{みせ}にある真鍮{しんちう}の|獅子口{しかみ}火鉢{ひばち}
の前{まへ}へ居{すは}る。【勝】「トキニ此間{こないだ}の一件{いつけん}を。紙治{かみぢ}さんにも段〻{だん〳〵}噺{はなし}た所{とこ}が
そりやア夢{ゆめ}にもしらねへ事{こつ}た。勿論{もちろん}其{その}日{ひ}に左様{さう}いふ手紙{でがみ}を

(10ウ)
山谷堀{さんやぼり}の珍波{ちんぱ}から。小春{こはる}の所{とこ}へ遺{や}つたにやア違{ちげ}へねへが。何様{とう}して
夫{それ}が其{その}場{ば}に落{おち}て居{ゐ}たか。何{なん}にしろ其様{そん}な他愛{たあい}もねへものを
証拠{しやうこ}呼{よば}はりをして悪名{あくめう}を付{つけ}られちやア迷惑{めいわく}だ。そしてお前{めへ}の
弟児{おとうとつこ}が。何程{いくら}の金{かね}を持{もつ}て居{ゐ}るかアしらねへが。自己{おいら}アなんぼ
貧乏{びんばう}しても。自己{じぶん}で遣{つか}ふ程{ほど}は何様{どう}か箇様{かう}か在{ある}から。片端者{かたはもの}
の銭金{ぜにかね}なんぞを。目懸{めがけ}る様{やう}な悪{きた}ねへ根性{こんじやう}はねへ。餘{あん}まりばか
ばかしいから。ナニ此方{こつち}から知県所{だいくわんしよ}へ願{ねが}ひ出{だ}すと言{いつ}て。腹{はら}を立{たて}な
すツたを。マア〳〵夫{それ}じやア悪{わる}い。そして翌{あした}の晩{ばん}までは私{わたし}が預{あつか}り

(11オ)
中{ちう}だから。マアよく対談{たいだん}をして。何様{どう}して訳{わけ}が付{つか}ざア当下{そのとき}は。御勝手{ごかつて}
次第{しだい}に被成{なさい}やしト言{いつ}て留{とめ}て置{おき}やした。シテ見{み}ると小春{こはる}はおめへ
女{をんな}の〔こと〕で。仲〳〵{なか〳〵}其様{そん}なわるさを仕様{しやう}道理{どうり}もなし。こりやア外{ほか}に
盗賊{どろぼう}が有{あり}やせう。其{その}手紙{てかみ}が落{おち}て居{ゐ}たから。何{なん}でも両個{ふたり}の
うちだらうと思{おも}ひなさるのも尤{もつとも}の様{やう}だが。人{にん}を見{み}て法{はう}を説{とけ}とやら
で。アノ人達{ひとたち}が其様{そん}な事{〔こと〕}をする人{ひと}か仕{し}ねへ人{ひと}かお前{めへ}も大概{ていげへ}察{さつ}して
見{み}なせへ。ノウお吉{きつ}さん。左様{さう}じやアねへか」【吉】「ヲヤ〳〵旦那{だんな}左様{さう}被仰{おつしやつ}
ちやア大{おほ}きに御対談{ごたいだん}が違{ちか}ひますねへ。翌{あした}の晩{ばん}まで待{まて}自己{おいら}が

(11ウ)
訳{わけ}を付{つけ}てやらうとお言{いひ}なはるから。待{また}れない所{ところ}をお前{まへ}さんの
皃{かほ}を立{たつ}て待{まつ}て居{ゐ}ましたが。今{つゐ}の様{やう}に言{いつ}て見ると。両個{ふたり}の衆{しゆう}
は苦{く}のがれで宜{よか}らうが。私{わたし}兄弟{ふたり}がいゝ面{つら}の皮{かは}だ。勿論{もちろん}紙治{かみぢ}
さんはアノ位{くれへ}。大{たい}めへな暮{くら}しを仕{し}て居{ゐ}なさるから。盲目{めくら}の持{もつ}て
居{ゐ}る金{かね}なんぞを。目{め}にかけは仕{し}なさるめへが。小春{こはる}はお前{まへ}さん
年{とし}のいかねへ時分{じぶん}から。よくしつて居{ゐ}るけれど。そりやアモウ〳〵
根生{こんじやう}のねぢれた。誠{ま〔こと〕}にいけねへ女子{あま}だから。随分{ずいぶん}其{その}位{くれへ}な事{〔こと〕}は
仕{し}かねやせん。夫{それ}だから昨日{きのふ}彼女{あいつ}を引摺{ひきずつ}て。出{で}る所{ところ}へ出{で}て

(12オ)
詮義{せんぎ}をして貰{もら}はふと思{おも}へは。何{なん}だのかだのと侠者{をとこだて}めかして口{くち}を
お利{きゝ}なはるから。よもや此様{こん}な挨拶{あいさつ}じやアあるめへと思{おも}つて
可惜{あつたら}日{ひ}を二日{ふつか}といふもの待{まつ}て居{ゐ}て。何{なん}のつまらねへ。そんなら
モウ手{て}を引{ひい}てお呉{くん}なせへ。何{なん}でも是{これ}から小春{こはる}を首{くび}ツ引{ひき}で
一{いち}か罰{ばち}か分{わけ}ねへけりやア。私{わたし}の腹{はら}が医{い}ねへ」ト言{いひ}かけて立上{たちあが}る。
紙治{かみぢ}は奥{おく}にて聞居{きゝゐ}たりしが。堪{こら}え兼{かね}て飛{とん}で出{いで}【治】「イヤお吉{きち}
さん久{ひさ}しく逢{あは}ねへ。何{いつ}も〳〵お達者{たつしや}で。よく悪法{あくはう}をかきなさるの。
昨日{きのふ}お前{めへ}小春{こはる}の所{とこ}へ往{いつ}て。私{わたし}どもが追剥{おひはぎ}をしたの。盗賊{どろぼう}をした

(12ウ)
のと。纔{わづか}な口乗書{かうじやうかき}を証拠{しようこ}にして。言懸{いひかけ}を言{いつ}たそうだか。マア其様{そん}な
水懸論{みづかけろん}は。出{で}る所{とこ}へ出{で}れは善{ぜん}か悪{あく}か直{ぢき}にわかるが。コウ盲目{めくら}の
弟{おとうと}と言{いひ}あはして。五両{ごりやう}弐分{にぶ}の衒{かたり}の罪{つみ}から先{さき}へ糺{たゞ}しやせう。
丁度{てうど}今夜{こんや}ア小春{こはる}もこゝへ来{き}て居{ゐ}るから。お前{めへ}が強情{がうぢやう}を言{い}
やア三{み}ツ鉄輪{がなわ}で洗{あら}ひ方{かた}を仕様{しやう}が。衒{かた}つたに違{ちげ}へねへものを
今{いま}さら彼是{かれこれ}はあるめへ。またアノ盲目{めくら}も盲目{めくら}だ。なんぼ姉{あね}が
何{なん}と言{いつ}たからと言{いつ}て。片輪{かたわ}のくせに人{ひと}を詐偽{たばかつ}て。かたりでも
しやうと言{いふ}根生骨{こんじやうぼね}の奴{やづ}だから。金{かね}をとられて土腐{どぶ}へたゝき

(13オ)
込{こま}れる位{ぐれへ}は当然{あたりめへ}だ。浮世{うきよ}にやア皇天{てんとう}さまがあるヨ。わるよく
ばツて年中{ねんぢう}悪法{あくはう}ばかり掻{かい}たつて。左様{さう}甘{うま}くは往{いか}ねへ。サア其{その}
言訳{いひわけ}があるなら。此所{こゝ}で立派{りつぱ}に言被{いひひら}きなせへ。トレ聞{きゝ}やせう」ト
肘{ひぢ}を張{はつ}てお吉{きち}が前{まへ}へどつかと居{すは}れば。了得{さすが}のお吉{きち}も旧悪{きうあく}の
胸{むね}にトツキリ五寸釘{ごすんくき}。うたるゝ思{おも}ひに挨拶{あいさつ}も。口隠{くごも}る折{をり}から表{おもて}の
方{かた}。朱鞘{しゆざや}の大小{だいしやう}つかみさし。剃下奴{そりさげやつこ}の侍{さふらひ}が。きよろ〳〵見{み}まはし
駈入{かけいつ}て。夫{それ}と見{み}るより諸人{もろびと}へ。挨拶{あいさつ}もせずお吉{きち}が髻{たぶさ}。掴{つか}んで
其所{そこ}へ引倒{ひきたふ}せば。お吉{きち}は驚{おどろ}き皃{かほ}を見{み}て【吉】「ヲヤ何{なん}だ強六{がうろく}さん

(13ウ)
お前{まへ}何様{どう}したンだ」【強】「何様{どう}したとは大胆{ふてへ}女子{あま}だ。サア金{かね}を返{けへ}し
あかれ」【吉】「ヱ金{かね}ヱ。其様{そん}な事{〔こと〕}は知{し}らないヨ」【強】「しらねへといふが
有{ある}ものか。其方{そつち}が欲{よく}ばりの薄情{はくじやう}は。頓{とふ}から此方{こつち}も知{し}つて居{ゐ}
るが。逢{あ}へば当座{とうざ}の気休{きやす}めに。放心{うか〳〵}乗{のつ}たが此方{こつち}も無念{ぶねん}。今朝{けさ}
から酒{さけ}を強{しい}つけて。酔{よつ}て前後{ぜんご}も白川{しらかは}夜舟{よふね}。ゆらり〳〵と
快{こゝろ}よく。寝入{ねいつ}た所{ところ}へ附込{つけこん}て。胴巻{どうまき}ぐるみ引{ひつ}ぱづし。とつたは
其方{てめへ}に違{ちげ}へねへ。出{だ}さずは自己{おれ}が手込{てごみ}にする」トお吉{きち}が腹{はら}へ手{て}
をさし入{いれ}て。引出{ひきいだ}したる胴巻{どうまき}を。やらじとお吉{きち}が糶合{せりあふ}を。力{ちから}まか

(14オ)
せに引{ひつ}たくり。お吉{きち}が眼{め}の先{さき}へ突付{つきつけ}て【強】「是{これ}でもわりやアしら
ねへか」ト言{いひ}さま其処{そこ}へ突放{つきはな}せば。悔{くや}し泪{なみだ}をふり払{はら}ひ。むツくと
起{おき}て強六{がうろく}に。つかみつかんとする所{ところ}を。鬼勝{おにかつ}押{おさ}へてうごかせず
微笑{にこり}とわらひて【勝】「イヤ畝山{うねやま}さま久{ひさ}しくお目{め}にかゝりません」【強】「
誠{ま〔こと〕}に面目{めんぼく}次第{しだい}もない。自{わし}が身分{みぶん}も屋敷{やしき}から。定{さだ}めて委{くは}しく
聞{きか}しつたらうが。心{こゝろ}がらとは言{いひ}ながら。この|悪女{あま}ゆへに扶持{ふち}ばなれ
其{その}上{うへ}此女{こいつ}に突出{つきだ}され。外聞{ぐはいぶん}当分{とうぶん}は扨{さて}置{おい}て。居所{ゐと}立所{たちど}にも迷{まよ}ふ
時宜{しぎ}。腹{はら}が立{たつ}とも悔{くや}しいとも。言{いひ}様{やう}はないけれど。畢竟{ひつきやう}いはゞ

$(14ウ)
巻末{くわんまつ}の
出像{さしゑ}本文{ほんもん}に
たがふと
いへども
人{ひと}の
大勢{おほぜい}
うち
よりて
めでたし
〳〵も

$(15オ)
古風{こふう}に
なりぬ
されば千秋{せんしう}
万歳{ばんぜい}の後{のち}
夫婦{ふうふ}姉娣{きやうだい}
むつま
しく
物詣{ものまうで}する
さまを画{ゑが}き

この
冊子{とぢぶみ}の
大切{おほぎり}とす

(15ウ)
身{み}から出{で}た。錆{さび}と思{おも}つて明{あき}らめても。明{あき}らめられぬは日〻{ひゞ}の困窮{こんきう}
人{ひと}窮{きう}して巧{たくみ}をなすと。昔{むかし}の人{ひと}の言{いつ}たは尤{もつとも}。白河町{しらかはてう}より帰{かへ}りがけ
さみしい所{とこ}で和之一{わのいち}に。行逢{ゆきあつ}たは天{てん}の与{あた}え。彼奴{きやつ}めが金{かね}を肌身{はだみ}
につけて。持{もつ}て居{ゐ}る事{〔こと〕}兼{かね}て承知{しやうち}。道{みち}には背{そむ}けた事{〔こと〕}ながら
元{もと}はといへば段〻{だん〳〵}に。毟{むし}りとられた自己{おれ}が金{かね}。取{とつ}ても罪{つみ}にな
りやせまい。大人{おとなし}づくでは五文{ごもん}でも。分{わか}らぬ気性{きしやう}も知{しつ}て居{ゐ}れば
突倒{つきたふ}して懐中{くわいちう}を。さくれば案{あん}に違{たが}はぬ此{この}金{かね}。まんまと取{とつ}て
其{その}場{ば}を立退{たちの}き。跡{あと}でよく〳〵考{かんがへ}れば。命{いのち}と恃{たの}む此{この}金{かね}を。丸{まる}で

(16オ)
とつたは餘{あん}まり無慈悲{むじひ}と。泪{なみた}もろく容子{やうす}を尋{たづ}ねて。貸{か}すと
号{なづけ}て四五両{しごりやう}も。返{かへ}してやらんとお吉{きち}が宅{うち}へ。行{ゆく}途中{みち}で行逢{ゆきあつ}て。様
子{やうす}を聞{きけ}ば箇様〻〻{かう〳〵}ゆへ。紙治{かみぢ}どのとやら小春{こはる}とやらへ懸合{かけあい}に行{ゆく}と
いふを。やう〳〵慰{なだ}めて宅{うち}へ連行{つれゆき}。段〻{だん〳〵}きけば和{わ}の一{いち}が。側{そは}に落{おち}たる
手紙{てがみ}を証拠{しやうこ}に。懸合{かけあい}をするとの事{〔こと〕}。サア其{その}手紙{てかみ}と言{いふ}は面{めん}ぼく
ないが。此{この}頃{ごろ}小春{こはる}を尋{たづね}た時{とき}。例{いつ}もやさしいアノ嬢{こ}の愛想{あいそふ}。是非{せひ}酒{さけ}
一{ひと}ツと駈出{かけだ}して。酒{さけ}と肴{さかな}を誂{あつら}へに。行{いつ}た留守{るす}に届{とゞ}いた手紙{てがみ}。何心{なにこゝろ}
なく披{あけ}て見{み}れば。珍波楼{ちんぱらう}まで来{こ}いとの文段{もんだん}。これはたしかに

(16ウ)
色男{いろをとこ}か。むかし思{おも}へば心憎{こゝろにく}し。押慝{おしかく}して色男{いろをとこ}に。待{まち}ぼうけをさせて
くれんと。腹黒{はらきたな}く懐中{くわいちう}してしらぬ皃{かほ}。夫{それ}より馳走{ちそう}の時{とき}過{すぎ}て。帰{かへ}り
路{みち}が和{わ}の一{いち}の一件{いつけん}。心{こゝろ}にも留{と}めぬ其{その}手紙{てがみ}。落{おと}したのにも気{き}か付{つか}す。
夫{それ}ゆへ罪{つみ}も咎{とが}もない。二人{ふたり}の衆{しゆ}[とはかみ治{じ}と小はるが〔こと〕也]へ苦労{くらう}を懸{かけ}たは。全{まつた}く自{わし}が
過{あやま}りじや。懺悔{さんげ}ばなしをするからには。其{その}咎{とが}はゆるして下{くだ}され」ト
聞{きい}て小春{こはる}は進{すゝ}み出{いで}【春】「ヲヤマア憎{にく}らしいねへ。当下{そのとき}私{わち}きが珍波{ちんぱ}へ
往{いか}ないので。紙治{かみぢ}さんに腹{はら}を立{たゝ}して。私{わち}きも何様{とん}なに気{き}をもみ
ましたらう。夫{それ}じやアお酒{さけ}を上{あげ}ないけりやア宜{よ}かつたねへ」【治】「

(17オ)
コレサマア無言{だまつ}て居{ゐ}ねへ。彼方{あなた}がアヽ被仰{おつしやつ}て見{み}りやア。其方{てめへ}が真実{ほんとふ}
に知{し}らねへ訳{わけ}が分解{わかつ}たからモウ何{なに}も言{いふ}にやア及{およ}ばねへ」【強】「ハヽヽヽ。
例{いつ}もかはらぬ憎{にく}まれ役{やく}だ。トキニ斯{かう}お吉{きち}。今{いま}噺{はな}した|一伍一什{いちぶしじう}で
其方{てめへ}もよツく聞{きい}たらうナ。和{わ}の一{いち}か金{かね}を取{と}つたは自己{おれ}だ。半年餘{はんとしあま}り
に三|百両{ひやくりやう}。不残{みんな}其方{てめへ}に毟{むし}りとられ。浪人{らうにん}したら早速{さつそく}に。突出{つきだ}す
といふ大胆{ふてへ}仕打{しうち}。親{おや}の因果{いんぐわ}は子に報{むく}ひ。姉{あね}の因果{いんぐわ}は弟{おとゝ}にむくふ。
十五{じふご}や二十{にしふ}の端金{はしたがね}。とり返{けへ}されても腹{はら}も立{たつ}めへ。ハヽヽヽ。夫{それ}とも自己{おれ}
を追剥{おひはぎ}だとか盗賊{どろぼう}たとか言立{いひたつ}て願{ねが}ふなら願{ねが}つて見{み}ろ。また

(17ウ)
此方{こつち}にも仕方{しかた}がある」ト白眼{にらめ}つければ此{この}時{とき}に。お吉{きち}はむつくと起上{おきあが}り
【吉】「アヽ願{ねか}はなくツて何様{どう}するものか。片輪{かたわ}ものを土腐{とぶ}へ打込{ぶちこん}で
持{も}つてる金{かね}を取{とん}なさりやア。盗賊{どろぼう}に違{ちげ}へねへ。お前{まへ}が身{み}をもつて
居{ゐ}なさる時分{じぶん}。三|百両{ひやくりやう}遣{つか}つたか。五百両{ごひやくりやう}遣{つか}つたか。其様{そん}な事{〔こと〕}は
私{わた}しやアしらねへ。たとへ其{その}金{かね}を私{わた}しに呉{くれ}たにもしろ。そりやア
逢対{あいたい}づくで。遣{やら}ふ貰{もら}はふと互{たが}いに承知{しやうち}の上{うへ}サ。女{をんな}だと思{おも}つて
馬鹿{ばか}にして。其様{そん}な横理屈{よこりくつ}を言{いひ}なすツたツて。そりやア何
所{どこ}へも通{とほ}りません。ドレ是{これ}から願{ねが}ひ立{たつ}て。暗{くら}い所{とこ}へ打{ぶち}こんで

(18オ)
上{あげ}るから。覚悟{かくご}してお出{いで}なさい」ト駈出{かけだ}す所{ところ}を紙治{かみぢ}は引{ひき}とめ【治】「ヲツト
マア待{まち}なせへ。先刻{さつき}自己{おれ}が言{いつ}た。先頃中{いつかぢう}の衒{かたり}の一件{いつけん}は何様{どう}するのだ。
サア言開{いひひら}きをして往{いき}なせへ。モシ言開{いひひら}きが出来{でき}ねへなら。此方{こつち}も
願{ねが}ふ所{ところ}へ願{ねが}つて。吟味{ぎんみ}して貰{もら}はにやアならねへ。なんぼ女{をんな}の事{〔こと〕}
だと言{い}つても。餘{あん}まりな手前{てめへ}勝手{がつて}。他{ひと}の悪事{あくじ}は眼{め}に角{かと}たて。手
前{てめへ}の悪事{あくじ}は猫屎{ねこばゞ}で。逃{にけ}やうと言{いつ}ても逃{にが}すものか。コレ此{この}村{むら}にも
庄屋{しやうや}があるはへ。其{その}上{うへ}這回{こんど}の一件{いつけん}も夢{ゆめ}にも覚{おぼ}へのない者{もの}に
種〻{さま〴〵}な悪名{あくめう}つけ。夫{それ}きりにする積{つも}りか。コレ些{ちつと}言{いひ}憎{にく}いが。この

(18ウ)
紙屋{かみや}治兵衛{ちへい}はナ。|其方達{てめへたち}とは身分{みぶん}か違{ちが}ふぞ。其様{そん}な悪名{あくめう}を
付{つけ}られちやア。一家{いつけ}一門{いちもん}までの暖簾{のれん}に障{さは}らア。後{のち}とも言{いは}ず今{いま}
此所{こゝ}て。其{その}証{あかり}りを立{たつ}て貰{もら}はふ。}その一埓{いちらつ}が済{すま}ねへうちは。貧乏*「証{あかり}り」の「り」は衍字
颭{びんぼうゆるき}もさせねへぞ」ト日頃{ひごろ}に変{かは}りし紙治{かみぢ}が勢{いきほ}ひ。居丈{ゐたけ}も高{たか}く音
眼{ねめ}つければ。鬼{おに}をも怖{おそ}れぬ髪結{かみゆひ}のお吉{きち}も是{これ}には当惑{とうわく}し
色{いろ}青{あを}ざめて言句{こんく}も出{で}ず。わな〳〵震{ふる}ひ出{だ}すを見{み}て。鬼勝{おにかつ}は
お吉{きち}に対{むか}ひ【勝】「言{いふ}までもねへが何{なん}に寄{よ}らず。一体{いつたい}お前{めへ}の仕打{しうち}が
悪{わる}い。強六{がうろく}さんの事{〔こと〕}なンぞも。餘{あん}まりお前{めへ}が欲張{よくばつ}て。不人情{ふにんじやう}を

(19オ)
するものたから。続先{つひさき}の方{かた}にも悪{わる}い気{き}を出{だ}させるといふもの。殊{〔こと〕}には
酒{さけ}に酔{よは}して置{おい}て。胴巻{どうまき}くるみに金{かね}を取{とる}とは。とりも直{なを}さずお前{めへ}が
盗賊{どろぼう}だ。シテ見{み}ればお互{たが}いと云{いふ}訳{わけ}じやアねへか。夫{それ}をば棚{たな}へ上{あげ}て
置{おき}。願{ねが}ふの引{ひく}のとりきむから。義{ぎ}に勇{いさ}む紙治{かみぢ}さん。見{み}るに忍{しの}ばず
今{いま}の様{やう}に。言{いひ}なさるも畢竟{ひつきやう}は。餘{あん}まりお前{めへ}が憎面{にくつら}な。仕打{しうち}を
するゆへの事{〔こと〕}。こゝじや一番{いちばん}悪心{あくしん}を。ひるがへして直朴{すなを}になり。他{ひと}の
言{いふ}事{〔こと〕}を聞{きく}気{き}なら。|老年役{としよりやく}に仲{なか}へ|這入{はいつ}て。詫言{わび〔こと〕}もしてやらう
し。又{また}それ〳〵に大{だい}なり小{しやう}なり。訳{わけ}も付{つけ}て遣{やら}ふけれど。何様{とう}だの

(19ウ)
箇様{かう}たのと小理屈{こりくつ}を。言{いふ}なら自己{おら}ア構{かま}はねへ」ト突放{つきはな}されて今更{いまさら}
に。詮方{しかた}なければ手{て}を下{さげ}て只管{ひたすら}鬼勝{おにかつ}を頼{たの}むにぞ○鬼勝{おにかつ}は紙治{かみぢ}に
向{むか}ひ先日{いつぞや}衒{かたり}の一件{いつけん}より。這回{このたび}の事{〔こと〕}までお吉{きち}に成{なり}かは
りて侘言{わび〔こと〕}をなし。さて強六{がうろく}に対{むか}ひ。和{わ}の一{いち}が持{もつ}たる
金{かね}は。お吉{きち}に詐偽{たばかり}とられたる金{かね}なれど。途中{とちう}において
奪{うば}ひ取{とり}しは。全{まつた}く武士{ぶし}の所行{しよぎやう}にもあらねば。夫等{それら}の訳{わけ}を
もつて。金子{きんす}五両{ごりやう}を貰{もら}ひ受{うけ}。お吉{きち}に遣{つか}はし。以来{いらい}聊{いさゝか}も言
分{いひぶん}のなきよし。爪判{つめばん}の証文{しやうもん}させ此■の{こ■の}の一件{ひとくたり}は果{すみ}にけり。

(20オ)
斯{かく}て後{のち}鬼勝{おにかつ}。強六{かうろく}が浪人{らうにん}の困窮{こんきう}を憐{あはれ}み。暫{しばら}くこゝに|舎落置{かくまいおき}しが
千葉家{ちばけ}は出入{ていり}屋敷{やしき}にて。御家老{ごからう}はじめ重役{おもやく}の衆{しやう}までも心易{こゝろやす}
ければ。寄〻{より〳〵}に強六{がうろく}が身{み}を歎{なげ}き頼{たの}みけるに元{もと}よりさせる罪{つみ}も
なけれは。帰参{きさん}かないて以前{いぜん}よりは。遙{はるか}に劣{おと}りたる役{やく}を言付{いひつけ}られ
けるとなん。扨{さて}小春{こはる}は這回{こんど}の騒動{さうどう}により。却{かへつ}て身{み}の証{あか}りこと〴〵
く立{たつ}て。紙治{かみぢ}がうたかひも晴{はれ}けるにより。お滝{たき}が願{ねか}ひにまかせ
小春{こはる}を本妻{ほんさい}に直{なを}し。お滝{たき}をも天間町{てんまゝち}へ引{ひき}とり。小春{こはる}と姉娣
分{きやうたいぶん}になして置{おき}けるが。お滝{たき}は彼{かの}夢{ゆめ}の中{うち}に。尊{たつと}き聖人{ひじり}の教{をし}えを

(20ウ)
守{まも}り吝気{りんき}らしき事{〔こと〕}少{すこ}しもなく。小春{こはる}は元来{もとより}温順{おんじゆん}の生質{うまれつき}
なれば。互いに水魚{すいぎよ}の睦{むつ}ましさ。めでたき春{はる}を重{かさ}ねけると
なん。両{りやう}の手{て}に桃{もゝ}とさくらや雛{ひな}の餅{もち}。とは将{まさ}に紙治{かみぢ}は事{〔こと〕}
なるべし。めでたし〳〵〳〵〳〵。
花迺志満台第四編巻之下大尾


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sh96/4、1002334553)
11丁は原本落丁のため、東京大学国語研究室蔵の別本(4L:97:4)により補った。
翻字担当者:片山久留美、木川あづさ、藤本灯
更新履歴:
2015年10月1日公開

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