日本語史研究用テキストデータ集

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比翼連理花廼志満台ひよくのれんりはなのしまだい

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四編上

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比翼連理花迺志満台 四編上

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(口1オ)
東夷{とうい}南蛮{なんばん}。北狄{ほくてき}世間{せけん}の。光陰{かういん}盛
衰{せいすい}。所{ところ}替{かは}れば品{しな}かはりて。人情本{にんじやうぼん}の
趣向{しゆかう}さへ。年〻歳〻{ねん〳〵さい〳〵}新{あた}らしくと。
書肆{ふみや}が需{もとめ}に。作者{さくしや}も画工{ゑし}も。
一際{ひとせい}骨{ほね}を折{おる}とはいえども。既{すで}に戯
場{しばゐ}も見功者{みがうしや}に。哥舞妓{かぶき}は素{もと}より

(口1ウ)
木偶{にんぎやう}まで。世話{せわ}狂言{きやうげん}の所作事{しよさ〔ごと〕}のと。
筋書{さくしや}も看官{みて}に気{き}を置{をく}ものから。
まして草紙{さうし}は文章{ぶんしやう}ばかり。勧善
懲悪{くはんぜんちやうあく}。哀別離{あいべつり}。其{その}外{ほか}忠信孝悌{ちうしんかうてい}に。
感歎{くはんたん}さする筆{ふで}の先{さき}。只{たゞ}松亭{しやうてい}が好{この}
める道{みち}。日{ひ}〔ごと〕に心{こゝろ}をゆだねたる。三冊

(口2オ)
物{さんさつもの}も愛顧{あいこ}を蒙{かふ}ふり。四編{しへん}となりしも
御贔屓{ごひゐき}の。つよきによつて拙作{せつさく}の。
弱{よは}きを助{たす}け給{たま}ふ事{〔こと〕}。冥加{めうが}に叶{かな}ひて
行末{ゆくすへ}の。富貴{ふうき}自在{じざい}は眼{ま}のあたりと。
自分{じぶん}免許{めんきよ}におのづから。あまへたれ
たるはしがきは。桃園{とうえん}ならで狭筵{さむしろ}に

(口2ウ)
結{むす}びし因{ちなみ}のつりかたに。是{これ}亦{また}己{おの}が
田{た}へ水{みづ}を。ひく手{て}数多{あまた}の御評判{ごひやうばん}。
しさいらしくも願{ねが}ふ迚{とて}。銀{ぎん}の代{かは}りに
片言{かた〔こと〕}の。なまりがちなる不才{ふさい}の寓言{ぐうげん}。
蛇{じや}の道{みち}ならで盲目蛇{めくらへび}。怖恐{おぢおそ}れ
ずもまかり出{で}て。廻{まは}らぬ筆{ふで}に赤{あか}ツ辱{ぱぢ}。

(口3オ)
かきの素袍{すはう}を仮{かり}に着{き}て。しばら
く〳〵と。丁数{てうすう}の。邪广{じやま}をすれども
其{その}儘{まゝ}に。見遁{みのが}し置{おい}て下{くだ}さるは。これ
大江戸{おほえど}の。花{はな}廼{の}島台{しまだい}トホヽ誤{あやまつ}て曰{まうす}。
天保九年
戌の初春
東都
古志菴
大福

$(口3ウ)

$(口4オ)
川水{かはみづ}と
ともに
心{こゝろ}は
清{きよ}けれど
流{なが}れわたりの
身{み}をいかに
せん

$(口4ウ)
人{ひと}の性{せい}は
善{せん}なり
私欲{しよく}これを
害{がい}して
悪{あく}をなすと
いふ〔こと〕を
浮雲{うきくも}や月{つき}は
心{こゝろ}に
ありながら
金水
畝山{うねやま}強六{がうろく}

$(口5オ)
豊島邑{としまむら}の女髪結{をんなかみゆひ}
於吉{おきち}

$(口5ウ)
人{ひと}の父{ちゝ}としては
慈{じ}に止{とゞ}まる

いふ
〔こと〕を
巌{いはほ}より
投下{なげおろ}したる
獅子{しし}の
児{こ}の
とく
戻{もど}れとや
親{おや}は待{まつ}らん
枝橋{えだばし}の侠客{きやうかく}
荷足屋{にたりや}の鬼勝{おにかつ}
松亭主人

(1オ)
[比翼{ひよく}連理{れんり}]花{はな}迺{の}志満台{しまだい}第四編巻之上
東都 松亭金水編次
第十九回
「ヲイお吉{きつ}さん〳〵」ト[よびかけられてうしろをむき]【吉】「ヲヤ誰{だれ}だへ。何{なん}だか暗{くら}くつて
しれないヨ」「ヘン明{あか}るくツても見ねへ振{ふり}を仕様{しやう}と言{いふ}ンだア」ト
いはれて心{こゝろ}づき【吉】「ムヽ強六{がうろく}さんだネ。何所{どこ}へお出{いで}だ」【強】「是{これ}
からお前{めへ}の宅{うち}へ往{いく}のだア。皈{かへ}るなら同伴{いつしよ}に往{いか}う」【吉】「ナニ
どうして〳〵。宅{うち}へ皈{かへ}る所{どこ}じやアない。大変{たいへん}があるは」【強】「何{なん}だ。

(1ウ)
大造{たいそう}らしい。大変{たいへん}もねへもんだ」【吉】「実正{ほんとう}だはネ。マア聞{きい}ておくれ。
アノ和之{わの}がネ。とんだ目{め}に逢{あつ}たは」【強】「フム何様{どん}な目{め}に逢{あつ}た。女{をんな}
なら廻{まは}りでもとられたかと思{おも}ふが。まさか盲目{めくら}のお釜{かま}を取{とる}
奴{やつ}もあるめへし。ハヽヽヽヽ。どうした」【吉】「ヱヽモウ強六{がうろく}さん笑{わら}ひごと
じやアないはネ。昨夜{ゆふべ}おまへ河岸{かし}で盗人{どろばう}に逢{あつ}てネ。胴巻{どうまき}に持{もつ}て
居{ゐ}た金{かね}は不残{みんな}取{と}られて仕{し}まふし。其{その}上{うへ}に堀{ほり}へ突落{つきおと}され
てネ。既{すんで}に死{し}ぬ所{とこ}さ。昨夜{ゆふべ}亥刻{よつ}まへの事{〔こと〕}だそうだが。今朝{けさ}
斯〻{かう〳〵}だと言{いつ}て。近所{きんじよ}の人{ひと}がしらしてくれたから。肝{きも}を潰{つぶ}して

(2オ)
駈付{かけつけ}て往{いつ}て見{み}たら。モウ〳〵天窓{あたま}から泥{どろ}だらけになつてネ
たゞむぐ〳〵として居{ゐ}るばかりサ。夫{それ}から漸{やう}〳〵人{ひと}を頼{たの}んで
引揚{ひきあげ}て聞{きい}て見{み}ると。突落{つきおと}されるときに脇腹{ひはら}を打{うつ}て。夫{それ}で
働{いご}く事{〔こと〕}ができないから。夜中{よぢう}その泥{どろ}のなかに居{ゐ}たンだツサ。
よくマアそれでも死{し}なずに居{ゐ}たと思{おも}ひますは。夫{それ}からうちへ
連{つれ}て帰{かへ}つて。お医者{いしや}さまに懸{かけ}たが。直{ぢき}に元気{げんき}が付{つき}ましたは」
【強】「ヤアそりやア大変{たいへん}。あぶねへ事{こつ}たツたなア。盗人{とろばう}はまだ知{し}
れねへか」【吉】「アヽ佶{きつ}とはしれないけれど。其処{そこ}に落{おち}て居{ゐ}た

(2ウ)
物{もの}が有{ある}から。些{ちつ}とは手懸{てがゝ}りがあるのサ」ト聞{きい}ては気{き}になるわが
身{み}のうへ。何{なに}も落{おと}した物{もの}はない筈{はづ}と。今更{いまさら}懐{ふところ}を探{さぐ}るもおかし。
暫{しばら}くして強六{がうろく}は気{き}を沈{しづ}め【強】「落{おち}て居{ゐ}たとはドヽどんな物{もん}だ」
【吉】「ヲヤマアきつい急込{せつこみ}やうだねへ。盗人{どろばう}はお前{まへ}じやアないか」
【強】「コレ〳〵耳{みゝ}にならア。よして呉{くん}ねへ。痩{やせ}ても枯{かれ}ても強六{がうろく}さまだア
まさか盗人{どろばう}は仕{し}ねへヨ」【吉】「アレサ戯談{じやうだん}だアネ。左様{さう}腹{はら}をお立{たち}じやア
気{き}のどくだヨ」【強】「ナニ腹{はら}も脊{せ}も立{たち}はしねへが。近曽{ちかごろ}自己{おれ}もおち
ぶれて。つまらねへ身{み}になつたから。戯談{じやうだん}にもそんな事{〔こと〕}を

(3オ)
言{いは}れると此方{こつち}も僻{ひがみ}で気{き}にかゝらア」【吉】「ツイ私{わた}しが戯談{じやうだん}を言{いつ}
たのだから。気{き}に当{あた}つたら堪忍{かんにん}おしと言{い}ふンだアね。私{わた}しやア
それ所{どころ}じやアない。また色{いろ}〳〵用{よう}があるから先{さき}へ往{いく}ヨ」【強】「コレサ
用{よう}があるヱ。用{よう}が有{ある}も久{ひさ}しいもんだ。ヘン用{よう}のねへ人間{にんげん}も有{ある}めへス」
【吉】「よウ〳〵色〻{いろ〳〵}な事{〔こと〕}をお言{いひ}だねへ。実{じつ}に今夜{こんや}は和之{わの}が事{〔こと〕}に
付{つい}て。懸合{かけあい}に往{いか}なくツちやアならないからサ」【強】「フムそりやア
何所{どこ}へ往{いく}のだ。自己{おいら}も一所{いつしよ}に往{いか}う」【吉】「ハイ有{あり}がたう。しかし
ナニ私{わた}しばかり往{いき}ますヨ」【強】「コレサ何所{どこ}へ往{いく}といふにサ」ト了得{さすが}

(3ウ)
覚{おぼへ}のある身{み}とて。底気味{そこきみ}わろくお吉{きち}が袖{そで}を。ひかへて是{これ}を
引戻{ひきもど}せば【吉】「アレサ戯談{じやうだん}おしでないヨ。お前{まへ}はマア能{いゝ}気{き}ぜん
だねへ。人{ひと}の気{き}もしらないで」【強】「ハテサお前{めへ}の心{こゝろ}を察{さつ}して
万事{ばんじ}あんじられるから細密{くどく}も聞{きく}のに。隠{かく}して居{ゐ}る事{〔こと〕}もある
めへじやアねへか。また金{かね}づくなら二両{にりやう}や三両{さんりやう}は。ヘン不躾{ぶしつけ}
ながら用立{ようだて}もしやせう」【吉】「ナニヱ金{かね}を借{か}そふヱ。ムヽ甘{うま}くお言{いひ}
だね。マアお礼{れい}から先{さき}へ言{いひ}ませう」【強】「コウ〳〵左様{さう}人{ひと}を馬鹿{ばか}
にしなさんな。嘘{うそ}だと思{おも}ふなら鳥渡{ちよつと}見{み}せやう」ト懐{ふところ}の中{うち}へ

(4オ)
手{て}を入{いれ}て。チヤラ〳〵と金{かね}の音{おと}をさせればお吉{きち}は聞{きい}て【吉】「ヲヤ
おまへマア何様{どう}して其様{そんな}に。金{かね}を持{もつ}てお座{いで}だヱ」【強】「コレサ左様{さう}
他{ひと}を見{み}くびるものじやアねへ。自己{おいら}も男{をとこ}の児{こ}だア。二十や三十
の金{かね}ぐれへ。工面{くめん}しめへものでもねへのス」【吉】「アレサそりやア
左様{さう}だけれども。近曽{ちかごろ}退糧{らうにん}とやらをおしでから。後{のち}は都合{つがふ}が
わるい〳〵とお言{いひ}だのに。其様{そんな}に大造{たいそう}金{かね}を持{もつ}てお在{いで}だから
左様{さう}いふのサ。そんならまたおまへチツト。奇麗{きれい}な衣類{きもの}でも
拵{こせへ}てお着{き}なら能{いゝ}にねへ」【強】「自己{おれ}も左様{さう}おもつては

(4ウ)
居{ゐ}るが。ナニ金{かね}せへあれば何時{いつ}でも出来{でき}るから。夫{それ}もよしサ。夫{それ}より
か先頃中{いつかぢう}も。苦{くる}しまぎれに出{で}たらめを言{いつ}て。お前{めへ}もなんとか
思{おも}つて居{ゐ}るだらうと。頓{とう}から気{き}にもなつて居{ゐ}る訳{わけ}だから。金{かね}の
出来{でき}たこそ幸{さいわ}ひ。今夜{こんや}は久{ひさ}しぶりで中直{なかなを}りに。奢{おご}らうと
思{おも}つてお前{めへ}の宅{うち}へ往{いく}所{ところ}だア」【吉】「ヲヤ左様{さう}お言{いひ}じやアお気{き}の
毒{どく}だねへ。夫{そん}なら帰{かへ}らうと言{いひ}たいが。何様{どう}も今夜{こんや}は其{その}一件{いつけん}に
行{いか}なくツちやア気{き}が済{すま}ないから。おまはん宅{うち}へ往{いつ}て待{まつ}て居{ゐ}て
おくんなはいな。私{わち}きやア|成丈ケ{なるたけ}手廻{てまは}しをして帰{かへ}るから」【強】「

(5オ)
馬鹿{ばか}ア言{いひ}ねへナ。左様{さう}いふ込入{こみいつ}た懸合{かけあい}が。左様{さう}ちよつくら鳥渡{ちよつと}いく
ものかナ。そしてノ。お吉{きつ}さん夫{それ}に付{つい}ちやアおれが不斗{ふと}胸{むね}に浮{うか}んだ
法{はう}も有{あり}だが。こゝじやア噺{はな}し合{あつ}ても居{ゐ}られねへ。マア〳〵一旦{いつたん}宅{うち}へ
帰{けへ}んなせへ。翌{あした}になつたからとつて。懸合{かけあい}の出来{でき}ねへと言訳{いふわけ}じやア
あるめへし」【吉】「アイお有{あり}がたう。ホンニそれも左様{さう}だけれど。私{わた}しの
方{はう}にも是懇{ぜひ}今夜{こんや}。金{かね}がなくツちやアならない事{〔こと〕}もあり。何{なに}かだ
から。そりやアおまはん寝込{ねこん}で居{ゐ}ても片{かた}を付{つけ}て」【強】「ヱヽモウ
重言{くどい}〳〵。金{かね}づくなら一日{いちにち}や二日{ふつか}は。間{ま}に合{あは}せ様{やう}といふにサ」ト

$(5ウ)

$(6オ)
於吉{おきち}図{はか}
らずして
強六{がうろく}に
出あふ
似{に}たものが
夫婦{めうと}に
なるや
二{ふた}ツ星{ほし}

(6ウ)
袖{そで}をとらへて引戻{ひきもど}すにぞ。お吉{きち}は心{こゝろ}のうちには笑{ゑ}みを含{ふくみ}ながら
も。故意{わざ}と眉{まゆ}をしかめて【吉】「夫{それ}だつてお前{まへ}も骨{ほね}を折{をつ}て。おこし
らへの金{かね}を借{かり}ちやア気{き}の毒{どく}だはネ」【強】「ナニサ大事{たいじ}ねへと言{いふ}事{〔こと〕}ヨ。
若{もし}気{き}の毒{どく}だと思{おも}ふなら。跡{あと}で出来{でき}た節{とき}に返{けへ}しねへナ。喃{なふ}左様{さう}
じやア有{ある}めへか」【吉】「そんならお前{まへ}のお言{いひ}の通{とほ}りに仕様{しやう}かねへ」
【強】「さア〳〵決定{けつぢやう}して仕{し}まいなせへ」ト手{て}をとつて引{ひく}故{ゆへ}に。お吉{きち}は
やがて強六{がうろく}に。ひかれて宅{うち}へ帰{かへ}りゆけば強六{がうろく}は途中{みち}にて
酒殽{さけさかな}をあつらへ。お吉{きち}が宅{うち}へゆきて見{み}るに。和之一{わのいち}は

(7オ)
蒲団{ふとん}を重{かさ}ね。大𧝒{おほよぎ}を被{かつ}ぎて臥居{ふしゐ}るさまを。見{み}るにつけ
ても心{こゝろ}のうちの。可笑{おかし}さを堪{こ}らへながら。枕{まくら}もとへ立寄{たちより}て
【強】「和{わ}のさん何様{どう}だ。お前{めへ}とんだめに逢{あつ}たの。ヤレ〳〵夫{それ}でも
怪我{けが}アしねへで善{よ}かつた。昨夜{ゆふべ}冷{ひゑ}たから何様{どう}しても。塩
梅{あんべい}が悪{わ}りいはづだが。ナニ〳〵きつい事{〔こと〕}はねへ様子{やうす}だ。だい
事{じ}に仕{し}ねへ」【和の】「イヤハヤ命拾{いのちひろ}ひを仕{し}ました。ヲイ〳〵姉{あね}
さん。お前{めへ}もふ往{いつ}て来{き}たのか。紙屋{かみや}の挨拶{あいさつ}はどうだへ」【吉】「ナニサ
途中{みち}で強六{がうろく}さんにお目{め}にかゝつての。亦{また}色〻{いろ〳〵}な噺{はな}しも有{あり}

(7ウ)
彼方{あつち}へは往{いか}ずに帰{けへ}つたのヨ」【わの】「ヱヽ夫{それ}じやア往{いか}ねへノウ。おめへ
他{ひと}の事{〔こと〕}だと思{おも}つて平気{へいき}で居{ゐ}るのか」【吉】「ヱヽモウやかましい。
お前{めへ}よりやア先{さき}へ生{うま}れて居{ゐ}るから。何{なに}もかも承知{しようち}だヨ。無言{だまつ}
てゐねへ」【わの】「ナニ人{ひと}ヲ。此様{こん}な目{め}に逢{あつ}て無言{たまつ}て居{ゐ}られるもの
か。段〻{だん〳〵}手伸{てのび}に成{なつ}て見{み}ねへ。懸合{かけあい}がつきやアしねへ。何{なん}なら
其{その}手紙{てがみ}をよこしねへ。己{お}れが往{いつ}て来{く}るから」【吉】「馬鹿{ばか}ア言{いひ}
ねへナ。ウン〳〵叫{うなつ}て居{ゐ}る癖{くせ}に。何所{どこ}へ往{いか}れるものか」【わの】「ヘン
歩行{あるく}事{〔こと〕}が出来{でき}なけりやア。駕{かご}といふものが有{あら}ア」【吉】「ヱヽモウよく

(8オ)
へら〳〵喋{しやへ}つて諚{ぢやう}か強{こわ}いなふ。夫たから其様{そん}な目{め}に逢{あふ}ンだ。
わたしの言{いふ}通{とほ}り金{かね}なンそを持{もつ}て歩行{あるき}せへ仕{し}ねへけりやア
些{ちつ}とも間違{まちけへ}はありやア仕{し}ねへ。馬鹿{はか}につける薬{くすり}はねへヨウ」
【わの】「ヘン他{ひと}の体{からだ}が本体{ほんとう}に利{きか}ねへと思{おも}つて。其様{そんな}に口穢{くちきたな}く
言{いつ}て呉{くん}なさんな。モウお前{めへ}にやア何{なに}も恃{たの}まねへから。サア其{その}
手紙{てかみ}を此方{こつち}へ越{よこ}しねへ。自己{おいら}が片{かた}を付{つけ}らア」ト視{み}へもせぬ眼{め}
をむき出{た}して。むつくと起上{おきあが}れば強六{かうろく}は押{おし}とゝめて【強】「コレサ〳〵。
静{しつか}にするがいゝはな。姉弟{きやうたい}喧嘩{げんくわ}も久{ひさ}しいもんだア。自己{おいら}ア

(8ウ)
巨細{こまかい}理{わけ}はしらねへが。お前{めへ}の災難{さいなん}に逢{あつ}た事{〔こと〕}も聞{きゝ}。亦{また}姉{あね}さんが
何所{どこ}へか懸合{かけあい}に往{いく}といふ事{〔こと〕}も。些{ちつと}ばかり聞{きい}たが。夫{それ}につけちやア
自己{おいら}も助太刀{すけだち}を仕様{しやう}と思{おも}つて。途中{みち}から無理{むり}に連{つれ}て帰{けへ}つ
たのだア。何{なに}も左様{さう}急込{せつこむ}訳{わけ}はねへ。膝{ひざ}とも談合{たんかう}とやらだから
マア〳〵気{き}を落付{おちつけ}て噺{はな}し合{あい}をするが宜{いゝ}」ト宥{なだ}めるおりから
誂{あつら}への。酒肴{さけさかな}を持来{もちき}たれば。お吉{きち}は受{うけ}とつて燗{かん}をつける。【強】「
サア〳〵和{わ}のさん。お前も一口{ひとくち}呑{のみ}ねへ。疵{きず}は付{つか}ず左様{さう}弱{よは}る理{わけ}は
ねへけれど。畢竟{ひつきやう}気{き}を打{うつ}たから。思{おも}イ様{やう}に見{み}へるのだア。

(9オ)
些{ちつと}しつかり仕{し}ねへ。弱{よは}くツちやア往{いか}ねへぜ」ト是{これ}よりお吉{きち}強六{がうろく}は
対座{さし}にて猪口{ちよく}のやりとりに。暫{しはら}く時{とき}を移{うつ}しツヽ。見{み}れば和{わ}の
一{いち}も酒{さけ}の功能{かうのふ}にて。渾身{みうち}のゆるみしと見{み}へ。すや〳〵と眠{ねふ}る。
【強】「ヤア〳〵御病人{ごびやうにん}もお静{しづ}まつた。トキニお吉{きつ}さん間話{むだばな}しばかり
して居{ゐ}て。肝心{かんじん}の噺{はな}しを仕{し}ねへが。其処{そこ}で証拠{しやうこ}の手紙{てがみ}と
いふなア何様{どん}なものだ」【吉】「ナニネ証拠{しやうこ}といふにもならないかア
知{し}らないが。紙治{かみぢ}さんから小|春{はる}へ遣{やつ}た手紙{てがみ}たが。ホンノ口演
書{かうじやうがき}だはネ。夫{それ}だけれど。アノ子{こ}[とは和の一の事]の側{そば}に落{おち}て居{ゐ}たもんた

(9ウ)
から。何{なん}でもお前達{めへたち}の仕業{しわざ}に違{ちけ}へねへと。きつい合巻{くさゞうし}にでも
あらうといふ趣向{しゆかう}だけれど。先{さき}が先{さき}だから藪{やぶ}に馬鍬{まんぐわ}のよこ
車{ぐるま}を押{おし}つけて。甘{うま}く往{いけ}ばお慰{なぐさみ}と思{おも}ふからサ」【強】「フム〳〵そいつア
不審{おつ}だの。其処{そこ}で紙治{かみち}の所{とこ}へ往{いく}のか。また小春{こはる}か所{とこ}へ
往{いく}のか」【吉】「私{わち}きやアいきなり。天間町{てんまゝち}へ往{いく}つもりサ」【強】「ムヽ
左様{さう}サ」ト[少{すこ}しかんがへ]【強】「イヤ〳〵夫{それ}じやアいかねへ。マア小春{こはる}が宅{うち}へ往{いつ}て
彼奴{あいつ}をつかめへて。おもいれごた付{つい}てサ。願{ねが}ふとか引{ひく}とか家主{いへぬし}へ
届{とゞ}けるとか。十分{じうぶん}強面{こわもて}に懸{かゝ}つて。何{なん}でも紙治{かみぢ}と両個{ふたり}を相手{あいて}

(10オ)
どると言{いつ}て見{み}ねへ。アヽ言{いふ}気{き}の小{ちい}さな女{をんな}だから。震〻{ぶる〳〵}して紙治{かみぢ}へ
相談{さうだん}を仕懸{しかけ}るだらう。其処{そこ}で先{さき}の身{み}にやア。たとへ覚{おぼ}へがなく
ツても。奉公人{はうかうにん}の手前{てめへ}や。亦{また}は家内{かない}の前{めへ}を兼{かね}て。殊{〔こと〕}に寄{よつ}たら
内済{ないさい}とか何{なん}とか言{いつ}て。金{かね}を出{だ}すかもしれねへが。いきなり紙
治{かみぢ}の店{みせ}へ往{いつ}て。表{おもて}むき懸合{かけあつ}て見{み}なせへ。最{もう}他人{ひと}の耳{みゝ}へ
も|這入{へいつ}た訳{わけ}だから。知{し}らねへけりやアしらねへと。何所{どこ}までも
言張{いひはつ}て。知県所{たいくわんしよ}へでも辞頭{じとう}へでも。出様{でやう}といふだらう。左様{さう}し
て見{み}ると無益{むだ}な銭{ぜに}もかゝつて。悪{わ}るくすると虻蜂{あぶはち}とらず

(10ウ)
に成{なら}ふも知{し}れねへやス」【吉】「左様{さう}サ。ホンニ左様{さう}だネ」【強】「夫{それ}見{み}ねへ
何{なん}と言{いつ}てもおれが方{はう}が智恵{ちゑ}があるぜ。どふだ算段{さんだん}は宜{よか}ろふ」
ト言{いひ}ながらお吉{きち}が脊中{せなか}をトンと打{うつ}。其{その}手{て}を押へて莞爾{につこり}と
お吉{きち}は眼元{めもと}に情{じやう}を含{ふく}み【吉】「なぜ此様{こんな}に智恵{ちゑ}の有{ある}人{ひと}か
工面{くめん}が悪{わる}からうノウ。皇天{てんとう}さまも無理{わからない}ものだねへ」ト顔{かほ}を
寄{よす}れば強六{かうろく}は。嚮{さき}にお吉{きち}が不人情{ふにんじやう}に。強面{つれな}かりし事{〔こと〕}も
うち忘{わす}れ【強】「ヘンまた人迷{ひとまよ}はせが始{はじ}まつた。アヽイタヽヽ。べらぼう
なちからだなア。夫{そ}りや左様{さう}と。今夜{こんや}是非{ぜひ}金{かね}が入{い}ると言{いつ}たツ

(11オ)
けが。何様{どう}した。最{もふ}済{すん}だか」【吉】「アヽナニ済{すみ}は仕{し}ないが翌{あす}の朝{あさ}
早{はや}ア[引]く入{いる}のだから。何様{どう}かするはネ」【強】「幾干{いくら}計{ばか}りだか約束{やくそ}く
通{どほ}り。マア当分{とうぶん}貸{かさ}う」ト懐{ふところ}を探{さぐ}りて。ヂヤラ〳〵いはせる。【吉】「そん
ならネ。何卒{とうぞ}三両{さんりやう}ばかりお借{かし}な。彼{かの}法{はう}がつくと直{ぢき}に返{かへ}すから」
【強】「ナニそりやア何時{いつ}でもいゝ」ト勘定{かんぢやう}してお吉{きち}にわたせば。お吉{きち}は
火鉢{ひばち}の引出{ひきた}しへ入{いれ}て【吉】「モウ寝{ね}やうじやアないかねへ。何{なん}だか今
夜{こんや}ア肌寒{はださむ}くツてならないから。久{ひさ}しぶりでお前{まへ}さんに温{あつた}めて
もらひたいヨ」【強】「ハヽヽヽヽ。おつウ言{いふ}な。モウ其様{そん}な事{〔こと〕}を言{いつ}たつて

(11ウ)
奢{おご}りやア仕{し}ねへぜ」【吉】「ナニ奢{おご}られなくツても喰{たべ}なくツても
お前{まへ}の皃{かほ}せへ視{み}て居{ゐ}れば能{いゝ}は」ト綢繆{しなだれ}かゝるお吉{きち}が心中{しんちう}
他目{よそめ}から見{み}るときは。愛想{あいそ}の尽{つき}るしよち振{ふり}も。惚{ほれ}ては気{き}さへ
束鮒{つかぶな}の。泥{どろ}に酔{ゑふ}たる如{〔ごと〕}くにて。強六{がうろく}は只{たゞ}餘念{よねん}なく。枕{まくら}なら
べて一睡{いつすい}の。夢{ゆめ}にその夜{よ}を明{あか}すらん。
第二十回
人{ひと}の親{おや}の心{こゝろ}は闇{やみ}にあらねども。子{こ}を思{おも}ふ道{みち}にまよひぬる
かな。と往昔人{むかしびと}の秀吟{しうぎん}は。千載不朽{せんざいふきう}の格言{かくげん}なるべし。現{げ}に*「現{げ}」は「現{げん}」の脱字か

(12オ)
枝橋{えだばし}の鬼勝{おにかつ}と。異名{いめう}せらるゝ侠者{をとこ}の吉粋{きつすい}。子分{こぶん}子方{こかた}も多{おほ}
くありて。若衆{わかいしゆ}の世話{せわ}もやき。仲間{なかま}喧嘩{げんくわ}の和熟{なかなをり}も亦{また}
花会{はなぐはい}の配{くば}り物{もの}も。この鬼勝{おにかつ}の面{かほ}がなくては。極{きま}りが
わるいと人〻{ひと〴〵}に。立{たて}らるゝ身{み}も子{こ}ゆへには。心{こゝろ}悩{なや}ますこの
日頃{ひごろ}。お滝{たき}が苦労{くらう}な皃{かほ}つきを。見{み}るさへ心{こゝろ}いたいけの。娘{むすめ}が
身{み}をも察{さつ}しやり。ひよつと一途{いちづ}の女気{をんなぎ}に。悪{わる}い心{こゝろ}を出{だ}して
はと前{さき}の先{さき}まであんじるも。理{ことは}りなる哉{かな}父子{おやこ}の情{じやう}。ひとり倩{つら〳〵}
思案{しあん}して。白川町{しらかはてう}とかねてきく。小春{こはる}が方{かた}へと尋{たつ}ねゆく。をり

(12ウ)
しも小春{こはる}は此{この}間{あいだ}。紙治{かみぢ}が利解{りかい}の詞{〔こと〕ば}に就{つい}て。お滝{たき}と姉妹
分{きやうだいぶん}になる事{〔こと〕}を。得心{とくしん}したる其{その}節{とき}より。はや五六日{ごろくにち}の日{ひ}は立{たて}
ども。紙治{かみぢ}の方{かた}より音信{おとづれ}なければ。兎{と}に角{かく}胸{むね}も平生{つね}な
らず。隣{となり}の老婆{はゞ}がなくしたる。置手簡{おきてがみ}さへ気{き}にかゝり
案{あん}じ過{すご}すは女{をんな}の癖{くせ}。髪{かみ}さへろくに取上{とりあげ}ず。鬱〻{うつ〳〵}としたる
所{ところ}へ見{み}なれぬ男{をとこ}「小春{こはる}さんは此方{こつち}かネ」ト言{いひ}ながら明{あけ}る
障子{しやうじ}の音{おと}。小春{こはる}はふりむき「ヲヤおまはんは何所{どこ}から」【男】「アイ
わたしは枝橋{えだばし}から来{き}ました」と。聞{きい}て小春{こはる}は是{これ}そこれ。お滝{たき}が

(13オ)
方{かた}より人{ひと}を恃{たの}み。また難題{なんだい}を言越{いひこ}せしに。違{ちが}ひあらじと推
量{すいりやう}すれば。口{くち}を利{きく}さへ否{いや}なれど。まさか捨{すて}ても置{おか}れねば【春】「サア
此方{こつち}へお出{いで}なはい。私{わち}きも今日{けふ}は塩梅{あんばい}が悪{わる}いから。此様{こんな}にして
居{ゐ}ます。御免{ごめん}なさいまし」【男】「ハヽアそりやアわりいネ。どふも時候{じかう}
かわりい所為{せへ}か。大分{でへぶ}世間{せけん}に病人{ひやうにん}が見{み}へやす。お大事{だいし}にな
せへ。トキニ小春{こはる}さん私{わた}しやア枝橋{えだばし}のお滝{たき}が親父{おやぢ}の。鬼勝{おにかつ}でご
ぜへやす。何{なに}かまた不祥{おつ}な事{〔こと〕}でも言{いひ}に来{き}たかとおもひな
さらふが。全{まつた}く。左様{さう}じやア有{あり}やせん。聞{きけ}ばお前{まへ}は紙治{かみぢ}さんと

(13ウ)
久{ひさ}しい馴染{なじみ}で。既{すで}に死亡{なく}なンなさつた親御{おやご}とも。相談{さうだん}づくで
始終{しじう}は夫婦{ふうふ}になるといふ。約束{やくそく}もあるさふだ。所{ところ}で私{わた}しが
娘{むすめ}のお滝{たき}が。何様{どう}した張合{はりゑゝ}か紙治{かみぢ}さんと心易{こゝろやす}くなつて
アノ人{ひと}も不便{ふびん}がつて呉{くん}なさるから。お前{まへ}との訳柄{わけがら}はしらず
若{わけ}ヱうちにやア有{あり}かちの事{〔こと〕}。紙治{かみぢ}さんもまだ独身{ひとりみ}で居{ゐ}な
さる事{〔こと〕}だから。殊{〔こと〕}に寄{よつ}たら夫婦{ふうふ}にもなられるだらうと。私{わた}しも
見{み}て見{み}ねへ振{ふり}をして居{ゐ}やしたが。実{じつ}はお前{めへ}と堅{かた}い情合{わけ}が
あるといふ事{〔こと〕}で。お滝{たき}めが気{き}を揉{もん}で。飯{めし}もろくに喰{くは}ねへで

(14オ)
居{ゐ}やすから。理{もつとも}ながらばか〳〵しい。ノウ小春{こはる}さんお前{めへ}の前{めへ}だが
此様{こん}な事{〔こと〕}も皆{みな}縁{えん}づくで。何様{どう}して〳〵幾許{いくら}気{き}を揉{もん}だツ
ても。縁{えん}がなくツちやア配{そは}れるもんじやアねへと。夫{それ}から私{わた}しも
お滝{たき}めに。つく〴〵と異見{いけん}を仕{し}やした所{とこ}が。漸〻{やう〳〵}得心{とくしん}して。夫{そん}
ならお前{まへ}と姉妹分{きやうだいぶん}になつて。外{ほか}へ縁付{かたづけ}て貰{もら}ふとも。また世
話{せわ}に成{なつ}て居{ゐ}るとも。紙治{かみぢ}さんの了張{りやうけん}次第{しだい}にならうとまで
相談{さうだん}が極{きま}つて。此間{こないだ}紙治{かみぢ}さんとお滝{たき}が。珍波楼{ちんぱらう}へ往{いつ}てお前{めへ}
を呼{よび}に越{よこ}したが。頓〻{とう〳〵}日{ひ}の暮{くれ}るまでお前{めへ}も来{こ}ず。訳{わか}らねへ

(14ウ)
とかつまらねへとか言{いつ}て。紙治{かみぢ}さんと二個{ふたあり}で宅{うち}へ帰{けへつ}て来{き}た
が。女{をんな}といふ奴{やつ}ア愚痴{ぐち}なもんで。夜中{よぢう}訥〻{くづ〳〵}とくだらねへことを
言{いつ}て居{ゐ}た容子{ようす}だツたが。夫{それ}から毎日{まいにち}塞{ふさい}で斗{ばか}り居{ゐ}るから。私{わたし}も
了得{さすが}児{こ}の事{〔こと〕}で気{き}にも成{なる}から。何様{どう}いふ理屈{りくつ}だ隠{かく}さすと
言{いつ}て聞{きか}せろと責{せめ}た所{ところ}が。お滝{たき}が言{いふ}にやア。彼{あの}日{ひ}の事{〔こと〕}を紙治{かみぢ}
さんが大造{たいそう}に腹{はら}ア立{たつ}て。私{わち}きに云{いひ}なさるにやア。あらほど
まで言含{いひふく}めて承知{しやうち}して居{ゐ}ながら。迎{むか}ひの人{ひと}を遣{や}つても
来{こ}ず。恥{はぢ}をかゝせあがつて忌〻{いま〳〵}しい奴{やつ}だ。其様{そん}な奴{やつ}ともしら

(15オ)
ねへて。今{いま}まで瓢蕩{うか〳〵}と引{ひつ}かゝつだのが悔{くや}しい。とは言{いふ}ものゝ実{じつ}は
小春{あいつ}に惚{ほれ}たのはれたのゝいふ気障{きざ}は除{のけ}て。爺父{おやぢ}が死{し}に
際{ぎは}に遺{のこ}した手簡{てがみ}もあり。何{なに}やかやだから死亡{よにない}人の心{こゝろ}を
も察{さつ}して。始終{しじう}女房{にようばう}にでもして遺{やつ}たなら。草葉{くさば}の蔭{かげ}で
爺父{おやぢ}も悦{よろこ}ぶだらうと思{おも}つて。是{これ}まで種〻{いろ〳〵}と世話{せわ}も仕て
居{ゐ}た訳{わけ}だが。小春{あいつ}が心{こゝろ}が其{その}通{とほ}りの不人情{ふにんじやう}なら。自己{おれ}も
モウかまはねへ。と言{いつ}て是{これ}から小春{あいつ}を止{よし}て。おめへを
女房{にようばう}にするといふ理屈{りくつ}にも往{いか}ねへ。なせといふのに左様{さう}

$(15ウ)
鬼勝{おにかつ}小春{こはる}に
あふて
心中{こゝろのうち}を
かたる

$(16オ)

(16ウ)
仕{し}て見{み}ると。お前{めへ}の色香{いろか}に迷{まよ}つて義理{ぎり}も法{はう}も忘{わす}れたと
いひふらされるのが悔{くや}しいから。小春{あいつ}も止{よし}お前{めへ}も止{よし}て。これ
からア坊{ばう}さんに成{なつ}た気{き}て。一生{いつしやう}独身{ひとりみ}で暮{くら}すはうがさつ
ぱりして能{いゝ}。しかしお前{めへ}にやア何{なん}の罪咎{つみとが}もねへ訳{わけ}だから
今{いま}までの好身{よしみ}に。縁付金{かたづききん}の五十{ごじう}や六十{ろくじう}は何様{どう}でもする
から。爺{とつ}さんと相談{さうだん}して。夫{それ}相応{そふおふ}の所{とこ}へ縁付{かたづい}て呉{く}んな
せへと。縡{〔こと〕}を分{わけ}ての紙治{かみぢ}さんの言分{いひぶん}だけれど。アイとも
いはれす否{いや}ともいはれず。私{わち}きやア何様{どう}したら宜{よか}らうと

(17オ)
夫{それ}が苦労{くらう}に成{なつ}てならない。尤{もつとも}此間中{こないだぢう}の相談{そうたん}にやア。小春{こはる}
さんと姉妹分{きやうだいぶん}にして。何処{どこ}へか縁付{かたづけ}てやるとの事{〔こと〕}だから。アイと
は言{いつ}て居{ゐ}たが。実{じつ}は何処{どこ}へも縁付{かたづく}気{き}はない。本妻{ほんさい}になら
れずは。婢女{はした}といはれても。妾{めかけ}といはれても。夫{それ}にやア構{かま}はない
から。一生{いつしやう}紙治{かみぢ}さんの傍{そば}で。くらしたいのが願{ねが}ひだによつて。マア
一旦{いつたん}は小春{こはる}さんとも。姉妹分{きやうだいぶん}になつて其{その}上{うへ}で。この事{〔こと〕}をよウく
恃{たの}んで。紙治{かみぢ}さんへ言{いつ}て貰{もら}はふと思{おも}つて。楽{たのし}みにして居{ゐ}た所{ところ}が
斯{かう}成{なつ}て見{み}ちやア誠{ま〔こと〕}に仕様{しやう}がない。紙治{かみぢ}さんも直朴{すなを}な優{やさ}しい

(17ウ)
人{ひと}だけれど。了張{りやうけん}を極{き}めて斯{かう}と言出{いひだ}した日{ひ}にやア。誠{ま〔こと〕}に錠{ぢやう}を
卸{おろ}した様{やう}な気{き}めへだから。ヲイ夫{それ}と仲{なか}〳〵承知{しようち}しては呉{くん}なさる
めへと思{おも}ふと。哀{かな}しく斗{ばか}り成{なつ}てならねへト此{この}頃{ごろ}はちつと間{ま}が
あるとかげへ|這入{はいつ}てめそ〳〵と。泣{ない}てばかり居{ゐ}やすのサ。夫{それ}で
私{わた}しが思{おも}ふにやア。物{もの}は当{あた}つて摧{くだ}けろだ。蔭{かげ}でぐず〳〵
言{いつ}て居{ゐ}ちやア解{わか}らねへ。何{なん}でも直談{ぢきだん}に聞{きい}て見{み}るが早手{はやで}
まはしだと思{おも}つて。今日{けふ}来{き}やしたが。何{なん}と小春{こはる}さん。いや味{み}
辛味{からみ}や嫉妬{やきもち}の。偏執{やつかむ}のといふ事{〔こと〕}をさらりと止{よし}てサ。マアお前{めへ}の

(18オ)
了張{りやうけん}はどふだへ。此間{こないだ}迎{むか}ひが来{き}ても。彼処{あすこ}へ往{いき}なさんねへのは
先日中{いつかぢう}お滝{たき}が来{き}て。彼是{かれこれ}とつまらねへ事{〔こと〕}を言{いつ}たさう
だから。其様{そん}な事{〔こと〕}が胸{むね}に有{ある}のかヱ。尤{もつとも}そりやア治兵衛{ぢへゑ}さんが能{よく}*原本は「か」と「ヱ」の間に句点
言解{いひほご}して。お前{めへ}も万事{ばんじ}得心{とくしん}だとは言{いひ}なすツたが。女{をんな}といふ
ものはお前{めへ}ばかりじやアねへ。お滝{たき}はじめがどふも物{もの}の摧{くだけ}が
悪{わる}いから困{こま}るヨ。しかし何{なん}ぞまた了張{りやうけん}が有{ある}のか。些{ちつ}とも
隠{かく}しツこなしに言{いつ}て聞{きか}せなせへ。夫{それ}次第{しだい}で私{わたし}もよく。了
張{りやうけん}して見{み}ねへけりやアならねへ」ト此{この}長談{ながばなし}を聞{きく}うちに或{あるひ}は

(18ウ)
不審{いぶか}り或{ある}ひは驚{おどろ}き。また一{ひと}ツには悲{かな}しくなりて。眼{め}を潤{うる}
ませる時{とき}もありしが。聞果{きゝはて}て溜息{ためいき}吻{つ}き【春】「其{その}お咄{はな}しは
皆{みんな}真実{ほんとう}でこざいますかへ」【勝】「真実{ほんとう}にも偽言{うそ}にも。夫{それ}で
気{き}をもんで斯{かう}して態〻{わざ〳〵}来{く}る位{くれへ}だものを」【春】「ヲヤマア皆{みんな}
私{わち}きの方{はう}にやア。覚{おぼ}へのない事{〔こと〕}ばツかり。尤{もつとも}此間{こないだ}お滝{たき}さん
の事{〔こと〕}に就{つい}ちやア。此様{こう}彼様{あゝ}とお言{いひ}なはつた事{〔こと〕}も有{あり}ます
が。そりやア皆{みんな}尤{もつとも}の訳{わけ}だから。私{わちき}も承知{しようち}して。何時{いつ}でも沙汰{さた}
の有{あり}次第{しだい}。お滝{たき}さんと改{あらた}めて。知己{ちかづき}になりそのうへで

(19オ)
姉妹分{きやうだいぶん}なりと何{なん}なりと。お前{まへ}のお言{いひ}の通{とほ}りに仕{し}ませう。
お滝{たき}さんは何様{どう}いふ心{こゝろ}もちだか知{し}らないが。私{わち}きの方{はう}におい
ちやア。嫉妬{やきもち}の何{なん}のと言{いふ}事{〔こと〕}は。露{つゆ}ほどもないから。たとへ此{この}上{うへ}
一室{いつしよ}に居{ゐ}やうが。脇{わき}へ置{おい}て世話{せわ}をしてお上{あげ}なさらうが
其様{そん}な事{〔こと〕}は些{ちつと}も構{かまい}ませんと。紙治{かみぢ}さんに挨拶{あいさつ}をして置{おい}た
けれども。夫{それ}から後{のち}はさつぱり来{き}もせす。何{なん}の便{たよ}りもないから
私{わち}きの方{はう}でこそ何様{どう}おしかと。朝{あさ}に晩{ばん}に苦労{くらう}して。俟{まつ}て
居{ゐ}ますものを。ヤレ呼{よび}に遣{や}つても来{こ}ないノ。恥{はぢ}をかゝした

(19ウ)
のと。誠{ま〔こと〕}に夢{ゆめ}を見{み}た様{やう}な事{〔こと〕}を言{いつ}て。腹{はら}をお立{たち}じやア詮方{しかた}
が有{あり}ませんねへ。誰{だれ}ぞにしやくられて。其様{そん}なつまらない
事{〔こと〕}を言出{いひだ}したのかねへ。しかし他{ひと}のしやくりに乗{のる}様{やう}な
人{ひと}じやアないが。何様{どう}しても私{わち}きが否{いや}にでも成{なつ}たのかねへ」
トいひも終{おは}らず両袖{りやうそで}に。皃{かほ}を掩{おほ}ひてさし俯{うつむ}き。人目{ひとめ}も
恥{はぢ}ず哽{むせ}かへる。
志満台四編巻之上終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sh96/4、1002334553)
翻字担当者:杉本裕子、木川あづさ、藤本灯
更新履歴:
2015年10月1日公開
2017年10月5日更新
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修正箇所(2017年10月5日修正)
(口3オ)2 邪魔{じやま} → 邪广{じやま}
(1オ)7 帰{かへ}る → 皈{かへ}る
(1オ)8 帰{かへ}る → 皈{かへ}る
(2ウ)7 背{せ} → 脊{せ}
(10ウ)3 背中{せなか} → 脊中{せなか}

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