日本語史研究用テキストデータ集

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比翼連理花廼志満台ひよくのれんりはなのしまだい

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二編下

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比翼連理花迺志満台 二編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[比翼{ひよく}連理{れんり}]花{はな}迺{の}志満台{しまだい}二編巻之下
東都 松亭金水編次
第十一回
夕{ゆふ}つぐ夜{よ}おほつかなきを玉{たま}くしけふたりの女{をんな}に強{しい}られて
治兵衛{ぢへゑ}はおもはず酔{ゑひ}をはつし見{み}れはその日{ひ}も黄昏{たそがれ}て
家{や}毎{〔ごと〕}に灯{とも}す灯火{ともしび}におどろきて形{かたち}をあらため【治】「さて〳〵
凶{ひよん}な〔こと〕で大{おゝ}きにお世話{せわ}。ことにゆる〳〵御馳走{こちそう}でお礼{れい}の
申やうもござりません。昼{ひる}のうちこそ人目{ひとめ}もいとへモウ暗{くら}く

(1ウ)
なりましては破{やぶ}れた着{き}ものでも大事{だいじ}ない。ひとまづ宿{やど}へ帰{かへり}
まして再〻{また〳〵}お礼{れい}に参{まい}りませう」ト立{たつ}て着{き}ものを着{き}かへんと
するをお滝{たき}が引{ひき}とめて【たき】「マアいゝじやアございませんかね。
何{なん}なら私{わちき}どもへお泊{とまり}なさいまし」【治】「どうして〳〵。承{うけたま}はれば爺{おやぢ}
さんもお留守{るす}とやら女中{ちよちう}ばかりの所{ところ}へ泊{とま}られもいたさず。又{また}
宿{やと}ても按{あん}じますから」【おさん】「モシ節{せつ}かくお滝{たき}さんが此様{こんな}に被仰{おつしやり}
ますからもふちつといらツしやいましヨウ。アノ召物{めしもの}は直{なを}しにやり
ましたがまだ出来{でき}て参{まい}りませんヨ」【治】「そうかへ。そりやアいろ〳〵

(2オ)
お世話{せわ}だネ。お滝{たき}さんは認{しつ}てるやうにもお言{いひ}なさるが実{じつ}に
私{わたし}のほうじやア始{はじ}めてお目{め}にかゝつたおまへ方{がた}に斯{かう}深切{しんせつ}に
されちやア誠{ま〔こと〕}に気{き}の毒{どく}だネ。何{なん}ぞお礼{れい}をしたいが紙{かみ}いれ
まで無{なく}した時宜{しぎ}で仕方{しかた}がない。今日{けふ}はマア堪忍{かんにん}しておくれヨ」
【たき】「アレサおまへさんよウ〳〵其様{そん}な事{〔こと〕}ばかりおつしやいます
ねへ。おまへさんは御存{ごぞんじ}有{あり}ますまいけれど私{わちき}はアノ藤本楼{とうほんろう}
の宅{うち}でたび〳〵お見{み}かけ申ましたヨ。おまへさんは天間町{てんまゝち}の
紙治{かみぢ}さんでございませう」【治】「左様{さやう}サ。よく知{し}つて居{ゐ}なさる

(2ウ)
のふ。藤本楼{とうほんろう}は心{こゝろ}やすいのかへ」【たき】「ハイお客{きやく}を送{をく}つて往{いき}
ますから二階{にかい}もこゝろやすうございます」【治】「ハヽアそれぢやア
化{ばけ}の皮{かは}が彰{あら}はれた。ハヽヽヽヽ」【たき】「何{なん}なら今夜{こんや}お供{とも}いたしませう
か」【治】「イヤそれ所{どころ}じやアございやせん」【たき】「つけが悪{わる}うござい
ますねへ」【治】「どう考{かんが}へてもわたしは帰{かへ}りませうヨ。おさんどん
着物{きもの}をどうぞ破{やぶ}れたまンまでも大事{だいじ}ないから」【おさん】「お滝{たき}
さんどういたしませうねへ」【たき】「マアいゝヨ」【治】「なにさよかアねへ
はな。思{おぼ}し召{めし}は誠{ま〔こと〕}にありがたいけれど」【たき】「どうもこゝにゐる

(3オ)
のは否{いや}だとおつしやるのかへ」【治】「勿体{もつてへ}ねへ。どうして否{いや}の
なんのといふ筋{すぢ}はないけれど第一{だいゝち}気{き}の毒{どく}。その上{うへ}に女{をんな}
ばかりの所{ところ}に居{ゐ}ても可笑{をかし}らしいからそれで」【たき】「いろ〳〵
義理{ぎり}ばつた事{〔こと〕}ばツかりおつしやるヨ。マアいゝからモウひとつ
おあがんなさいイ」勧{すゝ}められては仲{なか}〳〵に断{〔こと〕はり}いふも野夫{やぼ}ら*「なさいイ」の「イ」は衍字か
しく殊{〔こと〕}にお滝{たき}が小袖{こそで}を着{き}たればふり切{きつ}て出{て}る事{〔こと〕}もなら
ず。心{こゝろ}ならずも時{とき}を移{うつ}すにはや初夜{しよや}すぎて往来{ゆきゝ}も途
絶{とだへ}|四辺{あたり}もさびしき比{ころ}にいたればおさんは二階{にかい}へ床{とこ}しき伸{のべ}て

(3ウ)
【さん】「どうせモウ遅{おそ}くなりましたから今夜{こんや}はお泊{とまり}なさいまし。
私{わちき}がおさすりでもいたしませう」【治】「そりやア何{なに}より有{あり}がたい。
しかし泊{とま}ツちやア都合{つがう}がわるいけれど」【さん】「なにさおまへ
さんも往生{わうじやう}なさいましヨ。お滝{たき}さんがアヽ言出{いひだ}しちやアひか
ない気性{きしやう}でございますから何{なん}とおつしやつてもお帰{かへ}し申
事じやアございませんから」【治】「そうかの。何{なん}にしろ此{この}形{なり}じやア
逃{にげ}ても往{いか}れず。そんならお世話{せわ}になりませうか」トおさんが案
内{あんない}に二階{にかい}へゆけば絹布{けんふ}の夜具{やぐ}をしきのべて【さん】「サアお寝{より}

(4オ)
まし。かけてあげませう」【治】「どうも実{じつ}に気{き}の毒{どく}だヨ。そし
てマアお滝{たき}さんもどういふ訳{わけ}で此様{こんな}に人{ひと}を引{ひき}とめるだらう。
わからねへ」[おさんは夜着{よぎ}をかけ裾{すそ}の方{ほう}をおしのけながら]【さん】「お滝{たき}さんはおまへさんに頓{とう}から
おツこちでございますからさ。日外{いつぞや}も辰巳{たつみ}の藤本楼{とうほんろう}のうち
でおまへさんを見{み}たと言{いつ}て帰{かへ}つてからどんなにのろけ
なさいましたらう」【治】「イヤおめへまでがさま〴〵な気{き}やすめを
いふぜ。真実{ほんとう}にお礼{れい}をしつかりしなくツちやアならねへ」【さん】
「今{いま}にお寝{よつ}てからお滝{たき}さんにしつかりお礼{れい}をなさいましヨ

(4ウ)
。ヲホヽヽヽヽ」トいひながら階子{はしご}トン〳〵下{お}りてゆく。引{ひき}ちがへてあがり
来{く}るおたきは寝衣{ねまき}に細帯{ほそおび}すがた枕元{まくらもと}なる屏風{べうぶ}をひらき
そこへ跪{しやがみ}て莞爾{につこり}と【たき】「おさんやお火{ひ}を持{もつ}て来{き}てあげ
なゝ。モシ旦那{だんな}お寒{さむ}かアございませんかへ」【治】「イヱさむいどころか。
萠{もや}しが出来{でき}そうだ。それに御馳走{ごちそう}でごうぎに酔{よい}ました」
【たき】「ナニさつぱり上{あが}りもしないで。しかしお独{ひとり}でお淋{さみ}しう
ございませう。私{わちき}でもよかアどうぞお伽{とぎ}をさしておくんな
はいな」【治】「どうもそりやアなりません」【たき】「お賤{しづ}さんが角{つの}を

(5オ)
はやしませうネ」【治】「ナアニ其様{そんな}〔こと〕は毛頭{もふとう}ないがさだめて
おまへの旦{だん}から尻{しり}が来{き}やうと思つてサ」【たき】「ヲヤおまはん何{いつ}
私{わちき}に旦那{だんな}の世話{せわ}をしておくんなはツたへ。おまへさんこそアノ
お賤{しづ}さんと餘{あん}まりおたのしみが過{すぎ}るもんだから夫{それ}で今日{けふ}
のやうな喧嘩{けんくは}が出来{でき}ますは」【治】「ほんに先刻{さつき}はなしの
皿八{さらはち}とかいふのは何{なん}だの」【たき】「ありやアまへ方{がた}ネお賤{しづ}さんと
死{し}ね死{し}なうといふ中{なか}でありましたが今{いま}またおまはんに
見{み}かへられたものだからそれで子分{こぶん}にいひつけて喧嘩{けんくは}を

$(5ウ)
阿多喜{おたき}深情{しんじやう}を含{ふくん}で
紙治{かみぢ}が閨{ねや}にいたる
紙治

$(6オ)
おたき

(6ウ)
しかけたのだらうと思ひますは」【治】「そうかの。私{わた}しやア何{なに}も
人{ひと}に意趣{いしゆ}遺恨{いこん}をうけるほどな中{なか}しやアねへもしねへに
あんまり馬鹿{ばか}〳〵しい」【たき】「何{なん}でもマア私{わたし}の考{かん}げへじやア左様{さう}
だらうとおもひます。たとへ何{なん}にしろ爺{ちやん}でもゐるとどう
でも仕{し}やうはありますけれど生憎{あいにく}留守{るす}でこまりますヨ」
【治】「イヤとんだ事で存{ぞんじ}よらぬ御厄介{ごやくかい}。したがお滝{たき}さんこの御
恩{ごおん}はツかりやア一生{いつせう}忘{わす}れませんぜ」【たき】「ナニおまへさん其様{そんな}
におつしやつては却{かへつ}て此方{こつち}がお気{き}の毒{どく}でございますヨ。ヲホヽヽヽ。

(7オ)
モシ何処{とこ}そ痛{いた}みてもしますなら揉{もん}てあけませう」ト寝衣
をまくりて膝{ひざ}をいれ身{み}をよせかけて治兵衛{ちへゑ}か顔{かほ}しつと
見{み}つめる眼{め}の淵{ふち}はほんのりへん朝{あさ}ほらけ棚引{たなひく}霞{かすみ}ほんのりと
色{いろ}付{つき}にけり。薄{うす}もみぢ情をふくむ面{おも}さしは渾身{みうち}もちゞむ
ばかりなる美{うつ}くしさには蕩{とろ}けつる心{こゝろ}を佶ととりなほし
【治】「サアお滝{たき}さんモウお構{かまひ}なく寝{ね}ておくんなせへ。とうして〳〵
勿体ねへ。そして何処{とこ}もいたくはございません。アヽ世{よ}の中{なか}といふ
ものは実{じつ}に定{さた}めないものた。今夜{こんや}こゝのお世話{せわ}にならふとは

(7ウ)
今朝{けさ}までもしらなんだ」【たき】「さやうサ。お賤{しづ}さんの所{とこ}へ往{いか}うと
思{おほ}し召{めし}たものをネ」【治】「アレまた其様{そん}な事{〔こと〕}をいふヨ。モウ〳〵お賤{しづ}が
はなしはふつつり御免{こめん}だ。そんな悪足{わるあし}のある女{をんな}は真平{まつひら}だ」
【たき】「私{わちき}がそう申とわるふございますが何{なん}ならモウお止{よし}なさい。
アノ子{こ}は皿{さら}八さんが親元{おやもと}までわたつて居{ゐ}ますから」【治】「そうかへ。私
しやア其様{そん}な事{〔こと〕}はさつはり知{し}らず。イヤモウ〳〵何処{どこ}へも出{で}ません」
【たき】「それでも私{わちき}どもへはちよく〳〵お出{いて}なさいナ」【治】「こりやア
また御恩{こおん}になつたわけだから別段{べつたん}サ」【たき】「ヲヤ嬉{うれ}しいねへ」と

(8オ)
夜着{よぎ}のうへに身{み}をもたれ治兵衛{ぢへゑ}が 皃{かほ}をつく〴〵となが
むる目{め}もとの愛敬{あいきやう}は男{をとこ}たらしの仇花{あだはな}や心{こゝろ}も解{とく}る〔こと〕く
なれと治兵衛{ぢへゑ}は佶{きつ}と心{こゝろ}をしめて【治】「ナア〳〵お滝{たき}さんおまへ
もはやく往{いつ}てお寝{ね}。モウかれこれ子刻{こゝのつ}だらう」トいはれて
おたきは身{み}を起{おこ}し【たき】「ハイ〳〵。臥{ふせ}ります。大{おゝ}きにおやかましう」
トつんとして出{で}てゆけば【治】「コレサそれじやア何{なん}だか腹{はら}を立{たつ}
たやうでわるいヨ」【たき】「ナニよしか。嘘{うそ}さ。私{わちき}もモウ本{ほん}とうに寝{ね}
ますヨ」ト思ひ遺{のこ}して下{した}へゆく。治兵衛{ぢへゑ}はお滝{たき}がおもむきを見{み}

(8ウ)
ればおもへば床{ゆか}しさの胸{むね}に迫{せま}りて頓{とみ}には寝{ね}られず。
兎角{とかく}して夜{よ}も明{あけ}ければおさんは朝餉{あさげ}の支{し}たくして治
兵衛{ぢへゑ}とお滝{たき}にすゝむるほどに何{いつ}のほどにか誂{あつら}へけん小袖{こそで}
三ツと羽織{はをり}一ツ紙{かみ}につゝみて持{もち}こめはお滝{たき}はこれを請{うけ}とつて
治兵衛{ぢへゑ}が前{まへ}へもち来{きた}り「これは見苦{みぐる}しき品{しな}なれともお宿{やど}
へおかへりなさるゝまでの召替{めしかへ}にとて誂{あつら}へたわたしが寸志{すんし}」と
さし出{た}すをこは怪{けし}からぬ事{〔こと〕}かなといへど今{いま}さら詮方{せんかた}なく
治兵衛{ぢへゑ}はこれを着{き}かへつゝ暇{いとま}をつげて帰{かへ}りしがそれより治

(9オ)
兵衛{ぢへゑ}は礼{れい}にとてお滝{たき}へは天鵞絨{ひろうど}の帯{おび}結城{ゆふき}の反{たん}もの
裏綿{うらわた}までも添{そえ}てをくりおさんへもよきほどに目録{もくろく}など
送{をく}りければこれより心安{こゝろやす}くなり折{をり}ふし往{ゆき}かふそのうちに
かねておもひの深見草{ふかみぐさ}互{たかい}に惚{ほ}れた中{なか}なれば誰{たが}ゆるさ
ねどいつしかに結{むす}ぶ縁{えに}しの末{すゑ}かけて二人{ふたり}が胸{むね}も淡雪{あわゆき}
と解{とけ}て寝{ね}し夜{よ}の私語{さゞめごと}わりなき中{なか}とぞなりにける。
第十二回
かくて後{のち}仁田里屋{にたりや}の主人{あるじ}鬼勝{おにかつ}も旅{たび}よりかへりければ

(9ウ)
お滝{たき}は如此〻〻{しか〴〵}なりと訳{わけ}をかたりて紙治{かみぢ}をも引合{ひきあは}せけるに
この鬼勝{おにかつ}は元{もと}より粋{すい}の粋{すい}なるもの放蕩{どうらく}の仕飽{しあき}して
人{ひと}に侠者{をとこ}と立{たて}られて哥〻{あにき〳〵}と尊{たうと}まるゝ通客{とほりもの}にてあ
りければお滝{たき}がよふすを心{こゝろ}には推{すい}しながらもあへて
咎{とが}めず。両個{ふたり}は月日{つきひ}の経{ふ}るまゝにます〳〵深{ふか}きなかと
なりてはなれまいぞと諸共{もろとも}に後{のち}の誓{ちか}ひもいひかはし
まの水{みづ}の流{なが}れの絶間{たえま}なく一日{ひとひ}会{あは}ねば胸{むね}せまりあや
しきまでに恋{こひ}しさの忘{わす}れがたさや世間{よのなか}の恋{こひ}は癖物{くせもの}

(10オ)
なりけらし。かくて春{はる}去{さ}り夏{なつ}もやゝ秋{あき}を隣{とな}りの水無
月{みなづき}は暑{あつ}さも殊{〔こと〕}に烈{はげ}しければ或日{あるひ}治兵衛{ぢへゑ}は夕暮{ゆふぐれ}より
お滝{たき}をともなひ枝橋{えだばし}より屋根舟{やねふね}にうちのりてやがて
大川{おゝかは}へ漕出{こぎいだ}させ今{こ}よひは花火{はなび}もありときゝて竜谷{りようごく}の
辺{ほと}り彼方{あち}此方{こち}とこぎめぐりつゝ酒{さけ}くみかはしてほと〳〵
興{けう}じ入{いり}けるがはや船中{せんちう}には酒肴{さけさかな}もくひちらして残{のこ}り
少{すく}なくさらば是{これ}より茶坊{ちやや}へあがりまた気{き}をかへて楽{たの}し
まんと竜谷{りようごく}のむかふなる匙椀{さぢわん}といへる酒楼{さかや}へ舟{ふね}をよせて

(10ウ)
上{あが}りつゝ酒肴{さけさかな}などいひつくるに茶坊{ちやや}の女{をんな}はたち出{いで}てその
会釈{あしらひ}も囂々{ぎやう〳〵}しくやがて二階{にかい}の一間{ひとま}に入{い}り川風{かはかぜ}いるゝ椽
端{えんばな}に両個{ふたり}は対{つい}の花莚{はなむしろ}船頭{せんどう}をもこゝへよび川{かは}の面{おもて}を眺{なが}め
ながら酒{さけ}くみかわすも一興{いつけう}あれど座{ざ}しきも何処{どこ}やら
さみしげなれば【治】「コウあの子{こ}や[茶や女をさしていふ]おらア此{この}辺{へん}はふ案
内{あんない}だが何{なん}と名{な}のたかい唄女{げいしや}もあるだらうのウ」【女】「ハイ歌妓
衆{げいしやし}はいくらもございますがマアそのうちによく流行{はやり}ますのは
アノウ二川屋{にかはや}の小春{こはる}さんか大和{やまと}やのお伝{でん}さんなンぞでご

(11オ)
ざいませう」【治】「なんとお滝{たき}ひとり呼{よば}ふじやアねへか」【たき】
「さうさネ。およびなはいナ」【治】「コウ〳〵姉{あね}さんそんなら今{いま}の
二人{ふたり}のうちを呼{よん}で呉{くん}なゝ」【女】「ハイ〳〵」ト下{した}へ往{ゆき}しが良{やゝ}ありて
来{きた}り【女】「左様{さう}申ましたらお伝{でん}さんは舟{ふね}へ出{で}ましたと申ます
から小春{こはる}さんにいたしました」【治】「ムヽ誰{だれ}でもいゝヨ」【女】「モウ小春{こはる}さん
も此{この}頃{ごろ}しやア大{たい}そう流行{はやり}ますは。夫{それ}に標緻{きりやう}はお伝{でん}さんから
見ると十段{じうだん}もよふございますから」【治】「フムそうかの。時{とき}に此処
等{こゝら}の歌妓{げいしや}は直{ぢき}にはなし合{あい}がわかるだらうノ」【たき】「アレモウ標

(11ウ)
緻{きりやう}が能{いゝ}と聞{きい}たものだから。左様{さう}いふ多性{うわき}ものだヨ。ヱヽ好{すか}ねへ」
【治】「ナニそうじやアねへが只{たゞ}きくのだアな。ノウ姉{あね}さん」【女】「ヲホヽヽヽ。
なにさうも参{まい}りませんヨ。それにモウ小春{こはる}さんは唄女衆{げいしやし}
のうちで一ばん堅{かた}うございますヨ。それだから人がアノ女は
ヤレ廃人{かたわ}だらうの何{なん}のと申ますけれどナアニ左様{さう}じやアご
ざいませんが終{つひ}しか色恋{いろこい}なんぞをした噂{うわさ}もきゝません。
それで近所{きんしよ}では男{をとこ}ぎらひといふ評判{へうばん}になりましたは」
【治】「ハヽアそいつアいかねえ。アハヽヽヽヽ」【たき】「それでもネおまはん

(12オ)
なら承知{しやうち}しますツサ」【治】「そりやアしれた事{〔こと〕}サ。およそ
女も多{おほ}しといへどおれに惚{ほれ}ねへ奴{やつ}はねへのサ」【たき】「アレ直{ちき}
に昇{のぼ}るからこまるね。左様{さう}はなりたくないねへ」【船頭】「また
旦那{だんな}なんそに惚{ほ}れねへ奴{やつ}ア女冥利{をんなめうり}につきます。ハヽヽヽヽ」
【たき】「船公{せんこう}そんなにあをつてくれめへヨ。いとゞせへ多性者{うはきもの}
をヨ」【治】「コレサ何{いつ}おれか多性{うはき}をしたな。人聞{ひとぎゝ}のわりい。そりやア
この船公{せんこう}なんざアみンな知{し}つてるノウ」【船】「さやうサ。実{じつ}に
旦那{だんな}は多性{うはき}ものじやアこぜへやせんせ」ト口{くち}から出{て}まかせ

(12ウ)
わや〳〵と酒{さけ}がいはする戯言{され〔ごと〕}の一{ひと}しほ興{きやう}を催{もよ}ふすをり
それとしらるゝ仇声{あだごゑ}にて「其方{そつち}のお座{さ}しきかへ」ト
聞{きく}より下女{げぢよ}は後{うしろ}をむき【女】「小春{こはる}さんこゝてごさいます。
サア〳〵おはやくヨ。先刻{さつき}からお待{まち}かね」【はる】「ヲヤ〳〵そうかへ。大{おゝ}き
に遅{おそ}なはりました」トいひながら衝{つ}と入来{いりきた}り見{み}ればお春
はかた時{とき}も忘{わす}るゝ間{ま}なき紙屋{かみや}の小六{ころく}それと見{み}るより
塞{ふさ}かる胸{むね}われにもあらでうるむ眼{め}に情{なさけ}ぞこもる小春{こはる}が
容体{ようたい}こなたも恟{びつく}り顔{かほ}の色{いろ}。かわり果たるその姿{すがた}むねに

(13オ)
こたゆるものながらお滝{たき}がおもはく船頭{せんどう}が手{て}まへも面{おもて}ふせ
なれば脇{わき}をふりむきものいはず。小春{こはる}もはからぬ対面{たいめん}
に気{き}もおろ〳〵と跡{あと}やさき物{もの}いひたきは春風{はるかぜ}に谷の戸{と}
出{いで}し鶯{うぐひす}の梅{うめ}がえにゐるこゝちはすれと小六{ころく}が側{そば}に仇娘{あたむすめ}
やうすあり気{け}と見ゆるから女心{をんなごゝろ}に浅{あさ}ましや妬{ねたし}と思ふ
煩悩{ぼんのう}をじつと沈{しつ}めて笑{わら}ひにまぎらし【はる】「みなさん
よう入{いら}ツしやいました」ト後{おく}ればせなる挨拶{あいさめ}におたきは*「あいさめ」は「あいさつ」の誤字か
意{こゝろ}をさとらねどまだ年{とし}ゆかぬ唄女{げいしや}の気勢{ありさま}気{き}をく

(13ウ)
れしたるものにやと外{ほか}に心{こゝろ}もつかさりき。斯て小春{こはる}は渾
身{みうち}さへ痿{なへ}るがごとくおぼえつゝ撥{ばち}とる力{ちから}もあらずといへ
とも義理{きり}と人目{ひとめ}を憚{はゞ}かりて心{こゝろ}ならずもひく三味線{さみせん}
の糸{いと}も心{こゝろ}も乱{みだ}れつゝしばしは酒宴{しゆえん}をすゝめたり。しば
らくありて治兵衛{ぢへゑ}はたち浄水{ちやうづ}に往{ゆか}んとしたへゆく。小春{こはる}
も跡{あと}より立{たち}あがりて【はる】「旦那{だんな}おつき申ませう」【治】「ヲイ
そんなら鳥渡{ちよつと}案内{あんない}をおたのみ申そうか」ト厠{かはや}へゆくを
椽頬{えんがは}にまちて小春{こはる}は水{みづ}をかけ|四辺{あたり}を見{み}るに人{ひと}は

(14オ)
居{ゐ}ず。思ひ〳〵し溜泪{ためなみだ}とむるかたなくわきかへり声{こゑ}を
しのぶの時鳥{ほとゝきす}それにはあらで血{ち}をも吐{は}くおもひは
かなし身{み}の果敢{はか}なさ。推量{すいりやう}してと口{くち}にこそいはねど
顔{かほ}にあらはれつ治兵衛{ぢへゑ}が袂{たもと}をしかと把{と}り物{もの}をも
いはず平伏{ひれふし}て泪{なみだ}のかぎり泣{なき}しつめば治兵衛{ぢへゑ}は把{とつ}て
突{つき}のけんかと思ひにけれど爰{こゝ}はこれ酒楼{りやうりや}の家{いへ}に
して騒{さは}がば人{ひと}の兎{と}やかくといひ出{いで}て恥{はぢ}を曝{さら}すの
道理{どうり}なればなだめてこゝを済{すま}さんと【治】「コレサ人{ひと}が聞{きく}

(14ウ)
は。何{なん}の事{〔こと〕}だ。どういふ訳{わけ}か知らねへが歌妓{げいしや}とまでなる
うちには定{さだ}めていろ〳〵なうき苦労{くろう}も有{あつ}たであらう
がそりやアどうもおれがしつた理屈{りくつ}でもなし。日外{いつぞや}
見世{みせ}へ来{き}たとき打{ぶつ}たり擲{たゝい}たりしたのが悔{くや}しからうがお
れの方{ほう}でもおめへの仕方{しかた}が餘{あん}まりだと腹{はら}の立{たつ}てゐる
はりあいでツイ手{て}を揚{あげ}たのだから勘忍{かんにん}しなせへ。勿論{もちろん}
金{かね}はわづかな〔こと〕で彼是{かれこれ}いふも見{み}ツともねへが私{わたし}が身{み}を
板{いた}しばりにして取{と}らふとした心{こゝろ}いきが怖{おそろ}しいからツイ腹{はら}

(15オ)
を立{たつ}たのだ。今{いま}さらそれが気{き}の毒{どく}で泣{なく}のか但{たゞ}し面目{めんぼく}
なくて泣{なく}のかアしらねへが知{し}つてる通{とふ}り連{つれ}もあり怪{あやし}く
気{け}どられても可笑{おかしく}ねへ。五両{ごりやう}弐分{にぶ}といふ手切{てきれ}もやつて
ありやア何{なに}もさしていひ分{ぶん}はねへ筈{はづ}だア」トいふも小声{こごゑ}で
あたりを兼{かね}る言葉{〔こと〕ば}を聞{きい}て皃{かほ}ふりあけ【はる】「どうも私{わちき}
にやア分{わか}らない事{〔こと〕}ばかりおいひなはるネ。たとへおまはんの
心{こゝろ}がかわつて否{いや}だとおいひなはりやア是非{ぜひ}もなし打{ふた}
れても擲{たゝ}かれてもさら〳〵恨{うら}みとはおもひませんがお

(15ウ)
まはんからして五両{ごりやう}とやらの金{かね}を貰{もら}つた覚{おぼ}へもなし。
そりやア何{なに}のか間違{まちがひ}でありませう。マアそんな事は兎{と}も
かくも日外{いつぞや}お見世{みせ}へ往{いつ}たのは昼間{ひるま}私{わちき}の留守{るす}のときお吉{きち}
さんが来{き}て斯〻{かう〳〵}言{いつ}た事{〔こと〕}につき爺{とゝ}さんがおまへに逢{あつ}て
咄{はな}したい事{〔こと〕}もあるから呼{よん}でといふ。それゆへわざ〳〵往{いつ}た
所{ところ}が訳{わけ}もいはずうち打擲{ちやうちやく}泣{なく}〳〵宅{うち}へかへつて見{み}れば
爺{とゝ}さんは」トいひさしてしやくりあげつゝ哽{むせ}かへり「この遺
書{かきおき}が置土産{おきみやげ}おもひ出{だ}しても怖{おそ}ろしい哀{かな}しさつらさ

(16オ)
いつその事{〔こと〕}倶{とも}に死{し}んでと思つたがおまへに逢{あつ}て爺{とゝ}
さんのこの遺書{かきおき}もお目{め}にかけ私{わちき}が胸{むね}もうちわつて
咄{はな}したうへでどう有{あつ}ても飽{あか}れたならばそのときは淵
川{ふちかは}へ身{み}をしづめても死{し}なふと覚悟{かくご}をしてゐる此{この}身{み}
なにかお腹{はら}のたつ事{〔こと〕}もありませうとも爺{とゝ}さんが死期{しご}
に臨{のぞ}んた形見{かたみ}の筆{ふで}どうぞこれ見{み}てくださりまし」ト
出{いだ}すを見{み}るに小六{ころく}どの兵衛{へうゑ}といへる上書{うはがき}なれば治兵
衛{ぢへゑ}は手{て}にとり封{ふう}おしひらき掛行灯{かけあんどう}にすかし見{み}れば

$(16ウ)
小春{こはる}酒楼{しゆろう}に図{はか}らず
艶郎{おもふをとこ}に再会{さいくわい}す
おたき
小春

$(17オ)
紙治

(17ウ)
いまだ御意{ぎよい}得{え}ず候へども一筆{ひとふで}申|残{のこし}候。
不束{ふつゞか}なる娘{むすめ}ふ測{しぎ}の縁{えん}を以{もつ}て不便{ふびん}
のものに思はれ候|段{だん}悦{よろこ}ばしく候。便{たより}
少{すく}なき娘{むすめ}に候へば万事{ばんじ}目{め}を掛{かけ}られ候て
生涯{しやうがい}の〔こと〕頼入{たのみいり}候。聊{いさゝか}思ふ子細{しさい}是{これ}あり。
刃{やいば}に伏{ふ}し候|趣{おもむき}は娘方{むすめかた}へ書遺{かきのこ}し候間
これを略{りやく}し候。くれ〴〵娘{むすめ}が行末{ゆくすゑ}見届{みとゞけ}

(18オ)
給はるやう生前{しやうぜん}之|頼{たのみ}に候。且{かつ}此{この}短刀{たんとう}は
五郎{ごらう}正宗{まさむね}の作{さく}拙者{せつしや}什代{ぢうだい}之品{しな}婿引手{むこひきで}
の心を表{ひやう}し貴殿{きでん}へ譲{ゆづ}り申候。猶{なほ}申し度{たき}
事{〔こと〕}数〻{かず〳〵}に候へど老筆{らうひつ}にてはかどらず
心も急{せき}候間|要用{えうよう}之事のみかい付{つけ}候。
以上
兵衛{へうゑ}
小六どのへ

(18ウ)
とありければ治兵衛{ぢへゑ}はこれを倩{つく〳〵}とうちかへし見て歎
息{たんそく}し【治】「そんなら其方{そつち}の爺{とゝ}さまはアノ晩{ばん}に世{よ}を去{さつ}てか。
今{いま}のはなしの容子{ようす}をおもへばおまへと爺{とゝ}さまと腹{はら}を
あはせおれをいたぶらうとするといふは全{まつた}くお吉が偽
言{うそ}と見へる。そんならおれが和之{わの}一にわたした金{かね}の五両二分
もおまへの手{て}には」【はる】「ハイ其様{そんな}〔こと〕は努{ゆめ}しらず。なんぼ男{をとこ}は
気{き}づよいといふたとて餘{あん}まりな。何{なに}を不足{ふそく}でそのやう
に腹{はら}立{たて}さんした事かいなと独{ひとり}で泣{ない}て居{をり}ました」【治】「ハヽア左

(19オ)
様{さう}であつたのか。そうして見{み}ればお吉{■ち}と和之一{わのいち}が拵{こし}らへ*「■」は「き」の部分欠損か
こと。そうとはしらず今{いま}の今まで其方{そつち}を怨{うらん}だおれが
心{こゝろ}わが身{み}ながらも恥{はつ}かしい。きけは孝行{かう〳〵}世{よ}にすぐれ
並〻{なみ〳〵}ならぬ正{たゞ}しき操{みさほ}」ト聞{きい}て小春{こはる}は泪{なみだ}のうちにも嬉{うれ}
しさあまりて莞爾{につこり}と【はる】「ヲヤそれじやア小六{ころく}さんおま
はんの心{こゝろ}が直{なほ}りましたかへ」【治】「ヲヽ直{なほ}つた〳〵。斯{かう}して逢{あつ}て
逸〻{いち〳〵}に聞{きい}て見{み}りやアちつとでも腹{はら}をたつ所の訳{わけ}じやア
ねへが月{つき}にむら雲{くも}花{はな}に風{かせ}とたとへの通{とふ}りさま〴〵な

(19ウ)
さわりの出来{でき}るもみな此{この}道{みち}わけをきけば子細{しさい}もなし。
近{ちか}いうちに独{ひとり}で来{き}てどうとも相談{さうだん}つけやうからモウ泣{なか}
ずにサア二階{にかい}へ」【春】「ハイ参{まい}りますヨ〳〵。私{わちき}が何{なに}も嫉妬{ぢんすけ}を
いふのじやアありませんが二階{にかい}にお出{いで}のお娘御{むすめご}は定{さだ}めて
おまはんと甘{うま}い中{なか}こんな所{ところ}を見{み}つかつたらさぞ腹{はら}をお立{たち}
だらうねへ。今{いま}さら私{わちき}が横{よこ}から出{で}て邪魔{じやま}をするのも
誠{ま〔こと〕}にお気{き}の毒{どく}だヨ」【治】「ナアニありやア不図{ふと}した事{〔こと〕}で心{こゝろ}
やすくなつたのだが女房{にようぼ}約束{やくそく}でもしたじやアなし。そ

(20オ)
りやア跡{あと}でどうともならア」【はる】「それでも女{をんな}といふものは私{わちき}始{はじ}
めが男{をとこ}は大事{だいじ}。その夫{をとこ}をとられたかと思へば腹{はら}のたつもの
だから」ト女心{をんなこゝろ}のまわり気{ぎ}も惚{ほ}れたがゆゑの愚痴{ぐち}ぞとは
察{さつ}して見{み}れば不便{ふびん}もまさりさま〴〵宥{なだ}め言訳{いひわけ}をする
折{をり}からに二階{にかい}にゐたるおたきは余{あま}りに手間{てま}どれる治兵衛{ぢへゑ}が
浄水{ちやうづ}覚束{おぼつか}なく跡{あと}よりきたり伺{うかゞ}へば泣{なき}つ笑{わら}ひつ二人{ふたり}の
やうすさてこそかねて人{ひと}しれず契{ちぎ}り結{むす}びしものならめ。思へば
悔{くや}し腹立{はらたゝ}しと赫{くわつ}ともえたつ胸{むね}の火{ひ}のやるせなければ駈{かけ}

(20ウ)
こまんとしたりしがイヤ〳〵〳〵治兵衛{ぢへゑ}さんは物{もの}〔ごと〕に落{おち}ついた生{うまれ}
つき仂{はした}ない仕{し}うちだとひよつと愛想{あいそ}をつかされてはと我{われ}
とわが身{み}をかへり見てせきたつ胸{むね}をおしさげ〳〵霎時{しばし}は
其処{そこ}に佇{たゝず}みたり。畢竟{ひつきやう}この一件{ひとくだり}いかになるらんしるべ
からず。第三編{たいさんへん}の発兌{はつだ}を待{まち}てその顛末{てんまつ}をしりねかし。
花の志満台二編巻之下終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sh96/2、1002334538)
翻字担当者:松川瑠里子、服部紀子、藤本灯
更新履歴:
2015年10月1日公開
2017年10月5日更新
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修正箇所(2017年10月5日修正)
(10ウ)2 縁 → 椽
(13ウ)8 縁頬{えんがは} → 椽頬{えんがは}

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