日本語史研究用テキストデータ集

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比翼連理花廼志満台ひよくのれんりはなのしまだい

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初編下

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比翼連理花迺志満台 初編下

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凡例
1.本文の行移りは原本にしたがった。
2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。
3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。
4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア
5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」
6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。
 平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ
 片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ
 複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵
7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。
8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。
9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。
10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕
11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい}
12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日}
13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい}
14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。
15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】
16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。
17.不明字は■で示した。
18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」
19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。
20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。

本文の修正
1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。
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(1オ)
[比翼{ひよく}連理{れんり}]花{はな}迺{の}志満{しま}台{だい}初編{しよへん}巻之下
江戸 松亭金水編次
第五回 処女{をとめ}の悲歎{かなしみ}
天{てん}をも量{はか}りつべし地{ち}をも測{はか}りつべし。たゞ計{はか}るべからざるは人{ひと}の心{こゝろ}と
いひけんも。理{〔こと〕はり}あるかな髪結{かみゆひ}の。お吉{きち}はたちまち慾心{よくしん}に。眼{まなこ}くらみて弟{をとゝ}
の盲{めしい}を賺{すか}しこしらへ。小六{ころく}に種〻{しゆ〴〵}の難題{なんだい}を。いふて設{まう}けし五両{ごりやう}二分{にぶ}まづ
完爾〻〻{にこ〳〵}と懐{ふところ}へ。おさめてけふは芝居見{しばゐみ}と。出立{いでたつ}むかふへ千葉{ちば}の家臣{かしん}
その名{な}も畝山{うねやま}強六{ごうろく}と。見{み}かけからして悪党面{あくとうづら}。ぶらり〳〵と来{き}かゝる

(1ウ)
折{をり}しも。お吉{きち}を見{み}かけてずつと立{たち}より【強】「コレサお吉{きち}ぼう。しらぬふり
とは情{なさけ}ないナ」【吉】「ヲヤどなたかとぞんじたら旦那{だんな}どちらへ」【強】「旦那{だんな}より
マアおめへが。何{なに}か立派{りつは}な打扮{いでたち}で。何処{どこ}へ奢{おご}りに出{で}かけるな。夫{それ}はそうと
コレお吉{きち}。いつぞやからしてたのんでおく。おむすの事{〔こと〕}はどうしてくれるヱ。
なんぼ好{いゝ}処女{をんな}でも。余{あん}まり勿体{もつたい}がつけすぎるな」トいはれてお吉{きち}は
につこりと【吉】「ホンニモウあれほどまで。おまへさんに請合{うけあつ}て。誠{まこと}に面
目{めんぼく}がございませんヨ。何{なに}を申スもアノ通{とふ}り。まだねつからな稚女{をぼこ}と
申す■■で。どうもてきぱきとまいりませんはね」【強】「イヤサてきぱき*欠損部分は「もの」か

(2オ)
ところかへ。恃{たの}んでから|二タ月{ふたつき}あまり。それじやアさきで不承知{ふせうち}と
見{み}へるな」【吉】「イヱ〳〵なにそんならばお気{き}の毒{どく}でも。すつはりお断{〔こと〕は}り
申まさアな。ナニおまへさんを引{ひつ}かけて置{おい}たツておもしろくもございま
せんから」【強】「そんならどうかちかい内{うち}にな」【吉】「それは如在{ぢよさい}はござい
ません。二三日{にさんち}のうちには是非{ぜひ}ともどふか。出来{てき}るやうにいたしませう」
【強】「ぜひ働{はたら}いてくれるとか。そりやアありがたい〳〵。まづ前祝{まへいわ}ひに
何処{どこ}そなア」トあたり見廻{みまは}し料理{りやうり}茶屋{ぢやや}。お吉{きち}が手をとり先{さき}に
たち。二階{にかい}へあかり見{み}はらしの。表{おもて}ざしきの手{て}すりの側{そは}。二人{ふたり}さし

(2ウ)
むき座{ざ}をしめて。酒肴{さけさかな}をとり出{た}させ。酌{さし}つおさへつくみかはし。強
六{ごうろく}はたゞ只管{ひたすら}に。その事をのみたのみける。お吉{きち}は手摺{てすり}により添{そひ}て
下{した}を見おろし完爾{につこ}として。手{て}を磤〻{はた〳〵}とうち鳴{な}らし【吉】「ヲイ〳〵お春{はる}
さん〳〵。ちよつとこゝへ。ヲイ〳〵お春{はる}さん〳〵」ト呼{よば}れて「アイ」ト料理{りやうり}やの
二階{にかい}へきたるお春{はる}がとりなり。袱包{ふろしきづゝみ}を手にさげて。前垂{まへだれ}かげの
窶〻{やつ〳〵}しさ。右視{とみ}ればしらぬ侍{さふらひ}に。おはるは跡{あと}へ二足{ふたあし}三足{みあし}さがりて
そこへ跪{ひさま}づき【はる】「ねへ{姉}さんなんでございますへ」【吉】「何{なん}だもねへもん
だヨ。まアこゝへ来{き}な。ナニいゝからヨ」【はる】「それても」【吉】「ナニサいゝと言{いふ}のに

(3オ)
ねへ旦那{だんな}」【強】「サアおむす遠慮{ゑんりよ}はねへ。マア〳〵姉{あね}さんのそばへ来{き}な
せへ」【はる】「ハイそんなら御免{ごめん}なさい」トお吉{きち}が側{そば}へ座{ざ}しければ。強六{ごうろく}は
つく〴〵見{み}て【強】「ムヽなるほどいゝ女児{むすめ}だ。そして年{とし}より大体{おほがら}だの」
【吉】「さやうサ十六とは見へませんねへ」【強】「なにか爺父{おやぢ}どんが病気{びやうき}
だといふ事だの」【吉】「モウおまへさんひさしい病気{びやうき}。それに母{かゝ}さんは
なし。一{いち}から十{じう}まで年{とし}もいかねへで。みンなこの児{こ}が手{て}ひとつサ。かわい
そうじやアございませんかね」【強】「いかさま世{よ}には薄命{ふしあはせ}な。人{ひと}がいく
らもあるものだの。しかしはやこのおむすなんざア。どうでも手前{てまへ}

(3ウ)
の了簡{れうけん}しでへで。楽{ら}になるのは見へてあるのサ」【吉】「アイサそれを*「楽{ら}」は「楽{らく}」の脱字か
言{いつ}てきかせますけれど。年{とし}がいかねへものだから。たゞ片意地{かたいぢ}で
なりませんヨ。そして第一{だいゝち}何{なに}〔ごと〕にも。はづかしいのが先{さき}へ立{たつ}て」【強】「
ムヽそのうちが賞翫{しやうくはん}〳〵。ヨウ処女{おむす}。なんぞ給{たへ}な。ソレお吉{きち}。とつて
やんなゝ。ヱヽ気{き}のきかねへ」【吉】「ほんにねへ噺{はな}しばツかりして。なぜわち
きやアこんなうつ゜かりだらう。サアお春{はる}さん給{たべ}なヨ。遠慮{ゑんりよ}をしな
さんな」【強】「ときに処女{おむす}。おめへもさぞいろ〳〵苦労{くろう}たらう。こりやア
少{すく}ねへか内{うち}へ帰{かへ}つて。爺{とつ}さ゜んに何{なん}ぞ買{かつ}てたべさせな。ヤレ〳〵可

(4オ)
愛{かあい}そうに」ト南鐐{なんりやう}二{ふた}ツはな紙{がみ}へ。つゝんで出{だ}してそら泪{なみだ}。涕打{はなうち}
かむも心{こゝろ}の一物{いちもつ}。おはるはそこへ手{て}をついて【はる】「ハイ有{あり}がたう
ございます。しかし|ねへ{姉}さんアノお方{かた}からいたゞいてはお気{き}のどく
どうぞお腹{はら}のたゝぬやうに。おつしやつておまへから」【吉】「おかへし
申てくれといふのか。ナニ〳〵それは戴{いだゝ}きなヨ。旦那{だんな}が折角{せつかく}そう
おつしやるに。全体{ぜんたい}この旦那{だんな}は慈悲{ぢひ}ぶかくて。おまへにやア限{かぎ}ら
ない。難義{なんぎ}なものには惜気{をしげ}もなく。下{くだ}さるお気{き}めへ。なか〳〵
こんな情{なさけ}ぶかいお方{かた}といふは。あるもんじやアない。マア〳〵それは

(4ウ)
いたゞきな」トいはれて了得{さすが}詮方{せんかた}なく。心{こゝろ}ならずもとり納{をさ}め
お春{はる}はあつく礼{れい}をいふ。強六{ごうろく}はうちほう笑{ゑ}み【強】「なんのおめへ
そればかり。サアお吉{きち}おむすに酒{さけ}を」【吉】「ハイなに御酒{ごしゆ}は大{だい}の
きらひさ」【強】「そんなら飯{めし}でも」【吉】「ナアニモウおかまひなさんな。
そんならノウお春{はる}さん。お爺{とつ}さ゜んが待{まつ}てるだらう。サア〳〵勝手{かつて}
におかへりヨ」トいはれてお春{はる}は僥倖{さいわい}と。いとまを告{つげ}て立{たつ}跡{あと}より
お吉{きち}も立{たつ}て階子{はしご}の傍{そば}。よびとめて衿{えり}に手{て}をかけ。耳{みゝ}に口{くち}
よせ小声{こゞゑ}になり【吉】「おまへにかねて旦那{だんな}をとりなと。すゝめ

(5オ)
めたのはノお方{かた}ヨ。どうだちよつとしてもアノ位{くらゐ}なもの。一{いち}を聞{きい}て
万{ばん}をしれだ。見{み}かけはあんなに怖{こわ}らしくても。ずんと艶{やさ}しい情{なさけ}
のある人{ひと}。アノ方{かた}の世話{せわ}になれば月{つき}に二両{にりやう}はやらうとおつ
しやる。アノしみつたれな小六{ころく}さんより。遙{はるか}にましぢやアないかへ。
おめへさへウンと言{い}やア。今日{けふ}にも直{ぢき}にはなしをきめるが。さア
どふだ。お春{はる}さん。ナニそれではあつちがすまねへ。ヱヽよくおめへも
アノ人{ひと}を気にするヨ。なんのかまふ事かあるものか。そのうへにマア
聞{きゝ}な。小六{ころく}さんはモウ心{こゝろ}がわりだぜ。それをヤレ義理{ぎり}の法{ほう}のと。

(5ウ)
ヱヽなんの事{〔こと〕}だ。ばからしい」と。聞{きい}てお春{はる}は恟{びつ}くりし【はる】「ヱヽ小六{ころく}
さんが心がはりとはへ。お吉{きち}さんまたそんな事{〔こと〕}を言{いつ}て。人{ひと}に気を
もませやうと思つて」【吉】「ヲヤ〳〵この児{こ}はなんだネ。おまへに気{き}を
もませたツて。何{なに}が面白{おもしろ}くツてサ。小六{ころく}さんの心{こゝろ}かはりといふ訳{わけ}は
昨日{きのふ}も天間町{てんまてう}の奥{おく}へ往{いつ}たから。ちよつと間{ま}を見{み}て小六{ころく}さん
に逢{あつ}て。このあいだはひさしくお見{み}へなさらねへで。アノ児{こ}もいつ
そ苦労{くろう}にして居{をり}ます。ちつとくりあはせてお出{いで}なさいと言{いつ}
たら。アノ人{ひと}がいひなさるにやア。イヤおれも実{じつ}はわざと往{いか}ねへ

(6オ)
のだ。いつがいつまで引{ひつ}かゝつて居{ゐ}た所{ところ}がつまらねへ。マア今{いま}までは
安{やす}イ女郎{ぢようろ}を買{かつ}た気{き}で。折{をり}ふしは婬戯{なぐさん}だやうなものだが。モウ〳〵
これからは。ちつと辛抱{しんぼう}しねへけりやアならねへ。若{もし}もアノ児{こ}が
来{き}て。何{なん}のかのといふなら。おめへよく言{いつ}てきかせて。遠{とを}ざかる
やうにして呉{くん}なせへトいふのを聞{きい}たときやア。人{ひと}の事{〔こと〕}ながら
腹{はら}が立{たつ}て。こつちらじやアあの人{ひと}より外{ほか}に男{をとこ}のねへやうに
言{いつ}て居{ゐ}るものを。なるほど男{をとこ}といふものは。余{よつ}ぽど薄情{はくじやう}な
ものだ。天{てん}で安{やす}イ女郎{ちようろ}を買{かふ}気{き}だといふ一言{いちごん}で。モウ外{ほか}の事{〔こと〕}を

$(6ウ)
処女{をとめ}を懐{なつ}けんとして
強六{ごうろく}黄金{こがね}を抛{なげう}つ
ごう六

$(7オ)
おはる
おきち

(7ウ)
聞{きく}にやアおよばねへヨ。そんな人{ひと}に実{じつ}の義理{ぎり}のと。馬鹿{ばか}律
儀{りちぎ}に引{ひつ}かゝつて居{ゐ}るおめへが可愛{かあい}そうだ」ト聞{きい}てお春{はる}がいよ
〳〵仰天{ぎやうてん}。人{ひと}の心{こゝろ}とあすか川{がは}。かわるならひといひながら。情{なさけ}の
ふかい小六{ころく}さん。そうした心{こゝろ}のあらうとは。努〻{ゆめ〳〵}しらぬうた
てさよと。おもへば胸{むね}もはりさけて。物{もの}をもいはず泣{なき}ふせば。お
吉{きち}は脊中{せなか}を掻{かい}さすり【吉】「なんと胆{きも}がつぶれるだらう。それ
だから頓{とう}からわたしが。よして仕{し}まひなせへといふのだ。何{なん}のアノ
人{ひと}ばかり男{をとこ}じやアあるめへし。外{ほか}にいくらも信切{しんせつ}な人{ひと}があるヨ。

(8オ)
泣{なく}ことがあるものか。サア〳〵皃{かほ}を拭{ふき}な。それともおまへ気{き}が
すまずは。天間町{てんまてう}の見{み}せへふりこんでからに。おもいれ恥{はぢ}でも
かゝしてやんなせへ。わたしでせへ余{あん}まりの事{〔こと〕}に悔{くや}しいやうだ」ト
了得{さすが}年増{としま}の怜悧{さかしき}弁口{べんこう}。おはるはよもやと思へども。此ほど
たえて逢{あふ}事{〔こと〕}の。遠{とを}ざかりしをいろ〳〵に。疑{うた}ぐる折のことな
れば。若{もし}もそうかと女児気{むすめぎ}に。かなしさつらさ身{み}にあまり
余所{よそ}をはかるしのび音{ね}の。泣{なく}になみだも出{で}ぬばかり。よふ〳〵
に皃{かほ}をあげ【はる】「そういふさもしい心{こゝろ}ある。お方{かた}としらず今{いま}

(8ウ)
までも。騙{だま}されたのが腹{はら}がたちます。とはいふものゝ二月{ふたつき}三月{みつき}
小六{ころく}さんのお情{なさけ}で。父子{おやこ}が命{いのち}を繋{つない}た御恩{ごおん}。たとへ今{いま}さら
嫌{きら}はれて。これぎりになればとて。お見{み}せへふり込{こみ}人{ひと}なかで。恥{はぢ}
をかゝせる気{き}はございませんが。おもへばほんに情{なさけ}ない」トまた泣伏{なきふ}
すを抱{だき}きおこし【吉】「これさ〳〵。そんなに泣{なか}ずといゝわな。それだ*「抱{だき}き」の「き」は衍字
からわたしがいふ〔こと〕を聞{きい}て。アノ奥{おく}にござるお方{かた}の世話{せわ}になん
なせへ。ヨウ悪{わる}い事{〔こと〕}をばいはねへから。どうだお春{はる}さん夫{それ}でも
まだ不承知{ふしやうち}か。ヤレ〳〵おめへも強諚{ごうぢやう}ものだノウ」ト騙{だま}しつすか

(9オ)
しつかき口説{くどけ}ど。おはるは一途{いちづ}にかなしさの。胸{むね}にあまりて
回答{いらへ}もなく。泪{なみだ}にくもる胸{むね}のやみ。階子{はしご}はた〳〵かへりゆく。
跡{あと}見{み}おくりてお吉{きち}は腕{うで}ぐみ。ハテこれまでに狂言{きやうげん}を。仕組{しくん}
で見{み}てもむづかしい。ナニいつその〔こと〕アノ児{こ}の親父{ちやん}に。ふづつかツ
て一{いち}か罰{ばち}か。きめるほうがはや手{で}まはし。そうだ〳〵と独{ひとり}うな
づき。元{もと}の座{ざ}へたちかへり。かの強六{ごうろく}にはほどよく咄{はな}し。やがて其処{そこ}
をも立出{たちで}つゝ。西{にし}と東{ひがし}へわかれけり。
第六回 恩愛{おんあい}の自殺{じさつ}

(9ウ)
かくてお春{はる}は泣〻{なく〳〵}も。家{いへ}にかへりてさま〴〵と。思ひ廻{まは}せばまは
すほど。世{よ}は朝皃{あさがほ}の花{はな}の露{つゆ}。はかなきものといへばえに。小六{ころく}が
やうす心許{こゝろもと}なく。お吉{きち}も頗{すこぶ}る凶児{わるもの}と。おもふものからこの事
にも。何{なに}か仔細{しさい}のなからずや。とはいふものゝ見{み}せへゆき。兎{と}や
かくいはゞ小六{ころく}が身{み}に。さわらば大事{だいじ}いかにして。胸{むね}のおもひを
告{つげ}んやと。右{と}さま左{かう}さま沈吟{しあん}のうち。父{ちゝ}の兵衛{ひやうゑ}はすや〳〵と
ねむるを僥倖{さいわい}袋戸{ふくろど}より。とり卸{おろ}したるすゞり筥{ばこ}。束{つか}短{みぢ}か
なる筆{ふで}とりて。お吉{きち}が咄{はな}しの次第{しだい}を書{かき}。あるひは恨{うら}み或{ある}ひは

(10オ)
喞{かこ}ち。千〻{ぢゝ}のおもひを運{はこ}ばして。かいしたゝめて巻{まき}納{おさ}め。さてこの*濁点位置ママ
使{つかひ}にたれをか恃{たの}まん。ひよつとしれては互{たがい}の大事{だいじ}と。文{ふみ}はかい
ても届{とゞ}くべき。便{たよ}りにほと〳〵当惑{とうわく}し。手匣{てばこ}のうちに秘{ひめ}おきて
その便宜{びんぎ}をぞうかゞひける。その次{つぐ}の日は父{ちゝ}の兵衛{ひやうゑ}が。気分{きぶん}も
例{いつ}よりよしといひて。床{とこ}の上{うへ}に起{おき}あがり。側{そば}にありあふ浄瑠理
本{じやうるりほん}を。よみて慰{なぐさ}み居{ゐ}たりしかば。これ僥倖{さいわい}と買物{かいもの}がてら。お春{はる}
はやをらかの文{ふみ}を。懐{ふところ}におしいれつゝ。人{ひと}を頼{たの}みてをくらんと。心{こゝろ}も
そらに立{たち}いづる。引{ひき}ちがへて入来{いりく}るお吉{きち}。ゆふき木綿{もめん}のわた

(10ウ)
いれに棒縞{ぼうじま}の前垂{まへだれ}がけ。天窓{あたま}はぐるりと結{むす}び髪{がみ}。下駄{げた}の
音{おと}さへあら〳〵しく。兵衛{ひやうゑ}が門{かど}に立{たち}とまり【吉】「チト御{ご}めんなさい。アノ
お春{はる}さんの宅{うち}はこゝでございますか」ト問{とは}れて兵衛{ひやうゑ}は本{ほん}をおき
【兵】「ハイお春{はる}とはこちらの女児{むすめ}。何{なん}ぞ御用{ごよう}でござりますか。たゞ今{いま}
ちよつと出{で}ましたが」【吉】「ヲヤお留守{るす}かへ。はおまへさんがアノ児{こ}のお
爺{とつ}さんかへ。ヤレ〳〵久{ひさ}しい御病気{ごびやうき}と聞{きゝ}ましたが。それでもちつとは
お快{こゝろ}よう」トいひつゝあかれば兵衛{ひやうゑ}はほう笑{ゑ}み【兵】「ハイ〳〵有{あり}がたう
ござります。今日{こんにち}などは余{よ}ほど快{こゝろよう}ござります」【吉】「それはもふ

(11オ)
お仕{し}あはせだ。お春{はる}さんとは前方{まへかた}から。お心{こゝろ}やすくいたしますか
まだ間違{まちがつ}ておまへさんには。お初{はつ}におめにかゝりました。ヲホヽヽヽヽ。
それでもマアあの児{こ}のお咄{はな}しでは。よつぽどな御大病{ごたいびやう}と聞{きゝ}ま
したが。思つたほどでもございません。しかし是{これ}から段{だん}〳〵と寒{さむ}さ
もつよくなりますから。お大事{だいじ}になさいまし。私{わたし}は豊島邑{としまむら}で琴{〔こと〕}
の師匠{しせう}をいたします。和之一{わのいち}と申すものゝ姉{あね}で。吉{きち}と申しますが
ひよんな事でお春{はる}さんともおこゝろやすくなりまして。ヲホヽヽヽヽ。
それで今日{けふ}もいろ〳〵お咄{はな}しもふしたい事{〔こと〕}があつて参{まいり}ましたヨ。

(11ウ)
いづれおまへさんにも。篤{とつ}くりとおはなし申さにやアならぬわけ。
どふぞ些{ちつと}もお快{こゝろ}よくで。お咄{はな}しができればよいがと。道{みち}〳〵も案{あん}じ
ましたに。この御{ご}やうすでは私{わたし}も大{おほ}きに嬉{うれ}しうございます」【兵】「
ハヽアそれは何{なに}〔こと〕かそんじませんが。豊島邑{としまむら}からわざ〳〵お出{いで}。ハテ
生憎{あやにく}お春{はる}めが。大{おほ}かた今{いま}にかへりませう。マア〳〵茶{ちや}でもあがり
まし」ト身{み}はかなはねど年寄{としより}の。とりなしぶりをお吉{きち}はとめて
【吉】「ヤレモウおかまひなされますな。わたしもモウそうしても居{ゐ}ら
れません。ちよつとお咄{はな}しをいたしませう。外{ほか}の事{〔こと〕}てもございま

(12オ)
せんが。おまへさんが久{ひさ}〴〵のおわづらひで。内外{うちと}にもお困{こま}りなさると
の〔こと〕。夫{それ}でアノお児{こ}も。いろ〳〵気{き}を揉{もん}で居{ゐ}なさるは。側{そば}で見{み}るめ
も可愛{かわい}そう。ト申て金銭{きんせん}づくの事は。どうも自由{じゆう}にもねへ。参{まい}
りませんもの。所{ところ}てちやうどよいお咄{はな}しがございますからさ」【兵】「
ヘヱなにかぞんじませんが。御深切{ごしんせつ}な〔こと〕。かたじけなうござります。
何{なに}か相応{さうおう}な所{ところ}で。女児{むすめ}をもらひたいとでも」【吉】「ナニ〳〵おまへさん
人{ひと}の娵子{よめこ}なぞになつてどうしてサ。私{わたし}がお心{こゝろ}やすい千葉{ちば}さま
の御家中{ごかちう}で。金{かね}はどんとある旦那{だんな}でございますが。アノ児{こ}を

(12ウ)
見{み}て。どふぞ月{つき}二両{にりやう}くらゐで世話{せわ}にしやうとおつしやるから。
ねへおまへさん。無躾{ぶしつけ}ながらまだアノ児{こ}も誠{ま〔こと〕}の稚女{をぼこ}。月{つき}二両{にりやう}と
いふ旦那{だんな}は。滅多{めつた}にやアありません。先{さき}さまの風{かぜ}のかわらない
うち。はやくおとり極{きめ}なすツたら。アノ児{こ}ばかりかマアおまへ
さんも。お仕{し}あはせ。其{その}上{うへ}てまた折{をり}によつては。五両{ごりやう}三両{さんりやう}の無
心{むしん}もきかうといふもの。何{なん}といつても先{さき}がおまへさん。有{ある}人{ひと}の〔こと〕
だから。どうでもなりまさアな」ト聞{きい}て兵衛{ひやうゑ}は形{かたち}をあらため
【兵】「これは〳〵ぞんじもよらぬ。親{おや}の欲目{よくめ}かしらねども。まづ人並{ひとなみ}

(13オ)
に生{うま}れた娘{むすめ}。前尻{まへしり}を売{うつ}たなら。少{すこ}しの金{かね}にもなりませうが
当時{とうじ}はくるしき痩世帯{やせぜたい}。明日{あす}はどうしてかうしてと。其{その}日{ひ}〳〵
の暮{くら}しにも。さし嵩{つか}へる身{み}とはなつても。以前{いぜん}は金沢{かなざは}顕佐{あきすけ}と
北条家{ほうじやうけ}より御一字{ごいちじ}拝領{はいれう}。時{とき}めきたるもはやむかし。少{すこ}し
の事{〔こと〕}より浪流{らう〳〵}の。身となり果{はて}しその日{ひ}より。たとへ飢{うゑ}ても渇{かつ}
しても。二君{じくん}に仕{つか}へぬ武士{ぶし}の意地{いぢ}。それに奚{なん}ぞや娘{むすめ}をもつて
人{ひと}の戯婬{なぐさみ}ものにせいとは。近曽{ちかごろ}無礼{ぶれい}至極{しごく}の一言{いちこん}。女{をんな}ならず
は某{それがし}が。いさゝか申スこともあれど。相手{あいて}にならぬ女性{によせう}の事{〔こと〕}。イヤモ

(13ウ)
さやうの汚{けが}らはしい〔こと〕。聞{きく}耳{みゝ}はもちませぬ。さう〳〵お帰{かへ}りな
されまし」ト怒{いか}り面{おもて}にあらはれし。老{おい}の一言{いちごん}お吉{きち}は聞{きい}て。忽地{たちまち}に
うちわらひ【吉】「ヲヤ〳〵以前{いぜん}は侍{さふらひ}だから。女児{むすめ}を人{ひと}の戯婬{なぐさみ}ものにし
ては。何{なに}が汚{けが}れるとへ。ヲホヽヽヽヽ。ヤレおかしや。食{く}ふ事が出来{でき}ないとツて
夜鷹{よたか}の真似{まね}までした女児。千葉{ちば}さまの御家中{ごかちう}に。囲{かこ}はれ
れば大造{たいそう}な出世{しゆつせ}じやないか。紙屋{かみや}の手代{てだい}になぐさまれて。二朱{にし}か
一分{いちぶ}の端金{はしたがね}。貰{もらつ}て父子{おやこ}が命{いのち}を繋{つな}ぐ。米{こめ}を買{かつ}たり小{こ}づか
ひも。夫{それ}でつかつて居{ゐ}たではないかへ。大{たい}そうらしい事{〔こと〕}をいひな

(14オ)
さんな。困{こま}る〳〵と口{くち}つゞけに。聞{きく}も気{き}の毒{どく}笑止{せうし}だから。些{ちつと}もらくに
なるやうにと。世話{せわ}をすりやア立派{りつぱ}な口諚{こうぢやう}。おめへは訳{わけ}を逐一{ちくいち}
に。知{し}んなさらねへかアしらねへが。夜鷹{よたか}に出{で}て天間町{てんまてう}の。紙
屋{かみや}の手代{てだい}の小六{ころく}といふ。若{わけ}ヱものゝ馴染{なじみ}になつて。尻{しり}を売{うつ}ちやア
ちつとづゝ。もらツて完爾{にこ}〳〵これでマア。翌{あした}の米{こめ}も買{か}はれますと
女児{むすめ}ツ子{こ}がよろこぶ面{つら}ア。今{いま}の目{め}のさきに見{み}へるやうだ。うそ
なら今{いま}にお春{はる}さんが。帰{かへ}つたら聞{きい}て見{み}なせへ。ナニ人{ひと}を馬鹿{ばか}〴〵
しい。いやだとおもはよすがいゝ」トいひ捨{すて}立{たつ}ていとまも乞{こは}ず。頬{ほう}

(14ウ)
ふくらして路次{ろじ}の土腐板{どぶいた}。いと荒{あら}らかに踏{ふみ}ちらし。お吉{きち}はかへる
後{うしろ}かげ。見{み}をくる兵衛{ひやうゑ}が不猜皃{ふしんがほ}。さても貧苦{ひんく}に身{み}をせめて
この身{み}にかくしてお春{はる}めが。さもしい心{こゝろ}を出{だ}しおツたか。此{この}ほどひさ
しき病{やま}ひのうちも。米{こめ}は大家{おほや}が世話{せわ}してくれる。その日{ひ}〳〵の
小{こ}づかひは。こゝで借{かり}たの賃針線{ちんし〔ごと〕}で。取{とつ}たのといひおツたが。全{まつた}く
そうではなかつたか。何{いづ}れにもせよ女児{むすめ}が心中{しんちう}。思ひやられて
この親父{おやぢ}が。役{やく}に立{たゝ}ずの気{き}の毒{どく}せんばん。さは去{さり}ながらアノ
女{をんな}には。昔{むかし}の武士{ぶし}の意地{いぢ}を出{だ}し。奇麗{きれい}にいふたが面目{めんぼく}ない。

(15オ)
なんぼ年端{としは}がゆかぬとて。夜{よ}たかの真似{まね}とはあんまりな。これ
といふのも貧苦{ひんく}にせまり。詮事{せう〔こと〕}なさの女児{むすめ}が心労{しんろう}。長寿{ながいき}
すれば恥{はぢ}おゝしと。たとへにもれぬこの身{み}の悪業{あくごう}。わが身{み}さへ無{ない}
ならば。女児{むすめ}もそんな真似{まね}もせず。十人並{じうにんなみ}にも勝{まさつ}た標致{きれう}。よい
人{ひと}におもはれて。楽{らく}にくらすは見へてある。畢竟{ひつきやう}この身{み}がある
ゆゑに。苦労{くろう}苦艱{くけん}もさするといふもの。生甲斐{いきがひ}のない老{おい}の
身{み}は。在{あつ}てかへつて父子{おやこ}がくるしみ。腹{はら}かきさばいて死{し}んだが
まし。そふじや〳〵と腹{はら}のうち。覚語{かくご}きはむる折{をり}こそあれ。お

$(15ウ)
貪欲{どんよく}を逞{たくま}しうして
於吉{おきち}老父{らうふ}に説{と}く
おきち

$(16オ)
兵衛

(16ウ)
春{はる}はそれともしら歯{は}の女児{むすめ}。小六{ころく}が方{かた}への文{ふみ}さへも。書{かい}たばか
りで届{とゞ}くべき。手便{てだて}なければかやかくと。あんじ過{すご}しも積{しやく}の
たね。くよ〳〵ひとり物{もの}おもひ。かへれば兵衛{ひやうゑ}は完爾{につこり}と【兵】「ヲヽおはる
帰{かへ}つたか。マ。マ。ちよつとこゝへ来{き}や。おぬしにちよつと聞{きい}たい〔こと〕が」ト
いはれて「ハイ」と父{ちゝ}の側{そば}。すはれば兵衛{ひやうゑ}は声{こゑ}をひそめ【兵】「今{いま}
あらためていふではなけれど。貧{まづ}しいくらしのその中{なか}に。おれが
ひさしいこの病気{びやうき}。なんにつけてもそなたの手{て}一{ひと}ツ。なか〳〵十五や
十六で。並{なみ}のものに出来{でき}はせぬ。その志{こゝろ}ざしはうれしいとも。辱{かたじけ}

(17オ)
ないとも今{いま}こゝで。詞{〔こと〕ば}にはつくされぬ。そなたのやうな孝行{こう〳〵}もの
世{よ}にはまれなる心{こゝろ}だてに。生{うま}れた身{み}でも親{おや}がわるけりや。苦労{くろう}
にくろうをかさねるかいのふ。それに付{つい}てもこの日頃{ひごろ}。米{こめ}から真木{まき}
から小{こ}づかひまで。そなたのたつた胸{むね}ひとつ。在{ある}も無{ない}もこの親父{おやぢ}
にはきかせぬやうにしてくれる。心配{こゝろくば}りのあとやさき。トはいふ
ものゝ銭金{ぜにかね}が。自由{じゆう}に出来{でき}るものじやなし。米{こめ}も大屋{おゝや}がうけ
あふてとは。先頃{いつぞや}も聞{きい}たれど。店賃{たなちん}はらはぬそのうへに。勘
定{かんぢやう}の当{あて}もない。親子{おやこ}に米{こめ}まで請合{うけあつ}てくれる大屋{おゝや}が底意{そこゐ}

(17ウ)
もしれすと。先刻{さつき}大屋{おほや}どのが宅{うち}の前{まへ}を。通{とふ}つたほとに呼込{よひごん}で
礼{れい}をいふたら大屋{おほや}とのが。イヤ〳〵それは間違{まちがい}たらう。店賃{たなちん}も跡
月{あとげつ}まで。女児御{むすめご}の手{て}から請{うけ}とり。米{こめ}も真木{まき}もうけ合{あふ}て。遣{やつ}た
おぼへもないといふ。其処{そこ}の間{ま}はわるけれと。催促{さいそく}をされるにや
ましと。実{しつ}はこゝろに歓{よろこ}ぶものゝ。ノウお春{はる}マアどうして。手{て}まへは
金銭{きんせん}の工面{くめん}をするそへ。男{をとこ}の手{て}でさへならぬは金{かね}。どふもおれ
には合点{がてん}がゆかぬ。まさか盗{ぬすみ}もしはせまいし。金{かね}のてきやう筈{はづ}が
ない。父子{おやこ}の中{なか}で一点{つゆ}ばかりも。かくして居{ゐ}る〔こと〕はない。明〻{あらは}に咄{はな}し

(18オ)
て聞{きか}してくれ」ト問{とは}れてハツと口隠{くちごも}る。お春{はる}はおもはず皃{かほ}あからめ
て。霎時{しばし}回答{いらへ}もなかりしかば。兵衛{ひやうゑ}はます〳〵小膝{こひざ}をすゝめ【兵】「
コレサおはるそのやうに。隠{かく}すことはないはヤイ。畢竟{ひつきやう}おれが病気{びやうき}
ゆゑ。何{なに}もかも聞{きか}せまいと。手{て}まへひとりて計{はか}らふ了簡{れうけん}。おりや
悪{わる}いとはおもはぬが。どふして工面{くめん}をするといふ。訳{わけ}さへわかれは
夫{それ}でよし。なせ物{もの}をいはぬのた。なぜ挨拶{あいさつ}をせぬのだへ。ハテさて
これは困{こま}つたもの。コリヤお春{はる}おぬしはノ。紙屋{かみや}の手代{てたい}の小六{ころく}といふ
若{わか}いものを知{し}つて居{ゐ}るか」ト思{おも}ひもよらぬ問言{とひ〔ごと〕}に。お春{はる}はます〳〵

(18ウ)
恟{ぎよつ}として。さらに回答{いらへ}の言句{ごんく}も出す。さし俯{うつむ}くを兵衛{ひやうゑ}はほう
笑{ゑ}み。「余所{よそ}の人{ひと}から噺{はな}しをきいたが。貧{まづ}しいくらしに堪{たえ}かねて
身{み}をけがしてもこの親父{おやぢ}を。育{はご}くまうといふ孝心{こうしん}から。不図{ふと}し
た事{〔こと〕}で小六{ころく}に思はれ。貢{みつい}でもらふといふ咄{はな}し。昔{むかし}平家{へいけ}のやん
〔こと〕なき。人〻{ひと〴〵}ですら一門{いちもん}滅{ほろ}び。世{よ}わたる便{たつき}のないゆゑに。辻君{つじきみ}を
されたといふ。たとへもあれはわれ〳〵風情{ふぜい}。どんな真似{まね}を仕{し}やう
ともさまてに恥{はぢ}る〔こと〕もない。サアとうじやそのわけを。くはしう
はなして聞{きか}せい」ト再三回{ふたゝひみたび}の問言{とひ〔ごと〕}におはるも今{いま}は包{つゝ}みかね。実{しつ}は

(19オ)
箇様{かやう}とそのはじめ。不図{ふと}辻君{つじきみ}のはなしをきゝそうしたならば
朝夕{あさゆふ}の。便{たつき}にもならふかと。出{いで}たるところに小六{ころく}にあひ。それより
後{のち}は如此〻〻{しか〴〵}と。はづかはしくも下紐{したひも}の。関{せき}をわれから許{ゆる}したる。〔こと〕
まで落{おち}なくものがたり。それより後{のち}は小六{ころく}が貢{みつぎ}に。店賃{たなちん}までも
催促{さいそく}うけず。今日{けふ}までくらした一伍一什{いちぶしゞう}。かたれどお吉{きち}が畝
山{うねやま}を。旦那{だんな}につけんといふ〔こと〕などはいとくだ〴〵しきのみならず
恥{はづ}かはしさにいひも聞{きこ}えず。兵衛{ひやうゑ}ははなしを聞{きく}〔ごと〕に。胸{むね}に釘{くぎ}
うつ心地{こゝち}にて。歯{は}を切{くひしば}り吐息{といき}つき。しばし詞{〔こと〕ば}もなかりしが。

(19ウ)
忽地{たちまち}にうち笑{ゑ}みて【兵】「ヲヽそれ聞{きい}て安堵{あんど}した。年{とし}にまれなる
孝心{こうしん}を憐{あは}れみ給ふ天道{てんとう}の。お計{はから}ひでがなあらう。おれは翌{あす}
をもしれぬ身{み}のうへ。倘{もし}も世{よ}にない人{ひと}となつたら。たゞ其{その}小六{ころく}を
大事{だいじ}にして。他{あだ}な心{こゝろ}をかならず持{もつ}なヨ。おぬしが日頃{ひごろ}心{こゝろ}やすく
訪{とひ}譚合{だんかう}をするといふ。アノお吉{きち}とかいふ女{をんな}は。どうか心{こゝろ}の悪{わる}そう
な。かならず油断{ゆだん}をせまいぞや」ト聞{きい}てお春{はる}はます〳〵駭{おどろ}き
【はる】「どうしておまへはお吉{きち}さんを」【兵】「先刻{さつき}おぬしが留守{るす}の間{ま}に
たづねて来{き}てゞあつたゆゑ。実{じつ}は小六{ころく}がいりわけも。アノ女{をんな}から

(20オ)
委{くは}しく聞{きい}た。それに何{なに}やらよい旦那{だんな}を。おぬしに世話{せわ}してやろ
うとやら。いふたゆゑに一言{いちごん}に。恥{はぢ}しめたら腹立{はらたち}そうに。ツン〳〵と
して帰{かへ}つたが。はや此{この}うへは其{その}やうに。うるさい事{〔こと〕}いひもせまいが
かならず彼奴{きやつ}に騙{だま}されまいぞ」トいふもわが児{こ}の可愛{かあい}サ不便{ふびん}サ。
膝{ひざ}のあたりへ引{ひき}よせて。しばし涙{なみだ}のひとしぐれ。お春{はる}は心{こゝろ}に手{て}
をあはせ。呵{しか}らりやうかと思{おも}つたを。却{かへつ}て粋{すい}な爺{とゝ}さまの。詞{〔こと〕ば}を
きいて落{おち}つけど。おちつかれぬは小六{ころく}が口諚{こうぢやう}。もしも夫{それ}が真言{ま〔こと〕}な
らば。どふしたものとまたさらに。はれぬ思ひや胸{むね}の暗{やみ}。兵衛{ひやうゑ}は

(20ウ)
頭{かうべ}をうちもたげ【兵】「コリヤ娘{むすめ}大義{たいぎ}ながら。今{いま}からちよつと天間
町{てんまてう}へ往{い}てナ。その小六{ころく}をつれて来{き}やれ。おぬしに繋{つな}がる男{をとこ}は婿{むこ}。
今宵{こよひ}あふて今{いま}までの。礼{れい}もいふたり後{のち}の事{〔こと〕}をも。恃{たの}んでおき
たい〔こと〕もある。時分{じぶん}がらで閙{いそ}がしくとも。ちよつとこゝまで呼{よん}で来{き}
やれ」トいはれて顔{かほ}はもたげても。お吉{きち}が詞{〔こと〕ば}に偽{いつわり}なく。ひよつと
心{こゝろ}がかわつて居{ゐ}たら。呼{よび}に往{い}たとて来{き}はせまい。ハテどうしたら。ト
跡{あと}やさき。アイと回報{へんじ}もなりかねて。もぢ〳〵するを兵衛{ひやうゑ}は急立{せきたち}
【兵】「なにをそのよにもぢ〳〵するぞへ。世間{せけん}じや灯{あかし}を点{とも}すじや

(21オ)
ないか。手{て}まはしせねばおそくなる。年{とし}が寄{よつ}てはせわしなく
一刻{いつこく}もはやう逢{あひ}たいわへ。サア〳〵はやう往{い}て来{き}やれ」と
せり立{たて}られて女児気{むすめぎ}の。右左{とかう}の沈吟{しあん}もさだまらねど
物{もの}はあたつて砕{くだ}けろと。世{よ}の諺{〔こと〕はざ}にもいふめれば。これを幸{さい}
わい男{をとこ}にあひ。直{ぢき}に噺{はな}しをして見んと。おもひかへして
たちあがり【はる】「そんなら往{い}てまいりませうが。マアお夜食{やしよく}
をあげてから」【兵】「イヤ〳〵飯{めし}は食{くひ}たうない。それよりはやう」ト
せりたつ親父{おやぢ}。こゝろならねど帯{おび}しめ直{なを}し。かた手{て}に

(21ウ)
さげる挑灯{ちやうちん}の。紋{もん}も蘇枋{すわう}で剣■草{けんかたばみ}。父{ちゝ}は跡{あと}にて剣{つるぎ}
の苦痛{くつう}と。いはねどこれも名詮自性{めうせんじせう}。お春{はる}は虫{むし}が知{し}らし
てや。すゝまぬ首途{かどて}も父{ちゝ}の命{めい}。心{こゝろ}二{ふた}ツに身{み}はひとつ。木履{ぼくり}さ
がして立出{たちで}けり。これぞ親子{おやこ}のわかれとは后{のち}にぞおもひ
あはしける。
花の志満台巻之三終


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底本:国立国語研究所蔵本(W99/Sh96/1、1002334520)
翻字担当者:村山実和子、杉本裕子、藤本灯
更新履歴:
2015年10月1日公開
2017年10月5日更新
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修正箇所(2017年10月5日修正)
(7ウ)6 背中{せなか} → 脊中{せなか}
(9ウ)5 兎やかくいは → 兎やかくいはゞ
(19ウ)5 するといはノ → するといふ。アノ

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