浦里時次郎明烏後の正夢 初編上 ---------------------------------------------------------------------------------- 凡例 1.本文の行移りは原本にしたがった。 2.頁移りは、その丁の表および裏の冒頭において、丁数・表裏を括弧書きで示した。また、挿絵の丁には$を付した。 3.仮名は現行の平仮名・片仮名を用いた。 4.仮名のうち、平仮名・片仮名の区別の困難なものは、現行の平仮名に統一した。ただし、形容詞・副詞・感動詞・終助詞・促音・撥音・長音・引用のト等に用いられる片仮名については、原表記で示した場合がある。 〔例〕安イ、モシ、「ハイそれは」ト、意気だヨ、面白くツて、死ンで、それじやア 5.漢字は現行の字体によることを原則としたが、次のものについては原表記に近似の字体を用い、区別した。「云/言」「开/其」「㒵/貌」「匕/匙」「吊/弔」「咡/囁」「哥/歌」「壳/殻」「帒/袋」「无/無」「楳/梅」「皈/帰」「艸/草」「計/斗」「弐/二」「餘/余」 6.繰り返し符号は次のように統一した。ただし、漢字1文字の繰り返しは原本の表記にしたがい、「〻」と「々」を区別して示した。  平仮名1文字の繰り返し 〔例〕またゝく、たゞ  片仮名1文字の繰り返し 〔例〕アヽ  複数文字の繰り返し 〔例〕つら〳〵、ひと〴〵 7.「さ」「つ」「ツ」に付く半濁点符は「さ゜」「つ゜」「ツ゜」として示した。 8.Unicodeで表現できない文字は〓を用いた。 9.句点は原本の位置に付すことを原則としたが、文末に補った場合がある。 10.合字は〔 〕で囲んで示した。 〔例〕殊{〔こと〕}に、なに〔ごと〕、かねて〔より〕 11.傍記・振り仮名は{ }で囲んで示した。 〔例〕人生{じんせい} 12.左側の傍記・振り仮名の場合は、冒頭に#を付けた。 〔例〕めへにち{#毎日} 13.傍記・振り仮名が付く位置の紛らわしい場合、文字列の始まりに|を付けた。 〔例〕十六|歳{さい} 14.原本に会話を示す鉤括弧が付いていない場合も、これを補い示した。また庵点は〽で示した。 15.原本にある話者名は【 】で示した。 〔例〕【はる】 16.割注・角書および長音符「引」「合」は[ ]で囲んで示した。 17.不明字は■で示した。 18.原本の表記に関する注記は*で行末に記入した。 〔例〕〓{たど}りて*〓は「漂+りっとう」 19.花押は〈花押〉、印は〈印〉として示した。 20.画中文字の開始位置に〈画中〉、広告の開始位置に〈広告〉と記入した。 本文の修正 1.翻字本文を修正した場合には、修正履歴を末尾に示す。 ---------------------------------------------------------------------------------- (口1オ) 序 稗史小説之為著述也。各捜索*以下序文、訓点省略 新奇。走思於時好。以綴戯謔妄 誕。終実其事矣。於是[南仙笑主人滝亭主人] 亦。綴書一篇。既脱稿示於余。余 披而閲之。乃巻中不戴彼新奇 (口1ウ) 妄誕。而尽人情世態也。其可愛 可悪喜怒哀楽壱是。皆以天之 福善。禍悪勧孝悌義烈。懲驕奢 孝悌義烈。而艱苦其身。驕奢淫 佚。而栄花其事者。於其勧懲如 (口2オ) 之何。嗚呼。不知陰陽消長歟。陽徳日長 陰悪日消者。天之道也。故孝悌義烈之 於艱苦。先戒慎之。終全其眉寿万禍。驕 奢淫佚之於栄華。既僥俸罔之。卒伏其 天禍人刑。於是勧懲可観而已。 干時文政四辛巳陽春 $(口2ウ) 発端{ほつたん} 明烏{あけがらす}夢{ゆめ}之{の} 泡雪{あはゆき}ノ{の}図{づ} $(口3オ) 〈画中〉開帳■寺 (口3ウ) 【上中略】「コレ〳〵浦里。こゝでしぬるもやすけれどのがるゝたけは おちて見ん。此へいをこすばかり。さいはいこれなる松の 枝{ゑだ}。つたひて|行カ{ゆか}んもろ共と。たがいに手早く身拵{みごしら}へ。みどり も共にと取{とり}すがる。かはいやこの子は何とせん。ヲヽこゝろへたり とみどりをこわきにひつかゝへ。かい〴〵しくも。時次郎松の小 |枝{えだ}を浦里にしつかともたせあたりを見まはし。しのひ がへしをひつぱづしはしごとなしてさしおろし。やう〳〵 (口3下オ) 三人へいの上{うへ}。おりんと思へど女の身[詞]浦里は胸をすゑ しぬるとかくごきはめし身のうへ。何かいとはんサア一所{いつしよ}。と。手を とりくんで。一|足飛{そくとひ}げにもろともとうなづきてたがいに めをとぢひとおもひ。ひらりととぶかと見しゆめは。 さめてあとなくあけがらすのちの。うはさや残るらん。 さめても夢{ゆめ}の世{よ}の中{なか}に見{み}はてぬ夢{ゆめ}のうらさとがその 正夢{まさゆめ}をかきつなぐこれこの草紙{さうし}の発端{ほつたん}なり。 ○本文{ほんもん}よみはしめは新内{しんない}ぶしの続{つゞき}と見{み}給へかし。 (口3下ウ) 寛政{くわんせい}文化{ふんくは}の御代{みよ}に|流行{おこなはれし}。南仙笑{なんせんせう}楚満人{そまひと}が著{あらわし}たる草 紙{さうし}さわなる中{なか}に。復讐{ふくしう}の物語{ものがたり}を。前後{せんご}の集{しう}にかゝはせ しも。此{この}主{あるじ}を初会{しよくわい}となして。三組盃{みつぐみさかづき}の図書{とちふみ}。わけて世に もてはやされしも。十有余年{じふうよねん}の昔{むかし}となりて。枯木{かれき}の枝{えだ}の 露{つゆ}と消にし楚満人{そまひと}の名も斧{おの}の柄{え}の朽{くちな}ん事の。本意{ほい}なさに。 王質{わうしつ}ならぬ其以後は。狂訓亭{きやうくんてい}為永{ためなが}を二世{にせ}。南仙笑 |楚満{そま}人と呼{よび}てましと改{あら}ためて。戯作{けさく}に立よる花{はな}の蔭{かげ} お山の大将{たいしやう}只{たゝ}一夜{ひとよ}。瓦灯{くわとう}のもとにつくねんと。明烏後の (口4オ) 正夢と題{だい}して。鶴賀{つるが}若狭{わかさ}が正本に原稿{もとつき}。滑稽{こつけい}なしたる 新内の一ト|節{ふし}。独吟{どくぎん}の素語{すがたり}に。世話{せわ}狂言{きやうげん}の序開{じよびら}きなせ よと。友人{ともひと}のもとめに応{おう}じて。此{この}幕{まく}の口上をのぶるにこそ。 琴通舎主人英賀誌 [尾上かなれ染は鶴岡の山開 伊太八か立引は滑川の川開]哥祭文{うたさへもん}芸子{げいしや}草履打{ぞふりうち}[全五冊] [右近日発市][滝亭主人鯉丈著 歌川国直画] (口4ウ) 世{よ}に流行|新内節{しんないぶし}を。其{その}儘{まゝ}もちひて発端{ほつたん}に。世話場{せわば}の幕{まく}を明からす。 時次郎か隠家{かくれが}は。情{なさけ}の糸の綾瀬{あやせ}川。深{ふか}きみどりが禿{かふろ}の名をそ今はお松と 幼名{をさゝな}を。呼{よぶ}は堤{つゝみ}の三谷舟{さんやふね}。のつて廓{くるわ}の傾城請状{けいせいうけしやう}。こゝが草紙{さうし}の花形村{はなかたむら}に。素人{そにん}*「幼名{をさゝな}」(ママ) めかす表向{おもてむき}も。其浦里が愁歎{しうたん}は。夢{ゆめ}の泡雪{あはゆき}解{とけ}初{そめ}し。恋{こひ}に操{みさほ}を立|結{むす}び。娘{むす■}かた ぎの於照{おてる}が貞女{ていぢよ}。神{かみ}に誓{ちかひ}を掛{かけ}守は。千葉家の重宝{ちうほう}菅家{くは■け}の一|軸{ぢく}。利益{りやく}を 祈{いの}る心根はお里{さと}も同じ木下川|薬師{やくし}。百度参{ひやくどまゐ}りの数取{かずとり}に。しるすめの字の 額小袖{がくこそで}。昔鹿子の継〻{はぎ〳〵}は。互{たがひ}の形身{かたみ}と移{うつ}り香{が}も。とめて床{ゆか}しき中老{ちうらう}|梅か谷{うめがや}。 その御殿場{ごてんば}におてんばの。御側{おそは}こしもと茶{ちや}の間{ま}にも。涙{なみだ}くまする愁歎場{しうたんば}。芝 居{しばゐ}と浄瑠璃{じやうるり}新内{しんない}を取合{とりあはせ}たる物語{ものがたり}。かんなづかひも片言{かた〔こと〕}も。捨{すて}てよしなに 御評判{ごひやうばん}。只{たゞ}御贔屓{ごひいき}の一声{ひとこゑ}が。鶴賀{つるが}豊名賀{とよなか}富士{ふじ}松ぶし。豊島{としま}と|名号{なのり}し 国太夫{くにたいふ}。ふしきな縁{えん}につながれて。此{この}絵草紙{ゑざうし}を綴{つゞ}るにこそ。 文政四年辛巳の春 (1オ) (紋・七宝に花)[太夫][鶴賀新内 鶴賀若狭椽 鶴賀鶴吉][口調][作者滝亭鯉丈 浄書 道次 彫工 加藤利八 画人歌川国直] [春日屋時次郎 山名屋浦里]明烏{あけからす}後正夢{のちのまさゆめ} [改字上 よみ本]製本所*「上」字は黒丸に白抜き (1ウ) 明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}壱の巻 第一回{だいいつくわい} 栄枯盛衰{えいこせいすい}。有為転変{うゐてんべん}きのふの花{はな}は。けふの夢{ゆめ}と。世{よ}の 諺{〔こと〕わざ}もむべなるや。彼{かの}時次郎{ときじらう}浦里{うらざと}は。風{ふ}となれそめし其{その}日{ひ}より。一 夜{ひとよ}二夜{ふたよ}の枕{まくら}のちりも。つもりて高{たか}き恋{こい}の山{やま}。今{いま}はたがひに|登リ{のぼり} つめ。くるわを忍{しの}び出{いで}てより心{こゝろ}しづかに死手{しで}の旅{たび}と。かたみに かくご極{きわめ}ても。禿{かふろ}みどりがつきそいて虫がしらすか束{つか}の間{ま}も (2オ) はなれはやらずおろ〳〵と。しとう心のいぢらしさ。 二{ふ}タ人{り}なき身{み}となるならば。誰{たれ}をたよりて生長{せいてう}し。 いかなる憂{うき}目{め}に逢{あひ}もやせんと。思{おも}ひ廻{まは}せばいとゞなを。 捨{すて}に行{ゆく}身{み}のうしろ髪{がみ}ひく汐{しほ}さへも早瀬川{はやせがは}。心{こゝろ}ならね どおしからぬ。二{ふた}ツの命{いのち}捨{すて}兼{かね}て。花形村{はながたむら}の知{し}るべを たより。幸{さいわひ}小前{こまへ}の明家{あきや}をかり。しばらく忍{しの}びゐたりし が。天高地厚{てんこうちこう}も身{み}をかゞめつよくも踏{ふま}ぬ日陰{ひかげ}の身{み}。 曇{くも}リがちなる春{はる}の夜の。月{つき}ぞかすむと思ふ内{うち}。いつしか (2ウ) 重{おも}き眼{め}の病{やまい}。たゞさへつらき落人{をちうど}の。たくわへ迚{とて}もあらざれば。 遠近{おちこち}求{もと}む薬{くすり}の料{りやう}。詮方{せんかた}つきし折{をり}もをり。ごめんなんし といゝさして。ずつと入{いり}来{く}る大男{おほをとこ}。古{ふる}き小夜着{こよぎ}に手 拭{てぬぐひ}の。角{すみ}とすみとを一重帯{ひとへおび}。お里{さと}はびつくりけうざめ 顔{がほ}。「ヱヽおまへはどこからござんした。」と。こわ〴〵いへば彼{かの} 男{をとこ}「ヘヽどこの爰{こゝ}のと定{さだ}メもねへ。わしやア鯰{なまず}の泥蔵{どろざう}とて。 青天井{あをてんぜう}は皆{みな}居所{ゐどころ}。そりやア置{おい}てアノむすこさん。イヤ こつちの旦那{だんな}は内{うち}にかへ。」【里】「アイ此{この}節{せつ}は眼{め}が悪{わる}うて (3オ) 寝{ね}て居{ゐ}られます。」【泥】「ハアそりやアこまつたもの。目{め}の 煩{わづらい}なら此{この}村{むら}の可菴{べくあん}にかゝりなせへ。片〻{かた〳〵}悪{わる}くは両 方{れうほう}へうつし。両方{りやうほう}わるくは大丈夫{だいぜうぶ}。目{め}くらにするは請合{うけあい}。」 と。問{と}わずがたりのにくて口{ぐち}。ずつしり居{すは}リ大{おほ}あぐら。 「時{とき}に姉{あね}さん。わしやアちつとむしんに来{き}やした。」【里】 「フムむしんとはそりや何{なに}をへ。」【泥】「ヘヽヽヽヽヽ如才{じよさい}もなくて 何{なに}をとは見{み}る通{とほ}りの此{この}泥蔵{どろざう}。色気{いろけ}の有{あら}う筈{はづ}も なし。むしんといふはれこさの事{〔こと〕}。」左右{さゆう}を合{あわ}す四本{よつ} (3ウ) の脂{ゆび}。飯{い}びつに見{み}せる物真似{ものまね}はゆがむ心{こゝろ}としられ*「脂{ゆび}」(ママ) けり。聞{きひ}てお里{さと}は胸{むね}轟{とゞろ}キ。云{いひ}わけせんにも歯{は}の根{ね}も あわず。わな〳〵ふるひ居{ゐ}るを見{み}て【泥】「是{これ}あねさん 何{なに}もこわい事{〔こと〕}はねへ。たかゞ金{かね}づく。イヤおめへでは わかるめへ。ドレ旦那{だんな}に逢{あを}ふか。」と。ずつと納戸{なんど}へ押通{おしとほ}り 二枚屏風{にまいびやうぶ}を引{ひき}のけて。「ヲイ旦那{だんな}寝{ね}てか起{おき}てか知{し}ら ねへが。様子{やうす}はアノ子{こ}にいふ通{とほ}り。此{この}春{はる}つゞいてかけ事{〔ごと〕}も 仕合{しあわせ}わるく。見{み}る通{とほり}の此{この}ざま。親類{しんるい}知音{ちいん}は皆{みな}ふさがり。 (4オ) 金{かね}の神{かみ}にも見{み}はなされ。行{ゆく}先〻{さき〴〵}は鬼門除{きもんよけ}。どふいう ひようびの瓢覃{ひやうたん}か。思{おも}ひついたが歳徳神{としとくじん}。明{あ}キの 方{かた}と見込{みこん}で頼{たのむ}。モシ長{なが}くとはいゝやすめへ。仕合{しあは}の直{なを}る*「仕合{しあは}」(ママ) まで。拾両{じうれう}斗{ばかり}かりに来{き}やした。」【時】「それは気{き}の毒{どく}。しかし ながら。金{かね}の無心{むしん}とはお眼鏡{めがね}違{ちがひ}。むかしの身{み}なら兎{と}も 角{かく}も。今{いま}は見{み}へすく此{この}閑居{かんきよ}。今日{けふ}は漸〻{よふ〳〵}暮{くら}しても。 あすの烟{けむり}のたつきもしらず。又{また}折{をり}悪{あし}う眼{め}の煩{わづら}ひ。 今朝{けさ}も薬師{くすし}のいわるゝには。世{よ}に治{ぢ}しがたき底 (4ウ) 非{そこひ}の難症{なんせう}。是{これ}にほどこす良薬{りやうやく}は。真珠{しんじゆ}の外{ほか}に 手{て}だてはなしと。聞{きい}た斗{ばか}りで高金{こうきん}の薬{くすり}を求{もとむ}る 手段{しゆだん}もなく。」【泥】「アヽヨヽヽヽヽヽ。イヤモからだは弱{よは}いが達者{たつしや}ナ 口{くち}。こなんの病気{びやうき}を聞{きゝ}にはこねへ。おれがいふのは 金{かね}の事{〔こと〕}。マアどふして下{くだ}んす。」【時】「イヤサ今{いま}云{いふ}通{とほ}りこつ ちの薬{くすり}の|手当テ{てあて}さへ。とツつおいつの此{この}身{み}の上{うへ}。人{ひと}に用 立{ようだつ}事{〔こと〕}は猶{なほ}さら。」【泥】「出来{てき}ぬといふのか。」【時】「〔こと〕に用立{ようだつ} ゆかりもなし。」【泥】「ヱヽやかましいわへ。ゆかりも碇{いかり}もない (5オ) 所{ところ}へ乗懸{のりか}ケて来{き}た大船{たいせん}の。船足{ふなあし}深{ふか}い此{この}泥蔵{どろざう}掘出{ほりだ}シ ものと此{この}春{はる}から当{あて}にして居{ゐ}たアノしろ物{もの}。恋{こひ}が窪{くぼ} から盗{ぬすみ}ものと。目{め}くらに見{み}せても知{し}れた事{〔こと〕}。コレ兄{あに}さん こなたはつらには似{に}ねへずぶとひ人{ひと}だの。大金{おほがね}出{だ}し てかゝへた女{おんな}。ひつぱらツてのめ〳〵と。女房共{にやうぼども}のこち の人{ひと}のと。あんまり味{むま}い喰物{くひもの}ゆへ。其{その}すそわけを取{とり}に 来{き}た。四{し}の五{ご}のいわづとたつた拾両{ぢうりやう}。又{また}入用{いりよう}ならいつ なりとト。いつて出{だ}してもいゝ金{かね}だ。きり〳〵そこへ (5ウ) 出{だ}しおれ。」と。大声{おほごへ}上{あ}ケてわめくにぞ。世間{せけん}を忍{しの}ぶ ふたりはハア〳〵。【時】「是{これ}めつそふな。何{なん}でわしらが欠 落{かけおち}もの。めつたな事{〔こと〕}をいふまひぞ。」【泥】「ヱヽとぼけるな 青二才{あをにさい}め。おらが仲間{なかま}は|曲廓{くるわ}の地廻{ぢまわ}り。みなたの まれて鵜{う}の目{め}鷹{たか}の目{め}。此{この}近郷{きんごう}はおれが縄張{なわばり}。外{ほか} から一{ひ}ト網{あみ}打{う}たれては。此{この}泥蔵{どろざう}がつらよごし。うぬ らはきれいな身{み}の上{うへ}なら。出{で}る|とこ{処}へ出{で}ていひわけ しろ。マア此{この}女{おんな}はかりて行{ゆく}。」と。無法{むほう}むざんに引{ひき}たつれば (6オ) 是{これ}マアまつてト泣入{なきい}るお里{さと}。時次郎{ときじらう}はたまり兼{かね}さ ぐりよつて泥蔵{どろざう}か襟元{ゑりもと}取{と}ツて引返{ひきかへ}せば。手{て}もなく そこへ仏檀{ぶつだん}がへし。我{わ}が手{で}にむしる髪{かみ}の毛{け}の。もつれ かゝるぞ是非{ぜひ}なけれ。泥蔵{どろさう}は大声{おほこへ}上{あ}ケ「アイタ〳〵〳〵〳〵 ぶたれたぞ〳〵。アヽからだがきかぬうごかれぬぞ。こふ なるからは破{やぶ}れかぶれ。大官所{だいくわんしよ}へサア突出{つきだ}せ。とても 叶{かな}わぬ此からだ。もつとぶてサアくらせ。」と。あたりの 火{ひ}ばちたはこ盆{ぼん}。手当{てあた}り次第{じたい}なげちらす。かくとも (6ウ) しらずひよこすかと。年寄役{としよりやく}の卒次{そつじ}とて。村{むら}に名{な} うての麁相者{そゝうもの}。出合{であい}がしらに火入{ひいれ}のつぶて。目口{めくち}も わかず灰{はい}まぶれ。【卒】「アイタヽヽヽヽヽヽコリヤアなんとする。 ゑらい目{め}に合{あは}せおる。アヽ灰{はい}の穴{あな}へ鼻{はな}が|這入{はいつ}た。ハヽア。 ハクシヨウ。コレ。何{なん}でおれをぶつのだ。ハアクシヨ。」【里】「ヲヽよい所{とこ}へ 卒次{そつじ}さん。アレあの人{ひと}が此{この}しだら。どふなりとして下{くだ} さんせ。」ト。聞{きひ}て卒次{そつじ}は顔{かほ}をなで。目{め}をすりながら 【卒】「ヤレお里{さと}とのか。よふしん切{せつ}に来{き}てくださつたノ。 (7オ) アヽまだ目{め}が明{あ}かぬ。コレとふぞハアクシヨ。手ゝ{てゝ}。手拭{てぬぐい}で など。さうじして下{くだ}んせ。」ト。左右{さゆう}の指{ゆび}にてまなこを ひろげ。お里{さと}が顔{かほ}へ|差付ケ{さしつけ}ながら。ハヽ。ハアクシヨ。【里】「ヲヽきた な。人{ひと}の顔{かほ}をつわだらけに。」【卒】「イヤつわではない灰{はい} じや〳〵。コレサ目{め}のうちがごろ〳〵するは。早{はや}うそふじ して下{くだ}んせ。」と。もがき廻{まは}れば。お里{さと}も餘義{よき}なく。こゝろは せけど目{め}のそふじ。卒次{そつじ}よふ〳〵目{め}をしばたゝき。 「やれ〳〵うれしや。ハアクシヨ。イヤまだ鼻{はな}が直{なを}らぬ。ハアクシヨ。 (7ウ) ヱヽどんくさい。捨{すて}ておけ。」と。上{あが}り口{くち}からつまみ鼻{ばな}。「コレ お里{さと}ぼう。其{その}マアやさしい形{な}リをして。そふどうな。この 中{なか}へ。何{なに}しにござつた。イヤ御亭主{ごていしゆ}も一{い}ツ所{しよ}にか。ヤヽまたつ しやれ。爰{こゝ}は貴様{きさま}の内{うち}じやの。すりや又{また}わしがなに しに来{き}た。ハテめいよふナ。」【時】「何御用{なにごよう}やら存{ぞん}しませぬが。 此{この}方{ほう}にはてうどよい折{をり}。アノ泥蔵{どろざう}とやらいふ人{ひと}が無心{むしん}を いふを聞{き}かぬとて。法外{ほうぐわい}ナ此{この}しだら。」【卒】「ヲヽほんに。たを れて居{ゐ}るは。泥蔵{とろざう}じやナ。ヤモこまつたやつじや。親子{おやこ} (8オ) の中{なか}でも出来{でき}ぬは金{かね}づく。それにマア此{この}よふにあば れさわぐとは。御亭主{ごていしゆ}の腹{はら}たゝつしやるは。尤{もつとも}じや〳〵。 コレ泥蔵{どろざう}マアおきやいの。」ト。手{て}を取{とつ}て引立{ひきたて}れば【泥】 「アイタヽヽヽヽヽヽヽ。こふぶたれてはうごかれねへ。アタヽヽヽヽヽヽヽ。」【卒】「ナニ ぶたれた。ムヽそれじやいたかろ。尤{もつとも}じや〳〵。」【時】「イヤナニ 此{この}方{ほう}から手{て}ざしもせぬに。だれにぶたりやう筈{はづ}が なひ。」【卒】「ヲヽはづかない〳〵。又{また}ぶたねばいたむはづもない。 尤{もつとも}じや〳〵。」【泥】「なんだぶたねへ。コレヱヽぶたぬものが此{この}様{やう}に (8ウ) 髪{かみ}のちらけるはづはねへ。ぶたれた〳〵。」【卒】「ムヽはづは ねへ〳〵。ぶたれたろう〳〵。ぶたれて見{み}れば。いたむ筈{はづ}。 尤{もつとも}じや〳〵。かけつかまいもないおれさへ。今{いま}当{あた}ツた 火入{ひいれ}のきづ。ヒリ〳〵ヅキ〳〵いたひもの。我{わが}身{み}つめつて 人{ひと}のいたさ。すいりよふにも知{し}れて有{ある}。尤{もつとも}じや〳〵。」 【泥】「モシ卒次{そつじ}さん。おめへがなまじ仲人{なかうど}では。わつちが 仕{し}にくひ事{〔こと〕}も有{あり}やす。又{また}なんぼおめへのあひさつ でも。此{この}事{〔こと〕}斗{ばか}りはりよふけんならねへ。どふで細{ほそ}ツた此{この} (9オ) 首筋{くびすじ}。是{これ}から亭主{ていしゆ}と首{くび}ツ引{ひき}だ。ヱヽ野郎{やろう}め。薄{うす}ツ くれへ身{み}をもつて。かくごがなくて仕{し}はしめへ。サア あまを渡{わた}すかおれをころすか。二{ふた}ツにひとつ片付{かたつ}ケ ろ。」と。大{だい}の字{じ}なりのじだんだを。もてあましてぞ 見{み}へにける。かゝる所{ところ}へ定使{せうつかい}の歩平{ぶへい}。門口{かどぐち}からこは 高{だか}に。「卒次{そつじ}さま〳〵。今{いま}大官所{だいくわんしよ}の御役人{おやくにん}。あぶれ者{もの} を御{お}せんぎとて。庄屋殿{せうやどの}は御入{おんい}り。早〻{さう〳〵}出口{でくち}をかた めよとの言付{いゝつけ}。ヤモ上{うへ}を下{した}へと大{おほ}こんさつ。ちツとも (9ウ) 早{はや}うこざりまし。」と。いゝ捨{すて}いそぎ立帰{たちかへ}る。泥蔵{どろざう}は 胸{むね}に釘{くぎ}。例{れい}の卒次{そつじ}はびつくりぎよふてん。「ヤヽ此{この}卒次{そつじ} に何咎{なにとが}のおせんぎ。しばられて行{ゆく}覚{おぼ}へはないぞ。 さりながら泣{なく}子{こ}と地頭{ぢとう}。あかりの立{たつ}まで土{つち}の牢{らう}。 ぶり〳〵。矢柄{やがら}。海老柄{ゑびがら}ぜめ。其{その}しんぼうがなるものか。 跡{あと}は野{の}となれ山奥{やまおく}へ。逃{にげ}こんでなとたすかろう。」 と。涙{なみだ}ながらに欠{かけ}いだす。泥蔵{どろざう}は起上{おきあが}り。卒次{そつじ}とつた と声{こへ}かければ。わつと其{その}儘{まゝ}上{あが}り口{くち}。べつたり尻餅{しりもち} (10オ) 目{め}をまぢ〳〵。【泥】「ヱヽ何{なん}の咎{とが}かはしらねへが。きつい うろたへよふ。今{いま}定使{じやうづかい}がいふを聞{きけ}ば。出口{でぐち}〳〵は かための役人{やくにん}。其{その}形{な}リでは逃{にげ}られまい。」【卒】「ヱヽ泥 蔵{どろざう}かびつくりしたは。成程{なるほど}此{この}なりでは目{め}に立{たつ}で 有{あろ}ふ。コレ泥蔵{どろざう}よい知恵{ちゑ}が有{ある}ならかしてくれ。ぬけ 目{め}のないおれなれど。あんまり急{きう}な難義{なんぎ}ゆへ。 知恵{ちゑ}も。きりよふもすこたんじや。是{これ}泥蔵殿様{どろさうどのさま}。 コレ手{て}を合{あわせ}ておがむ〳〵。」と。うろたへさわぐ卒次{そつじ}より。 $(10ウ) 卒治 泥蔵 $(11オ) 時次郎 於里 (11ウ) 疵{きづ}持{もつ}足{あし}の泥蔵{どろざう}は。つま立ツ程{ほど}に思へども。悪事{あくじ} にさとき当意即妙{とういそくめう}。【泥】「アヽコレ。爰{こゝ}の出入{でいり}も仕{し}ちらし てあるが。いゝは。人{ひと}ひとりすくう事{〔こと〕}ゆへ是非{ぜひ}がねへ。出入{でいり} は此{この}比{ごろ}方{かた}を付ケよふ。コレ卒次{そつじ}さん。マア羽織{はおり}や踏込{ふんごみ} を抜{ぬぎ}なせへ。ヱヽ埓{らち}の明{あ}カぬ。」と立掛{たちかゝ}り。手{て}ごめに帯{おび}を ぐる裸{はだか}。【卒】「ヤア〳〵泥蔵{どろざう}。コリヤなんとする。」【泥】「サア 此{この}かひ巻{まき}をひつかけて。ソレ此{この}手拭{てぬぐひ}を帯{おび}に〆{しめ}た。そこ でおめへの手拭{てぬぐひ}で。コウ深{ふか}くほうかむり。是{これ}でよし〳〵。」 (12オ) 【卒】「こふしてマア。どふするのだヨ。」【泥】「ハテ細工{さいく}は流〻{りう〳〵}仕 上{しあげ}を見{み}なせへ。」【卒】「|仕上ケ{しあげ}より虱{しらみ}がこわいは。」【泥】「ヱヽそん な所{ところ}じやアねへ。命{いのち}がけだは。そこでおれは。この 着物{きもの}をちよつとかりて。よしか。帯{おび}をこふ〆{しめ}テ。よし か。踏込{ふんごみ}をこふはいて。よしか。羽織{はをり}を着{き}て。よしか。 そこで。しばらくおれが年寄{としより}の卒次{そつじ}ヨ。おめへは 泥蔵{どろざう}となつて。村{むら}ざかいまでふたりで行{いく}は。よしか。 すると|堅メ{かため}の役人衆{やくにんしゆ}が。おれをおめへだと思{おも}つて (12ウ) つかまへよふとするは。よしか。そこでおめへが大{おほ}きな 声{こゑ}で。卒次{そつじ}さんまちなせへ〳〵と。おつかけるふり をしてにげるのだ。よしか。おれは又{また}。つかまつた所{ところ} が。いさくさのねへ身{みの}上{うへ}。人違{ひとちがい}だからゆるされるは。よし か。それからはおめへの勝手{かつて}。山{やま}へでも。川{かは}へでも。すき な所{ところ}へ|這入{はいり}なせへ。」と。我{わ}が身{み}を忍{しの}ぶ種{たね}が島{しま}。卒 次{そつじ}を先{さき}に。たて。竹{たけ}たば。ポントはまつてよろこぶ愚者{おろか}。 せり立{たて}〳〵泥蔵{どろざう}は。跡{あと}にごらせて出{いで}て行{ゆく}。 (13オ) 第弐回{だいにくわい} あとにふたりは顔{かほ}見合{みあわせ}。ほつとと息{いき}をつく〴〵と。 思{おも}ひ廻{まわ}せは己{おの}か身{み}も。浮世{うきよ}をしのぶ日陰者{ひかげもの}。詮 義{せんぎ}と聞{きく}も身{み}の上{うへ}かと。心{こゝろ}に掛{かゝ}る村雲{むらくも}の。盆{ぼん}をかた げし夕立{ゆふだち}に。跡{あと}晴兼{はれかね}し風情{ふぜい}なり。時次郎{ときじろう}は 目{め}をしばたゝき【時】「是{これ}お里{さと}今{いま}さらいふも我{われ}ながら。 愚知{ぐち}な事{〔こと〕}とは思{おも}へども。思{おも}ひ逢{あ}ふたふたりが中{なか}。 貧苦{ひんく}にせまるはいとわねど。せめてそなたの (13ウ) 身受{みうけ}して。親{おや}の勘気{かんき}を受{うけ}ながらも。世{よ}をはば からぬ身{み}なりせば。まづしい暮{くら}しも又{また}たのしみ。 何{なに}をいふにも其{その}時{とき}は。一家{いつけ}一門{いちもん}出入方{でいりかた}。手{て}のとゞく たけかり尽{つく}し。しよせんいきてはいられぬ身{み}を。 ともにかくごのそなたの深{しん}せつ。もだしがたさに もろともと。連{つれ}てのいた其{その}時{とき}は。死{し}ぬるとかくご極{きは}メしが。 重荷{おもに}に|小附ケ{こづけ}のあのお松{まつ}。禿{かむろ}とは言{いゝ}ながら。そ なたも義理{ぎり}ある姉{あね}の娘{むすめ}。捨{すて}て死{し}ぬにも死{しな}レぬと。 (14オ) みれんに命{いのち}ながらへて。せう事{〔こと〕}なしのわび住居{すまい}。 忍{しの}ぶ〳〵と思{おも}へども。天{てん}知{し}る地{ぢ}しる泥蔵{どろざう}が。ゆすり 掛{かゞ}りも此{この}身{み}の不肖{ふせう}。今日{けふ}は折{をり}よくのがれても。 一犬{いつけん}虚{きよ}になけば万犬{ばんけん}実{じつ}を伝{つた}ふとやら。早{はや}此{この} 隠家{かくれが}も綻{ほころ}ビぐち。今{いま}にも爰{こゝ}へ曲輪{くるわ}の追手{をつて}。取{とり} もどされてははじのはじ。かててくわへて目{め}の 病{やまい}。是{これ}もやつぱり親{おや}のばち。アヽモウ〳〵浮世{うきよ}に あきはてた。」と。しほ〳〵として面{おも}やせし。姿{すがた}を (14ウ) 見{み}ればいとゞ猶{なを}。お里{さと}は涙{なみだ}を眼{め}にうかめ【里】「ほんに おまへはわたしゆへたんと苦労{くろう}をさんすノウ。 世{よ}にあじきない身{み}の上{うへ}は。わたしも同{おな}じうき 思{おも}ひ。実{じつ}のとゝさんかゝさんは。お顔{かほ}所{どころ}かお名{な}さへも。 何国{いづく}の誰{たれ}と不知火{しらぬひ}の筑紫{つくし}がたなる御家中{ごかちう}と。 風{かぜ}のたよりに聞{きひ}たのみ。まゝしきおやの手{て}にそだち。 十{と}ヲの歳{とし}から廓中{くるは}の奉公{ほうこう}。つらいかなしい年 月{としつき}を。送{おく}り迎{むか}ひの禿役{かむろやく}。買{かい}にやられし鉄醤{おはぐろ}も。 (15オ) 早{はや}つき出{だ}しの其{その}日{ひ}より。心{こゝろ}に染ぬあだ枕{まくら}。錦{にしき}の 床{とこ}も此{この}身{み}には。針{はり}の莚{むしろ}の思{をも}ひして。夢ばかりてふ 春{はる}の夜{よ}も。あきはてるほどまちあかし。餘所{よそ}には うらむ鳥鐘{とりかね}を。可愛{かあい}と斗{ばか}り思ひしが。ふツとお 前{まへ}に逢{あふ}てより。秋{あき}の夜{よ}さへも明安{あけやす}く。はじめて にくむ鐘{かね}の音{ね}に。うつてかわつておまへの可愛{かあい} さ。|一ト{ひと}夜|逢{あは}ねば夜{よ}をこめて。うらみの文{ふみ}も長{なが}〳〵 と待明{まちあか}したる朝霧{あさぎり}を。わけて今宵{こよい}は是非〻〻{せひ〳〵}と (15ウ) ごげんを急{いそ}ぐ文使{ふみづかい}。あんまりわたしが惚過{ほれすき}て おてるさんといふ主あるお前{まへ}こふしたお身{み}に しましたも。みんな此{この}身{み}のなすわざと。親御様{おやごさま} のお腹立{はらたち}。おてるさまのおにくしみ。思{おも}ひやる程{ほど} かなしうて。わたしはいつそ死{し}にたい。」と。男{おとこ}の膝{ひざ} に取{とり}ついて世間{せけん}はゞかる忍{しの}びなき。時次郎{ときじらう}も 涙{なみだ}をはらひ【時】「アヽひよんな事{〔こと〕}いゝ出{だ}して思{おも}わず 泣{ない}た。いやモウ千万{せんまん}いふてもかへらぬくり事{〔こと〕}。先{さき}に (16ノ17オ) 立{たつ}たる後悔{こうくわい}を。今更{いまさら}の様{やう}に。アヽ我{われ}ながら馬鹿{ばか}〳〵しい。 サヽそなたもモウさつぱりと。イヤそれはそうと気{き}の毒{どく} なは卒次殿{そつじどの}。泥蔵{どろぞう}とやらが身のあかを。自分{じぶん}に脊負{しよつ} て衣類{いるい}まで。すり替{かへ}られしのみならず。逃道{にげみち}の案内{あんない} とは。成程{なるほど}卒爾{そつじ}な人{ひと}ではある。去{さり}ながら時{とき}にとつてはこつち の仕合{しあはせ}。ちつとはまんが直{なを}つたかも知{し}れぬ。ハヽヽヽヽヽ。イヤ今日{けふ}は薬 師様{やくしさま}への御真言{ごしんごん}。何{なに}やかやでおこたつた。是{これ}からとなへ残{のこ}しを |上ケ{あげ}ませう。」と。納戸{なんど}の内{うち}へ入相{いりあひ}の鐘{かね}もかすかな仮住居{かりすまゐ}。花{はな}ぞ (16ノ17ウ) 散{ちる}らん黄昏{たそがれ}はいとゞわびしき片田舎{かたゐなか}。里{さと}にはなれ て里{さと}なれぬ。禿{かむろ}みどりは泣顔{なきがほ}を。袖{そで}に隠{かく}して 門{かど}の口{くち}。お里{さと}は見るより【里】「お松{まつ}とした事{〔こと〕}が。外{そと}に 長遊{ながあそ}びしやんなと。云付{いひつけ}て置{おく}に聞訳{きゝわけ}のわるい。 見{み}れば友達衆{ともだちしゆ}といさかひでもしやつたかして。 その泣顔{なきがほ}。」と。聞{きい}て後{あと}より里{さと}の子{こ}太郎松{たろまつ}【太】「いや〳〵 誰{たれ}ともけんくわをしたではない。アノ子{こ}の持{もつ}ツて 居{ゐ}た銭{ぜに}を泥蔵{どろざう}が見付{めつけ}て。むりに取{と}つていつた (18オ) から。それて泣{なく}のを漸々{やう〳〵}とおいらがだまして 連{つれ}て来{き}た。」【里】「フムすりや此{この}子{こ}がお|あし{♯銭}を持{もつ}ツて いたを泥蔵{どろさう}とやらが|取ツ{とつ}ていたとか。なんのまア それに泣{なく}事{〔こと〕}があろかいな。ヲヽよふおまへ連{つれ}て もどつてくださんしたのう。」【太】「インニヤ足{あし}を取{と}ツて ころばせたではない。銭を取{と}ツてあたまをはツて いつたからそれで泣{ない}たのよ。」【里】「ヲヽよし〳〵。サア 是{これ}からモウお松は宿{やど}によふじもあるゆへ。おまへも (18ウ) 内方{うちかた}であんじてゞあろうから。」【太郎】「ナニおらア内{うち}で あんじべヱ。それよりまだ娵菜{よめな}が売{う}れ残{のこ}つてある。 是{これ}からまた土手{どて}へいつて売{うつ}て来{き}べヱ。」ト堤{つゝみ}をさして 欠{かけ}り行く。お里{さと}はあたり見廻{みまは}して【里】「コレおまつ 爰{こゝ}へきや。今{いま}あの子{こ}がいふを聞{き}けば。手前{てまへ}か持て 居{ゐ}たおあしを。泥蔵{どろさう}がとつていつたとやら。マア〳〵 とられたはよけれど。そのお|あし{銭}をとふして持{もつ}て いやる。ヤ。ヤ。これいノウだまつて居{ゐ}てはならぬ。サヽ (19オ) だれにもらうた。ヤ。どこでひろふた。コレものをいやら ぬかひのふ。フン。よもや〳〵と思へども。不自由{ふじゆ}がち な今{いま}の身{み}の上{うへ}。コレ人様{ひとさま}のものかすめやつたの。コレ ぬすみやつたの。」【松】「いへ〳〵ぬすみはしませぬ。」【里】 「そんならもらやつたか。」【松】「イヽヱ。」【里】「ひろつたか。」【松】「イヽヱ。」 【里】「すりやどふでもあやしい〳〵。コレいかにぐわん ぜがないといふて。人様{ひとさま}のものちり壱本{いつぽん}とろう と思{おも}ふ心{こゝろ}には。いつの間{ま}になりやつたぞ。いやしい (19ウ) 勤{つとめ}はしながらも。義理{きり}のあるそなたゆへ。そんな にさもしひそだて様{よふ}はしませぬぞ。」ト[いゝツヽお松{まつ}が守{まもり}よりいとなが〴〵 しきかきものをとりいだし]「この書置{かきおき}はそなたの母{はゝ}。わしがためには 義理{ぎり}ある姉{あね}母{かゝ}さんのどふよくから。是非{ぜひ}なく死{しな}う とかくごして。家出{いへで}する其{その}時{とき}もそなた斗{ばかり}が迷{まよひ}の 種{たね}と。かひないわしへ呉〻{くれ〳〵}たのみ。此{この}書置{かきおき}を見{み}た 時{とき}は。いづくなりとも尋出{たづねだ}し。ころしはせぬともだへ ても。かなしやはかない籠{かご}の鳥{とり}。飛立{とびた}ツ思{おも}ひも人{ひと} (20オ) まかせ。神{かみ}や仏{ほとけ}のおちからも。とゞかぬ事{〔こと〕}か是非{せひ}もなや。 きのふけふと思{おも}ふうち。はや五歳{いつとせ}の春秋{はるあき}を過{すぎ}ても風{かぜ}の たよりなく。とても此{この}世{よ}になき人{ひと}と。思{おも}へばいやます そなたのふびんさ。七{なゝ}ツの年{とし}から里親{さとおや}の手{て}をはなし いやしいわしが|引取ツ{ひきとつ}て。養育{やういく}したそなたゆへ。 さもしい心{こゝろ}になりやツては。此{この}書置{かきおき}へ言訳{いゝわけ}がない。 是{これ}いのふ。なぜそのよふになりやツたぞいノウ。」【松】「もふ し姉様{あねさん}おまへがしからしやろふと思{おも}ふゆへ。かくして (20ウ) いましたが。其様{そんな}に腹立{はらたて}て泣{なか}しやるから。かくさ ずにいゝませう。此{この}ごろおまへがいわしやるには。次郎{じろ} さんの目{め}の煩{わづらい}に。たんと金{かね}の出{で}る薬{くすり}がいるけれど それさへ|かう{買}事{〔こと〕}がならぬといふて。毎{まい}ばんおまへが 泣{なか}しやる故{ゆへ}。それからおあしがほしくなり。太郎松{たろまつ} さんや伊留松{いるまつ}さんのよふに。娵菜{よめな}を摘{つん}で売{うり}ため た。お|あし{銭}は爰{こゝ}にしまつて。」と。手遊{てあそ}び入{い}れの箱{はこ} の底{そこ}。蟻{あり}が塔{とう}くむはした銭{ぜに}。【松】「是{これ}程{ほど}ためて置{おき} (21オ) ました。是{これ}で薬{くすり}がかへぬなら。もつとおあしのたまる 迄{まで}。どふぞしからずに。よめ菜{な}をうらせて下{くだ}さり まし。ひよつと次郎{じろ}さんが。あんまさんにならしやツ たら。どうしませう。わたしはそれがかなしうて なりませぬ。」と。しく〳〵泣出{なきだ}すお松{まつ}より。しかるお 里{さと}は先達{さきだつ}涙{なみだ}。わつと|一チ{いち}どに泣{なき}いだせば時次郎{ときじろう} もさぐりいで。お松{まつ}を膝{ひざ}へ引{ひき}よせて【時】「ヲヽよふマア 銭{ぜに}をためやつたのう。おさなひそなたの心{こゝろ}から。手 (21ウ) 遊{てあそ}びやたべものには目{め}もくれず。おれが目薬{めぐすり} 買{かを}ふとて。娵菜{よめな}と替{かへ}て其{その}銭{ぜに}を。つみためて 置{おく}心根{こゝろね}は。コレ死{し}ンでもわすれぬかたじけない ぞや。どふしたいんくわな縁{ゑん}じややら。そなた 斗{ばか}りかお松{まつ}まで。ふがひない此{この}わしに。あいそ もつきず大切{たいせつ}に。思{おも}ふてくれるこゝろざし。礼{れい}は 言葉{〔こと〕ば}につくされぬ。コレ手{て}を合{あは}せておがむぞや。」 【里】「ヱヽコレもつたいない。なぜにその様{やう}な事{〔こと〕}いふて (22オ) くださんす。いわば女房{にようぼ}や妹{いもうと}に。なんのおれいがいり ませう。そのやうな身{み}にならしやんしたも。みんな わたしがなすわざと。思{おも}へば此{この}身{み}はどのよふに。 つらいかなしいひんくでも。なんのわたしがいとひ ませう。かゝりやつながる此{この}子{こ}じやもの。ちつとは 大事{だいじ}と思{おも}ふはづ。しかし子供{こども}のいらぬ事{〔こと〕}。薬{くすり} とゝのへる手当{てあて}もあります。モウかならずその様{やう}に いやしい事{〔こと〕}しやんな。人足{ひとあし}しげき津田堤{つだつゝみ}。くるわの (22ウ) ものに|見咎メ{みとがめ}られては。次郎{じろ}さんのお身{み}の大事{だいじ}。 遊{あそ}びにさへ出{で}やんなと。云付ケ{いゝつけ}たに聞{きゝ}わけの ない子{こ}ではある。」と。りつぱにいへど声{こへ}曇{くも}り。涙{なみだ}は あやにしどもなく。|一ト間{ひとま}のうちへなきにいる心{こゝろ}のそ こぞ哀{あわれ}なり。 明烏{あけがらす}後正夢{のちのまさゆめ}壱之巻終 ---------------------------------------------------------------------------------- 底本:東京大学文学部国語研究室蔵本(4L:95:1) 翻字担当者:洪晟準、島田遼、矢澤由紀、銭谷真人 更新履歴: 2017年7月26日公開