新「ことば」シリーズ17「言葉の「正しさ」とは何か」 解説1 (一部抜粋)

ことばの「正しさ」とは何か宇佐美 洋

 「正しい日本語を使おう」という声をよく耳にします。しかしその「正しさ」の基準が,人によって,場面によって違う,ということはなかったでしょうか。ことばにおける「正しさ」とは何か,ということについて,改めて考え直してみましょう。

「大人になる」とは?

 唐突ですが,「大人になる」とはどういうことでしょうか?

 「自分の行動に責任が持てる」,「社会で通用するだけのまっとうな常識を身につけている」,など,「大人と認定されるための条件」をいろいろ挙げることはできます。しかし,「責任が持てる」とはどういうことか,何を「常識」とするか,というようなことは,人によって考え方が違います。ある人が大人であるかそうでないか,万人に認められるような方法できちんと決めるのは,極めて難しいのではないでしょうか。

 しかし社会の中では,ある人が「大人かそうでないか」をはっきりさせねばならない場合もあります。例えば「選挙」という場面がそうでしょう。選挙権とは,一人前の常識・判断力を備えた「大人」に与えられるものと考えられます。しかし常識・判断力などといったものを,正確に測定するような方法はありません。そうはいっても,ある人が「大人」かどうかを決め,その人に選挙権があるかどうかをはっきりさせておかなければ,選挙は成り立たないのです。

 そこで法律の世界では,「年齢」という非常にすっきりした基準によって「大人」の認定をしています。満20歳に達した日本国民は,原則としてそれだけで「大人」と認め,選挙権を与えているのです。

 同じ20歳といっても,「人間的成熟度」にはかなりのばらつきがあることでしょう。しかし,そのようなばらつきがあることは重々承知の上で,「選挙制度を円滑に進める」という大目的のためあえて設定した一線が「満20歳」なのです。どうしても20歳でなければならないという絶対的理由があるわけではなく,社会情勢等が変われば20歳という年齢が変更される可能性もあるのですが,しかし世の中には,時にこうした線引きが必要になることもあるのです。

 ここで本題に入ります。

 「あることば遣いが正しいかどうか」という判断も,「ある人が大人かどうか」という判断と非常に似ているのではないでしょうか。万人が認める判断基準がない,という点でも,時にははっきりと線引きせねばならないこともある,という点でも。

揺らぐ「正しさ」

 改めて考え直してみましょう。ことばにおいて「正しい」とはどういうことか。また逆に「正しくない」とはどういうことなのか。

 例えば,

花に水をあげる

という言い方は,正しいでしょうか。人によって,その判断は分かれるところではないかと思います。

 「あげる」とは本来,下位の者から上位の者へ,という意味を含む語でした。ですから,「人間でさえない『花』のようなものに対してこの語を使うのはおかしい,『やる』とするべきだ」,という考え方がありえます。一方で現代では,ここでの「あげる」という単語に「下から上へ」という意味合いを感じなくなっている人もいて,そういう人にとっては「花に水をあげる」でも一向に差し支えない,ということになるものと思われます。

 ところで,同じ「下位者に対する『あげる』」でも,こんな例はどうでしょうか。

(母親が泣いている赤ん坊に向かって)
今おっぱいあげるから,ちょっと待っててね。

 「花に水をあげる」は正しくないと考える人でも,この文脈になるとかなり抵抗感が薄らぐのではないでしょうか。もちろん,「いや,赤ん坊は母親から見て下位者なのだから,この文脈でもやはり『やる』を使うべきだ」,と考える人はきっといるでしょうし,それもひとつの考え方として尊重されるべきです。しかし一方で,「おっぱいやるから待っててね」と言い方のほうにこそ,あたかも赤ん坊をおとしめているような乱暴さを感じとる人もいるはずで,その感じ方もまた尊重されなければならないでしょう。

 ここで重要なのは,

あることば遣いが正しいかどうかの判断は,人によっても,文脈によっても異なり得る

ということです。「正しさの基準」というものがいつもひとつに決まるわけでないということは,以上に挙げた事例からも分かっていただけることと思います。

(以下,続く)