新「ことば」シリーズ15「日本語を外から眺める」 問1

問1 「日本語を外から眺める」ってどういうことですか。

日本語を母語としない人の視点にたつ

 「日本語を外から眺める」というのは,まずは「日本語を母語としない人の視点にたって日本語を見る」ということです。

 日本語を母語とする私たちは,子供のころに自然に日本語ということばを身につけ,日々日本語でコミュニケーションを行っています。しかし,それだけに,私たちは,無意識のうちに日本語を「あたりまえ」のものと思っているところがあります。また,日本語に限らず,どこの言語でも「母語」に対しては母語話者ならではの思い入れがあるものです。そのため,私たちはどうしても「日本語はどのような言語か」,「私たちはどのようにコミュニケーションを行っているのか」ということを客観的に見られないところがあります。母語話者であるがゆえに,日本語を見る際の視野はかえって狭くなっている場合もあるのです。

 「日本語を母語としない人に,日本語ならびに日本人のコミュニケーションがどのように映るか」を知ることは,日本語を見る際の新しい視点を私たちに提供してくれます。本書のほかの解説や問答に紹介されているいろいろな事例を見て,みなさんも「このような見方があるのか,なるほど」という思いをされたのではないかと思います。そのような思いは,私たちの日本語に対する見方を広げるための重要な第一歩になります。

「自分自身の視点」からも考える

 しかし,単に「日本語を母語としない人の目から見た日本語の姿を知る」だけでは,本当の意味で「日本語を外から眺める」ことにはなりません。「このような見方があるのか,なるほど」だけでは,他人の見方を借りているにすぎないからです。やはり,「日本語を母語としない人の目にはこのように映るのか」ということをふまえつつ,あらためて自分自身の目で日本語を見つめなおすことが必要でしょう。

 このことに関連して,私の友人がおもしろいエピソードを語ってくれたので,以下それを紹介します。

 その友人の奥さんは中国人なのですが,ある日,その奥さんから「ギョーザが好きかシューマイが好きか」と聞かれて,「どちらも好きだ」と答えたところ,奥さんは「いや,そんなはずはない」といって,どちらが好きかを何度も聞いてきたのだそうです。しかし,友人はギョーザもシューマイも本当に好きなので,困ってしまったと言っていました。

 友人は,最初は「ギョーザかシューマイか」にこだわる理由が分からなかった,と言いつつ,次のような推測を語ってくれました。

「もしかすると,妻が何度も『ギョーザかシューマイか』と聞いてきたのは,どちらかに決めないと話が先に進まなかったからではないか。だから,実際にどちらが好きかは別として話の流れを途切れさせないために,とりあえずどちらか一方を答えておけばよかったのではないか。」

 さらに,次のようなことも言っていました。

「よく『日本人ははっきりものを言わない』と言われるが,もしかしたら,その背景の一つに,日本人は『実際にどうであるかはともかく,話を先に進めるために,とりあえずこうだと決める』ということが苦手だということがあるのではないか。また,文化によっては,実際にどうであるかはともかく,話題によっては『会話を維持するためにとりあえず立場表明をしておく』ということがたいへん重要な意味を持つのではないか。」

 以上はもちろん友人の推測にすぎません。日本人であれ中国人であれ,コミュニケーションのしかたには個人差もあるでしょう。友人の推測があたっているかどうかを検証するには,いろいろな視点からの調査研究が必要です。

 しかし,友人は,自らの体験をもとにして,「日本人ははっきりものを言わない」という‘外の目’からの評価をふまえながら,自らの視点から一歩ふみこんだ考察をおこなっています。これは私たちにとっても参考になるところがあるように思います。

 本書のほかの解説や問答には,「外から眺めた」日本語の姿がいろいろな形で描かれています。しかし,これはあくまで,みなさんが自らの視点から日本語について考えるための材料の一つにすぎません。単に「このような見方があるのか,なるほど」だけで終わらずに,もう一歩ふみこんで,自分自身の視点から日本語について考えてみてください。

 (井上優)