第5号 1996.10
日本語の国際化と民衆化

中京大学情報科学部
新プロ「日本語」評価委員
山田 尚勇

交通機関の発達およびコンピュータによる通信技術の飛躍的進展は,地球を相対的に狭いものにし,全ての国ぐにの人びとの活動を国際的に相互に依存するものとしたために,かつてはほとんど日本国内に限られていた日本語の活用地域も,いまでは全世界に広がりつつある。新プログラム研究「国際社会における日本語についての総合的研究」はこうした全世界的な舞台において日本語のはたす機能を明らかにすることを目指していると思われる。
その取り組みにあたっては,少なくとも二つの方針が可能であろう。その一つは,ことばは生きものであり,時代の要求に従って変化するものだから,一歩退いて,それを客観的に記述し分析することに終始するという,観察の第三者として,Sein(存在)の立場をとることである。もう一つは,急激な技術革新がもたらしつつある,世界的な情報化・国際化のなかで,日本語が主要な国際語の一つとなれるためには,これからの日本語はどう発展させて行くべきかというSollen(当為)に,実践の当事者として身を投じることである。
もちろん,ある程度は前者の努力の積みあげがなければ,後者の作業の方向づけができないことは言うまでもない。それを承知の上でも,いまの日本語には後者が強く望まれていると思うし,またいまがその好機でもあると思えるのである。
欧米の諸国においては,中世紀まではラテン語が社会で上位のことばであり,民衆の用いていた地域語は一段と低いものとされていた。しかし14世紀以降,ルネサンスに始まり産業革命を経て,地域語の共有が民衆に国家の意識を形成させ,地域語が国語として確立された。それが現在ではほぼ安定してしまい,もはや時代と共に変化が起こりにくいものになっている。
ところが日本で国学の興ったのは江戸中期,18世紀のことであり,産業革命に相当する時代は19世紀末,やっと明治の中期になってからであって,ラテン語に相当する漢文やその亜流が上位言語であったそれまでの状態からの脱却が,いまもまだ続いていると言える。だからこそ,漢字・漢語をよく知らない若い世代について,国語力の低下を嘆く年輩層の声がしばしば聞かれることになるのであろう。
しかし,ことばやその表記の第一の目的は,それによって表現された意味内容を正しく理解し,かつ自らの考えをはっきりと表現することにある。すな わち国民の国語力とは,全国民におけるそうした意味内容の授受の能力の総和であり,簡明になった現在のことばや表記は,その意味において国民の国語力を,日本の歴史始まって以来,いま最高の点にまで高めていると思える。むしろいまでは,たとえば義務教育において与えられた物理や数学などの知識の活用能力のほうがよほど劣っていると言っても言い過ぎではあるまい。いまの日本において明治初期の文章がすらすら読めないのは,たとえばいまのイギリスにおいて14世紀のチョーサー(Geoffrey Chaucer)の作品がすらすらと読めないことに相当するのだから,そう気にすることもないであろう。
とは言っても,情報内容の伝達がますます重要になるこれからの社会における道具としては,現在の日本語とその表記はまだまだ複雑でめんどうな点が多い。したがって,上に述べた意味において,国語力をいっそう増大させるためには,これからも単純化の道がたどられることになると思われる。国際社会において,もし日本語,特にその表記が外国人にとってはむずかしいものとされるのなら,それは同じ人間である日本人にとってもやはりむずかしいものであることは間違いない。したがって既成概念にとらわれず,それらを日本人にとって使い勝手のよい表記にするということは,そのまま日本語の国際性を高めることにつながって行くであろう。
幸いまだ日本語は,欧米ではすでに済んでしまった簡明化・民衆化の過程のただなかにある。この機会に後発者の有利性を生かし,国際化に資する要素をも取り入れて日本語の民衆化を図れば,もともと言語学的にはやさしい部類に属する構造の日本語を,結果として世界でもっとも国際的なことばの一つとすることも夢ではあるまい。日本語の国際化と民衆化とは,まさに車の両輪であろう。


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