《行政減量・効率化有識者会議の言語資源についての認識》

 独立行政法人国立国語研究所は2009 年9 月末をもって廃止され、翌日付で大学共同利用機関法人人間文化研究機構に移管された。この移管は行政改革の一環として位置づけられているが、関連する議論の過程で言語資源関係の研究開発の価値が政府によって一旦全否定されるという事態が生じた。国立国語研究所で言語資源の開発に携わっていた者のひとりとして、事実を記録に残しておきたい。
 一昨年来、民主党政権による事業仕分けが進められているが、独立行政法人業務の見直しを任務とする委員会は自民党政権下でも活動していた。渡辺喜美行政改革担当大臣を担当閣僚とする行政減量・効率化有識者会議(座長はキッコーマン会長の茂木友三郎氏)である。民主党政権による仕分けとの相違点はインターネットによる中継がなかった点であるが、実はこれが問題だった。民主党の仕分けは「人民裁判」と揶揄されたが、自民党による独立行政法人改変は「秘密裁判」だったからである。
 後日入手したこの有識者会議の詳細な議事録(2007 年11 月8 日分)を読むと、審議の過程で一部の委員がコーパスとは何かを理解せず、思い込みによる否定的発言を繰り返している。「デ−タベースは誰でもできることであり,そのような事業にいたずらに国費を投入しなくてもよい。」「国語のデータベースなんて世間にはいくらでもあることで,10 人くらいでやっていることなら外に切り出せるだろうから,大学なんかでも十分できるでしょう。」というのは安念潤司氏(中央大学法科大学院教授、当時)の発言。何故データベース(コーパスのこと)が誰でもできると判断できるかの根拠は一切示されていない。
 「言葉を扱う新聞社で仕事をしてきたが,これまで国立国語研究所に世話になったことは何もなく,新聞協会とかでやっているもので十分間に合っている。国立国語研究所は,理解不能なものの対応や国民に通用しない日本語を研究しているとしか思えない。これはもう国立国語研究所そのものを廃止することが一番いいことではないかと思いますね。外に行った時に役立つように海外で日本語を普及するようなことならまだしも,11億円もかけて部屋にこもってデータベースを作ってもらっても何も有り難くない。廃止していただければ有り難いですね。いや廃止です。」は菊池哲郎氏(毎日新聞社常務取締役、当時)の発言である。この発言がなされた時期には文化審議会国語分科会による常用漢字見直し作業が進行しており、新聞協会の意見として、漢字の取捨選択における基礎データとして国語研が構築中の『現代日本語書き言葉均衡コーパス』を利用してはどうかという提言がなされていた(後日実際にデータを提供した)のだが、菊池氏はそのことを知っていてあえて無視したのかどうか。また11 億円というのは国語研の運営費交付金の総額であり、コーパス構築に用いているのは1 億円程度であるのだが、ヒアリングの席に呼ばれていた文化庁関係者はすっかり萎縮していたようで、この誤りを訂正した様子がない。
 このような審議を経て有識者会議は2007 年11 月に国立国語研究所に関する勧告案の骨子をまとめるが、そこには「コーパス事業は民間でもやっているので国語研が自ら行う必要はない。廃止又は仕様を決めて入札に出すべき。」とあった。安念氏、菊地氏の意見そのままである。
 これに対して筆者は、当事の監督官庁であった文化庁の国語課を介して、有識者会議に民間での実施とは具体的に何をさしているのかを明らかにしてほしいという要求を伝えた。これには回答があり、そこには「小学館コーパスネットワーク」と書かれていた。ご存知の方も多いだろうが当時の小学館コーパスネットワークは英語の均衡コーパスとして有名なBritish National Corpus その他の英語コーパスを日本国内で配信するサービスであった(現在は国語辞典なども配信している)。いくらなんでも英語のコーパスがあれば日本語コーパスは不要と考えているわけはないだろうから、実際のサービス内容を確認せずに名称だけで日本語コーパスと誤解した可能性が高い。有識者会議には最初から結論があり、その結論を正当化するために検索サービスで「コーパス」を検索してみたという構図がすけてみえる。
 この回答に対し、筆者はもちろん意見書を提出した。しかしこの文書は文化庁国語課から有識者会議に渡っていなかったことが後日発覚した。内容を読んだ有識者会議から受けとりを拒否され、それを取引成立と解釈した国語課の課長補佐が文書を持ちかえったのだと聞いているが、そのような取引が成立していなかったことは同年12月24 日の閣議で国立国語研究所が独立行政法人としては廃止され、大学共同利用機関への移管が決定されたことから明らかである。

 以上の経緯をふりかえってみて残念に思うのは、研究開発の実情についての情報が委員会にはきわめて限られた形でしか伝わっていなかった点である。委員会で議論されている「データベース」は議論の時期から判断して先述の『現代日本語書き言葉均衡コーパス』のことだと考えられるが、このコーパスは国立国語研究所と文科省の科研費特定領域研究「日本語コーパス」の共同事業として推進されていた。特定領域研究は、科研費全体で最も獲得が困難であり、日本を代表する研究者からなる審査委員会の厳しいピアレビューを経て採択が決定される。文化庁の担当者がこの事実を指摘していれば、それだけで「国語のデータベースなんて世間にはいくらでもある」ものかどうかは判断できたであろう。
 その後の経緯も簡単に記しておこう。2008 年に入って大学共同利用機関法人への移管問題を政府から諮問された科学技術・学術審議会(国語に関する学術研究の推進に関する委員会)の答申には「理論そのものの研究とあわせて、理論と現実の整合性を検証するための言語資源を蓄積することが不可欠」、「国語に関する学術研究の基盤となるデータベースの構築」などの文言がならび、これが新研究所における言語資源研究系ならびにコーパス開発センターの設置にむすびついた。この答申を有識者会議の委員諸氏がどのように受けとめたかについては情報がない。
 さらに2009 年3 月には研究所を大学共同利用機関に移管する法律に対して衆参両院で付帯決議があり、日本語教育を含めた国立国語研究所の活動が保全されるに到ったこともよく知られているとおりである。国立国語研究所から日本語教育関係の機能を削減することは、行政改革の観点からは最重要事項であったはずだが、これについても有識者会議が遺憾の意を表明したというような記録は残されていない。結局のところ国語をあつかう一研究所の運命など彼らには区々たる細事だったのかもしれない。


(2011.03.25)